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茨木のり子 1
第1話 わたしが一番きれいだったとき

茨木のり子さんが所属した同人詩誌「(かい)」のメンバーの一人、詩人川崎洋さんは、初めて作者に会った時の印象を次のように記しています。

――五○年代、「詩学」という詩の専門誌があり、そこに「詩学研究会」という投稿欄があって、疎開先の九州から引き揚げてきたばかりのわたしは、書き始めていた詩に熱くなっていて、せっせと投稿していた。茨木氏はその常連の一人で、その掲載作にわたしは特に惹かれた。

そうこうするうちに、「詩学」から推薦詩人と推挙され、もう投稿できないことになった。

当時、同人詩誌を出すという意欲は非常に高かったように思う。ガリ版印刷の詩誌が多かった。活版印刷は高くついたからだ。わたしは、未知の茨木氏に手紙を出し、一緒に同人詩誌をやりませんかと誘い、やりましょうという返事を受け取り、195332911時に東京駅の八重洲口改札口で会うことになった。約束の時刻に、ひとりのすらっとした、原節子に似た絶世の美女が、わたしの横に立った。詩才と美貌を併有することをミューズ(注・詩の女神)はお許しなっていないと、頭から信じていたから、この人であるはずがないと思っていたら、その美人が茨木氏だったのだ。わたしが23歳、茨木氏が28歳。できたばかりのブリヂストン美術館へ行き、銀座へ出て、オリンピックでコーヒーを飲んだ。

その二か月後、「櫂」一号ができた。アート紙6ページ、印刷費は120部で6千円だった。

そば(もり・かけ)が、20円、米価が一キロ68円、理髪料金が140円の時代である。更に言えば、茨木(三浦)夫妻にはわれわれ夫婦の仲人までして頂いている。茨木氏と出会った大きな幸運を思う。

 

私も生前に一度だけ、お目にかかったことがあります。1980(昭和55)年8月、恩師高田敏子先生が主宰する夏期ゼミナールにゲストとして出席した時です。私は30歳、茨木さんは54歳でした。“クールビューティー”という雰囲気で、知的で凛とした印象が残っています。高田先生の仲介で、茨木さんとインタビューの約束を取り付けたのですが、仲間うちで「あの先生、ちょっとこわいんじゃない?」と気遅れしてしまい、インタビューは結局、流れてしまいました。もったいないことをしたと今も後悔しています。

 

 

 

      わたしが一番きれいだったとき


    わたしが一番きれいだったとき
    街々はがらがら崩れていって
    とんでもないところから
    青空なんかが見えたりした

    わたしが一番きれいだったとき
    まわりの人達がたくさん死んだ
    工場で 海で 名もない島で
    わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

    わたしが一番きれいだったとき
    だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
    男たちは挙手の礼しか知らなくて
    きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしの頭はからっぽで
    わたしの心はかたくなで
    手足ばかりが栗色に光った

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしの国は戦争で負けた
    そんな馬鹿なことってあるものか
    ブラウスの腕をまくり
    卑屈な町をのし歩いた

    わたしが一番きれいだったとき
    ラジオからはジャズが溢れた
    禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
    わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしはとてもふしあわせ
    わたしはとてもとんちんかん
    わたしはめっぽうさびしかった

    だから決めた できれば長生きすることに
    年とってから凄く美しい絵を描いた
    フランスのルオー爺さんのように

                  


いわゆる昭和ひとけた世代である茨木のり子さんは、〈わたしが一番きれいだった〉20歳の時、終戦を迎えます。戦争の惨禍に直撃された世代なのです。「はたちが敗戦」という一文にはこう書かれています。(写真は、1946年(昭和21年)20歳の記念に。「花神ブックス1 茨木のり子」より転載)

「太平洋戦争に突入したとき、私は女学校の三年生になっていた。全国にさきがけて校服をモンペに改めた学校で、良妻賢母教育と、軍国主義教育を一身に浴びていた。

退役将校が教官になって分列行進の訓練があり、どうしたわけか全校の中から私が中隊長に選ばれて、号令と指揮をとらされたのだが、霜柱の立った大根畑に向って、号令の訓練を何度受けたことか。

  かしらァ……右イ

  かしらァ……左イ

  分列に前に進め!

  左に向きをかえて 進め!

  大隊長殿に敬礼! 直れ!

 

私の馬鹿声は凛凛とひびくようになり、つんざくような裂帛(れっぱく)の気合が籠るようになった。

そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。

             「花神ブックス1 茨木のり子」所収「はたちが敗戦」

 

文中の女学校とは、愛知県立西尾女学校です。茨木さんが16歳の時のことです。この後、1943年に帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現東邦大学)薬学部に入学しました。 

「空襲も日に夜をついでというふうに烈しくなり、娘らしい気持を満たしてくれる(たの)しみも色彩もまわりには何一つなく、そういう時代的な暗さと、自分自身に対する絶望から私は時々死を(おも)った。」 同上書

 

中学校の教科書にも掲載され、よく知られている「わたしが一番きれいだったとき」は、戦時下のあまたの女性達の声を代弁するものでしょう。茨木のり子さんの詩が生まれる基盤が、この時代にあると強く感じさせます。

                               (この稿続く)


(参考文献)

「花神ブックス1 茨木のり子」花神社

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版


 
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