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吉野弘 3 生命は

       生命(いのち)

 

        生命は

        自分自身だけでは完結できないように

        つくられているらしい

        花も

        めしべとおしべが揃っているだけでは

        不充分で

        虫や風が訪れて

        めしべとおしべを仲立ちする

        生命は

        その中に欠如を(いだ)

        それを他者から満たしてもらうのだ

 

        世界は多分

        他者の総和

        しかし

        互いに

        欠如を満たすなどとは

        知りもせず

        知らされもせず

        ばらまかれている者同士

        無関心でいられる間柄

        ときに

        うとましく思うことさえも許されている間柄

        そのように

        世界がゆるやかに構成されているのは

        なぜ?

 

        花が咲いている

        すぐ近くまで

        虻(あぶ)の姿をした他者が

        光をまとって飛んできている

 

        私も あるとき

        誰かのための虻だったろう

 

        あなたも あるとき

        私のための風だったかもしれない

                      詩集『風が吹くと』1977年

 

作者によると、ある時、庭の芙蓉の花を見て詩想がわいたといいます。

ご存じのように、芙蓉の花はめしべが長く、雄しべはめしべの下半分の長さしかありません。自分の雄しべの花粉を受け取りにくい構造をしています。自然界は、近親との交わりを嫌います。芙蓉の花も、身近な花粉は受け取りたくないという意志の現れなのですね。


作者はそこで考えます。「生物の生殖行為が安易に進行することを避けようとする自然の配慮がある。生命は自己の思い通りに振る舞っている末には、ついに衰滅してしまう性質を持っている。自己完結を破る力として、他者を介入させる生命の維持原理がある」と。


自己完結、つまり、他者の世話にならず安易に子孫を増やせたら、種は滅んでしまいます。だから、受粉のために虫や風の他者を必要とする自然のシステムが考え出されたのだというのです。

人も同じ。他人のお世話にならずに生きて行くのは不可能です。花と同様、〈その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ〉ということになります。

作品の中で、硬派の表現がいくつかあるので、私流の解説を付しておきます。

 

○世界は多分/他者の総和=この世の中全体は、他人同士が寄り集まって成り立っている。

互いに/欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせず=自分に欠けた所を補ってもらっているとは、お互いに気づいていないし、教えてもらうこともない。

○ときに/うとましく思うことさえも許されている間柄=作者によると、「人間は本質的に自己中心に生きるものであって、他者についても本来は無関心なのであり、他者をうとましく思うことが普通。にもかかわらず、他者によって自分の欠如を埋めてもらっている」(吉野弘『現代詩入門』)

世界がゆるやかに構成されている=他人にいちいち礼を言わなくてもよい。恩に着せたり、恩に着せられたりという関係がない。うとましく思うことだって許されている気楽な関係。つまり、「単になつかしいのではなく、うとましくもある他者。同時にうとましいだけでなく、なつかしくもある他者」(吉野弘『現代詩入門』)

 

この詩について語る、作者の講演を聞いたことがあります。その時、印象に残った言葉を引用してみます。

「他人のお世話になった時は、普通はお返しをします。なんか気が重い、いつか返さなくちゃーと。

花、虫は蜜をもらうついでに花粉をお返しする。なんて粋なことをするんだろう。お世話になっても、お世話になったことを帳消しにする自然の摂理が組んでいます。でも、人間は他人同士が、いやでも助けられちゃう、いやでも傷つけられちゃうという、どうにもならない他者関係があります。

私たちも他人にとっては他者。他者は幸福の仲立ちもしますが、不幸の仲立ちもします」

 

閑話休題(ところで) 「生命は」は、作品が仕上がるまでに四回、書き直されたそうです。完成稿の前は以下のような詩でした。

       生命は

        生命は
        自分自身だけでは完結できないように
        つくられているらしい
        花も
        めしべとおしべが揃っているだけでは
        不充分で
        虫や風が訪れて
        めしべとおしべを仲立ちする
        生命はすべて
        その中に欠如を抱(いだ)き
        それを他者から満たしてもらうのだ
        私は今日
        どこかの花のための
        虻だったかもしれない
        そして明日は誰かが
        私という花のための虻であるかもしれない

この作品は恩師の高田敏子先生も愛好していて、吉野先生が高田宅を訪れた時、みんなの前で立ち上がって朗々と朗読しました。私もその場に居合わせたのでよく覚えています。その時の様子を吉野先生も著書に書かれています。
「ちょっとした所用で高田さんのお宅に伺ったとき、手帖に貼りつけた切り抜きの、この詩を私の前で朗読して下さった。テレくさかったが嬉しかった。自分の目にではなく自分以外の人の目に、どうやら読むに耐えるものとして映じたのだと思った」(吉野弘『現代詩入門』)

しかし、しばらくして作者は、この詩は〈他者〉についての考えが十分反映していないと気づきました。作品中の
〈他者〉は、大変なつかしい存在として捉えられていることに不満が残ったのです。作者は、〈他者〉を必ずしも好ましいものとは思わない、いやむしろ、煩わしいものとさえ感じている。その微妙なニュアンスをこのように綴っています。
「人間は本質的に自己中心的に生きるものであって、他者よりは自己を大切にする生物だと思う。他者についても、本来は無関心なのであり、他者をうとましく思うことが普通なのである。
しかし――である。それにもかかわらず、私たちは、そのような〈他者〉によって自己の欠如を埋めてもらうのであり、人間の世界は、
〈他者〉で構成されている。私も〈他者〉の一人である。そこで、単になつかしいのではなく、うとましくもある他者、同時に、うとましいだけではなく、なつかしくもある他者――そういう視点を、いくらか苦心して、この詩の中にすべりこませた」(同上書)
 

人の心の複雑性について深く考えさせる傑作だと思います。


                              (この稿続く)


| 吉野 弘 | 12:34 | comments(6) | trackbacks(0)
コメント
生命はを、いのちはと読むのが普通ですが、せいめいはと読んではいけないのでしょうか。
吉野先生がいのちはと読んでおられたのかご存知でしょうか?
| みんみん | 2014/02/23 4:14 PM |
ご質問ありがとうございます。
確かに、生命は「せいめい」と「いのち」の二通りの読み方がありますね。
ただ、吉野先生ご自身は「いのち」と読んでおられたのを、私は幾度か間近に耳にしました。

おそらく、「いのち」の方が響きが柔らかいので、そちらを選ばれたのではないかと思っています。「せいめい」と読むと、哲学的な硬いニュアンスが加わるのではないでしょうか。

やさしい言葉で深い思いを伝えるのが、吉野先生の持ち味なので、「いのち」の読みがふさわしいように思うのですが。

いつもブログをご愛読下さってありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
| toshi | 2014/02/24 10:35 AM |
はじめまして、失礼致します。

吉野弘さんのこの詩は深くあたたかく、無理なく心の奥に
入ってきました。教訓、説教的なものではないけれど
伝えよう、表現しようとする熱意やその重さは強く感じました。

読み手に負担にならないように、自分の体重を自分で支えているような心遣いというものを吉野さんの詩から感じます。

素晴らしい詩人を紹介くださいましてありがとうございます。




| 夏生 | 2015/01/15 3:52 PM |
ブログにエールを送って下さってありがとうございました。とても励まされました。
おっしゃるように、吉野先生は〈やさしい人格〉と詩人仲間から評されるように温かい方でした。

外では厳しい論客として鳴らした方でしたが、当時、私のような若者にはやさしく接して下さいました。

〈自分の体重を自分で支えているような心遣い〉というのは素敵な言葉ですね。心に覚えさせていただきます。

今後ともよろしくお願いします。
| Toshi | 2015/01/16 11:44 AM |
高校3年生になったばかりの春、桜が舞い散り始めた頃に、中学を卒業してからずっと付き合っていた彼との関係が終わりました。
ある日の深夜、一通のメールが届きました。その中で、どうしても納得できない理由をもって、一方的に別れを告げられたのです。

翌日、目を腫らしながらもなんとか学校にたどり着き、大好きだった現代文の女性の先生のところに駆け込みました。
再びさめざめと泣きながら事の次第を話すと、先生は缶ジュースを手渡し、こぼれ落ちる涙と言葉をやさしく「掬う」ように私の傷心に寄り添ってくださいました。

そんな私の人生至上最悪の朝を迎えた日の最初の授業で、またしてもその先生は私を「救って」くださったのです。

そう、吉野さんの「生命は」の詩と出会わせてくれることによって。

「私もあるとき誰かのための虻だったろう
あなたもあるとき私のための風だったかもしれない」

授業中にもかかわらずまたまた号泣してしまった私を、先生は教壇から悲しげな、けれどもささやかにエールを送るようなまなざしで見ていてくださったのを、今でも印象深く覚えています。

その後時が経つにつれて、次第に失恋の傷も癒えていきました。
ですが、先生がくださった「生命は」のプリントだけは、当時のことを風化させないようにと、未だに学習机の目に見える場所に保管しています。

そんな私は今、その先生と同じく、中高の国語科の教員として青い時代を生きる子どもたちと日々向き合っています。
| Kyaori | 2015/03/11 2:36 PM |
コメント、ありがとうございました。
現代詩人の中でも、吉野弘は特に人気が高いようで、私のブログでも吉野先生の作品をアップすると、幾度か、読者の方から貴重な感想をいただきました。

同じ作品でありながら、詩というものは読む人の人生に様々な思いを刻むものだなと実感しています。
Kaoriさんが私を信頼して打ち明けて下さった大切なエピソードも、人と詩との関わり方を沁みて感動しています。

詩は読む者の体験を通して読み解かなければ、決して自分のものにはならない、というのが私の持論なのですが、それはKaoriさんにも十分当てはまるものだと強く思いました。

シニアと呼ばれるようになる頃から、人との出会いこそが人生の財宝だと、年々、思いを深めています。詩との出会いも同じですね。ブログを通して新たな方との心の交流も出会いであり、励みであり、日々を前に進ませる力です。

教鞭を執られているようですが、きっと素敵な詩の授業をされているのだと拝察しております。
| toshi | 2015/03/15 12:46 AM |
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