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中原中也の人と詩業 8
第8話  生涯、見捨てず


     お母さん、ぼくは女に逃げられたところなんですよ 中也の言


     そう、それはよかったじゃないか 母フクの言


 


小林秀雄は中也の詩の最大の理解者であり、かつ、優れた評論家でもありました。

大正1411月、中也18歳。泰子が去ります。泰子が「行くわね。小林のところへ」と告げると、机に向かっていた中也は頭を上げ、尻上がりの口調で驚いた様子もなく、「フーン」と言いました。その後、エッセイ『我が生活』に「僕は自己を見失った。僕は口惜しき人であった」、「私は大東京の真ん中で、一人にされた!」と歎いています。


この頃、中也は彫刻家・高田博厚に分厚い原稿を見せています。すべて泰子への愛の詩でした。詩を読んだ高田が中也の純粋さに打たれ、「心情の骨の髄までしゃぶりつくす奴が他にいるか!」と述べると、「あなた一人だ。それが解るのは……」と中也は泣き出しました。意気投合した二人は飲みに行きました。

(写真は、昭和6(1931)年、小林秀雄(右)29歳と出版者・草野貞之。『新潮日本文学アルバム 中原中也より転載)




     ぼくは荷物をこしらえて、車にのせてやったんですよ 中也の言


別れた女の引越を手伝う中也に、「逃げて行く女に、いかにも未練がましく、そんなことせんでもよかったろうに」(母フク)。それでも中也は小林を訪ねました。長谷川泰子と小林秀雄の同棲は平穏なものではありませんでした。小林が学校へ行っている昼間、中也が訪ねてきては泰子に暴力をふるいました。ある時は中也に突き飛ばされた拍子に、泰子は窓ガラスに首をつっこんだりしました。


泰子は潔癖神経症になります。水が汚れているといって顔が洗えない。ついに台所仕事ができなくなり、食卓の世話は一切小林がすることになります。小林が留守の間は、暗い部屋に灯りもつけず、ひとつ所にただジーッと座っているという日々でした。動くと汚れるという不安から一歩も動けなかったようです。


泰子の潔癖性に苦しんでいた小林に、中也は「君の生活もずいぶんだね、が、いまになんとかなるさ。がんばることは大事だ」と勇気づけようとしました。

時と共に泰子と小林の関係は、いよいよ険悪になります。ヒステリーを起こした泰子が、電車に向かって小林を突き飛ばしたりしました。「こんなことになっちゃ、心中するか、でなかったら俺が逃げ出すか、そのどっちかだ」

昭和35月、ついに泰子のヒステリーに疲れ果て逃げ出します。


この当時の中也と小林秀雄の二人の心情を「スルヤでの記念写真が多弁に語っています。前列の両端に坐った中也と小林は、まるでお互いにソッポを向いているかのように距離を取っています。「スルヤ」とは、前衛的音楽集団でメンバーの一人、内海誓一郎は中也の作品「帰郷」「失せし希望」を作曲しました。同人雑誌『白痴群』にも参加し、中也の処女詩集『山羊の歌』予約者10名の内の一人。当時、まだ無名だった中也を支えた数少ない支援者です。

(写真は、昭和3(1928)年5月4日、スルヤ第2回発表会の記念写真。前列右端が中也、21歳。左端、小林秀雄、26歳。前列右から4人目が内海誓一郎。『別冊 太陽』から転載)


これは私の勝手な想像ですが、この写真から二人のこんな声が聞こえてくるような気がします。

中也「おまえに泰子が幸せにできるんですか? え? 近い将来の有名文士さんよォ」

秀雄「自分の女をおれにとられて、どんなにみじめったらしい生活をしているのか、

   それがわかるほど、おまえはやつれて汚くなってさ」


                   *

 

小林秀雄と別れた後の泰子の後日談ですが、そこにはインテリの小林秀雄と、詩人の中也が対照的に見えて来ます。

女に逃げられた男と、女から逃げた男は、どっちがえらいか?――中也が詩誌『白痴群』を創刊すると、小林は同人のように会に顔を出しました。しかし、収入のなくなった泰子を物心両面で一番世話を焼いたのは中也でした。中也は泰子に未練があったのです。でも泰子は小林に未練がありました。会えば主人面(しゅじんづら)をして色々指図する中也に、小林は腹を立て、二人は取っ組み合いの喧嘩をしたという知人の証言があります。


昭和512月、泰子は飲み屋で知り合った劇団演出家の山川幸世の子を出産。山川は左翼運動で地下へ潜伏します。生まれた子に、茂樹と名付け親になったのは中也でした。

昭和812月、中也が結婚した後も、泰子は中也の住まい・四谷花園アパートに子を連れて訪ねています。それは「托鉢みたいなものだった」と泰子が語っています。生活費の無心でした。

中也は「自分の留守の時来たら、二十円(現在の約12万円)ぐらいまでなら、渡しておいてくれ」と家の者に頼んでいたといいます。


泰子の子を気遣う中也の手紙が残っています。インテリの小林秀雄と対照的に、愛した女性を最後まで見捨てない、情の厚い中也の人となりが見えて来ます。

「差出がましいことながら、茂樹の種痘(ホーソー)はすみましたか。まだなら、早く医者に連れて行きなさい               昭和61931)年629


「茂樹の耳のうしろのキズには『アエンカオレーフ油』を直ぐに買ってつけておやりなさい                       昭和71932)年219



       盲目の秋        中原 中也


     風が立ち、浪が騒ぎ、

     無限の前に腕を振る。

 

     その(かん)、小さな(くれなゐ)の花が見えはするが、

     それもやがては潰れてしまふ。

 

     風が立ち、浪が騒ぎ、

     無限のまへに腕を振る。

 

     もう永遠に帰らないことを思つて

     酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう……

 

     私の青春はもはや堅い血管となり、

     その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

 

     それはしづかで、きらびやかで、なみなみと(たた)へ、

     去りゆく女が最後にくれる(ゑま)ひのやうに、

   

     厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでゐて(わび)しく

     異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

 

     あゝ、胸に残る……

 

     風が立ち、浪が騒ぎ、

     無限のまへに腕を振る。

                    詩集『山羊の歌』1934年(昭9)


 

「盲目の秋」は、私生活の苦渋に満ちた体験が背景にあります。長谷川泰子との別れ、フランス近代詩を教えた友人・富永太郎の死によって、知己を失った中也は上京後、孤立無援となりました。


盲目とは、自分を見失ったという暗喩。大東京でたった一人になってしまった中也が、決然と、詩の道を進んで行く自分の覚悟をうたっています。

・無限のまえに腕を振る=〈無限〉とは、海を象徴的に表現した言葉。果てしない水平線に、無限性を感じた比喩的表現です。


海に向かって手を振っても、誰も応えてくれる者はいません。とめどなく広がる海原に、手を振るような徒労感を表しています。真に自分の詩を理解してくれる者がいない情況下では、詩を書くことは海の前で手を振るような空しい行為だと、自嘲的に語っているのです。


・小さな紅の花が見えはするが、=現実の風景ではなく、心象風景。

〈小さな花〉とは、ささやかな夢や希望のようなものを指すのでしょう。

・私の青春はもはや堅い血管となり=自分の青春を、血管に譬えたら、その中を曼珠沙華と夕陽がゆきすぎるだろう、といいます。曼珠沙華と夕陽は、幼年の日々の追想を象徴的に表した言葉だと思われます。

 

【参考文献】

・『新潮日本文学アルバム 中原中也』
・青木健編著『年表作家読本 中原中也』
『別冊太陽 中原中也』

                             (この稿続く)


 

| 中原中也の人と詩業 | 09:40 | comments(2) | trackbacks(0)
コメント
とても詳細な記述、勉強になりました。
11月19日付けで公開した拙ブログの記事でリンクを貼らせていただきました。
よろしければご高覧ください。
| 若松若水 | 2017/11/20 1:21 AM |
拙いブログにエールを送って下さりありがとうございます。若松様のブログをこれから楽しみに拝読させていただきます。いつものご愛読を重ねてお礼を申し上げます。
| toshi | 2017/11/21 11:31 AM |
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