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リルケの世界 6
 第6話 詩は経験である

20代のリルケはロダンから絶大な影響を受け、視覚を通して受け取ったものを言葉を使って、彫刻作品のように完成させるという詩観を確立した。感情のように流れ去る不確かなものでなく、大理石のようにゆるぎなく確固として存在する作品を目指したのである。

第3話で触れた作品「秋」と同時期に書かれたリルケの自伝的小説『マルテの手記』の中で、リルケは〈詩は感情ではなく経験である〉と断言している。この言葉は彫刻におけるロダンの考えを、リルケが詩の世界で等価に言い換えたものといってよいだろう。

「秋」では、落葉を通して〈落下はすべてにあるのだ〉という万象を貫く真理を見た。この態度は、木の葉が落ちるのを眺めて、うら寂しさを感じ、寂寥感を表現して来た「感情の詩」とは全く異なる。枯葉が散る風情・感慨ではなく、物の姿の奥に隠された意味ーー万象を貫く真理を追究している。経験の詩とは、「発見の詩」と言ってもいいだろう。

経験が自分の中で熟成していなければ、落葉の意味を追求した詩の言葉は生まれないだろう。
だから、リルケの唱(とな)える「経験の詩」とは、数え切れない経験を基にした自己の探求から結晶するものに違いない。

その新たな詩観について、リルケは『マルテの手記』で言葉を尽して述べている。
「ああ、若くして詩をつくっても、立派な詩はつくれない。詩をつくることを何年も待ち、長い年月、もしかしたら翁(おきな)になるまで、深みと香とをたくわえて、最後にようやく十行の立派な詩を書くというようにすべきであろう。詩は一般に信じられているように、感情ではないからである。(感情はどんなに若くても持つことができよう。)しかし、詩は感情ではなくーー経験である。一行の詩をつくるのには、さまざまな町を、人を、物を見ていなくてはならない。知らない土地の野路(のじ)、思いがけない邂逅、虫が知らせた別離、ーーまだ明らかにされていない幼年のころ、そして、両親のことを。幼かった僕たちを喜ばせようとして与えた玩具(おもちゃ)が僕たちを喜ばせなくて(他の子供が喜びそうな玩具であったからーー)、気色をそんじた両親のこと、妙な気分で始まって、何回も深い大きな変化をとげさせる幼い日の病気、そして、静かな寂(せき)とした部屋の日々、海辺の朝、そして、海、あの海この海、また、天高く馳(は)せすぎ星とともに流れ去った旅の夜々を思い出さなくてはならない、ーーそれを思い出すだけでは十分ではない。夜ごとに相(すがた)のちがう愛欲の夜、陣痛の女の叫び、肉体が再びとじ合わさるのを待ちながら深い眠りをつづけているほっそりとした白衣の産婦、これについても思い出を持たなければならない。また、臨終の者の枕辺にも座したことがなくてはならない。窓をあけはなち、つき出すような嗚咽(おえつ)の聞こえる部屋で死者のそばに座した経験がなくてはならない。しかし、思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなくてはならない。再び思い出がよみがえるまでに気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちのなかで血となり、眼差(まなざし)となり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の最初の言葉が思い出のなかに燦然(さんぜん)と現われ浮かび上がるのである。」
                                 (この稿続く)

| リルケ | 15:56 | comments(4) | trackbacks(0)
コメント
再びコメント失礼いたします。

リルケさんの説、尤もだと思うのですが、
その価値観で行くと詩人が若い頃に書いた詩がどう評価されるのかが気になります。
晩年の室生犀星の詩は良くて立原道造の詩はダメ、
とかいうようなことにならないのでしょうか。
| 某通りすがり | 2012/07/16 9:51 AM |
いつもご愛読下さってありがとうございます。再度のコメントを感謝しています。

リルケの言葉を少し補足させて下さい。リルケが「詩は感情ではない。経験である」と言ったのは、ロダンという巨人に触発され、当時の熱い感動のままにほとばしった言葉だと思います。感情のように、日々、移ろうものでなく、経験という揺るぎないものーー彫刻のように不動なものに価値を認めたからではないでしょうか。

でも、この後、ちょっとした誤解がもとでロダンとの間に確執が起こり、ロダンのもとを去っています。そして、晩年は詩観も大きく変わりました。

私は、リルケが若い頃の詩は駄目だ、といったのは他者に対してというより、自戒の言葉だろうと解釈しています。若書きの詩を批評したリルケさえも、ロダンに会うまでの若い時代に、いくつもの秀作を書いています。
それは、煌めくような感覚による作品で、経験を重視したものではありません。

私も立原道造は学生時代から今に至るまで愛好しています。このブログでも、昨年の10月21日から9回にわたって、道造の連載記事を綴りました。また、室生犀星の詩は、晩年も若い時代もすばらしいと思います。

私自身を振り返ってみても、若い頃は詩的な技術は未熟でも、若さでなければ書けない発想の作品があります。残念ながら、還暦を過ぎた今の私には逆立ちしたって書けません。

最近は、年齢を重ね様々な経験を背負ったおかげで、経験から生まれた作品が多くなりました。

いただいた質問に正しく答えられているか、自信はないのですが、いかがでしょうか。
| てのひら | 2012/07/16 1:56 PM |
ようやく詩が作れるようになったかしら、と思っているいい歳をした広島の者です。
これまでは本当に経験が浅かったというか薄っぺらだったと思います。
浅学なので今でも良い言葉は出てきませんが。
自然や見えないものにまで思いを寄せるようにならないと溢れ出て来ない気がします。
歌唱や演奏もそうですね。

若い頃歌の歌詞を見ていただいていたことがありますが、アマチュアとしては最高レベルとの評価なのに、何かが足りないようだったのです。
しかし、講評者の意図が全く伝わりませんでした。
今思えばぶつけたい言葉以外は何とか無理矢理捻り出していただけでした。

先生が広島で講座を持たれているのを先程知ったばかりです。
まだ少しこちらのブログを拝読したところですが、読む楽しみができました。
| 安芸茜 | 2018/08/28 10:53 PM |
コメントを寄せて下さってありがとうございました。
拙いブログをご愛読していただいて感謝しています。
メルパルク広島の7階で、中国新聞カルチャー教室を開いていますので、よろしければ一度、お気楽にご見学にいらして下さい。お待ちしております。
| toshi | 2018/08/29 9:40 AM |
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