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村野四郎 7
 

参考に、「鹿」について作者自身の作品解読の言葉がありますので付しておきます。

私はいつも、ただ二つの解決のカギを置いてくることにしています。

その一は、この鹿は、なぜ鹿でなければいかなかったか。なぜ熊や猪ではいかなかったか、ということ。

その二は、この鹿は、自分が射たれようとしているのに、なぜ嘆きもせず、身もだえもせず、うっとりとしているか、ということ。

この二点を考えれば、この詩の秘密は、ほぼ解かれると思います。

 

第一のカギの答は、作者の美意識でしょう。死をありのままに受容する冷徹さを象徴するのに、鹿ほどふさわしい動物はいないと思われます。第二のカギの答は、死と向き合っても毅然と最後を迎えたいという作者のダンディズム(男気(おとこぎ))ではないでしょうか。

 

【補足】

村野四郎の著作には私がこれまで何度も励まされた言葉があります。最後にそれを紹介したいと思います。

 

○私は平素から、どんなに感動が白熱していようと、それを詩に表現する言葉だけは、冷酷無比に、機械のように正確でありたいと願っています。    『現代詩入門』潮新書

 

○この不安な人生も何か信頼できる世界に繋ぎとめようとする信仰に近い願いを、心の底に持ったことは当然でしょう。従ってこのような願いは、いままでのように詩を趣味や娯楽に近いものとしてはなく、もっと切実な、もっと根源的に「生」にかかわるもの、言いかえれば「芸術」として真底から、それを求めだしたということで、詩は新しい任務を与えられ、かつての有閑(生活にゆとりとひまがある意)の密室から、もっと広い、そして切実な精神の場に解放されたと見ることが出来ます。         『現代詩を求めて』現代教養文庫

 

○経済的な防波堤内で、存分に詩を味わい、詩を作ることを決心しました。そこで私は、大学は文学部を選ばず、経済学部に入学したのです。

肉体のために実業を、精神のために詩を、という二足ワラジの人生観が、いつか私の中に確立されていました。                  『現代詩入門』潮新書

 

○大学を出ると、人並みに事業会社のサラリーマンになりましたが、サラリーマンの生活の中で、詩を読み、詩を考える夜と日曜日に、どんなに楽しく、また充実感を感じたことでしょう。詩は私にとって、実業に毒された心の解毒剤であり、傷つこうとする心の予防剤でもありました。詩は慰めであると同時に、美と真実のために言葉を練るという、このささやかな行為が、どんなに人間社会の歴史のためにかかわりをもつかということを考えるだけで、ふしぎな誇りと充実感にあふれて、私の青春の生活の重要な支えになりました。

                       『現代詩入門』潮新書


 【メモ】村野四郎 1901年(明治34107日〜1975年(昭和5032

東京都出身。兄は北原白秋門下の歌人の村野次郎。府立第二中学校(現・東京都立立川高等学校)時代は体操を得意とした。

慶應義塾大学理財科(現・経済学部)卒業。理研コンツェルンに勤務。1940年、39歳で理研コンツェルンの子会社である電気器具会社の社長となる。

ドイツ近代詩の影響を受け、事物を冷静に見つめて感傷を表さない客観的な美を作り出した。詩集『罠』でデビュー。『体操詩集』(1939年)では、スポーツを題材にした詩にベルリン・オリンピックの写真を組み合わせた斬新さと新鮮な感覚が注目を浴びた。同詩集については自身は「ノイエザッハリッヒカイト的視点の美学への実験」と言っている。

1949年、49歳で日本現代詩人会を創設、初代会長。

1959年には第11回読売文学賞を『亡羊記』で受賞、室生犀星は「現代詩の一頂点」と評価した。亡くなった32日は亡羊忌となっている。晩年はパーキンソン病に悩まされた。

国語教材として取り上げられることの多い「鹿」、小中学校の卒業式の定番曲として知られる巣立ちの歌が一般的には有名である。作詞も行っており、なかでもアウグスト・ハインリヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(August Heinrich Hoffmann von Fallersleben)作詞の BieneSUMM SUMM SUMM)を日本語詞にした「ぶんぶんぶん」がよく知られている。             ウィキペディアより

                           (完)


| 村野四郎 | 18:03 | comments(2) | trackbacks(0)
コメント
村野四郎さんについては著名な詩人と知ってはいましたが、こうして紹介していただいて、より深く知ることができ、感謝いたします。私も亡き母がALSで死を待つ闘病生活を余儀なくされていたときを、「鹿」と重ね合わせて読みました。治るすべなく病床に横たわっていた母が、まるでこの「鹿」のように感じます。もっと村野さんの詩を味わってみたいです。
| わすれな草 | 2012/01/04 11:56 PM |
コメントありがとうございます。
お母様の闘病に「鹿」を重ねて読んで下さったことを感謝します。
わすれな草さんも、ご自身の厳しい体験を通して、「鹿」を鑑賞されたことで、この作品をご自分のものにされたと思っています。

自身の体験を通さなくては真の詩の鑑賞にはならないと私は常々お話しています。しかし、これは中々辛い場合が多いです。なぜなら、自分の傷(トラウマ)と改めて向き合うことを余儀なくされるからです。

それでも敢えて詩を読み解こうとするのは、物を深く知る喜びがあるからでしょう。年齢を重ねることは思わぬ障害を背負うこともありますが、若い時にはわからなかった詩が見えて来ることがあります。

これからも内面を見つめ、自分自身を深く知る喜びと驚きに日々、目覚めていきたいと願っています。
| てのひら | 2012/01/05 11:37 AM |
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