風立ちぬ 3

第3話  同伴者イエス のイメージを重ねる

 

堀辰雄の『風立ちぬ』はサナトリウム(長期療養を要する患者の療養所)での末期患者を主人公にしたものです。モデルは結核で死去した婚約者で、薄倖の可憐な少女が死の影におびえながら生を養う、という自伝的物語です。

詩的感性の強かった堀は結核の末期患者の悲惨な症状の描写には重きを置かず、信州の美しい高原を背景とした静かな悲劇的イメージに徹しています。

 

前回の解説で、『風立ちぬ』は悲劇的な題材でありながら、悲愴・悲傷感は乏しく、文体は余りにも淡々( あわあわ ) とした筆致で、何か物足りないような感さえある。そこには作者の周到な叡慮があると述べました。それは病苦や死の迫る憂悶は主人公が無言で背負い、昇華された哀しみの上澄みの美しさだけを読者に伝えたいという、堀の願いであると。

 

2016(平成28)年10月に99歳で亡くなった恩師伊藤桂一(詩人・直木賞作家)は、末期の母親と娘との最後の別れを描いた或る詩について、こう語っています。

 

悲傷をきわめた状態でありながら、読んでいる私たちには、暗い、湿った、やりきれない重苦しさはかんじられないということです。むしろ透明で切実な(本質的には暗くはない)感動をおぼえます。

なぜ、私たちがそういう感動に( ひた ) れるのかというと、私たちに負わされる苦痛を、作者自身が背負ってしまっていて、私たちには、一場の劇から ( かも ) される、純粋な感動だけが伝達されてくるからです。そのかわり、作者自身の苦痛は倍加し、言語に絶します。それに耐え得る ( つよ ) さがもし作者になかったら、茫々と泣いているだけで、表現にはいたらないのです。

                     伊藤桂一「実作のための抒情詩入門」

 

伊藤桂一の指摘から判断すれば、作者堀辰雄は並々ならぬ強靭な精神の持ち主であったことがわかります。私たちは作者の叡慮によって、心静かにこの小説を鑑賞できるといってよいでしょう。

 

前回、私は『風立ちぬ』の持つ課題をご紹介しました。それは、不治の( やまい ) を宣告された婚約者と共に暮らすという、〈皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっている〉山の生活に、主人公は〈私たちの幸福そのものの完全な絵〉を見出そうとしたことです。あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、徒労ではないのか。そんな絶望的な物語に「風が立った、さあ生きなくては」と自らを(ふる)い立たせる精神とは、どこから来ているのか。

 

この課題に対して、私は自分の経験を基に答を出そうと試みました。

私は家内と共に、2000年から末期癌の父を一年間介護し、2007年から寝たきりとなった母を4年間介護し、夫々を看取りました。

逃げ出したいような介護の葛藤や煩悶はありましたが、家族が同じ時間を共に生き、苦痛を分け合ったということは、考え方を変えれば幸運なことだったかも知れないと、両親の死後、長い時間が経ってから私は思えるようになりました。

堀が婚約者矢野綾子と過ごした時間は、出会いからその死まで3 年。富士見高原療養所にと共に入院してからは、わずか5カ月。極めて短い時間にも関わらず、二人の幸福度は深かったと私は両親の介護経験を通じて信じています。

 

あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、どういうものなのか――という問い。堀辰雄は限られた時間内でお互いを幸福にしようと努めることで、より豊かに生きられるという答を見出しました。相手がどんな絶望的な状況に陥っても決して見捨てない。いつも傍にいて、淋しさ、傷み、哀しみを共に分かち合うのです。

大変なことです。本当に強い意志がなければ続くことではありません。

でも、『風立ちぬ』の主人公、すなわち堀辰雄自身は実際にそれをやり通した人間だと、私は作品から汲み取っています。

 

 

キリスト教に関心の薄い方には唐突な話ですが、死線をさまよう婚約者に寄り添う主人公の姿に、私は 同伴者イエス 瓩箸いΩ斥佞鮟鼎邑ました。 同伴者イエス 瓩魯トリック作家の遠藤周作が( とな ) えた言葉です。 同伴者イエス 瓩砲弔い董遠藤は自らの闘病体験を綴ったエッセイの中で解説しています。

 

入院した夜、遠藤は心細くてなかなか寝付けませんでした。消灯時間も過ぎた午前零時過ぎ、風に乗って( けもの ) の吠えるような声が聞こえて来ます。病院の実験動物が鳴いているのかなと思いました。

翌朝、体温を計りにきた看護師に聞くと、肺癌の患者のうめき声だといいます。当人は医師で自分の病気を知っている。しかも末期癌でモルヒネも痛みを抑えることができない。だから夜中になると、あのようにうめくのだそうです。「本当にお気の毒だけど、麻薬の効果もないし、どうすることもできない」と言いました。

 

医師も看護師も手の打ちようがありませんが、ただ、ひとつだけやっていることがありました。それは看護師が交代で患者の手を握ってあげる。すると、うめき声は少しずつ静かになっていくというのです。この話を聞いたとき遠藤は、そんなバカなことがあるものか、と思いました。モルヒネを打っても痛みに耐えかねるような患者が、手を握られただけでおさまっていくようなことはあるはずがないと。

 

それから1年半後、遠藤は手術を受けました。術後の痛みに耐えかねて、さかんに「痛み止めに麻酔薬を打ってほしい」と叫びましたが、中毒になるといって打ってくれません。その時、看護師が遠藤の手を握ってベッドの横に座ってくれました。すると、「信じられないかもしれないが、痛みが少しずつ鎮まってくるではないか」

 

これらの出来事を通じて遠藤はひとつの〈真理〉に気づきます。

人間の苦痛というものは、その半分は精神的な「孤独感」で構成されている。歯痛で眠れない夜を思い出してみましょう。全世界で歯の痛い人間はごまんといるが、歯痛に苦しむ夜は自分だけが歯が痛いと思って苦しむのでないでしょうか。これは精神的、肉体的を問わず、苦痛の原則です。

 

しかし、誰かがじっと手を握って、そばにいてくれれば苦しみの50%を占めている精神面の孤独感はなくなって、肉体的苦痛だけになり、痛みは半減します。だから手を握ってもらえば、痛みはだんだん鎮まっていくのです。

 

そのことを遠藤は自分の体験を通してわかったといい、「イエスは病いに苦しんだり、悲しみに打ち沈んだ人々の横にいて、つねに手を握った。人間の孤独感を分かち合おうとした。この行為こそ、イエスが病気を治したということ以上に、奇跡物語の本質的な問題」と書いています。

 

救いようのない苦痛を負っている者のそばにいて、じっと手を握っている姿が、 同伴者イエス 瓩離ぅ瓠璽犬任后それは、究極的に 母 瓩遼楴舛砲盞劼っていきます。なぜなら、普通の母親なら子供がどんな悲惨な状況に陥っても決して見放すことはありませんから。遠藤が抱いたイエス像はこのようなものでした。

 

調べてみると、堀辰雄は遠藤周作に大きな影響を与えた人でした。遠藤はまだ慶応義塾大学予科性だった頃、信濃追分に移った病床の堀を毎月のように訪ねました。遠藤はその頃の思いを、エッセイの中で「召集令状の赤紙がやがて来ることも予想していたし、毎夜の空襲でいつ死ぬかわからなかった。そんな切迫した生活の中で、私は月に一回は朝暗いうちから起きて駅の行列にならび、やっと手に入れた切符をもって、信濃追分に行くことをただ一つの救いのようにしていた。(中略)私にはたった二十四時間の滞在時間のあいだ、堀辰雄氏の話を少しでもうかがえるのが精神のよりどころだったからである」と語っています。

後年、遠藤は『堀辰雄覚書』という評論を書き上げています。また、堀辰雄の夫人多恵子さんはプロテスタントの信徒です。これらの事実は、堀辰雄の宗教的関心が本物であったことを( あかし ) するものに違いありません。

 

私は若き日に一度、『風立ちぬ』を読んだことがあります。でも、あまり深く印象には残っていません。高原を舞台にした、余命いくばくもない悲劇の主人公を描いたセンチメンタルな恋愛小説。そんな程度の認識しかありませんでした。

しかし、年を重ねてこの作品を再読して、私は堀辰雄から人が共に生きることの尊さと( すご ) みを教えられたように思います。

 

(参考文献等)

遠藤周作『堀辰雄覚書』(講談社文芸文庫)

ブログ『Hatena Diary

ホームページ「日本キリスト教団 土師教会 説教集」

 

【メモ】堀 達雄 1904年(明治)年1228 - 1953(昭和28)年528日) 東京・麹町(こうじまち)生。小説家。母西村志気(しげ)は辰雄2歳の折、彼を連れて堀家を去り向島(むこうじま)の彫金師上条松吉に嫁したが、関東大震災の際に死亡した。

一高理科乙類時代に終生の文学的僚友となる神西清(じんざいきよし)を知り、室生犀星、芥川龍之介に師事。やがて彼らと軽井沢で一夏を過ごす経験を得る。東京帝国大学国文科に進んだ1926(大正15)年に中野重治らと同人誌『驢馬(ろば)』を創刊。左傾する同人たちの中にあって、コクトー、アポリネールらの翻訳を軸に芸術の革新を志向。芥川の自殺に衝撃を受け宿痾(しゅくあ)ともなった肋膜(ろくまく)の発病に悩まされながらも、翻訳書『コクトオ抄』(1929)、処女短編集『不器用な天使』(1930)を刊行。さらに鮮やかな心理解剖の筆をふるった小説『聖家族』(1930)によって、この期の芸術派を代表する作家としての評価を受けた。

以後、小説の形式と方法との模索に飽くなき執着を示す作家として独自の展開を遂げ始め、1933(昭和8)年には『美しい村』を完成。1938年には婚約者の死に遭って生まれた『風立ちぬ』を刊行。散文芸術の一極致を示すに至った。またこの間、詩誌『四季』(第一次・1933、第二次・1934創刊)によって立原道造(たちはらみちぞう)、津村信夫ら後輩詩人の育成に努める。昭和10年代には王朝文学に親しみ、古代への関心も深めて『かげろふの日記』(1937)、『曠野(あらの)』(1941)、『大和路(やまとじ)・信濃路』(1943)などの作品を残す。念願であったロマン(本格的長編)完成への夢も、『菜穂子(なほこ)』(1941)刊行をもって一帰結をみた。第二次世界大戦末期に信州信濃追分に疎開、その地で病と闘いながら、戦後の『四季』復刊や文芸誌『高原』の創刊(ともに1946)に意を注いだ。享年48。墓は東京・多磨霊園にある。

                     (小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

                                (この稿 完)

 

 

| 堀達雄 | 10:31 | comments(0) | trackbacks(0)
風立ちぬ 2

第2話 同じ時を共に生き痛みを分かち合う

 

「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成っています。あらすじは以下の通りです。

 

序曲

秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、二人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。

 

約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士見高原)のサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。

上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。

 

風立ちぬ

節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも二番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。

9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死(いし)した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。

節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか、病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。

 

 

 

1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。

 

死のかげの谷

1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。

 

『風立ちぬ』を読みながら、ふと父を介護した日々を思い出しました。2000年、父は末期癌を宣告され、一年間の闘病の後、89歳で世を去りました。高齢のため手術も抗癌剤も施療できず、家族は傍にいてただ見守る他はありませんでした。幸い、亡くなるまで苦痛を訴えなかったのが救いでした。それでも、はたから見れば手の施しようがない絶望的な状況でしたが、介護に当った家族の思いはまた別にあるようにも感じるのです。

 

父が亡くなって15年、改めてあの頃を追想してみると、末期の父の傍で()すすべもなく、黙ってベッドの傍で涙を流していた自分を、私は今、愛おしく思えるのです。一年という限られた時間ではありましたが、父子がこれほどまでに間近に濃密な時間を過ごしたことはかつてありませんでした。私は上京後、大学、就職と東京暮らしを30年続け、故郷に帰るのは盆暮れでしたので、普段は疎遠な関係であったのです。(写真右は、旧富士見高原療養所内の病室のベッドとサイドボード)

 

ですから、慣れない介護の葛藤や煩悶があったにしても、父子が短いながらも同じ時間を共に生き、苦痛を分け合ったということは、考えてみると幸運な状況だったかも知れません。堀が婚約者と過ごした時間は、出会いからその死まで3 年。富士見高原療養所に矢野綾子と共に入院してからは、わずか5カ月です。しかし、時間の短かさだけで二人の幸福度は浅かったと判断することはできないと、私は父の介護経験を通じて感じています。

 

『風立ちぬ』には美しい自然描写に多く筆が割かれています。散文で書かれた最も純粋な詩と評されるのは、そのためです。矢野綾子との出会いの場となった信州の高原の美しさに、作者が魅了されているからだと、当初、私は思っていました。しかし、父を看護していた頃の自分を振り返ると、他にも理由あったのではないかと思うようになりました。

 

私は当時、職がなく、介護に専念せざるを得ませんでした。毎日病院へ通い、病人の身の周りの世話を家内と交代で行っていました。時折、なんとも言えないやり切れなさに襲われました。仕事でもあれば一時的に気分転換できたでしょうが、ほぼ一日中、病室で余命少ない父と向き合っていると精神的に消耗して来るのです。それで、家内との介護のローテーションを工夫して時間を作り、遠くの美術館に足を伸ばしたり、景勝地を訪れたりしました。

 

『風立ちぬ』を( いろど ) るあまたの高原シーン。あれは、婚約者が日々衰えて行く姿を()の当たりに見るのが辛過ぎて、堀が気分転換のために、療養所の周りを幾度も散策したのではないでしょうか。その折の感興が、作品中の風景描写となって活かされているのだと思います。高原の爽やかな風光が唯一、堀の重い心を和らげるものであったのでしょう。

 

二人の出会いに遡ると、1933(昭和8)年、旧軽井沢駅近くにあった軽井沢ホテル(一説には、つるや旅館)で、堀は肺結核の療養に来ていた綾子と知り合います。翌夏にも、貸別荘に滞在中の綾子を訪ね、交際を重ねました。女子美術学校(現女子美術大学)に学んだ綾子は時折、油彩を描いていました。〈それらの夏の日々、一面に( すすき ) の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった〉の一節はそれを物語るものです。

 

堀は当時、『物語の女』の続編(のちの代表作『菜穂子』)を書こうとしていました。しかし、綾子に寄り添う内に別の構想が湧いて来ました。

〈二人の人間がそのあまりにも短い一生の間をどれだけお互いに幸福にさせ合えるか?……それを( ) いて、いまの私に何が描けるだろうか?〉(『風立ちぬ』)

恋人の死を声高に嘆くのではなく、透徹した視点で描き、それゆえに哀切さを増した愛と喪失をテーマにした物語がこうして生まれました。

あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、どういうものなのか――と、私は第1話で問いを投げかけました。その答こそ、限られた時間内でお互いを幸福にするということでした。そうやって、より豊かに生きようということではなかったか。相手がどんな絶望的な状況に陥っても決して見捨てない。いつも傍にいて、淋しさ、傷み、哀しみを共に分かち合うことなのでしょう。

(左上の写真は『風立ちぬ』の作品舞台となった富士見高原から見た冬の八ヶ岳)

 

 

終りに矢野綾子について触れておきます。彼女は1911(明治44年)年9月12日、愛媛県今治市の生まれ。1924(大正13)年4月、付属小学校を経て広島女学校(現広島女学院)高等女学部に入学。1929(昭和4)年3月、広島女学校卒業。同年4月、女子美術専門学校(現女子美術大学)へ進学しました。1932(昭和7)年3月、女子美術専門学校卒業。

広島時代の矢野綾子については、高女同級生から聞きとった回想談によると、身長は162僂らいの細身の体形、くりっと大きな眼、髪はナチュラルウエーブの美少女で、小学生の頃には「異人さんみたいな女の子」と噂されてたといいます。色白で腺病質の印象を与え、食は細かったが欠席はほとんどなく健康だったと思われます。成績は上位で、とくに図画は抜群。美校卒業の前後に東光会へ加入、会の展覧会にしばしば出品しました。重厚な画風の油彩画の数点は、書簡と共に今も軽井沢の堀辰雄文学記念館に所蔵されています。級友たちの目には矢野家における綾子は、義父母の溺愛もあって「箱入り娘」「女王様」と映じたようです。

 

【補足】

題名の「風立ちぬ」については誤訳だという説があります。

作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、作品冒頭に掲げられているポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節を堀が訳したものです。原詩では、「風が起こった。生きることを試みなければならぬ」の意味です。堀の訳では「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意。「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意となります。これでは生きることへの諦念になってしまいます。そこから誤訳説が生まれました。でも、「生きめやも」でも良いという解釈があります。

 

結核という死病に冒された生活を描いた、いわゆる爛汽淵肇螢Ε猜験忰瓩聾渋紊覆號期癌のようなものであり、これに( かか ) ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「生きよう」という意思が立ちあがるとは思えず、季節の流れとともにこのまま静かに命が消えても、という感慨が起きても不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。
 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「生きねばならない」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。

 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思を抱くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海の風のようにある意味精神を鞭打つような剛毅( ごうき ) なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。 (ブログ「晴れの日も 雨の日も」)

 

私もこの著者の意見を支持したいです。すると、「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、さあ、風が吹いて私を生の世界へ誘っていますよ、でも生きてみてもいいのでしょうか、くらいのニュアンスになるように思います。

 

(参考文献等)

『新潮日本文学アルバム 堀辰雄』(新潮社)『愛の旅人』(朝日新聞be編集グループ編)

ブログ「ジブリのせかい」「八ヶ岳南麓小淵沢 ペンション あるびおん」

ホームページ「富士見高原医療福祉センター 富士見高原病院」

 

【堀辰雄の生涯】

堀辰雄は日露戦争が始まった明治37年に東京麹町の平河町に生まれました。

父は広島藩の士族で東京地方裁判所の監督書記をつとめていました。明治411908)年、母志気は4歳の辰雄を連れて彫金師上条松吉と再婚、辰雄は東京府立第三中学校(現:都立両国高校)から第一高等学校理科乙類へ進学しました。

 

初めて親許を離れ寄宿舎に入って出会った神西清(じんざいきよし)は未来の数学者を夢見ていた堀に文学の目を開かせ、終生の友情を持ち続けます。

大正121923)年は堀にとって運命の年でした。1月に萩原朔太郎の第二詩集『青猫』を耽読、5月に三中校長の広瀬雄(ひろせゆう)に室生犀星を紹介され、8月に犀星を頼って初めて軽井沢へ行きます。

「一日ぢゆう、彷徨(さまよ)ついてゐる。みんな、まるで活動写真のやうなものだ、道で出遭うものは、異人さんたちと異国語ばつかりだ」と葉書で神西清に感激を伝えています。以後、軽井沢滞在を繰り返し、『ルウベンスの偽画』『美しい村』『菜穂子』など軽井沢を舞台にした作品を多く残しました。

 

91日、関東大震災に遭い、隅田川に避難し辰雄は九死に一生を得ますが、母は水死しました。母の死のショックのため肋膜炎に罹り休学します。「手紙を見て君にはやはりお母さんが居られたらいいと考へて居る。とにかく学校はやりたまへ、そのうちこちらへ出かけて来たまへ、まだ僕も落着いたやうな落着かない気もちでゐるが……」と、犀星の慰問の手紙から、当時の堀の悲しみがうかがえます。10月、犀星は金沢へ引き揚げることになり、帰郷前に辰雄を芥川龍之介に紹介しました。

 

大正141925)年4月に東京帝国大学文学部国文科に入学。犀星宅で中野重治らと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に処女作『ルウベンスの偽画』(初稿)発表。昭和81933)年に季刊雑誌『四季』を創刊。6月初めから9月まで軽井沢の「つるや旅館」に滞在し、作品執筆に入ります。7月に油絵を描く少女・矢野綾子と知り合い、この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説『美しい村』の「夏」の章で、矢野綾子との出会いが描かれ、これまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切ります。この年、立原道造と知り合います。

 

昭和91934)年9月、北多摩郡砧村大字喜多見成城(現:世田谷区成城)在住の矢野綾子と婚約。10月に長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでいた)の油屋旅館で『物語の女』を書き上げます。矢野綾子も肺を病んでいたために、翌昭和101935)年7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院。しかし綾子は126日に24歳で死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となり、昭和111936)年から昭和121937)年にわたって執筆されました。この『風立ちぬ』では、詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用しています。代表作『風立ちぬ』は難産の末、昭和121937)年冬、軽井沢・桜の沢の川端康成別荘において完成させました。

 

昭和13(1938)年2月に向島の自宅で喀血、神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現:鎌倉市)の額田病院に入院後、前年6月に追分で知り合った加藤多恵(1913年7月30日生 - 2010年4月16日没)と、室生犀星夫妻の媒酌により4月に結婚。軽井沢に別荘を借りて新居とします(のちに逗子や鎌倉などを転々とする)。3月に立原道造が24歳で結核のため中野区江古田の療養所で死去。。堀は立原道造を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い慕っていました。

 

昭和221947)年2月に一時重篤。昭和241949)年、川端康成や神西清の配慮で、旧作が再刊されます。昭和251950)年、自選の『堀辰雄作品集』が第4回毎日出版文化賞を受賞。昭和267月に追分の新居に移ります。昭和28年(19535月、病状が悪化、書庫の完成を見ないまま、28日に妻・多恵に看取られ48歳で死去しました。6月に東京都港区芝公園(現:港区芝公園四丁目)の増上寺で、川端を葬儀委員長として告別式が執行され、翌々年の昭和301955)年5月に多磨霊園に納骨されました。

                                                 (この稿続く)

 

 

 

| 堀達雄 | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0)
風立ちぬ 1

第1話 あらかじめ終りが見えている愛を始める

 

 序曲(抄)

 

 それらの夏の日々、一面に( すすき ) の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした

かたま)りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 

そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を( ) じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。(左の画は、アニメーション映画「風立ちぬ」のポスター。原作は宮崎駿の漫画。タイトルは堀辰雄の同名小説からの借用。2013年7月に公開

 

 風立ちぬ、いざ生きめやも。

 

 ふと口を( ) いて出て来たそんな詩句を、私は私に

もた)れているお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を

)りにくそうにしながら、

「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」

 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。

 

 春(抄)

 

二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。それはいかにも春らしい夕暮であった。私はさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子( ガラス ) 扉の方に近づいて、その一方の扉を半ば開け放ちながら、それに

もた)れかかった。そうしてしばらくそのまま私は、自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、一面にうっすらと

もや)の立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう――」と思いながら、空虚な目をやっていた。

「何をしていらっしゃるの?」

 私の背後で、病人のすこし( しゃが ) れた声がした。それが不意に私をそんな一種の麻痺したような状態から覚醒させた。私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、

「お前のことだの、山のことだの、それからそこで僕達の暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と途切れ途切れに言い出した。が、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんな事を今しがたまで考えていたような気がしてきた。そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――「向うへいったら、本当にいろいろな事が起るだろうなあ。……しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれを( ねが ) おうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」そんなことまで心の

うち)で考えながら、それには少しも自分では気がつかずに、私はかえって何んでもないように見える些細な印象の方にすっかり気をとられていたのだ。……

 そんな庭面はまだほの明るかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。

「明りをつけようか?」私は急に気をとりなおしながら言った。

「まだつけないでおいて頂戴……」そう答えた彼女の声は前よりも嗄れていた。

 しばらく私達は言葉もなくていた。

「私、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」

「じゃ、ここも締めて置こうね」

 私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。

「あなた……」彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」

 私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。

「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」

 彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ空を見つめているきりだった。

「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」

 私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面( にわも ) を見入り出した。

 やがて私は、私の背後に深い溜息のようなものを聞いた。

「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し( ふる ) えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」

 私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。

 

                               堀辰雄『風立ちぬ』1938(昭和13)年

 

小説『風立ちぬ』は、信州の美しい高原地帯で、不治の病に冒された婚約者に寄り添い、愛する者との遠からぬ別離を覚悟しながら、限られた日々を共に生きる物語です。作品の舞台はサナトリウム(長期療養を要する結核患者の療養所)。モデルは結核で死去した作者の婚約者で、死の影におびえなが生を養う自伝的物語です。堀自身も結核で長い病床生活を送り、1953(昭和28)年に48歳で没しています。左の写真は堀辰雄 31歳

 

死を真摯に見つめる主人公の目に、感情の( たかぶ ) りはなく、またヒロインとの会話も清明で澄み渡っています。悲劇的な題材を扱いながらも、悲愴・悲傷感は乏しく、文体は余りにも淡々

あわあわ)とした筆致で、何か物足りないような感さえあります。ですが、そこには作者の周到な叡慮があるのではないでしょうか。それは病苦や死の迫る憂悶は主人公が無言で背負い、昇華された意識の上澄みの美しさだけを読者に伝えたいという、堀の願いでもあるのです。『風立ちぬ』に一般の闘病生活を扱った小説とはひと味違う、詩的で清明な魅力を感じるのは、この洗練された美意識にあるようです。

 

1935(昭和10)年初夏、堀辰雄は婚約者の矢野綾子と共に長野県富士見町の富士見高原療養所(現・富士見高原病院)に入所しました。堀は生きながらえて悲痛な体験を小説に昇華し、綾子は死してヒロインのモデルとして名をとどめました。この高原療養所は、1928(昭和3)年、ヨーロッパに学んだ医師正木俊二がスイスに環境が似ているところから設立しました。空気が澄んで高地にあるため紫外線が強く、結核の治療に有効とされました。右の写真は矢野綾子 21歳頃 左は旧富士見高原療養所

 

正木所長は、軽症だった堀が「奥さん」の便器の世話まで進んで行い、看病に生き甲斐を感じているようだったと書き遺しています。「これほどまで思われて亡くなった婦人は女人として真に幸福な人であった」と。

戦前の病棟は一棟のみが残っていましたが、2012年に解体され、現在は旧富士見高原療養所資料館が設けられています。当時の病室には、硬い木製ベッドと備品を入れる床頭台がありました。バルコニーからは八ヶ岳が間近に見え、患者はここで日光浴をしたのでしょう。山の向こうは二人が出会った軽井沢。堀は1933(昭和8)年逗留先の軽井沢で綾子と知り合い、翌年9月に婚約します。堀29歳、綾子24歳。

 

明治時代から昭和30年代までの長い間、結核は「国民病」「亡国病」と恐れられましたが、国をあげて予防や治療に取り組み、死亡率は往時の百分の一以下にまで激減しました。現代は結核にとって代わるものとして、癌が脅威となっています。ですから、限られた生命、ぎりぎりの環境で生を営み、あるいは愛を育む人にとっては、『風立ちぬ』は普遍のテーマなのです。戦前の結核小説だと切り捨てることはできないと思います。(左上 同病院での日光浴風景 結核菌は紫外線に弱いため、日光浴は当時有効な治療法として処方された

 

なお、この療養所は結構なお金がかかり、裕福な家の人が多く入っていたようです。病院の食事も良く、それでもそれに飽きた患者は諏訪の料亭へと食事に行ったそうですが、行ってみると料亭の食事より病院の食事の方が良かった・・・という話もあったそうです。

 

小説『風立ちぬ』では、サナトリウムの向こうが二人が出会った軽井沢だと気づき、主人公の「私」が〈いつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた〉出会った頃の2年前を懐かしく思い出します。〈皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっている〉山の生活に、〈私たちの幸福そのものの完全な絵〉を見出そうとします。現代でも最愛の人の病死という悲劇はドラマ・映画で繰り返し取り上げられ哀切な感動を呼んでいます。しかし、結核が不治の病だった当時はありふれた事態として日常の縁に転がっていました。(右の写真は 八ヶ岳の麓に保存されていたサナトリウム 2012年に解体された

 

あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、どういうものなのか。その絶望的な物語に「風が立った、さあ生きなくては」と冠する精神とはいかなるものなのか、を探っていきたいと思います。

                                (この稿続く)

 

 

 

 

 

| 堀達雄 | 15:57 | comments(0) | trackbacks(0)
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