文豪の恋文 2

第2話 忍ぶ恋

 

 ( わたく ) しは唯々 ( ただただ ) まことの兄様のような心持にていつまでもいつまでも御力にすがり

( たき ) 願いに御坐候 ( ござそうろう )

 

        樋口一葉(二十歳)から師・半井桃水(三十一歳)への手紙   明治二十五年七月八日付

 

             *

 

 御目にかゝらぬむかしもあるを じゆうのきかぬ身と存じ(そうろう)ほど 意地わるく参上いたし(たく) われしらず考えこみ候時などもあり こんなこと人に話しでも致し候ものなら (それ)こそこそ笑われぐさにもなりからかわるゝ種にも成り候わんなれど 私しは唯々まことの兄様のような心持にて いつまでもいつまでも御力にすがり(たき)願いに御坐候(ござそうろう)を (はか)らぬことより変な具合になり 只今(ただいま)の所にては私ししいてお前様におめもじ致し度などゝ申さば 他人はさら(なり)親兄弟も何とうたがうか知れ申さず とに角にくやしき身分に御坐候 お前様御男子(おのこ)でなきか 私し女子(おなご)でなきかいずれに致せ 男女の別さえなくは此様(このよう)にいやなことも申されず月花の遊びは更なり

 

(現代語訳)

面会が自由な以前は、お目にかからないことがあっても平気でしたのに、お会いする自由がないと思えば思うほど、へそ曲がりに伺いたくなり、知らず知らずのうちに考えこんでいる時があり、こんな気持ちを人に話しでもいたしますれば、それこそ笑いものになり、からかわれる種になりますが、わたしはただただ、本当のお兄様のような気持ちで、いつまでもいつまでもお力にすがりたい願いでございますのに、予想もしなかったことにより妙な具合になり、ただ今の状態では、私が強くあなた様にお会いしたいなどと申せば、他人はもとより親兄弟もどのように二人の仲を悪く疑うか知れませず、とにかく悔しい身の上でございます。あなた様が男子でないか、私が女子でないか、いずれにしても男女の別さえなければ、このような嫌なことを言われず、風流な遊びに共に興じることができたのは、いうまでもありません。

 

樋口一葉は数え年17歳で父に先立たれ、母と妹をかかえて生涯貧窮に追いまくられました。すでに一葉は『うもれ木』(明治25年9月)や『雪の日』(明治26年3月)などで一部には作家として知られていましたが、まだ無名同然でした。明治28年5月に一流雑誌の『太陽』に『ゆく雲』を発表し、ようやく名が知られるようになったに過ぎません。

 

名作『たけくらべ』は明治28年1月、2月、3月と『文学界』(明治期のロマン主義の月刊文芸雑誌)に発表されていましたが、これは北村透谷や島崎藤村らの編集する同人雑誌であったため、まだ一般には認められていませんでした。一葉の代表作『にごりえ』(明治28年9月)、『十三夜』(明治25年12月)が発表されたのは、この日記以後で、『たけくらべ』が人気絶頂に達するのは、翌年4月、文芸雑誌『文芸倶楽部』に一括して再掲載されてからのことでした。そして、その直後、一葉は死病に取り憑かれたのです。(写真は、左より、妹くに、母たき、なつ子(一葉)。当時の写真の高価さから考えて、没落の始まる前、少なくとも明治二二年七月の父則義死去前後の撮影であろう。やがて始まる日記の時代を、母娘三人身を寄せ合って生きることになる。一葉の死から二年、明治三一年二月には母は過労のため逝き、日記は妹くにに守られて、やがて明治四五年刊『一葉全集』(博文館)で日の目を見る。)

 

(メモ)ロマン主義:日清戦争前後、人間の感情を重視し、恋愛を重んじ、形式を打破し、自我や個性の尊重と解放を主張する風潮。代表作に、島崎藤村『若菜集』、与謝野晶子『みだれ髪』、森鴎外『舞姫』など。

 

母と妹を養わなければならぬ一葉の生活は、どん底の状態にありました。小説家への憧れは以前からありましたが、有名作家になって一家の窮状を救いたいというのが大きな理由でした。そこで、一葉は十歳年上の半井桃水に小説作法を習うことにしたのです。

桃水という人物は、東京朝日新聞記者で、当時、通俗作家として名を馳せていました。しかし、現在、桃水の小説には文学的価値はなく、皮肉なことに一葉の御蔭で後世に名が残った人なのです。死去まで三百編以上の小説を書きましたが、今では読む人も皆無です。

 

桃水は写真でもわかるように、美男でおおらかな人物でした。一葉の面倒を色々見ていましたが、これが和歌の先生中島歌子の気にいらぬ点で、とうとうあらぬ噂を立てられてしまい、一葉は桃水から離れることになります。

今回紹介した一葉の手紙は、二人が世間をはばかって会えない状態の中で送られたものです。桃水は、妻が他界していて独身でしたから、互いの恋の小火( ぼや ) が猛火になっても、不思議はありませんでした。しかし、一葉の母と妹は、桃水のことをいかにも魂胆がありそうな策略家と見て、恋愛関係への深まりを(あや)ぶみました。

(写真は、一葉と出会った頃の半井桃水、当時31歳。 「東京朝日」専属作家。今で言う通俗作家だった。

 

また、中島歌子が主宰する和歌結社『( はぎ ) の()』の塾生たちも心配し、あるいは嫉妬から、桃水に深入りしないように忠告しました。そこで、一葉は周囲の声に従い、あえて師弟愛、あるいは兄弟の関係を強調する手紙を書いたのでした。(写真は、一葉が通った歌塾「萩の舎」を主宰した中島歌子

 

 

文中では、同性だったら気兼ねなく遊べたのにと残念な思いを吐露し、師弟愛をめざした証拠とする姿勢は冷静な筆致です。しかし、この手紙全体から受ける印象は、紙背から熱い思いが漂い、恋愛への傾きが強く感じられます。

それは、「夫こそ夫こそ」「いつまでもいつまでも」と、まるで恋の告白のように言葉をたたみかける心理にも現われています。また、一葉独自の擬古文体の( みやび ) やかな候文がかもし出す雰囲気にもよります。

一文が長いため、流れるようなうるわしい情調が生まれるためでもあります。男女間の心の流れを、ゆったりと、しっとりと、時にはねっとりと伝えたい時には、このような一葉の手紙のスタイルが功を奏するのかも知れません。

 

 

さて、桃水への手紙は男女としてでなく、兄妹愛に乗っ取って今後も付合っていきたいという思いで綴られていますが、その効果はどうだったのでしょうか。効果とは、今後も兄妹愛を保ち、貫くことです。

ところが、文面には、一葉の決意を裏切るように、きっぱりと別れを決意しながらも、期せずしてか期してか、あでやかな雰囲気に満ちてしまいました。このどっちつかずの手紙は、別れるべきだが別れられないという、どっちつかずの結果を招いてしまいました。

 

一葉がどんな女性だったのか、桃水と終生清い関係にあったのか、実際のところはよくわかりません。残念ながら桃水は後世に名を残すような、第一級の作家ではありませんでしたが、一葉研究の成果として今確かにわかっているのは、一葉は終生桃水を師と( あお )ぎ、心のよりどころとしたということです。

                                     (この稿 完)

 

 

 

| 文豪の恋文 | 13:25 | comments(0) | trackbacks(0)
文豪の恋文 1

第1話 芥川龍之介編

 

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

 

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。
何時頃(いつごろ)うちへかへるかそれはまだはっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは文ちゃんにかう云う手紙を書く機会が
なくなると思ひますから奮発して一つ長いのを書きます 
ひるまは仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが
夕方や夜は東京がこひしくなります。
さうして早く又あのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思ひます。
しかし、東京がこひしくなると云ふのは、
東京の町がこひしくなるばかりではありません。
東京にゐる人もこひしくなるのです。
さう云う時に僕は時々文ちゃんの事を思ひ出します。
文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから何年になるでせう。
(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由はたった一つあるきりです。
さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。
勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。
僕は世間の人のやうに結婚と云ふ事と 
いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。
ですからこれだけの理由で兄さんに文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。
さうしてそれは頂くとも頂かないとも 
文ちゃんの考へ一つできまらなければならないと云ひました。

僕は今でも兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。
世間では僕の考へ方を何と笑つてもかまひません。
世間の人間はいい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで 
造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。
その出来ない点で世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は
全く文ちゃん次第できまる事なのです。
僕から云へば勿論承知して頂きたいのには違ひありません。
しかし一分一厘でも文ちゃんの考へを無理に(おびやか)かすやうな事があっては 
文ちゃん自身にも文ちゃんのお母さまやお兄さんにも僕がすまない事になります。
ですから文ちゃんは完く自由に自分でどっちともきめなければいけません。
万一後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。
その上僕自身も(ろく)に金はありません。
ですから生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。
それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)
うちには父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
僕には文ちゃん自身の口からかざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は人に見せても見せなくても文ちゃんの自由です。
一の宮はもう秋らしくなりました。
木槿(むくげ)の葉がしぼみかかったり弘法麦(こうぼうむぎ)の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると心細い気がします。
僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったらもう一度手紙を書いて下さい。
「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。

が書いて頂ければこれでやめます皆さまによろしく

                              

コウボウムギ 砂浜に生育する代表的な海浜植物

 

 

 

「赤ん坊のやうでお( ) でなさい」(1917〈大正6〉年)、これは芥川龍之介が後の妻、塚本文(つかもとふみ)に宛てたプロポーズの手紙の一節です。当時、龍之介満24歳、文は16歳の跡見女学校の学生でした。

 

「赤ん坊」とは、エゴイズムを知らない純粋で無垢な状態を指します。龍之介は文にそれを見ました。翌年、龍之介は文と結婚。まもなく新進作家として脚光を浴び、家庭を顧みられないほど多忙になります。幾人かの女性との交渉も始まります。芸者に好かれたり、人妻に思いを寄せたりしました。しかし、遺稿「歯車」の中で、不安な状態から抜け出す手段として、「家に対する郷愁」を強く抱くように、彼にとって妻子のいる家庭は何よりの安らぎの場であったようです。

 

16歳の塚本文宛のこの恋文が書かれたのは、1916(大正5)年8月25日、龍之介24歳の時です。文は龍之介の幼なじみでした。芥川は大学卒業後、進路が決まらないまま、創作活動の生活に入り、小説「ひまわり」を書き終えて千葉へ旅行に出かけます。滞在先の九十九里浜の旅館・一宮館(いちのみやかん)で初めてのラブレターを書きました。手紙の冒頭の「奮発して一つ長いのを書きます」という一節は、師である夏目漱石の手紙を真似した言い回しでした。(写真左は、跡見女学校時代の塚本文(芥川文))

 

 

塚本文へ恋文を書く2年前、芥川は辛い失恋をしていました。原因は相手の家柄などを含む、家族の猛反対でした。そこで今回は家族の了承を得た上で手紙を書きました。隠し事はせず、すべてを正直にありたいと思ったのです。

 

〈文ちゃん。〉:相手が好きな時、つき合う前は好きな人の名前を呼べるだけですごく幸せな気分になれます。文章で、「文ちゃん」と呼びかけているのは、最高の気持ちの表れということです。

 

〈貰ひたい理由はたった一つあるきりです。/さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。/勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。〉:「好き」というストレートな言い方が心を打ちます。率直に述べているから、素直な気持ちが、そのいちずさが本当に届く。「今でも」という言葉が、愛情が変わっていないことを伝えています。
私が初めて芥川龍之介の恋文を読んだ時、その意外さに驚きました。かの文豪がどんなに捻った筆致で、想い人を口説いたのかと思いきや、ストレートで飾り気のない言葉で手紙を書いていました。文壇では、シニカルな事を言っていた気難しそうな顔のあの芥川も、自分の恋愛に関してはウブな青年だったのです。(写真右は、龍之介が文に手紙を書いた千葉県九十九里浜一宮館の文学碑。左奥の芥川滞在の離れは芥川荘と呼ばれる)

 

現代の男性は素直に気持ちを伝えられないと言われています。では、相手に素直に気持ちを伝えるためには、どうすればよいのでしょうか。その答えは、駆け引きをしないことです。駆け引きとは、まだ相手に好きと言っていないのに、もし好きと言ったらどうする? と考えることです。また、はっきり好きと言わず、「好きかもしれない」と自分の気持ちごまかすのは、振られた時の保険ということでしょうか。

 

〈世間の人間はいい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで/造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。/その出来ない点で世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます〉:世間の風潮よりも自分の思いが一番大切であり、自分の結婚相手は自分で選びたい、という考えは時代背景を考えると革新的なことでした。1916年当時、結婚前の二人が会って話したり、デートをしたりする機会はあまりありませんでした。

 

僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。/その上僕自身も(ろく)に金はありません。/ですから生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。/それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。/(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)うちには父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。:身体も弱いし、お金も碌にないから他の男性に負けるかもしれないが、好きという気持ちだけは誰にも負けないとストレートに言っている所がよいと思います。また、それでもよければお嫁に来てほしいと、文のことを思い遣っている所がすばらしい。見栄を張って、お金があると言ってもいいのに、ありのままの自分を語るのが男らしく謙虚な人柄です。

この手紙を書いた1011か月後、芥川は「ただぼんやりとした不安」と書き遺し、自ら生命を絶ちました。享年、35歳。芥川が文と暮らしたのは9年間。その間に「蜘蛛の糸」「鼻」「杜子春」などを発表。それは作家として確固たる地位を築いた時代でした。

(写真上は、 大正7(1918)年、田端の自宅書斎 新婚時代の龍之介(26歳)と文(18歳)

 

(参考文献・資料)

・日本近代文学館編「愛の手紙――文豪の恋文

NHK教育テレビ「Rの法則 文豪の手紙〜芥川龍之介の恋文〜」

・「九十九里浜 一宮館」ホームページ

 

(メモ)芥川龍之介1892(明治25)年31 - 1927(昭和2)年724日) 本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。東京生まれ。東大英文科卒。高等学校在学中に久米正雄、菊池寛、山本有三を知り、文学書を乱読した。

1914(大正3)年、第三次『新思潮』の発刊に参加して、処女作『老年』を発表。『羅生門』などを書き、漱石門下

の一人となる。『鼻』が漱石の激賞を受け、以後、『地獄変』『虱』『芋粥』を発表。いわゆる新理知派の代表作家として、隙のない技巧と古典的な均整美とを備えた短編を書き続け、才人の名をうたわれた。『蜘蛛の糸』『奉教人の死』『枯野抄』『秋』『或阿呆の一生』『河童』など多くの短編の他に、評論・随筆『文芸的な余りに文芸的な』などがある。1927(昭和2)年、服毒自殺。三人の息子がおり、芥川比呂志(長男)、多加志(次男)ビルマで戦死、也寸志(三男)作曲家。(右の近影は、第一高等学校入学当時18歳

 

(メモ)芥川(ふみ)1900(明治33)年78 - 1968(昭和43)年911

東京府生まれ。海軍少佐塚本善五郎の娘。190455日、旅順港近海で戦艦初瀬」に第一艦隊第一戦隊先任参謀として乗艦していた父が「初瀬」沈没時に戦死。葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う。芥川が彼女へ送った恋文は有名。

191612月、龍之介と縁談契約書を交わす。19182月、跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活。

龍之介の作品には『子供の病気』(『局外』19238月)、『死後』(『改造19259月)、『年末の一日』(『新潮19261月)、『身のまはり』(『サンデー毎日19261月)、『本所両国』(『東京日日新聞夕刊192756 - 522)、『蜃気楼』(『婦人公論19273月)、『或阿呆の一生』(『改造』192710月)、『歯車』(『文藝春秋192710月)、『鵠沼雑記』(遺稿)に登場している。

1927724、龍之介が服毒自殺。

1941、三男・也寸志が東京音楽学校予科作曲部を目指して音楽の勉強を始めた時は、也寸志のために自らのダイヤの指環を売り払いピアノの購入費に充てた。

1945413、学徒兵として出征していた次男・多加志がビルマのヤメセン地区で戦死。1968911日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため死去。死後の1975筑摩書房から『追想芥川龍之介』(中野妙子筆録)を刊行。

                 (ウェブ百科事典「ウィキペディア」を基に構成)

 

                                                (この稿続く)

 

 

 

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