室生犀星 4


第4話 時の向こうに消え去った思い

 

 

 

       永遠にやつて来ない女性

 

 

       秋らしい風の吹く日

       柿の木のかげのする庭にむかひ

       水のやうに澄んだそらを眺め

       わたしは机にむかふ

       そして時時たのしく庭を眺め

       しをれたあさがほを眺め

       立派な芙蓉の花を()めたたへ

       しづかに君を待つ気がする

       うつくしい微笑をたたへて

       鳩のやうな君を待つのだ

       柿の木のかげは移つて

       しつとりした日ぐれになる

       自分は灯をつけて また机に向ふ

       夜はいく晩となく

       まことにかうかうたる月夜である

       おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ

       玉のやうな花を愛し

       ちひさな笛のやうなむしをたたへ

       歩いては考へ

       考へてはそらを眺め

       そしてまた一つの(ちり)をも残さず

       おお 掃ききよめ

       きよい孤独の中に住んで

       永遠にやつて来ない君を待つ

       うれしさうに

       姿は寂しく

       身と心とにしみこんで

       けふも君をまちまうけてゐるのだ

       ああ それをくりかへす終生に

       いつかはしらず祝福あれ

       いつかはしらずまことの恵あれ

       まことの人のおとづれあれ

                           詩集『愛の詩集』1918(大正7)年

 

 

犀星の代表作のひとつです。身体の中に一匹の山犬のような猛り狂うものを住まわせ、泥酔して深夜の街に悲しく吠えることもあった犀星ですが、他方、純情無垢の子供の魂の持ち主でもありました。

 

常に清らかな正しい生活に憧れていて、それが善良な女性への思慕と結びつき、この作品のような感傷的な詩を書かせたのです。庭を掃き清め、花を愛し、静かに机に坐って、いつ現われるかも知れない女性を待つ。余りにも非現実的で、そんな自分に憧れの女性は永遠にやって来ないかも知れないが、いつまでも待ち続けよう。そんな清廉な生活にもいつかは祝福があり、まことの女性の訪れがあれ、という犀星の理想の愛を詠っています。

(妻 浅川とみ子)

 

 

 

 

         昨日 いらつしつてください

 

 

       きのふ いらつしつてください

       きのふの今ごろいらつしつてください

       そして昨日の顔にお逢ひください

       わたくしは何時も昨日の中にゐますから

       きのふのいまごろなら

       あなたは何でもお出来になつた筈です

       けれども行停( いきどま ) りになったけふも

       あすもあさつても

       あなたにはもう何も用意してはございません

       どうぞ きのふに逆戻りしてください

       きのふいらつしつてください

       昨日へのみちはご存じの筈です

       昨日の中でどうどう廻りなさいませ

       その突き当りに立つていらつしゃい

       突き当りが開くまで立つていてください

       威張れるものなら威張つて立つてください

 

                   『昨日 いらつしつてください』1959(昭和34)年

 

 

詩集『昨日いらつしつてください』が刊行されたのは、1959(昭和34)年、犀星70歳の時でした。まず、年齢を感じさせないリリシズム(抒情性)とユニークな発想に驚かされます。

 

この女性はいつも昨日――過去の中に生きていて、昨日の今頃来てくれたら、何でも自由にお出来になったはずだけれど、明日も明後日も、もうあなたに逢う何の用意もしていない。だから、昨日に逆戻りして下さい、というのです。

 

高齢になって、すべてが時の向こうに消え去った無常の思い、過去への愛惜を詠った詩はあまたありますが、独特の言い回しが新鮮な味わいを与えています。犀星が若き日に失ったかけがえのない女性たちも影を落としているのかも知れません。

 

 

(メモ)室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)石川県金沢市生。詩人・小説家。別号に「魚眠洞

( ぎょみんどう ) 」。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種( こばたけやざえもんよしたね ) とその女中であるハルという名の女性の間に生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗( しんじょう ) の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の婚外子として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳、室生照道を名乗ることになった。

 

婚外子として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生母、養母との関係が共に私生児とされ、二重に精神的苦痛を背負っていた。『犀星発句集』(1943年)に収められた「夏の日の匹婦(ひっぷ)(身分の卑しい女)の腹に生まれけり」との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このトラウマを引きずっていたことを提示している。

 

1902年(明治35年)金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に俳人がおり手ほどきを受ける。新聞へ投句を始め1904年(明治37年)10月8日付け『北國新聞』に初掲載。この時の号は照文。その後詩、短歌などにも手を染める。犀星を名乗ったのは1906年(明治39年)からである。犀星という筆名は、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。

 

1910年(明治43年)上京。その後は、帰郷・上京をくりかえす。1913年(大正2年)北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ザンボア)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。1916年(大正5年) 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年(大正8年)までに32号まで刊行した。この年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。1929年(昭和4年)初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。

 

1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。 旧・芥川賞選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。

 

戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。娘朝子をモデルとした1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞を、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))で野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を創設。

1962年(昭和37年)、 肺癌の為に死去。金沢郊外の野田山墓地に埋葬されている。「犀星忌」は3月26日。犀川大橋から桜橋までの両岸の道路は「犀星のみち」と呼ばれる。

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の句の通り、文壇に盛名を得た以後も金沢にはほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていた。(インタネット百科事典「ウィキペデイア」を基に記す)

                                (この稿 完)

 

 

 

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室生犀星 3

第3話  女ひと

 

不幸な出自、複雑な家庭環境、失意の青春放浪時代を乗り越えて、家庭を設けるまで、犀星が名を挙げて愛の詩を献じた二人の女性との出会いと別れがありました。

一人は、1913(大正3) 年「詩歌」に「愛人野菊に贈る詩」を発表した石尾春子です。

犀星が激しい愛の言葉をぶつけた石尾春子とは、犀星が金沢の登記所に勤めていた頃に知り合い、当時犀星20歳、春子は13歳でした。登記所の所長の家でかるたを取ったことのある仲で、6年振りに巡り会った犀星と春子は、以前から知り合いであったことから急速に親密となり、愛が芽生えました。しかし、この恋は、春子の母の反対にあって実らずに終わりました。定収入のない詩人の求婚に反対するのは、人の子の親として当時は当然の理由でした。

 

失恋のショックを受けた犀星は、常軌を逸した行動に出ます。激情にかられ、なんと春子を殺すことを親友の朔太郎に書き送ったのです。

 

まさかと思ったこといよいよ事実になるらしい。大変な事件です。室生が春子を殺すのです。拒絶したんで凶悪少年の部下をシソオして暗殺する計画なんです。勿論しばしば僕は忠告しましたが今頃「汝の忠告何するものぞ余は必らず遂行すべし云々」といふ急報が来たんですっかり気を失ってしまった。彼をして殺人罪より救ふために力を尽して御援助願ひます。大至急ねがひます。たのむ。(大正3・11・5)

 

これは朔太郎が白秋にあてた葉書です。朔太郎は興奮し、白秋に助けを求めたのでした。現実に犀星が春子を殺そうと考えたかどうかは疑わしいですが、友の心情を汲み取った朔太郎の狼狽振りが伺えます。

 

春子との失恋の影が消えていくに従い、お(えん)なる女性が犀星の心を捉え始めていました。「お艶。十九歳。お春同様しんせきです。お春よりたけ高くもの言ひ芸術的。このごろ詩もかきます。」と記しています。お艶は本名、村田ツヤ。犀星同様養女に出され、鬼婆のトメと呼ばれた女に育てられました。ツヤは犀星より7歳年下、犀星の育った雨宝院の境内で鬼ごっこをして遊んだ幼なじみでした。

 

私はこの娘のもとにしげしげ用もないのに遊びに行ってゐるまに、この娘が詩をかいて見せたのにも、ちょつと意外な気がした。詩はまづいがご苦労さまにも、私は彼女の詩の原稿を見てやり、勝手に改作をしてみると読めそうな詩になり、殆ど私自身の詩である程度までに改作してやると、いつぱしの女流詩人の風貌をあらはしはじめたので、私は益々いい気になり彼女の原稿を自作同様に添削しては、彼女をよろこばして自分も気色好くしてゐた。              「詩人・萩原朔太郎」

 

朔太郎は「君の詩に似てゐて君よりもうまいかもしれないこの女流詩人は驚嘆に値すべき作者である」と犀星に手紙を送りほめちぎっています。そして、朔太郎とツヤとの手紙のやりとりが始まり、朔太郎もツヤに好意を持つようになりました。ツヤと再会した日、犀星はツヤへの愛の詩「お艶の首」を「詩歌」に寄せています。

 

しかし、ツヤは犀星の愛を受け入れずに1914(大正4)5月、人の妻となりました。「せめて月三十円儲けてくればツヤをやっても良いのだが」という母親の反対にあったのですが、それは春子の場合と全く同じ、経済上の理由でした。

犀星が村田艶(戸籍名ツヤ)と知り合ったのは、放浪時代に終止符を打ち、新たな生活、文学へスタートを切った頃でした。

村田艶との失恋後、艶は「お艶」「おゑん」「和子」「お愛」「お縫」という名で、犀星作品の中に生き続けることになります。孤独と寂しさを抱いて、「その寺(養父が住職である雨宝院)と永久に別れるやうな心」(「父の死の前後」)で金沢を去ったのは大正4年十月下旬でした。この年から、後に『愛の詩集』に収められる口語詩が書かれ始めます。

 

1916(大正6)年、養父が亡くなり、僅かの遺産で詩集を出すことを考えます。帰郷中に市内の小学校に勤めていた浅川とみ子と婚約。浅川とみ子は、1895(明治28)年、金沢市に生まれました。犀星とは6歳年下です。とみ子は金城女学校在学中に教員免状を取得し、小学校の教師となりました。在学中の成績は抜群でした。この点は学校嫌いで13歳で小学校を中退した、成績の悪かった犀星とは正反対です。

とみ子は文学少女で、女学校時代から「北国新聞」「北陸新聞」などの新聞・雑誌に和歌などを盛んに投稿していました。俳句欄に投稿していた作品を犀星が見初めたのをきっかけに二人は文通を開始。互いを深く知るようになった1年後、犀川のほとりで結婚を決めたといいます。

 

大正7年、犀星は念願の第一詩集『愛の詩集』を感情詩社から自費出版、すでに『月に吠える』を出していた萩原朔太郎と共に大正詩壇における確固たる地位を築きました。また同年2月には浅川とみ子と結婚、これまでの文学、生活に一つの到達点を極めた年となりました。泥濘の街を徘徊し、酒を飲み暮らしていた犀星は、家庭を持って安堵を覚えました。貧しくても家庭がありました。

 

 

 

       愛人野菊に贈る詩

 

     (前略)

     はる子よ はる子よ

     君はその母のために疲れ

     勤めつつ若くして疲れ

     ひたひ蒼ざめし室生犀星の愛人よ

     われは君のために盗み

     君のために殺し

     君のためにピストルを懐中す

     君のかなたへ寄るもの

     犬のごとくに(むらが)るるもの

     やがて我がピストルをして舞はしめんのみ

     はる子よ

     又の名の野菊よ

     ああ世界の群衆より選択したる春子よ(後略)

 

 

      ( えん ) の首

 

     お艶は貴族の娘

     首はこれお染の首

     白い日 白い日

     白い日の首

     足は女人の密法の足

     白い足

     水に泳がせらるる足

     お艶はほつそりと立ちあがり

     お艶はひつそりと深い息をつく(後略)

 

   

   村田艶

 

 

 

     お染=歌舞伎浄瑠璃( じょうるり ) の登場人物。豪商油屋の娘お染は丁稚の久松と道

        ならぬ恋のはてに心中。宝永7年(1710)大坂でおきた心中事件を題材に

        歌舞伎では「お染久松色読販 ( うきなのよみうり )」などの外題で人気を博し

        た。

 

 

「愛人野菊に贈る詩」は全92行の長詩。それだけで犀星の春子に対する思いの激しさが伺われます。〈君のかなたへ寄るもの/犬のごとくに群るるもの/やがて我がピストルをして舞はしめんのみ〉とは、春子に近寄る不埒(ふらち)者は私の拳銃でなぎ倒してやる、といったほどの青年客気の熱情を表わしています。

 

「お艶の首」は官能的な色彩に富んだ詩です。〈白い日の首〉は( うなじ ) の美しさを、〈水に泳がせらるる足〉は足のスタイルの良さを詠ってエロチックでもあります。写真でも見ても立ち姿の映える色白の美形で、朔太郎までもが興味を持ったのもうなずけます。

                                                 (この稿続く)

 

 

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室生犀星 2

第2話 新たな決意

 

 

       切なき思ひぞ知る

                      室生 犀星

 

 

     我は張り詰めたる氷を愛す。

     斯る切なき思ひを愛す。

     我はその虹のごとく輝けるを見たり。

     斯る花にあらざる花を愛す。

     我は氷の奥にあるものに同感す、

     その剣のごときものの中にある熱情を感ず、

     我はつねに狭小なる人生に住めり、

     その人生の荒涼の中に呻吟せり、

     さればこそ張り詰めたる氷を愛す。

     斯る切なき思ひを愛す。

 

                     詩集『鶴』1928(昭和3)年

 

 

 

若き日の犀星は、生活苦のため東京と金沢との間をめまぐるしく行き来する放浪生活を送りましたが、その間も創作活動は絶えることなく続けられました。また、生涯の友、萩原朔太郎と師である北原白秋との交友を深め、次第に新進詩人としての名を高めていきました。

処女詩集『愛の詩集』が刊行されたのは、大正71月、作者30歳の時です。作風は人道的感情に溢れ、貧しく、虐げられた人々に寄せる人間愛を特徴としています。それから8カ月後、第二詩集『抒情小曲集』が世に出て、その自然への愛と繊細な抒情的感覚により犀星は詩人としての地位が確立しました。

犀星はその後、佐藤春夫、芥川龍之介らと親交を深め、「幼年時代」「性に目ざめる頃」などを発表して小説家としても知られるようになりました。今回紹介する詩「せつなき思ひぞ知る」は、犀星代表作のひとつです。家庭を設けて生活も安定し、詩・小説の両ジャンルで多彩な創作活動をしていた頃の作品です。(写真は犀星30歳頃の近影)

 

この詩は第13番目の詩集『鶴』の巻頭に置かれました。詩集『鶴』は、人生への積極的な意欲を詠った作品が多く、「せつなき思ひぞ知る」は詩集を象徴する一篇で、作者39歳の時に作られました。

この詩は、若い時分から馴れ親しんで来ましたが、私にとって長い間、謎でした。謎というのは、集中の〈せつなき思ひ〉がどんな切実さを持った感情なのか、よくわからなかったからです。

では、詩を読み解く前に各行ごとに語釈を列記してみましょう。

 

語註

せつなき思ひぞ知る:切なさは、普通、悲しさ・寂しさなどで胸がしめつけられるような心持ち。だが、この詩では、切実な感動、痛切な思いを表わす。

○われは張りつめたる氷を愛す:氷のように張りつめた、鋭い美しさに共感する気持。

こうした気持は、当然作者自身の中に、同様に緊張した精神状態があることを示す。

○かかるせつなき思ひ:氷の冷たい結晶美によって呼び覚まされた切実な感銘をいう。

〈かかる〉=このような

○その虹のごとく輝けるを見たり:その=張りつめたる氷。それが虹のように輝いているのを見た。

○かかる花にあらざる花を愛す:このような花でない花を愛する。かかる=虹のごとく美しく輝くような。花にあらざる花=張りつめた氷が放射する透明な光をいったもの。

実際は花ではないのだが、花のように美しいので、こう表わした。

○氷の奥にあるもの:氷の奥に感じられるきびしく緊張した精神的、意思的な情熱を指す。

○その剣のごときものの中にある熱情:その=張りつめたる氷。剣のごときもの=氷の固く鋭い輝きを比喩的にいった。作者は張りつめた氷の鋭く美しい輝きの中に、激しく冷たい熱情を感じたのである。

○われはつねに矮小なる人生に住めり:自分はいつも狭苦しく卑小な人生の中に生きている。矮小なる人生=人生がそのものが矮小というより、自分が狭苦しい日常の枠の中にいて、卑俗な毎日を送っていることへの反省から出た言葉。

○その人生の荒涼の中に呻吟せり:その=矮小なる人生。日々の生活が味気なく、低俗空虚なことをいう。荒涼寂寞とした空虚な毎日の生活に、自分は苦しみ悩んでいる。

○さればこそ:そうであるから。〈われはつねに矮小なる人生に住めり/その人生の荒涼の中に呻吟せり〉の2行の内容を受けている。

                      参考文献:小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

詩人伊藤信吉は、以下のような詳しい鑑賞文を寄せています。

 

それは密度の極点である。その奥から放射するもの! 花、虹、剣の光彩! そこに張りつめた氷がある。作者の精神の世界にびっしりと張りつめた氷がある。その緊迫感がびしびし刺しこんでくる。人生的な決意と美の意識とがせまってくる。

この詩をつくったとき、作者は自分の生活について、なんらかの新しい決意をうながされていた。氷を踏みやぶってどこかへ切りこむような、そういう激しい決意をせまられていた。

だが、体内から突きあげてくるその情熱は、外部のなにものかをはっきりと対象にしているわけではない。対象はむしろ自分である。「われはつねに狭小なる人生に住めり」という、そういう自分自身に向かっての対決である。日常のささいなことにひっかかったり、古くさい慣習にしばられたり、抵抗のない平板な環境にくずれこんだり、安易な妥協で日を過ごすような、自分の中にあるいっさいの卑俗なものをたたき割ること――そういう自分自身への対決である。私どもの生活の途上にはさまざまな起状や苦渋や動揺があるが、それとは逆に安易な気持ちに落ち込むことがある。危機はそこにある。作者はそれをねらった。自分の中にあるいっさいの卑俗なものをあばき、自分の手で荒々しい抵抗感を( )きたてる。そういう燃えるような情熱を、張りつめた氷によって触発された。

 

私にとって「せつなき思ひぞ知る」は、若き日の長く辛かった受験勉強の日々を思い起こさせます。それはどんな〈せつなき思ひ〉であったか。私の浪人生活は少し特殊でした。

コンピューター技師を目指していた地元国立大時代、文学青年の友人に感化されて二年次で休学。通算2年間、受験のため予備校に入り直し、25歳で東京の私立大学文学部に入学するまで、父母との長い葛藤がありました。文系から理系へ進路変更する学生は珍しくありませんが、私のように常識を覆すような行動は両親には理解不能だったでしょう。私の決心は地元の国立大学への入学を私より喜んだ父の期待を完全に裏切る行為でした。

 

志望校に不合格となった時は、即、大学へ復学すると私が念書を書くことで、両親は精一杯の妥協をしてくれました。休学後、昼は予備校に通い、夜はなおも反対する両親と口論を重ねることが私の日課となりました。志望校に合格した1974年(昭和49)春、父は「あの子は本当に勉強が好きなのだろう」と、無理に自分を得心させた、諦めの言葉を母に呟いて私のわがままを許してくれたと言います。

 

二年の間、堪えに堪え、こらえにこらえた思いは、まさにこの詩のように胸中で凍結していました。しかし、その氷の中には、志望校合格の暁には、文学の道に邁進しようとする情熱が、開花を待ち望んで熱く(たぎ)っていました。〈その剣のごときものの中にある熱情を感ず〉とは、私にとってその時分の感情に酷似しているように思われます。

外に出ようとして出られなかった思い、封印されて凍結した意欲。それが今しも開花しようとして胸の内でもがいているのです。その心理を、犀星は張りつめた氷の緊迫感というイメージを使って表現しました。

 

一気に燃え上がるような情熱ではなく、静かに堪えて揺るぎない強さにまで洗練された情熱。氷りつくような厳しい環境の元で、時節を待ちながら、おのれの意志と意欲を磨きながら、じっと開花の時を待っている人。そんな〈せつなき思ひ〉を抱いている人にこそ、犀星のこの詩はふさわしいと思います。

 

詩作品というものは、自分の体験を通さなければ、あるいは追体験しなければ決して自分のものにはならない。――これは私がいつも掲げている持論ですが、自分の経験に照らし合わせて詩を読み解くということは、自分の過去の出来事の意味をもう一度問い直すことです。それは過去を懐かしむためではなく、過去の過ちや悔いを分析し、その時の感情を詩の力を借りて再体験することで、未来へ活かすためです。

ただ、感動するだけで、その場限りで忘れてしまったら、詩を学ぶ意味は薄れてしまうのではないでしょうか。目の前にある詩のテーマが、もし不条理な出来事であれば、私は過去と向き合い、自分が身の( まわ ) りで体験した不条理な体験を思い起こさなければなりません。自分が安全地帯にいて――無傷で、頭でどんなに分析した所で、真の鑑賞に耐えるものではありません。

 

過去を掘り起こすのが辛い作業であっても、私は作者と同じ情感を共有しなければ、作品を自分のものにすることはできないのです。言葉に責任が持てないのです。

詩の読み解きとは、自分の全存在を賭けてぶつかるものだと思います。思い出したくない過去もトラウマもすべてを総動員して。

こんな私の信念を突き詰めれば、鑑賞文にプライベートな話題が増えるのは当然の結果と言えるかも知れません。でも、それが自分の大切な仕事なんだと、この頃はそう思えるようになりました。

                                                    (この稿続く)

 

 

 

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室生犀星 1

第1話 青春放浪

 

 

  小景異情

       

その一

白魚はさびしや

そのくろき()はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる()をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと      

ききともなやな雀しば啼けり

 

                                      金沢市犀川の畔り。犀星という筆名は、犀川の西に生まれ

                                                                 育ったことからという

その二                

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土(いど)乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

              『抒情小曲集』1918(大正7)年

 

 

室生犀星は旧加賀藩士の婚外子として生まれ、7歳の時、犀川(さいかわ)(ほと)りにある室生寺の養嗣子(ようしし)となりました。出生の不幸が自分を文学へ向かわせたと自伝で語っています。(写真右 養家の肖像。左からチヱ、さん、養母ハツ、後列・真道 円内・犀星 明治36年頃  出典:「室生犀星文学アルバム 切なき思ひを愛す」)

処女詩集『愛の詩集』が出たのが大正7年1月、作者30歳の時です。人道的感情にあふれ、(しいた)げられた貧しい人々に寄せる人間愛に満ちた独自の作風です。

第二詩集『抒情小曲集』は、自然への愛と繊細でみずみずしい抒情的感覚を特徴とし、『愛の詩集』と共に、詩人としての地位を確立させました。

犀星文学は多彩で詩にとどまらず、小説・随筆など多くの作品を世に問い、「幼年時代」(大8)、「性に目ざめる頃」(大8)、「ある少女の死まで」(大8)を発表して小説家としても知られるようになりました。詩人としては萩原朔太郎と並ぶ大正期の代表的詩人として著名です。

 

【鑑賞】「小景異情」

詩集『抒情小曲集』冒頭の作品で、「小景異情(しょうけいいじょう)」と題された組詩6篇の内の2篇です。

作者20歳頃の作、犀星の詩の中で最も知られています。大正2年に北原白秋主宰の文芸誌『朱欒(ザンボア)』に発表。タイトルの「小景異情」とは、犀星の造語で小さな風景についての風変わりな詩情というニュアンスです。

 

語註「その一」

〈くろき瞳〉:小さく白い白魚の、さらに小さい黒点のつぶらさ、を鮮明に描く。

〈しほらしさ〉:控え目で愛すべきこと。

〈ひる餉〉:郷里の金沢の食堂の片隅で、一人淋しく食事をしている。養母に疎外感を感じ、家があるのに外食をする悲しい境遇だった。

〈わがよそよそしさと/かなしさと〉:自分の心にしっくり来ない、どこにも身の置き所がない悲哀感や孤独感が根底にある。

〈雀しば啼けり〉:雀の声がむやみに鳴き、聞きたくもないなあ。雀に嘲笑されているかのようで、焦立ちを感じさせる。

          参考文献:西原大輔『日本名詩選機戞⊂海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

「小景異情 その一」を読むと、我が身の青春彷徨のひとコマを思い出します。

40年前、文学の志に燃え親の反対を押し切って上京したものの、最初の一年間は自分の進路が見つけられず悶々とした日々を送っていました。学内サークルや様々な文芸の集まりに手当たり次第に顔を出すのですが、どれも長続きしません。知人も友人もほとんどいない東京砂漠の中で、行き場もなく、神田や早稲田の古本屋街をあてもなくさまよっていました。念願の上京で気持が(たかぶ)っていたからこそ、自分の目的が叶わないと余計に落胆の思いが強かったのです。

 

上京二年目の秋、いつものように終日都内を歩き続けて疲れ果て、夕刻、下宿近くの場末の食堂に腰を下ろしました。腹を満たすだけの安手なメニューを選んだのですが、ハムエッグの出来損ないのようなお粗末な料理で、「これじゃ、豚のエサじゃないか」と内心つぶやきました。すると、自分のみじめさが一層こみあげてきました。表に出ると、氷雨が降り始め、半身を濡らしながら力なく帰途につきました。

あの夕べが心の限界だったと思います。あれから、なおも自分の道が見つけられなかったら、私は大学をやめて郷里に帰ろうかなどと愚かなことを考えていたのですから。

それからわずか数ヶ月後、古本屋で偶然手にした一冊の詩作入門書が機縁で、私は生涯の師・高田敏子を知り、恩師が亡くなるまで15年間私淑することなったのです。

 

犀星が「小景異情 その一」でうたった食堂での侘しさは、自分のみすぼらしかった日々を重ねると、我が事のように、そのさびしさと哀しさがわかるのです。犀星が白魚の目に見たのは、自分の分身だったでしょう。いじらしいほどの、つぶらな黒目は、犀星の孤独と悲哀を象徴しています。失意の日に、侘しい思いで食事をした人なら誰でも共感できる情感に違いありません。

 

明治435月、21歳の犀星は長年憧れ続けた上京を果たします。しかし、上京して2年目の夏、生活の窮乏と炎暑に耐えかねて郷里金沢に帰りました。その後、幾度も東京と金沢との間をめまぐるしく行き来する放浪生活をします。東京で食い詰めては金沢に逃げ帰り、故郷にいられなくなれば上京するという生活が繰り返されました。

「母親と争ひ、郷党に指弾され、単身上京して来た若い作者は、空しく衣食の道を求めて、乞食の如く日々に街上を放浪して居た」(萩原朔太郎)窮乏に苦しみ、まさに行くも地獄、帰るも地獄という境遇でした。

 

「石の上に移ってはまた石の上にもどる秋の日の蜻蛉(とんぼ)のように、私は東京と金沢とのあいだを往復するごとに、綺緻(きりょう)が悪くなり、顔色は妙な日に焼けたような地肌になって(しま)った。金沢にいると天気が悪いから色は白くなるが、東京は毎日天気がいいから日にやけたような色になる、――それに何時も街に出てはぶらつくからである。きょうも昨日もぶらつき、明日も明後日も果てしなくぶらつく、このぶらつく間に何が頭にはいっているのか、どういう目標がぶらつく間にあるのか、それはまるで分からない。ただ、ぶらつくだけであった。用もないのに通りまで出て、電車を見て往来の人を見て、さて胡散( うさん ) くさそうに立ち停まって何を見るともなく街の遠くを見遣って、そしてまた下宿にある机の前にもどるのである。そういう物悲しい三十分くらいの時間はなかなか過ぎ去ろうとしないで、時間の方でもしんねりとぶらつくのである。」(「泥雀の歌」)

 

ここに描かれた放浪の姿は、若き日の私の姿をそのまま見るようです。下宿にいてもいたたまれず、何かを見つけようと焦って街中を歩き続けました。苦しかったけれど、じっとしているのはもっと辛かった。さ迷い続けるのが青春の本質なのでしょう。

 

左上の写真は、 大正14(1925)年、田端の自宅での朔太郎(36)と犀星36歳。(出典:「室生犀星文学アルバム 切なき思ひを愛す」)

大正3年2月、25歳の室生犀星は早春寒い前橋駅頭で初めて朔太郎に会います。

「萩原はトルコ帽をかぶり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口にくわえていた。・・なんて気障な虫ずの走る男だろうと私は身震いを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石けんをつつんだ風呂敷包みを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい痩せ犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。」、「萩原は詩から想像する私をあおじろい美少年のように、その初対面の日まで恋の如く思いを抱いていた」。初対面の幻滅。朔太郎は犀星の詩から、青白い美少年のような空想を懐いていたといいます。

 

語註「その二」

〈よしや/うらぶれて〉:たとえ。/本来は心が弱っているという意味。ここでは落ちぶれての意で使われている。〈異土〉:異郷。ここでは「都」東京を指す。

        参考文献:西原大輔『日本名詩選機戞⊂海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

「小景異情 その二」について、終生の友、萩原朔太郎は以下のように述べています。

 

単身東京に漂泊して来た若い作者は(中略)見知らぬ人々の群衆する浪にもまれて、ひとり都の夕暮れにさまよふ時、天涯孤独の悲愁の思ひは、遠き故郷への切ない思慕を禁じ得ないことであらう。しかもその故郷には、我をにくみ、(あなど)り、鞭打ち、人々が嘲笑(あざけ)って居る。よしや零落して、乞食の如く餓死するとも、決して帰る所ではない。故郷はただ夢の中にのみ存在する。ひとり都の夕暮れに、天涯孤独の身を嘆いて、悲しい故郷の空を眺めて居る。ただその心もて、遠き都に帰らばや、遠き都に帰らばや。(注。此所で故郷のことを「都」といってゐるのは、作者の郷里が農村ではなく、金沢市であるからである。)(「室生犀星の詩」)

 

犀星は東京在住時代に望郷の念にかられてこの詩を書き、作中の〈遠きみやこにかへらばや〉の〈遠きみやこ〉とは金沢であるという朔太郎の説は、実は誤読でした。

 

これは東京の作ではなく、故郷金沢での作品と見る方が妥当だろう。東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば「帰るところにあるまじ」き感情に苦しむ。東京にいるとき「ふるさとおもひ涙ぐむ」その心をせめて(いだ)いて、再たび遠き東京にかえろう。と見る方が、詞句の上で無理が少ない。更に「小景異情」がすべて金沢をうたっていることも注意せねばならぬ。

                            関良一『日本近代詩鑑賞・大正篇』

 

私の解釈は、実際に作られた場所が東京であれ金沢であれ、作品上では作者が故郷の金沢にいて東京を想い、住むべき所ではないという自責の念にかられている、というのが故郷に幾度も逃げ帰った失意の犀星にふさわしいと思います。

 

このような放浪時代の中でも犀星は絶えることなく詩作を続け、文芸誌「スバル」「朱欒」に次々と作品を発表しました。大正元年12月、金沢で創刊された「樹蔭」に発表された「滞郷異信」という詩は、当時の新進歌人斎藤茂吉をして「昨夜涙を落とさしめ、同時にをののかしめたのは此の長詩である。ざんげの心と感謝の心とを棒持してしばしば無言でゐなければならなかった」と激賞させました。また、同年、「朱欒」に発表した14篇の詩に感激した萩原朔太郎から手紙を受け取り、以後、恋人とまで称する交友が生まれました。朔太郎はその時の様子を犀星の詩集『青き魚を釣る人』に寄せた序文の中で以下のように綴っています。

 

はじめて犀星の詩が見出(みい)だされたとき、その悦びのきはまり、熱にうるむうたごゑ、涙はしづくのやうに青い洋紙をうるほした。かくもわが身にしたしく触れ、身ぶるひをさせ、耐えやうもなく心に喰ひ入る。かくもふしぎなる情緒の苗はどこにあるのか。このふかい感情は、世の常の言葉につくすべくもなかった。その愛慕と渇仰(かつごう)のありたけを手紙につづって、当時尚詩壇に知る人もない田舎の無名詩人犀星に送ったのである。かくして二人の交情は始まり、その後互に上京して感情詩社を結ぶまでの径路となった。

 

(註)詩誌「感情」:大正5年、萩原朔太郎と創刊。題名は朔太郎が命名。大正8年までに通刊32冊を出し、新鮮な編集感覚によって詩壇に刺激を与えた。同詩誌に掲載された「抒情小曲集」に感動した作家谷崎潤一郎が金沢まで訪れたことがあった。

                                    (この稿続く)

 

 

 

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