梶井基次郎『檸檬』 4
 第4話 檸檬爆弾 

    檸檬(抄)

  

 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬(れもん)が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから(しぼ)り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの(たけ)の詰まった紡錘形(ぼうすいけい)の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を(おさ)えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては()いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言(ばいかんしゃのげん)」の中に書いてあった「鼻を()つ」という言葉が()れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
 実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
 私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束(しょうぞく)をして街を闊歩(かっぽ)した詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量ったり、またこんなことを思ったり、
 ――つまりはこの重さなんだな。――
 その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心(かいぎゃくしん)からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
 どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は(ひと)つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管(きせる)にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て()めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。 しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は(たま)らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色(だいだいろ)の重い本までなおいっそうの()えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を(さら)し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は(たもと)の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また(あわただ)しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに()わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑(ほほえ)ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉(こっぱ)みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を(いろど)っている京極を下って行った。

                    『青空』1925(大正14)年1月


 

小説の主人公「私」は知識に(かたよ)った生活に疲れ、文化の薫り高い京都から何とか逃げ出したいと思っています。文化・芸術の象徴のような大書店の丸善も、「重苦しい場所」になっています。

それは既存の知識、権威、価値への疑いであり、拒絶です。そして「亡霊のような」文化を打ち砕く爆弾として、生命力溢れる(つや)やかな「檸檬」が登場します。その檸檬を丸善の本の上に置いて「大爆発」を想像することは、梶井の心の中で起こった詩的ドラマであり、同時に既存の文化と価値観に対する反抗のメッセージです。(写真は、日本近代文学館 精選 名著復刻全集武蔵野書院版『檸檬』

 


最終行の〈そして私は、活動写真が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った〉と、京都の中心街を後にします。作者にとって京都も丸善と同様、既存の文化のシンボルです。ですから、活動写真という当時の娯楽文化を、批評的な目で〈奇体な趣き〉で〈街を彩っている〉と描写しています。梶井は、丸善のみならず京都の街自体も「檸檬」で爆破したかったのでしょう。

 

いつの時代も若者は自分を取り巻く現実の制度、価値観、文化に対して違和感を覚え、反抗しようと試(こころ)みます。政治的な反抗例であれば、1970年代に全国に吹き荒れた学生運動が思い起こされます。しかし、梶井は芸樹的な反抗を目指しました。その孤独な闘いの中で発見したのが、「檸檬」でした。

 

自然の美と生命の象徴である「檸檬」は、書物や文化とは対極にあるもので、「私」はその清冽(せいれつ)な生命に至福を覚えます。〈つまりはこの重さなんだな〉という独白は、作者が求める文学はこの檸檬のように生命力に溢れ、頭の中でこしらえた抽象的なものでなく、手に握れるような実感あるものということになるでしょう。私達も詩を書く時、既成の観念を破り、檸檬のような確かな実感を重んじる作品を生み出したいものです。

 

作品「檸檬」は小林秀雄に高く評価され、文壇に旋風を巻き起こしました。

この作品が世に出た後、丸善には檸檬を置き去る人があとを絶たなかったそうです。それほどまでに、本の山の頂上に乗せられた“檸檬爆弾”は、その威力が世に広く浸透していったのでした。 

(ブログ『京都第二主義』、根本浩『もう一度読みたい教科書の名作』を基に構成)


 

【メモ】梶井 基次郎 1901年(明治34年)217 - 1932年(昭和7年)324

小説家。

明治34217日、大阪市に生まれる。第三高等学校理科を経て1924年(大正13)東京帝国大学英文学科に入学。三高時代すでに肺結核にかかっていた。1925年、中谷孝雄、外村繁らと同人雑誌『青空』を創刊、『檸檬』『城のある町にて』などを発表し、病んだ心身についての自覚と健康回復への願いとを、鋭敏な感覚的表現に託した26年末から伊豆の湯ヶ島に転地療養。

蒼穹(そうきゅう)』『冬の(はえ)』(1928年)などを発表、自ら「リヤリスチック・シンボリズム」とよぶ手法によって、死を予感する自己を冷静に凝視した。この間、病状が進み、1928年(昭和3)秋、大阪の両親のもとに帰る。大学のほうは同年3月に除籍された。帰阪後は療養に努めながら、『桜の()の下には』(1928)、『愛撫』(1930)、『交尾』(1931)などの詩的散文を発表した。1931年、創作集『檸檬』を武蔵野書院より刊行、翌19321月、文壇の登竜門といわれた『中央公論』に『のんきな患者』を書き、病者である自己と他者との関係を主題とした新しい作風を示したが、324日永眠した。今日では20年代後半の正統的芸術派の作家として高く評価されている。                      [吉田(ひろお) 記]

(写真は、死の前年、30歳。『新潮日本文学写真アルバム 梶井基次郎』より転載)

(参考文献)

『梶井基次郎全集』全3巻(1959・筑摩書房)、鈴木沙那美『転位する魂 梶井基次郎』(社会思想社・現代教養文庫)、大谷晃一『評伝梶井基次郎』(1978・河出書房新社)

                              (この稿 完)


| 梶井基次郎 | 18:21 | comments(2) | trackbacks(0)
梶井基次郎『檸檬(レモン)』 2
 第2話 川端康成との出会い

『青空』を創刊した翌年、病状悪化により卒業を断念し中退。伊豆湯ヶ島温泉で療養生活に入り、当地で川端康成、萩原朔太郎、宇野千代らと親交を結びます。26歳、川端の『伊豆の踊子』の校正を手伝います。

『梶井君は私の作品集「伊豆の踊子」の校正をすっかり見てくれた。誤植や私の字癖の細かい注意を彼から受けながら、私は少からず狼狽したのを覚えている。 送り仮名の不統一をとがめるような事ならば、熟練した校正係りが鋭いであろう。そして私は、読めさえすればどうでもいいと、面倒臭がるであろう。梶井君の 細かい注意にも、私はどうでもいいと答えた。しかし、私がそう答えたのは、校正ということを離れて、自分の作品が裸にされた恥しさの為であった。彼は私の作品の字の間違いを校正したのでなく、作者の心の隙を校正したのであった。そういう感じが自然と私に来た。彼は静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭し てくれたようであった。温い親切である。しかも作品の誤魔化しはすっかり掴んでしまった。彼はそういう男である。』(川端康成)

その後、順調に同人は増えていきます。三高時代の後輩だった淀野隆三(文芸評論家・フランス文学者)が参加し、1926年には三好達治、飯島正(映画評論家・詩人)、北川冬彦(詩人)、阿部知二(作家・英文学者)などが加わりました。しかし、1927(昭和2)年になると金融恐慌がおこり、裕福な商家であった外村や淀野の家にも少なからずの影響を与え、経済的に頼みとすることも出来なくなって、6月の28号を持って、梶井基次郎の数々の名作を生み出した『青空』は二年半で廃刊となりました。のちに文壇に登場する彼ら同人たちも、この時はまだ無名の文学青年のままでした。

 

生前は全くの無名だった梶井基次郎が“近代文学の古典”と称されるほど有名作家となった背景には、多くの友人たちの尽力がありました。

梶井が長年患っていた肺結核の上、流感に罹かり、悲観的な状況に陥ったのが1931(昭和6)年1月。大阪の実家で高熱に襲われ、病床に伏していた梶井を三好達治が見舞います。三好もまた、梶井と同じく三高、東大と進み、梶井らが主宰する同人誌『青空』に参加をした盟友のひとりでした。
「なんとかして、生きているうちに本を出してやりたい」と三好は淀野隆三に相談し、武蔵野書院に交渉、出版にこぎつけます。そして5月に出版されたのが作品集『檸檬』でした。


本の売れ行きは(かんば)しくありませんでしたが、同じく『青空』の同人であった詩人の北川冬彦が中央公論社の編集者に梶井の本を紹介し、10月には『中央公論』より執筆依頼が届きます。そして完成したのが昭和71月号の『中央公論』に掲載された「のんきな患者」でした。これが梶井にとって唯一のメジャー誌での掲載作品で、原稿料を伴う真の作家としての作品でもありました。「のんきな患者」は、正宗白鳥や直木三十五によって新聞の文芸時評でも取り上げられ、さらに小林秀雄にも論じられ、ようやく小説家として立とうという時、容体が急変、亡くなります。1932(昭和7)年324日、31歳でした。

 

梶井基次郎が、はじめて原稿料を貰ったのは、死ぬ三ヶ月前でした。当時、ほぼ無名に近い梶井が死後に評価が高まり、二年後に、二巻からなる「梶井基次郎全集」が出ます。「檸檬」は没後80年たった今も、若い女性を中心に読み継がれているといいます。文学の奇蹟を()の当たりする思いです。

 

(メモ)中谷孝雄 1901(明治34)年、三重県生。1919(大正8)年、第三高等学校に進し、寄宿舎の同室が梶井基次郎。東京帝国大学文学部独文科に進み、梶井、外村らと同人誌『青空』を創刊。1935(昭和10)年、保田與重郎(やすだよじゅうろう)、亀井勝一郎、木山捷平らと『日本浪曼派』を創刊。『日本浪漫派』には後に太宰治や檀一雄らも参加。
1937
(昭和12)年7月刊行の初の小説単行本『春の絵巻』(赤塚書房)の中の表題作「春の絵巻」が第6回芥川賞候補に挙がり、川端康成、久米正雄に高く評価される。1968(昭和43)年、「招魂の賦」(『群像』)で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1995(平成7)年、93歳で死去。

                                  (この稿続く)

| 梶井基次郎 | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0)
梶井基次郎『檸檬(レモン)』 1
第1話 放蕩無頼の寮生活

梶井基次郎の作品はどれも詩的な短編で、31歳の若さで亡くなるまでに20編足らずしか発表していません。大阪生まれの梶井が京都で過ごした期間は、第三高等学校(現・京都大学)に入学した1919(大正8)9月から卒業する1924(大正13)3月までの4年半です。四条大橋の上で友人に「肺病になりたい、肺病にならんとええ文学はでけへんぞ」と叫んだほど、文学に憧れ、人生を掛けます。ところが、皮肉なことに四条大橋での願望は現実のものとなり、短い生涯のほとんどを肺病という病魔に(おびや)かされました。

 

文学で生きる決意とは裏腹に京都での彼の生活は、遊興を重ね、落第におびえ、三高の帽子をこれ見よがしにかぶって見栄を張り、酒に酔っては床の間の掛け物に唾を吐いたり、甘栗屋の釜に牛肉を投げ込んだり、中華そば屋の屋台をひっくり返したりの乱行など、退廃的な私生活にもがいていました。

 

大谷晃一氏(帝塚山学院大学名誉教授)(『国文学 解釈と観賞』平成116月号)によると、三高(旧制第三高等学校。現・京都大学総合人間学部)に入学した梶井は、ほどなく酒に親しみ、肺病からくる倦怠もあって、勉学も怠けがちになります。お初という名のウエイトレスに熱を上げ、新京極(京都市の南北に延びる一大娯楽街)の江戸カフェーに頻繁に通ったり、寺町の東洋亭の芳枝という女性にも恋心を抱きます。しかし容姿のコンプレックスもあってか、うまくはいきませんでした。

 

梶井の文学仲間、外村繁(とのむらしげる)1902(明治35)年に滋賀県五個荘で、近江商人の裕福な家庭に生まれます。生涯を通じて非常に生真面目な性格でした。外村が京都に住んだのは1921(大正10)年に第三高等学校に入学し、卒業するまでの三年間でした。

外村は、梶井の終生の友人中谷孝雄と梶井基次郎との出会いについてこのように描いています。

写真は、左より三高時代の梶井基次郎、中谷孝雄、外村繁。「いすに座った私を中央に、向かって左に梶井、右に外村が立っていた。三尊仏ならば、さしずめ私が本尊、梶井と外村が脇侍というところであった。なぜそのようになったかというと、当時、三人で写真を撮ると真ん中の者が死ぬという迷信があり、思いなしか梶井も外村も躊躇の様子に見えたので、進んで私がそのいすに座ったのだった。」(中谷孝雄「抱影」)
外村が息絶えようとしていた頃、見舞いから帰った中谷が自著『梶井基次郎』の口絵に掲載された三高の卒業記念に撮った写真を眺め、当時を思い出している一節。

 

ある日、二人の生徒が「三高劇研究會」のビラを貼つてゐる。その一人は色の淺黒い、いかつい顔をしてゐて、見るからに不興気(ふきょうげ)な表情である。こんな下らない仕事から一刻も早く離れたい、といふような態度である。(じつ)(いや)さうである。私は劇研究會にも、ビラを貼つてゐた学生にも妙に興味を覚え、當日、會の催される、圓山(まるやま)公園の「あけぼの」へ行つてみる。その席に今一人、より魁偉(かいい)な、極めて彫りの深い容貌の生徒がゐる。脚本が朗讀されてゐる間、彼は厳然と腕を組み、その態度を崩さない。やはり興味を覚える。前者が中谷孝雄であり、後者が梶井基次郎である。

 

そして自身も、劇研究会に参加し、二人との親交を通じて文学に目覚めるのです。彼らが東京帝国大学に進学し、立ち上げた同人誌が『青空』でした。

当初は京都時代の馴染みのカフェ「RAVEN(レーヴン)」(ワタリガラス。死や悪病を予知する不吉な鳥とされる)の名にちなみ『(からす)』と名付けようとしていました。

 

祇園石段下の「レーヴン」というカフエに、梶井や、中谷や、私たちが毎晩のように集つたのは、もう三高の生活も終りに近い頃である。中谷のその一學年の出席数は悪くなく、卒業は確實である。梶井の卒業はかなり(あや)ぶまれたが、理科である梶井が大學は英文科に(てん)じる決心もつき、教授達の間を運動中である。卒業後、私達は東京の大學へ行き、時期を見て、同人雑誌を出す計画である。その頃の私達の雰囲気はかなり明るかつたと言はなければならない。梶井も、中谷も、私も卒業した。その夜、私達は例によつて「レーヴン」に集り、京都に残る人達と酒を汲み交はす。私は前後不覚に酔つてしまつたらしい。

                   外村繁『澪標(みおつくし)

 

■文学に目覚める

梶井基次郎はエンジニアを目指して、大阪の旧制北野中学校から1919(大正8)年9月(当時の学制では9月入学)京都の第三高等学校理科甲類に入学しました。10月、欠員が出たため寄宿舎(現在の吉田寮)に入寮し、そこで同室であったのが中谷との出会いでした。中谷は文科乙類の生徒で、梶井が文学へ傾倒することになった契機は、すべて中谷との出会いにあったようです。深い親交は梶井が亡くなる1932(昭和7)年まで続きます。

上・中・下の写真は、京都大学吉田寮。かつての第三高等学校の寄宿舎。現在も現役の建物として200名近い学生が生活。建造は1913(大正2)年。日本最古の学生寮。寄宿料は月額400円


外村繁(本名、外村茂)、中谷孝雄、梶井基次郎の三人は揃って東京帝国大学へと進みます。梶井は文学部英文科でした。この当時、旧制高校から東大文科類は無試験だったようです。試験があったのは、法学部、医学部などでした。他の例では、三島由紀夫が学習院を主席で卒業した功績で法学部に無試験で推薦入学を果たしています。三人は三高時代、文芸愛好家の集まりであった劇研究会に所属し、『真素木(ましろき)』という機関誌に小説を書いたりもしていま
した。この時に梶井が筆名として用いていたのが、ポール・セザンヌをもじった、「瀬山極」です。「瀬山極」は、ポール(極)・セザンヌ(瀬山)のパロディ。

欠席日数が多く三高を二度も留年し、成績も良くなかった梶井は、卒業を絶望視されていましたが、梶井が最後にとった手段は、試験が済むと人力車に乗って片っ端から教授を歴訪し、卒業を頼み込むことでした。

 

胸の病気のために歩くのが苦しいことを示すためにわざわざ人力車に乗つていくのであるが、帰りは真直ぐ例のカフェへ来て、それこそからだが悪くなるほど酒を飲むのであつた。そして翌日はまた人力車に乗つて教授を訪ねるのである。かういふ日が三・四日も続いたであらうか、その甲斐があつて梶井はやつと学校を卒業した。教授たちは梶井の仮病にまんまと(だま)された訳であるが、もう一つ、梶井が大学は理科系ではなく文科へ進むといふので、それならばと大目に見てくれたのでもあらう。
          中谷孝雄『梶井基次郎』(1961(昭和36)年 筑摩書房刊

 

「こういう時の彼は普段の外見の温厚さにも似ず、目的のためには手段を選ばないような厚かましさがあった。」(『青空』)と中谷は振り返っています。

 

同人誌『青空』発足時の同人は、中谷孝雄、梶井基次郎、外村繁ほか六名。
当初、1924(大正13)年10月刊行予定の『青空』創刊号が刷り上がったのは師走の12月。結局、発刊は翌1925(大正14)年1月となります。創刊号には梶井の代表作「檸檬」が巻頭に掲載されましたが、雑誌自体がまったく反響を呼ばなかった上に、「檸檬」はといえば同人の間ですら評価はなされていなかったと、中谷は回想しています

                                (この稿続く)




 
| 梶井基次郎 | 12:57 | comments(2) | trackbacks(0)
SEARCH THIS SITE.
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
CATEGORY
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE