伊藤桂一 6
 第6話 自分をいとおしむ涙

1972年(昭和47)の日中国交回復を機に、日本中で中国への旅行熱が一気に燃え上がりました。高田敏子主宰の詩誌「野火の会」も高田先生を団長に、「日中友好野火の会」を結成。1978年から1986年まで計5回にわたり訪中を重ねました。これに伴い、日中の詩人の友好を期した詩誌『桃花鳥』が創刊されました。


中国へ亡命する気かしら、と言われるほど熱意の高まりを見せた、1980年(昭和55)早春、揚子江以南に広がる江南地方を巡る旅で、私も高田、伊藤両先生に同行する機会に恵まれました。流域には水墨画の原風景として著名な桂林(けいりん)があります。桂林は石灰岩の大地を2億年の風雪が刻み、奇岩・
峰を生んだ中国有数の景勝地です。峰群は、桂林を中心に、日本の四国に相当する広範囲で拡がっています。(写真は、1980年3月 中国・湖南省 桂林 疊彩山〈じょうさいざん〉 恩師高田敏子先生と筆者。伊藤先生撮影)


 

     竹の林をくぐりぬけると

          追懐・成都望江楼公園

 


     竹の林をくぐりぬけるとどこへゆく
     薛濤
(せつとう)
さんが紙を漉いているあばら屋へ

 

     あばら屋は竹の林に包まれていて

     いちにち雀が鳴いている

 

     詩人は貧しくて したたる涙をまぜて紙を漉き

     その紙にひっそりと詩を書いた 紙燭(ししょく)の蔭で

 

     竹の林をくぐりぬけるとどこへゆく

     トシコさんが紙を漉いているあばら屋へ

 

     トシコさんもまたひそかに涙をまぜて紙を漉く

     人にはいえぬ 自分で自分をいとおしむ涙を

 

     竹の林の奥は竹ばかり

     詩人を慰めてくれるのは雀の声ばかり

 

     竹の林の中をあんなにもたのしげに歩いたトシコさんを

     みつけに行こう 薛濤さんのあばら屋へ

 

     「ここで紙を漉いたのね 薛濤さんは

     わたしもそんな生き方をしてみたいわ」

 

     薛濤さんのあばら屋の前で

     天を満たす雀の声に耳を傾けながらそういったひと

 

     現世とあの世を隔てているのは

     ちょっとした竹の林だけなのですよ

 

     ほんのしばし雀の声をききながら歩けば

     そちら側へぬけていくことができるのです

 

     成都の望江楼公園は竹の名所。歌妓詩人、薛濤の史蹟で知られる。

       トシコさん=高田敏子



1986(昭和61)年、高田先生は揚子江を遊覧船で下る山峡下りの旅に出かけました。
途中、杜甫ゆかりの街、成都の望江楼公園を訪れます。ここは竹の名所で、望江楼とは唐代の女流詩人、薛濤の住居跡として知られています。薛濤は自ら漉いた紙が世に評判となったと伝えられています。

「野火の会」訪中の全旅程を立案した伊藤先生は、高田敏子追悼の詩の中で、中国の竹のさやぎに故人を偲んでいます。戦地中国で長く死の狭間(はざま)に身を置いた伊藤先生には、竹林とは詩人の魂に巡り逢える心の通い路なのでしょう。

(注)薛濤〈せつとう〉(768831年)は唐の女流詩人。流落して成都で歌妓(かぎ)となるが、聡明で詩文に巧みなため、諸名士に愛された。浣花渓(かんかけい)で自ら漉いた紙は薛濤紙と呼ばれもてはやされた。

 

 

     南寧(なんねい)好日

 

 

    どこもかも羊蹄甲(ようていこう)の花ざかり

    瞼の裏まで明るくなっている

 

    この花は木に群がって咲く

    桜よりずっと濃密に

    花のひとつひとつは淡紅のつつじのよう

 

    昔 兵隊で 行軍の辛さに泣き泣き南寧を過ぎた……という人が

    自分の幻と逢いたくて

    ひとりでこっそりホテルをぬけ出して行った

    彼の脳裏にはそのころからずっと羊蹄甲の花が咲いていたらしい

    町へ出て行った日から 彼は 食堂へきても庭の向うの花影にば

     かり気をとられている

 

    ――この世はなぜだかたのしいことばかり といった意味を説い

      ているらしい鳥が

    朝朝 窓辺に来て歌う

    鳥のいってる通りだ

    このホテルにもういく日もいて

    すっかりしあわせになってしまった

    時は三月 二十人の団体のたれもが

    そこらをゆらゆらと漂うように歩きはじめている

    花の香と鳥の声に酔ってしまって

 

    庭にはアーモンドとマンゴーの林があるし

    そのなかにもぐり込んでしまえば

    自分で自分を見失ってしまうこともできる

    昔 私たちの耳の奥で歌っていた

    ――この世はなぜだかくるしいことばかり

    という鳥の声も天の高みへ消えてしまって

 

    昆明(こんめい)から来るはずの飛行機は今日も来ない

    どうやら私たちのことを忘れてしまってくれたらしい

    おかげで ホテルのまわりにも 私たちの胸の中にも

    羊蹄甲の花ざかりが深まってゆくばかりだ

 

                   詩集『黄砂の刻』1981年



1972年の日中国交正常化の後、全国に中国旅行ブームが起こり、高田敏子先生も自ら団長となって訪中団を結成、同人詩誌の会員たちと十回近く、文化交流を目的に中国に赴きました。

伊藤先生も旅行団に参加し、揚子江南岸の江南地方――広州、洞庭湖(どうていこ)、桂林、南寧の各都市を巡りました。

 

私もこの旅に加わっていたので、旅行中の伊藤先生の、すなわち作家のナマの姿に接したことは多くの収穫でした。水墨画に描かれる深山幽谷のモデルとなった、桂林の地を訪れた時のことです。

 

奇岩奇峰が連なる桂林の風景は、石灰岩の大地を雨水が二億年かけて刻んで生まれたといわれています。ここでは山間を縫う観光船の川下りが旅の目玉でした。朝の10時から乗船し、夕方の4時まで船中にいる、延々6時間の大変な川下りでした。

最初の頃は次々に現れる奇岩奇峰の絶景に歓声を挙げているのですが、同じ風景の連続に次第に見飽きてきて、お昼頃にはみんな甲板を離れて船内に籠ってしまいます。

写真は、19803月 中国湖南省(こなんしょう) 桂林 漓江(りこう)下りの船上。筆者撮影)

 

その中で、唯一、甲板にじっと佇む人物がいました。メモ帳を片手に、この桂林の風景を舞台とした小説の構想を練っているらしい伊藤先生の姿でした。私は伊藤先生の背を通して、作家というものは、いついかなる時も、行楽の時さえも、決してペンを手放さないものなのだということを眼に焼き付けました。

 

旅の終わりは、南寧という都市。ベトナムの国境に近い、街路樹がアーモンドという南国の街でした。旅行の時期は3月下旬で日本では最も寒冷な季節ですが、南寧の気温は27度近くありました。作品「南寧好日」の中で、〈二十人の団体のたれもが/そこらをゆらゆらと漂うように歩きはじめている/花の香と鳥の声に酔ってしまって〉とあるのは、この温暖な気候を舞台にしています。ちょうど、桜の季節に花に誘われてうかれ出る、といった気分でした。遠く日本を離れて、みんな生活の束縛から解き放たれ、異国の桃源郷に遊んでいたのです。(写真は羊蹄甲の花)


当時、私は入社1年目で毎日、緊張の連続で心を疲弊していました。ですから、束の間であれ、浮き世のことをすべて忘れて、美しい風景と、詩友と敬愛する恩師と共に過ごす旅の時間は、まさに〈自分で自分を見失ってしまうこともできる〉という至福のひと時でした。

〈昆明から来るはずの飛行機は今日も来ない〉という詩句は、南寧上空の気象状況が悪く帰りの飛行機が3日間遅れた事情を踏まえています。南寧は中国の最南端にあるため、電車で移動するには時間がかかりすぎるので、空路で広州へ戻る予定でした。

 

普通なら、三日も足止めされると不満が出ますが、みんな予定外の長逗留を喜び合い、こんな素敵な街に居られる幸福に酔いました。その思いを伊藤先生は、〈――この世はなぜだかたのしいことばかり といった意味を説いているらしい鳥が/朝朝 窓辺に来て歌う/鳥のいってる通りだ/このホテルにもういく日もいて/すっかりしあわせになってしまった〉と巧みな修辞で歌っています。

なお、「昆明」は中国南部の雲南省の政治、経済、文化、交通の中心地です。


 

【メモ】 伊藤 桂一 1917(大正6)年〜。

三重県三重郡神前村(現四日市市)生まれ。東京都練馬区在住。直木賞作家。詩人。日本芸術院会員。

住職の長男として生まれる。4歳で父が交通事故死。一家は郷里を離れ、流浪の旅に出る。旧制世田谷中学卒業。中学時代から投稿・詩作をはじめ、1938年より軍隊に騎兵として勤務し、上海郊外で終戦を迎える。1938(昭13)年、入隊。2425歳、一時、内地帰還。2628歳、再応召。計、610カ月の軍務。(写真は、2012年 95歳の近影)


帰国後、1948年から62年まで、日本研究社、金園社などの出版社の編集者などを経験し、その間1949年第1回「群像」懸賞小説に『晩青』にて佳作入選しデビュー。1951年、同人誌『新表現』に参加、「雲と植物の世界」で芥川賞候補となり、『文藝春秋』に転載される。『近代説話』にも参加し、1961年短編戦場小説「蛍の河」で直木賞受賞。以後多数の小説を刊行。作品には、従軍経験を生かした戦記小説や、時代小説が多い。1985年紫綬褒章受章、2001年日本芸術院恩賜賞受賞、芸術院会員。

「雲と植物の世界」が『文藝春秋』に載り、「これはわが部隊のことではないか」と伊藤と同じ部隊の元兵士たちが集合した。それをまね、旧日本軍の各部隊で、「戦友会」が生まれる契機となった。

「落日の悲歌」は宝塚歌劇団星組で「我が愛は山の彼方に」というタイトルで舞台化された。

詩人としての活動も盛んで、『竹の思想』(1961年)、『黄砂の刻』(1985年)、『連翹の帯』(1997年)、『ある年の年頭の所感』(2006年)の詩集がある。

                              (この稿 完)





| 伊藤桂一 | 12:04 | comments(0) | trackbacks(0)
伊藤桂一 5
 第5話 二度の召集と結婚


     ゴキブリ考

 

     ひとり暮らしで家じゅう乱雑をきわめているので

     今年はもうゴキブリが出てきた

     はじめに出てきたのは ミナコと呼ぶことにしている

     みんな名前がついているのだ

 

     死んだ妻は蟻も殺さなかったので

     私もその生き方をまもっている

     妻とはゴキブリにはキナコを食べさせた

     はじめの時 ゴキブリはあまりの好遇に戸惑って

     しきりにヒゲをふるわせていたが

     二度目からは キナコをみせると寄ってきた

     ゴキブリにキナコは ネコにマタタビに似た作用があるら

      しく 食べ終わると 踊るような足どりで去ってゆく

 

     ミナコは私の若いころ妻になったかもしれない従妹(いとこ)である

     戦争のため むろんすべては崩れたが

     ミナコはヅカファンで紫の袴を穿()いて遊びにきた おふく

      ろに逢いにきたのだ ミナコの母は美人で若死にしてし

      まったが 私は少年のころこの叔母にあこがれていた

     だからミナコにも気を惹かれていた ゴキブリのミナコも

      紫の袴を穿いている  といえないこともない

 

     ミナコのあとにはタケオが出てくる

     タケオはいちばん仲のよい(おさな)ともだちだったが かれは戦

      争の時ガダルカナルで戦死した だからきまって 逢い

      にくるのだ かれは中隊長になっていたので ゴキブリ

      になってもしっかりしている

 

     タケオの弟のマスオ 提灯屋(ちょうちんや)のタツキチ 小学生のころ黒

      板に相合傘の絵を描かれた役場の収入役の娘のサチコ

     みんなゴキブリになっているが いつも出てくるとは限

      らない 向こうにも都合があるのだ

 

     この夜更け私はミナコにキナコを与えながら

     タケオ タケオ 会いたいよ と呼ぶ

     私は伍長だったから タケオが出てくると敬礼する かれ

      はそれが嬉しいのだ

 

     とりとめのないことに

     この世の生きる意味をさぐりあてているような

     この ひとり暮らしのなかの味わい深いいとなみよ

     本来は 何十万年も前から生きつないでいるらしいゴキブ

      リにも 私は私なりの敬意は払っているのだ


 

作者、84歳の作。ゴキブリを通しても人生を語れるという好見本。ゴキブリを殺す前に、ちょっと手を止めて下さい。ゴキブリを殺したら、一緒に「詩」を殺すかも知れません。

どんなものでも、じっくり見つめてやれば、何らかの詩的な信号を送ってくれるはずです。

作者夫婦は、まさに虫も殺さぬ人柄ゆえに、こんなユーモラスな詩が生まれました。

 

最初は、興味深いゴキブリの生態が細かく描かれていますが、読み進むにつれて、実はこれは、戦争で亡くなった知人・友人達を偲んでいる追悼詩だとわかります。

作者は、ゴキブリにそれぞれ親しい者の名前を付け、彼らの人生を追懐しています。

 

作者・伊藤桂一は、太平洋戦争中に二度も召集され、青春時代の大半を戦火のもとで生きてきました。〈私は伍長だったから タケオが出てくると敬礼する〉という一行は、そんな戦争体験が背景にあります。〈とりとめのないことに/この世の生きる意味をさぐりあてている〉とは、詩を書く行為を自嘲気味に語った言葉です。作者の謙虚な人間性が伺われます。


伴侶と死別し長らく独身生活を送っていた伊藤先生は、この「ゴキブリ考」を発表してからまもなく再婚されました。以下の記事はその様子を伝えたものです。老いてますます輝きを増す先達の生き様は、私達後進の者にとって希望の象徴となっています。


 

伊藤桂一氏、満90歳にして現役作家

 

 直木賞作家・伊藤さんは満90歳になった。小説と詩の双方で、第一線の作家活動を行っている。2002年に85歳で再婚し、文壇のみならず世の男性を驚かせたものだ。伊藤さんの精力的な執筆と講演活動は、同年代の作家と比べてみても秀でていると思われる。

 

『伊藤桂一を囲む会』が主催した「満90をお祝いして」のパーティーが1月28日、東京・市ヶ谷のアルカディア(私学会館)で行われた。参加者は49 人。「文壇、ジャーナリストにも、伊藤桂一ファンは多い、声をかけたら切がなくなる。参加者は師と仰いで直接指導を蒙った人にかぎりなく限定した」と主催者は話す。

 

 戦中派の作家・伊藤さんは、同会場で、「戦争を体験した世代が次々とこの世を去っていく。戦死していった兵士のことを思うと、自分は戦記文学を書き残さなければならない。死ぬに死ねない」と強い使命感を語る。

 

 『農民文学』を代表して飯塚静治さんが祝辞を述べた。「昨年出版された『ある年の年頭の所感』詩集をつねに机上に置いて座右の書にしている。先生の存在自身がわれわれの宝である」と述べられた。伊藤さんは同文学賞の選者のひとりだ。

 

 同人誌『グループ桂』の長嶋公栄さんは、「学んできた、ご恩を忘れません」と涙ぐみ、声が途切れがちだった。同時に、恩師としての人柄の良さと指導について語った。伊藤さんは同人誌に毎号、詩を寄稿している。

 

 勝又浩(法大教授)は、『文学界』の同人批評のひとり。「伊藤文学の根底は人間があり、人生がある。頭で書く作家が多いなかで、伊藤さんは心で書く」と賞賛していた。

 

 司馬遼太郎さんと伊藤桂一さんは戦中派の作家として戦争を素材としてきた。司馬さんは反戦を強く押し出す。伊藤さんは、戦争を運命として受け入れる兵士(一市民)として描いてきた。ふたりの作家の描き方の違いを語った。

 

 司会は農民作家・山中康司さんで進められた。花束贈呈、乾杯のあと、同郷の四日市市出身の橘妃呂子さん(名古屋シャンソンコンクール金賞)が、美声のシャンソンを披露した。橘さんは元三船プロに所属し、日本テレビの手話劇で、ろうあ者の恋人役を演じたことがある。

 

 全員の記念撮影のあと、「これから新幹線で、大阪だよ」と皆に笑って夕暮れの市谷から、東京駅に向かった。伊藤桂一さんの戦記文学は兵士の目で、一人ひとり人間として、戦場を克明に描いている。いまや戦争体験者も少なく、まして戦記を書ける作家が殆どいなくなった。

 

 伊藤さんの名著「静かなノモンハン」(講談社)は、最近、ノーベル文学賞候補ともいわれている村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」(新潮社)の参考文献にもなっている。まさに国民の財産的な存在だ。


              ライブドア・ネット配信ニュース 200721

                             (この稿続く)




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伊藤桂一 4
  第4話 愛妹の氏

       悼詩(とうし)

 

        暗いところへ引き込まれていくので

        寂しくて おびえて

        ぼくの顎ばかりをしきりに抱き込んだ

 

        ――奇蹟ですね よくもち直しました

        と医師は明るく笑って帰っていった

        妹はジュースを飲み果物の缶詰を食べ

        「そう。なんにも覚えていなかった」と楽しげに笑った

 

        三日後にその奇蹟を終らせる

        確実な発作が訪れてきた

        高熱と麻痺で思考も嚥下力も失い

        眼はみひらいたまますでに他界をみていた

 

        この世に助けを求める力さえ失った手は

        胸のうえで 脳の地図の犯されてゆくごとに痙攣を深め

        それが犯しつくされたとき痙攣を終え

        平静な死の道への辿りが始まっていた

 

        おろかな家族は

        痙攣が終ったので また奇蹟がはじまると信じていたのだ

 

        息を引きとった直後に驟雨が来た

        二十日間つづいた三十余度の気温をはじめて慈雨がみたしたが

 

        死後一夜を経ても

        妹の脳はまだ高熱のなごりで生きているほどのぬくみを残していた

 




 

       悼詩

 

        最後になにが残ったろう?

        水が鳴りやんだときに

 

        樹のいただきで鳥が眼をとじたときに

        そのままの姿で雲が凍ったときに

 

        蝉が歌いやめて考え込んだときに

        かたつむりが枝を渡りかけて化石したときに

 

        それでもやはり家族は祈っていた

        夏草の底で 虫みたいに 素朴に

 

        最後になにが残ったろう?

        ふたたび水が鳴りはじめたときに

 

        鳥が眼をひらき 雲が動き

        蝉が鳴きはじめ かたつむりが()いはじめたときに

 

        最後にはなにも残らなかった

        一陣の驟雨のあと

        庭のサルビアが濃い紅を融きつくしていたほかには

 

                    以上 詩集『定本・竹の思想』1964年



 

伊藤桂一の盟友・詩人安西均は、「わが詩友・伊藤桂一君」という一文で、この詩について解説しています。

「〈無声慟哭〉とでも言うような、このように純粋な肉親への追悼を読むと、わたしはほとんど絶望的に感想も批評も捨ててしまいたくなる。

なぜなら、わたしにも、わたしをよく慕っていた末妹がいたが、不幸にも外国暮しの何事かに疲れ果て、二人の幼い子を残して自ら命を絶った。それなのに、彼女のために一篇の悼詩すら書いたことのない、わたし自身を引きくらべてみるからであろう。

むろん、追悼と、悼詩を書く書かないとは別問題ではあるが、すくなくともこれは伊藤君とわたしとの、文学とか詩に対する〈態度〉の相違でもあろうと思う。時として彼の文学には、人間を含む生きとし生けるものの生命を愛惜し、悼詩を捧げているようなところがある。それが彼の文学の大きさになっている」

 

ここに紹介した悼詩の内、前者は旅立つ愛妹の病勢をリアルに描写し、後者は死後の哀しみを譬え(メタファー)を駆使して描いた対照的な作品です。特に後者の詩の、2行ずつの連を端正に連ねていく構成は視覚的にも美しく、ほとばしりそうになる激情を抑制している作者の胸の内まで見えるような気がします。

前半で、水、鳥、雲、蝉、かたつむりが妹の死で凍結したかのような描写を重ね、後半で、これらの物たちが再び息を吹き返す描写は、計算された対句を成しています。熟練の(わざ)というものでしょう。

                               (この稿続く)





| 伊藤桂一 | 19:30 | comments(0) | trackbacks(0)
伊藤桂一 3
 第3話 滅びの美学


 

       絶景

 

        ひっそりと抱きあったまま

 

        谷底へ墜ちてゆく蝶

 

        無常なほどにも美しく

 

        そこに湛えらえている深淵

 

        その上でひらりと別れ

 

        こんどは絶壁に沿うて

 

        なおも相連れして のぼってくる

 

                    詩集『定本・竹の思想』1964年



作品「絶景」は、終戦後の心身の飢餓状態の中で、自分で自分を放棄してしまいそうな不安と闘うために詩を書き、詩を書くのでさらに不安を濃くするという悪循環の中に落ち込んでいた時期に書かれました。

詳細を(きわ)めた自作自註がありますので、そのまま引用します。

「一見叙景のようですが、そうではなく、私にとっては、自分が落ち込んで行きそうな奈落を、自分へのせめてものはなむけに美的に歌ったものであります。

私はこの詩を得たときに、この詩の行く手を探求してゆけば、まちがいなくひらかれるに違いない詩の世界を予想しましたが、その代り自分を殺してしまいそうな危険をはっきりとかんじました。これ以上進むとあぶないという本能的な警戒心に目覚めたわけです。七年も戦場生活をしてくると、自ら生命を絶つ、という卑弱な行為はできない、といって生きられもしないとすると、たぶん自分が壊れるのではないかと思ったのです。そうして、もしこのとき自身を(こわ)さずにおく方法があるとすれば、それはなにかと考えたとき、ともかく危険地帯への前進をやめて、後退してくるほかはない、ということでした。では、後退とはなにかというと、眼を別な方向へ転じることであり、それが散文――の世界へ足を踏み込むことであったわけです」

 

ここには伊藤先生が〈危険地帯への前進をやめて〉小説の世界へ転身する心理経過が克明に述べられています。

この心理は私にも思い当たることがあります。学生時代、詩想が湧くと夕刻から夜明けまで、食事も風呂もろくに取らず、たった一行の詩句を推敲するのに何日も下宿に籠っていました。

そんな極度な詩的興奮状態にいると、生活感覚が希薄になり、自分自身を追いつめられるだけ追いつめるので、精神的におかしくなります。しまいには学業を放棄することも厭わなくなるような怖さを感じました。

私が〈危険地帯への前進〉やめることができたのは、私の意志の力ではなく、恩師を囲んで詩友たちと定期的に勉強会を開いていたからです。そこで私は自身を冷めた眼で眺めることができました。

 

余談が過ぎました。作品「絶景」の中で、ひっそりと抱きあったまま/谷底へ墜ちてゆく蝶が、〈絶壁に沿うて/なおも相連れして のぼってくる〉という章句が、自分が壊れる寸前の深い断崖の(ふち)から引き返すことを象徴的に表現していると思います。

なお、危険地帯から脱却し、再生への道を選んだのは、戦争に生き残った責任感も強く働きました。

「このころ(復員後、豊橋へ転居)私は、前後七年ほどの軍務の疲労と、敗戦による虚脱と、経済上の不安、文学的な孤独感その他で、すっかり弱り果てていたが、ふしぎに詩だけは書けた。私は六坪の市営住宅で、東京へも出られず、職の当てもなく、豊橋では勤め先もみつからず、詩でも書いているほかない状態で、よく、なぜ戦死してしまわなかったか、ということを、真剣に考えた。生きる気力を失っていたのだ。いわば、この時も「行き暮れて」いたのだが、拾ってくれる軍隊さえ消滅していた。私は絶望的に、ただ自分を追いつめるようにして、詩作に耽った。そうして「絶景」という一篇を書いた時、詩ばかり書いているとあぶないのではないか、と思えてきた。詩は上手になるかもしれないが、狂気の状態に陥ち込むかもしれない、という、きびしい予感を覚えた。

詩を書くことはなによりの生きがいだったが、少しずつ後退して、方向を、散文志向にしなければならない、と思った。詩と心中できない事情に気がついた。戦中世代の一人として、生き残っている責任を考えねばならなかった。」             同上書

 

 

       暮靄の淵

  

     青竹を筏に組んだのが奥地から流れをたどってくる。古

     びた塔の下で歩哨に立っている兵隊が訊ねると、これは

     無為県から伐ってきたものだという。薄墨を刷いて昏れ

     初めている山山の遠い向うに無為県というところはある

     らしい。なんというむなしく美しい地名だろうと歩哨は

     しばらく空の果てへ眼をやっている。そのうち、山も昏

     れ、塔も樹木もつぎつぎに昏れ、いつのまにか筏も船頭

     もとっぷりと暮靄の底へ融けていってしまう。しかし銃

     の重みにも馴らされた兵隊の脳裏では、竹の伐られてゆ

     く寂寞をきわめたものおとが聴こえている。その竹がつ

     ぎつぎに、みごとに、真逆様に、暮靄を湛えた深淵へ落

     ちてゆくときの、かすかな叫びのようなものが聴こえて

     いる。

                  詩集『定本・竹の思想』1964年



伊藤先生の詩友・安西均の解説があります。

「暮靄の淵」という作品は、中国の戦野に立っている歩哨が、奥地から流れてきた「青竹の筏」に触発され、まさに寂寞とも縹渺(ひょうびょう)とも分ちがたい「深淵」をヴィジョンに描く。ここでは「無為県」というはるか奥地の美しい地名も()かされていて、彼が青春を代償にした軍隊体験と、彼が他の作品でいう〈東洋〉思想とが、みごとなアマルガム(註:合金の一種。ここでは、融合という意味の譬え)となって光っている。彼の〈陣中詩篇〉のなかでも、象徴的な美しさで際立っていよう。

 

殺伐なものは一切ない、戦争抒情詩とでも言うべきものでしょう。

「無為県」という地名が、青春を無為に過ごした、なす所もなく漫然と空しく自分の若さが消耗されていったという哀惜感と、遥かな上流にはもっと空しい何かがあるという考え方が、この詩のモチーフだと作者は語ります。

切られて真っ逆さまに水面に落ちる時の〈かすかな叫びのようなもの〉とは、自分の中で死に絶えていく若さ、もうどうしようもないという絶望感を表しています。

一種の滅びの美学なのです。

                              (この稿続く)




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伊藤桂一 2
 第2話 竹に溶け入った心

 

       竹の歌

 

        竹があると

        山はやさしくなる

        竹が

        あまえるので

 

          *

 

        竹があると

        山は時々笑う

        竹が

        くすぐるので

 

          *

 

        竹の媚態は

        涼しい

        触れると

        溶けてしまいそうだから

 

          *

 

        帰りがけに

        竹だけはおじぎする

        夏でも鴬の鳴く

        奥多摩の渓流のほとりで


          *

 

        いちにち 竹をみて

        鴬を聴いて

        それだけで帰ってくることもある

        空の魚籠(びく)はその日の潺湲(せんかん)を仕舞って

 

          *

 

        竹をみていると

        ひとはやさしくなる

        いちばん身近なひとのなかへ

        溶けてしまいたくなる

 

          *

 

        のびあがり くぐまりして

        竹はいつみても体操している

        この世はすべて

        音楽に満ちているのだろう

                     『定本・竹の思想』1961年 


 

伊藤桂一の終戦は、苦しく貧しく厳しい青春のただ中にありました。復員後は郷里の伊勢の山村の疎開先にいましたが、毎日、山裾の竹薮の中を歩き回る以外、何もすることのない生活でした。生涯を通じて最も厭世的な日々でした。

「どこかで生を放棄してしまおうと、そればかりを考えている」飢餓状態の中で、不思議に詩だけはよく書けたといいます。「つまり何もなくなってしまって、そのために詩と一体となっている感じ」でした。

 

戦場で、抒情性、感情、人間性が枯れ果て、枯れ尽きた後、復員して郷里の竹やぶの中に(ひた)ると、竹が身近に感じられました。幼い頃から眼と心になじんできた竹が、お前よく帰ってきた、と呼びかけてくれたように感じたのです。自作年譜には、「精神は虚脱状態だったが、詩作は順調に進む」とあります。

精神状態が枯れ果て、澄み切っていて、何もないから、竹の中にそのまま自分が入り込め、竹も自分と同じように見える。竹は心の風景につながるものでした。

 

1連は、竹林が風を受けて波のようにしなやかに揺れる様を詩的に表現したものです。

重々しい山も、しなる竹に覆われると柔らかく見えます。それを〈竹があると/山はやさしくなる〉と絶妙なメタファーで描きました。山を「親」と見立てれば、「子」である竹が甘えるように揺れ動いていると。

 

4連の「潺湲」とは、川のせせらぎの音を雅(みやび)に気どったものです。伊藤先生は釣りキチなので、時間があれば渓流の流れに身を浸していました。

 

5連は、自分の(かたく)なな心、小さなプライドを消し溶かして、周りと和解したいという願いが込められています。作者は「対象に溶け込み、その生命感を把握したい」と意図しました。

石垣りん先生は、この作品を「かたくなな心、溶けたくても溶けない私に手をさしのべてくれる」と評しています。

                               (この稿続く)


| 伊藤桂一 | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0)
伊藤桂一 1
 第1話 行き暮れて、軍隊へ

直木賞作家・伊藤桂一は、今世紀最後の戦記作家と言われています。

詩人でありながら、戦記文学と時代小説作家として、現在97歳。現役の作家です。

代表作に『蛍の河』(直木賞)、『静かなノモンハン』(吉川英治文学賞)があります。

1999年、『伊藤桂一詩集』(土曜美術社)が復刊され、その詩業の全貌を容易に見られるようになりました。

詩人としての活動は、伊東静雄賞、丸山薫賞の選考委員、日本現代詩人会会長(1985年)、日本テレビ・読売文化センターでの小説講座など多岐にわたっています。殊に詩人・高田敏子主宰詩誌「野火の会」のブレーンとして投稿原稿の指導を、同詩誌終刊まで23年にわたり務めました。私も若き日、伊藤先生の懇切な指導の余光を受けた一人です。

 

伊藤桂一は、1917年(大正6)三重県四日市に住職の長男として生まれました。4歳の時、父が交通事故死。7歳から母、妹と共に大阪・東京を放浪する辛酸を味わいます。小学校の転校は78回に及び、小学校時代の級友は皆無でした。

 

詩や文章を書き始めたのは、156歳でした。それは創造意欲の発露ではなく、生活苦を忘れるための逃げ道でもあったと語っています。〈心情暗澹としてそこに救いを求めた〉少年は、雑誌『文芸首都』『日本詩壇』の投稿魔となります。

 

中学卒業後、就職口のないまま、行き場がなくて方途が尽き、食うことができない時代に軍隊に拾ってもらったといいます。軍隊こそ、食べることに心配のない安住の地でした。

二十歳といえば、もっともかがやきに満ちた青春の年齢のはずだが、私は、ある雨の日に、住んでいたアパート近くの、渋谷駅のガードの下で、ぼんやり立ちどまって、

(どうすればいいのだろう?)

と、考えていた。

私はその時、学籍がなかったし、学業をつづける経済的なゆとりは、私の家庭にはなかった。

母は指圧療法士として細々と稼ぎ、妹はデパートの食堂に勤めていた。私も、なにか仕事をして家計を助けたいと思ったが、当時の不況はきわめて深刻で、二十歳の中途半端な若者を、雇ってくれるところなどあるはずもなかった。臨時雇の口さえなかった

今、自身に向けて、青春とは何か、人生とは何か、昭和という世代とは何か、と問いかけてみると、眼に浮かんで来るのは、二十歳のある雨の日に、渋谷駅のガードの下で、進みも退きもならず、生きることも死ぬこともできず、真に行き暮れていた姿だけが浮かんで来る。それが私の原点である」           『文章作法 小説の書き方』講談社


1938(昭和13)年より二度の応召で、21歳から通算610カ月の軍隊生活。初めは中国北方の山岳地帯、二度目は揚子江の南岸地区へ。310カ月の軍務を終えて、1941(昭和16)年の秋にいったん帰国しましたが、2カ月目に太平洋戦争が始まりました。1943(昭和18)年に再び中国に赴きました。一般に青春と呼ばれる年代を、ほとんど兵営生活の中で送ったのです。

 

しかし、詩作は入隊後も続けられます。軍事雑誌への投稿で、兵営では初年兵いじめの格好の標的になりました。

「私は、兵営で、初年兵いじめの代表的な標的にされていた。兵舎内で、明けても暮れても、ひまさえあれば詩の勉強をしていたので、私的制裁を受ける、格好の理由とされたのである。

いくら制裁を受けても、黙々と詩作をつづけていた。

「この聯隊がはじまって以来、お前くらい調教された兵隊はいないんじゃないのか」

と、制裁係の一人である古参兵(二年兵)が私に、感嘆して、そういったことがある。調教

――というのは、騎兵聯隊だったからどういったので、これは馬を鍛える、という意味である」                                 同上書


それでも「生活苦に(あえ)ぐよりは、まだ殴られている方が楽」と、筆は折りませんでした。

 

さらに作戦の合間に、その場その場の感動を短歌に託しました。感情を端的に把握できる文学形式は、短歌しかなかったからです。

「戦場だから仕方はない、運命だから甘受するほかない、この運命も、自分は自分なりに、国家や民族に奉仕することであり、死んでもあきらめはつく。あきらめて、魂は、山のどこかの、灌木の枝にでも宿らせてもらおう、これはなかなか詩的な死生観ではないだろうか、

詩的な死生観を()てた以上、生きている限りは、この山の暮らしを、つとめて明るく前向きに、つまり肯定的にみてゆこう、このような異色の風景をみられることだけでも恵まれている、と考えよう。

――こうした死生観を、私は、意外にしっかりと樹てた」         同上書

 

この時から戦場の山中での心境を日々、短歌に詠むことにしたのです。駐屯地では、厚いノートに詩を書き続けましたが、軍務を終えて内地に帰還する時、日記その他、書いたものは一切持ち帰らぬよう厳しく通達されていたので、詩のノートは焼却しました。

しかし、短歌は捨てるに忍びませんでした。それで、万年筆のペン先を裏返して細かい字で書くと一枚の便箋に百首収められます。転戦中の歌は、4500首。小さく折り、手帳に挟み密かに持ち帰りました。これらの短歌は、50年後の1988(平成10)年、『私の戦旅歌とその周辺』(講談社)の一巻となって結実しました。

終戦の翌年、上海から復員。この頃から、苦しく貧しい本当の意味での青春が始まります。

( 写真は、万年筆のペン先を裏返して便箋に綴った百首の戦旅歌)


最悪の条件下で最善の文学修行が続けられます。自筆年譜には、「食なく、金なく、気力なく、詩作にあけくれる」と記されています。〈売れない学習雑誌〉の編集をしながら、戦争で掻き回された情操を蘇らせるのに十年。

 

1952(昭和27)年、芥川賞候補。1954年、直木賞候補。その後、1961年、『黄土の記憶』で二度の芥川賞候補。同年12月、私家版詩集『定本・竹の思想』。

「通算三十年に及ぶ文学修行の末、生涯恵まれなくてもよい、という覚悟も出来、かつ昨年発病せし妹の容態(はかど)らず、母も痩衰(そうすい)をきわめ、一家の壊滅を予感し、せめて一巻の詩集を挨拶代わりに知友に配布せんと思った」      

                        『伊藤桂一詩集』自筆年譜

 

1962(昭和37)年、45歳の年に『蛍の川』で直木賞受賞。文学を志して三十年目の苦行の成果でした。「正直なところ疲れ果てていた」(自筆年譜)。同年8月、妹逝去。

戦中から戦後にかけて生活の無理を続けたため、同年、全身の神経痛で倒れました。鎮痛剤を用意しないと道が歩けませんでした。常備薬も常時、78種類服用。

野口春哉氏の整体に巡り会い、回復。満7年、日中戦争に従事し、自分なりの死生観は確立していましたが、それは死を前提とした哲学でした。整体論はよりよく生きるための生命哲学。自己治癒力を喚起し、発揮させるための療法といいます。

 

1984(昭和59)年、67歳。『静かなノモンハン』で吉川英治文学賞・芸術選奨文部大臣賞。同年、紫綬褒章受賞。2001年、日本芸術院恩賜賞受賞。2007年、詩集「ある年の年頭の所感」で第2回三好達治賞受賞。「父の奇禍がなければ、たぶん人格円満な和尚になっていた」と。

 

伊藤桂一の戦場小説は、戦場を通り過ぎた兵隊の、さりげない日常の中に人間の真実を描きます。激しい戦闘場面は筆を抑え、兵士の日常心理を克明に綴り、戦争の哀しみを伝えます。

「一人ひとりの兵士の声が聞こえてくる。その気持ちを代弁し書き留めるのが、私の責任」

人間を見る暖かさは、時代小説の、暗い宿命を背負った下級武士・庶民に託して、人の心の美しさをうたいます。

「軍隊社会というのは、底辺の生活の中で、底辺の人達と、裸の感情で深く交わることができ、しかも上からの権力機構にいじめられることが多かったから、人間として苦労人に育ててもらうのには役に立った――と、私はよく、負け惜しみではなく話すことがある。

いわばそのおかげで、底辺の人達を見る、人間らしい目を持つことができるようになった。

時代小説というのは、私にとって、登場する底辺の人達をいかに愛するかに尽きている」

                       『文章作法 小説の書き方』講談社

                               (この稿続く)



| 伊藤桂一 | 15:05 | comments(0) | trackbacks(0)
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