矢沢宰 5
第5話 魂からの言葉



 

       風が


 

        あなたのふるさとの風が

        橋にこしかけて

        あなたのくる日を待っている

 

 

 

       少年

 

 

        光る砂漠

        影をだいて

        少年は魚をつる

 

        青い目

        ふるえる指先

        少年は早く

        魚をつりたい

 

 

 

       小道がみえる……

 

 

        小道がみえる

        白い橋もみえる

        みんな

        思い出の風景だ

        然し私がいない

        私は何処へ行ったのだ?

        そして私の愛は          (絶筆)



作品「風が」は、風が擬人化されたシンプルな短詩で、作中の〈あなた〉は矢沢宰自身でしょう。長い療養生活の中で彼は幾度も故郷へ想いを馳せたに違いありません。

 

遺稿詩集『光る砂漠』のタイトルは、「少年」の詩の一節から採られました。

作者は魚釣りを愛好していました。しかし、砂漠で魚を釣るとは、実に矛盾した光景です。〈光る砂漠〉とは、川面の光り輝く波紋が、砂漠の波紋に似ていることから発想したといわれています。一滴の水もない砂漠と川という相反するイメージの対比が、緊張感のある詩的世界を生み出しています。

 

また、〈光る砂漠〉は、作者の中に広がる砂漠の淋しさ――青春時代という〈光〉の中で、一人病気に耐える荒涼とした孤独感を表わす心象風景とも受け取れます。

〈影〉とは、死の影であり、死への不安を抱きながら、希望を捨てまいとする青年の情熱が現代詩的手法で描かれています。〈青い目/ふるえる指先〉の詩句は、死を迎えつつある者の心身の(おのの)きを簡潔な比喩で表わしています。

 

「小道がみえる……」は、絶筆となった作品です。懐かしい思い出の風景の中に、故郷の道や橋も見えるのに、自分の姿だけがない――死の予感さえ漂う哀切な詩です。

危篤状態に陥った生と死の谷間の、朦朧(もうろう)とした意識の中で見た、幻の風景を描いたものかも知れません。


 

【メモ】矢沢(やざわ) (おさむ) 1944昭和19)年57 – 1966(平成3)311

昭和19年、中国江蘇省生。父の現地召集で母と故郷の古志郡上北谷村河野に引き揚げてきた。上北谷小学校2年生のとき腎結核が発病し、右腎を摘出。その後療養生活を繰り返し、1年遅れて上北谷小学校を卒業。卒業生を代表して答辞を読むが、その後激

しい血尿に倒れ、直ちに新潟県立三条結核病院小児科に入院。絶対安静の日が続く。詩や日記は入院後の14歳の秋から書き始めた。

昭和365月から病院付属の三条養護学校中学部に通い始め、翌年3年に特進。2年間で中学部を卒業する。同時に三条結核病院も退院し、5年ぶりに実家に帰る。昭和38年、県立栃尾高校に入学。文芸部に入る。順調な学校生活を送るが、高校2年生の2月腎結核が再発。三条結核病院に再入院。昭和41年3月、劇症肝炎を発症し、21歳の若さで没した。

死と向き合う病苦との闘いの中で綴られた500編もの詩は、栃尾高校文芸部から遺稿集「それでも」として、また三条結核病院で宰の主治医だった吉住昭等有志の手によって遺稿詩集「光る砂漠」として上梓された。その詩集を、当時のお茶の水女子大周郷博教授が、毎日新聞の「母と子のうた」欄で紹介すると、たちまち全国的な反響を呼び起こした。また、これらの遺構集のほかに詩集や日記が刊行され、さらに東京芸大萩原英彦教授によって合唱組曲にも作曲されている。

宰の13回忌に建てられた自筆の詩「風が」が刻された墓碑は、上北谷小学校脇の墓地に、また、全国の宰ファンの協賛を得て、平成3年に建立された「少年」の詩碑は、見附市大平森林公園にある。

矢沢宰記念事業実行委員会では、18歳以下を対象に全国から創作詩を募集する『矢沢宰賞』を設け、彼の業績をたたえ続けている。

 

昭和195月 中国江蘇省東海県海州新大街5号「海洲鉱業開発」の社宅でに父矢

        沢元、母レウの長男として生まれる。“宰”の名は、親しくしていた

        中国人呉顕頭(うしんとう)という人がつけた。

昭和207月 父の現地召集で、母と一緒に父の実家の新潟県古志郡上北谷村河野

       7番地(現在の見附市河野町)に帰り着く。

昭和2712月 村立上北谷小学校2年生の年の暮、友達と裏山へ行き、雪を赤く染

        めた血尿で発病に気づき、腎結核と診断される。

昭和284月 新潟大学病院泌尿器科で右腎摘出手術を受ける。手術を受ける前に

       「これが最後かも知れない」と祖父と記念写真を撮ってもらう。

昭和3212月 残った左の腎臓にも結核発病。

昭和33年 3月、一年遅れて見附市立上北谷小学校を卒業。新潟県立三条結核病院小

      児科へ入院。血尿強度で輸血と止血剤の連用、安静を強いられる。初め俳

           句を読んでいたが、立川看護婦にもらった詩集が作詩の動機となる。11

      月、初めて「日記」を書き始める。12月、イギリス人の宣教師の訪問に

           より、初めてキリスト教に接する。

昭和34年 5月、詩集「それでも」を編む。10月、中原中也の詩に感動。聖書や芥

      川全集を読む。敬虔なキリストの信者を志し、詩作深まる。

昭和35年 6月、入院以来の絶対安静で鏡を手に空や雲を映す生活。23ヶ月ぶり

      に自分の両足で20メートルほど歩く。8月、詩集「詩の散歩」を自装で

      つくる。10月、2年弱で作詩200編に達す。この年、NHK新潟ローカ

      ル、ラジオ新潟、「新詩人」などに詩をしばしば投稿、その幾編かが入選。

昭和364 月 病状が著しく改善し、新潟県立三条養護学校(三条結核病院に付設)

         中学部1年に入学。

昭和374月 養護学校中学部3年に特進。

昭和373月 養護学校中学部を卒業。卒業式では答辞を読む。退院して5年ぶり

       に見附市の実家に帰る。

昭和384月 新潟県立栃尾高校へ進学。実家から通学。文芸部に入る。

昭和40年 2月、高校2年の時、腎結核再発。3月、三条結核病院内科に再び入院。

昭和413月 高校復学を夢見る矢先、劇性肝炎を発症、午前215分永眠。

(ウェブサイト「生命の詩人 矢沢宰」(矢沢宰記念事業実行委員会制作)より転載)

                               (この稿 完)



| 矢沢宰 | 08:42 | comments(3) | trackbacks(0)
矢沢宰 4
 第4話 空との対話

 

      空への告白


      私は来るのを待っています。

      青い間から

      大手をひろげて私を抱きあげてくれるものを待っています。

      ねてもおきても窓を開けはなって

      祈るようにほおづえをついて

      いつも空ばかり見つめています。

      それより他に方法はないんだと思っています。

      あんまり一面に青い日は

      私は悲しくて口笛や歌ばかり歌って何も考えまいとします。

      それは青さがあまりにもはてしなく

      待つことしか知らない私があわれに無力になってしまうのでヤケに

       なるからです。

      どうして私は待つことしか知らないのでしょう。

      待つことは悪いことでしょうか。

      自分でもわからないのです。

      私は乞食かもしれません。

      空を見つめて肉の切れはしが落ちてくるのを悲しんだり胸をときめ

       かして待っている

      最もいやしい怠け者の乞食かもしれません。


遺稿詩集『光る砂漠』の中で、「空」に関連する言葉、あるいは空の情景を謳った作品を調べると、54篇中20篇が該当します。矢沢宰が、ここまで空のモチーフを謳った理由は何なのか。それは永遠的なもの、遥かなものへの憧れだけではないでしょう。長期に亘った入院のために、彼がいかに仰臥(ぎょうが)の生活を強いられたかが伺われます。

絶対安静の身動きできない姿勢で彼はひたすら空を見つめ続けたのです。空との対話の中から、矢沢宰の詩が生まれたといっても過言ではないでしょう。

この詩を読むと、社会で暮す一般の健康人に対して、彼が気後れする感情を持っていたことが察せられます。病に侵された身体のために人生設計が叶わず、努力しようにもできない、ジレンマ。ただ幸運を待っているだけの、病弱で無力な身をふがいなく感じています。

私は乞食かもしれません。/空を見つめて肉の切れはしが落ちてくるのを悲しんだり胸をときめかして待っている/最もいやしい怠け者の乞食かもしれません。〉と、自虐にも等しい煩悶(はんもん)は、矢沢宰の魂からの叫びを物語っています。


 

      赤いつる


       赤い薬包紙でつるを折る。

       ガラスの外には、

       秋の寒い雨が音を立てて流れ降る。

       血色の悪い指先に、

       赤い薬包紙の影がうつる。

       さあ出来た。

       赤い小さなつるが出来た。

       このつるにも、

       昔、神が人間を作った時のように、

       私の熱い息を吹きかけ、

       私の魂を分けあたえようか、

       いやいやそれよりも、

       となりの部屋の、

       カリエスを病む

       幼い女の子にあげよう。


 

矢沢宰の主治医であった吉住昭氏は、この作品について以下のように触れています。


この赤い薬包紙というのはどういうことを意味するか、決して赤色紙の代わりをしているわけではないのです。痛み止め、劇薬、その他光を遮る必要のある薬を赤い薬包紙に包んでいたのです。彼が、赤い薬包紙を一枚入手したということは、今日も激痛に襲われたということなのです。今日も激痛に襲われて、それで赤い薬包紙の薬を一服飲まなければならなかった。しかし、その痛みの治まったときに、彼はそれを使って鶴を折って、隣の部屋の幼い女の子にあげようと言っているのです。彼の心の優しさがにじみ出ていると私は思うのです。彼の日記編の中に、ある年看護婦さんが年賀状を配ったら、一人だけ年賀状の来ない子がいた。自分は差出人の名前を書かないで年賀状をその子に書いてやった。その女の子は、夜になってもまだそれを見ていたという場面があります。本当に彼はそういう少年でした。

                    吉住昭講演「追想の-光る砂漠-矢沢宰」


                               (この稿続く)




| 矢沢宰 | 13:04 | comments(0) | trackbacks(0)
矢沢宰 3
 第3話 透明な絶望感


       再会       矢沢  宰

 

 

        誰もいない

        校庭をめぐって

        松の下にきたら

        秋がひっそりと立っていた

 

        私は黙って手をのばし

        秋も黙って手をのばし

        まばたきもせずに見つめ合った


秋をテーマに謳ったものですが、詩集『光る砂漠』に周郷博が綴った解説文の一節がその真髄をよく表わしています。

 

矢沢君ぐらい、詩というものを、「うつくしい」ものに、そうして言いようもなく「なつかしい」ものにした人はいない、と思う。これが、矢沢の詩の、他のどんな詩にも見ることのできない独特な価値だ。それが同時に、また、二十歳そこそこで短い生涯を閉じた矢沢宰という一人の人間があらわしえた「一生」の、他の何ものとも比べようもない人間的価値だ、と私は思う。ほとんど、それは神々しいほどに「うつくしい」「なつかしい」詩である。ひとたび矢沢の詩を読んだ人は、それまでに読んだどんな詩にもなかった、この矢沢の詩の不思議な魅力に吸いこまれて「化身」とでもいうほかないような浄化、昇華の働きをふかく受ける。

 

私が初めてこの詩を読んだ時は、まさに神々しいほどの美しさに魅了されました。

詩ではよく使われる〈擬人化〉という手法で描かれていますが、秋の淋しさがこれほど見事に人に〈化身〉した例を私は他に知りません。

 

〈再会〉したのは、自分の孤独との再会です。矢沢宰は、小学二年時に右腎臓の摘出手術を終えて退院後、自宅療養をしていました。宰少年は病院での定期検診の帰り道、どうにもがまんができず学校に行ってみました。級友達は教室で授業中でした。校庭には彼一人だけ、その時の彼の淋しさが痛いように伝わってくる詩です。

 

 

               矢沢  宰

  

       秋は透明な

       薄いむらさきだ

       むらさきの秋は

       騒がしいものを寄せつけない

       体のすきとおる人をだけ

       そおっと淋しくなでるのだ

       むらさきの中では

       淋しがりやだが

       強い死なない人だけが

       首をたれて

       落葉をハラハラと浴びるのだ



繊細な感覚、高度な絵画的感性、一幅の秀れた日本画を眺めるかのように、読む者を洗練された詩的イメージで酔わせます。作品のこの透明感については、前述した周郷博の解説文に詳しく綴られています。


客観的にみれば、救いのない絶望と死の恐怖の中に生きていたといえるが、彼の詩は、暗い、陰気なものの影は微塵(みじん)も感じさせない。底の底まで曇りがない。あかるく透明で、(中略)どの詩をひとつとってみても、親しげに「希望」を語りかけている。

 

「秋」の透明感は、すがすがしい季節感だけでなく、逆境に曇らない作者の精神力の高さが支えていたことがわかります。

                               (この稿続く)



| 矢沢宰 | 14:07 | comments(2) | trackbacks(0)
矢沢宰 2
 第2話 詩の発想を盗む

     あなたの手は    矢沢 宰

 

     あなたの手は

     握りしめるとあたたかくなる手だ

     あなたの手は

     暖めるとひよこの生まれる手だ

 

 

     てのひら       石川 敏夫

 

     あなたのてのひらは
     種をのせると 花の咲くてのひら

     目かくしをされたら虹の見えるてのひら

     手に包むと潮の満ちるてのひら


 

矢沢宰の本領がとりわけ発揮されるのは5行以下の短詩です。

「あなたの手」は、16歳から17歳にかけての作です。この無私至純な抒情美を生み出しているのは、何といっても作者の卓抜した詩的イメージの発想力でしょう。
人の手は豊穣な人生を生み出す器
――矢沢宰の人間味溢れるこの作品から、詩の骨格が透けて見えた時、私は手を恋愛のイメージに結びつける詩を思いつきました。さらに、〈手〉を、音の響きの柔らかい〈てのひら〉に変え、プラトニックな情愛を流し込んだのです。それが、私の処女作「てのひら」という詩です。

 

恩師安西均先生は他人の詩を模倣することについて厳しい言葉を残しています。
「詩は窃盗である。大いに盗んでよいが、しかし、もとの詩よりもすぐれたものに仕立てなくては、たんなる盗みにとどまる。それでは破廉恥(はれんち)罪だ」
詩の章句をそのまま模倣したら、紛れもなく盗作。安西均の説く詩の窃盗とは、詩の発想を盗むことにあるのです。

 

私の作品が矢沢宰を越えているとは到底思えませんが、詩の発想を盗むことは何とか成功したと自負しています。ともあれ、この「てのひら」という作品が私の詩的出発となりました。

                              (この稿続く)



| 矢沢宰 | 09:53 | comments(0) | trackbacks(0)
矢沢宰 1

第1話 夭折の詩人


私の詩的遍歴の中で、前回取り上げた井上靖から大きな影響を受けましたが、最初に詩の世界に導いてくれたのは、「光る砂漠」(童心社刊)という1巻の詩集を残して夭折した矢沢宰(やざわ おさむ)です。学生時代、矢沢作品にのめり込み、暗記するほど愛好しました。

 

矢沢宰は1944年(昭和19)生まれ。小学二年生8歳で腎臓結核のため右腎臓を摘出、六年生13歳で残った左の腎臓も結核に冒されました。小学校を卒業すると同時に新潟県見附市の三条結核病院に入院しました。激痛と血尿がひどく、輸血と止血剤が連用され個室での絶対安静を強いられました。

三条結核病院には入院中の子供を教育する三条養護学校が併設されていましたが、彼は養護学校にも通えず、三年間、個室での療養生活を送りました。(写真は詩集『光る砂漠』より転載。20歳。再入院直前の頃)

 

ところが矢沢宰は、この個室での絶対安静の境遇で、二百篇を越える詩と日記を綴りました。病気のため小学校で十分に学べなかった少年が、洗練された言葉であまたの芸術作品を生み出したことは驚きという他ありません。

 

17歳、矢沢宰は3年遅れて病院附設の養護中学校へ通うまでに、奇跡的に健康を回復。

18歳で特別進級により養護中学校を卒え、県立栃尾高校に入学。5年間の病床生活に別れを告げて自宅から通学します。21歳の3月、腎結核の再発で三条結核病院に再入院、翌1966年(昭和413月に21歳の儚さで世を去りました。

 

わずか2110カ月の生涯で健康な期間は8年でした。彼の日記に「十七年生きていたが、そのうち、靴をはいていた時間より、布団にさわっている時間の方が、半分近くであること、これはすごい!」と。三条結核病院に入院していた5年間は、一日一日が死の恐怖と向き合う日々でした。

 

矢沢宰は14歳から詩を書き始めて、21歳で夭逝(ようせい)するまでの7年間、作品は500篇を越えました。その中から54篇を選んだのが遺稿詩集『光る砂漠』です。1969年の刊行以後、1990年代まで再版を重ねたロングセラーです。編集者のお茶の水女子大学教授周郷博(すごうひろし)は、「日本語で書かれた詩で、これほど私の心をとらえ、有無をいわせず、私を「変革」する力を発揮した詩は、万葉や実朝の歌、芭蕉の句のほかにあまり思いあたらない」と絶賛しています。

 

 

       私はいつも思う     矢沢  宰

 

     私はいつも思う。

     石油のように

     清()んで美しい小便がしたい と。

     しかも火をつければ

     燃えるような力を持った

     小便がしたい と。

  


〈小便〉というような排泄物を直接表わす卑近な言葉が、詩作品に使われることはまずありません。ましてや詩的感動を与えることは皆無に近いことです。

ところが、矢沢宰という詩人は、〈小便〉という言葉を宝石に変えてしまいました。

血尿に苦しみ続けた者でなければ、〈石油のように/清んで美しい小便がしたい〉という痛切な願いは生まれませんでした。

さらに優れている所は、濁りのない尿を表わすために単に〈石油〉を使ったのではなく、〈火をつければ/燃えるような力を持った/小便〉という強いメッセージを伝える意図がありました。実に純真な詩精神と言わざるを得ません。

                               (この稿続く)


| 矢沢宰 | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0)
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