田中冬二 3
 第3話 エスプリ詩人

 

      山鴫(やましぎ)

 

 

       谷間は暮れかかり

       燐寸(マッチ)を擦ると その小さい焔は光の輪をゑがいた

 

       やうやく獲た一羽の山鴫

       まだぬくもりのある その山鴫の重量に

       私はまた別の重いものを感じた

 

       雑木林を とびたった二羽の山鴫

       褪()せかけた夕映が銃口にあった


                    詩集『晩春の日に』1961年


まるで映画のワンシーンを切り取ったような情景設定です。計算されたカメラアングルに冬二の美意識が光っています。二連の〈まだぬくもりのある その山鴫の重量に/私はまた別の重いものを感じた〉とは、獲物の死と引き換えに得た、失われた生命の重みを暗示しているのでしょう。抒情的な風景詩人として知られる田中冬二ですが、単なる情景美に終わらぬ深遠さを持っていることがわかります。

わずか7行の作品ですが、冬二の円熟の詩的境地を代表する詩です。「私は苦心に苦心してつくっている。推敲に推敲を重ねる。一行二行の詩にも、数カ月を要することさえある」という詩人に脱帽の思いがします。

 

 

      詩集『サングラスの蕪村』抄

 

 

       右の膝頭に(あご)をあてて(すね)をみつめていると

       足摺岬(あしずりみさき) 知床半島 断崖

             *

       同じ徳利の酒でも熱燗の方がぬるいのより量感がある

             *

       気がきかぬとか ぐずだとかと(のの)しる家内だが 背を丸く

       して食事をしているのを見ると不憫を感じる

             *

       貧しき夕餉

       卯の花に凍豆腐(しみどうふ)青豌豆(あおえんどう)にんじんの煮付

       それにこまかく刻んだ紅生姜をふりかけて

             *

       嫌な夢を見た朝は顔を洗うときに 左の手の掌に右の手の

       人さし指で 夢という字を描き 水道の水をいっぱい出し

       て流すことだ そのあとで朝茶を飲むとさっぱりする

             *

       ピアノのキーの向うに映っているしなやかな白い指

             *

       皿 時に何もなくしょんぼりとさびしく

       またあるときは祭のように賑わしく

             *

       林檎の花の蕾が芽吹いてまもない柔らかな葉につつまれている

       母の愛の胸の中にあるように

             *

       梅雨の夜を古い書信をとり出して見ていると その中には

       故人のものがあって切ない思いがする

 

       前略

       思ひかけぬ処で 少年時代敬愛の詩人にお目にかかる

       ことができましたのは大きな(よろこ)びでございました

       此度は御約束をお守り下さって「葡萄の女」を賜はり

       厚く御礼を申し上げます

       「北緯四十三度線下の髭剃(ひげそり)あと」などに田中さんのモ

       ダンで冷たく鋭い御詩情の(かわ)らぬことを嬉しく存じ上

       げました

 

       これは三島由紀夫さんから その逝去三年程前に戴いたも

       ので 私にとって今唯一の形見である 三島さんに御目に

       かかったのはこの一度だけである

       私は最近三島さんが昭和三筆の一人と称せられているとい

       うことを知り あらためてその書信を見直して 正にその

       通りの名筆である上 三島さんらしい風格のあるのに深く

       感銘した



この風変わりなタイトルの詩集は、1976(昭和51)年刊行されました。その名の由来を冬二は以下の対談で明かしています。

 

田中 それが今の人たちは、どうも無頓着なんですね。それにもう一つ、詩をつくるに際しては、真実と虚構をミックスしなければならない。真実ばかりでは面白くありません。そうかといってフィクションばっかりでは、これは出鱈目になってしまう。そこを上手にミックスすることが必要なのです。
これは芭蕉でも蕪村でも既にやっていることです。元禄時代の芭蕉は、もうあの時代にストローでソーダ水を飲んでいたんです。実際、芭蕉はそんな感じがするじゃありませんか。蕪村の方は、享保の世の中にサングラスをかけていた。そうした明るい感じが蕪村にはありますね。
柏倉 「サングラスをかけた蕪村」というのは『四季』に連載された散文集のタイトルでもあるわけですね。
田中 虚虚実実という言葉がありますが、要はそのミックスの如何でしょうね。
柏倉 まさしく「サングラスをかけた蕪村」というのは言いえて妙で、あのタイトルを読みましたとき、サングラス姿の蕪村が髣髴(ほうふつ)といたしました。
田中 まあ、私の専売特許ですかね。
柏倉 あの場合はタイトルそれ自体が一篇の詩ですね。

              (雑誌『文芸広場』1980(昭和55)5月号、6月号)


もし蕪村が現代に生きていたら、サングラスをかけるようなしゃれたファッション感覚を持った都会人に違いないといっているのです。冬二が説いた、真実と虚構をミックスした好例でしょう。

詩集『サングラスの蕪村』には、日常見聞したこと、感銘したこと、ふと思い浮かんだことなど、(わず)か一行の詩的断片も含まれています。

「私は老年であるが、エスプリは燃え上がる青春の日のままである。そうした一面にはまた独楽が澄みきって廻っているような、しずかな心境を欲している。」という冬二の言葉にふさわしいあまたの詩句が載っていて、興趣が尽きません。

【注】エスプリ:エスプリはフランス語のesprit(精神、知性、才気)が語源。

   小粋で才気に富んだ精神。

 

【メモ】田中冬二 1894(明治27)年1013 - 1980(昭和55)年49

本名吉之助。銀行員の長男として福島県福島市栄町に生まれた。1901年(明治34年)に父が、1906年には母が相次いで亡くなったため、12歳で上京、叔父のもとで養育される。両国小学校、東華尋常小学校を経て、1909年(明治42年)立教中学へ入学。


この頃から文学に興味を持ち、投稿文芸雑誌『文章世界』や歌誌『アララギ』へ投稿。1911年(明治44年)、27歳で『文章世界』へ投稿した短文「旅にて」が特選(田山花袋選)となり、この時はじめて「田中冬二」のペンネームを使用。

1913(大正2)年、中学卒業後、早大英文科を志望、文学の道に進もうとするが、孤児としての境遇から生活のため進学を断念。叔父の関係する第三銀行(安田銀行、現富士銀行)へ就職。亡父と同業に就く。

以後、定年まで36年間、山陰を振り出しに、大阪、東京、信州、東北と各地を転々。銀行員下積み時代の地方での経験が後の文学的土壌となる。

大阪在勤の頃から詩作を始め、1921(大正10)年、27歳で詩誌『詩聖』へ投稿した作品が第一書房主長谷川巳之吉に評価される。1922年、銀座支店詰めとなり、長谷川巳之吉の絶えざる激励を受ける。1929(昭和4)年、第一詩集『青い夜道』を刊行。抒情的な風景詩人として詩壇に認められる。

1939(昭和14)年、長野支店長として長野県長野市妻科へ転勤。信州の土地柄を愛し、上諏訪支店長時代と合わせて「最も快適な時代」と語り、多くの詩作をしている。

1946(昭和21)年、転勤に伴い上京。東京都南多摩郡日野町豊田(1963年より日野市)に居を構える。当時日野に住んでいた伊藤整と交流。

1949(昭和24)年、銀行を定年退職、新太陽社の専務取締役となる。

1961(昭和36)年、詩集『晩春の日に』刊行、翌年同詩集で高村光太郎賞。

1970(昭和45)年、日本現代詩人会会長に就任。

1971(昭和46)年、紫綬褒章受章。

1980(昭和55)年、死去。85歳。

生涯に18冊の詩集を出版、句集、随筆集など著作多。

                 (肖像写真は黒部市のホームページより転載)


(この稿 完)




| 田中冬二 | 15:27 | comments(0) | trackbacks(0)
田中冬二 2
 第2話 誰にでも分かる言葉

       くずの花

        ぢぢいと ばばあが
        だまつて 湯にはひつてゐる
        山の湯のくずの花
        山の湯のくずの花

                  黒薙温泉

                   詩集『青い夜道』1929年


 

黒部市宇奈月の湯元、黒薙(くろなぎ)温泉を舞台にしたこの作品を発表した時に、ある評論家が「あのようなものなら、小学生の作文と同じ程度で、だれにでも書ける。」と言ったそうです。しかし、冬二は、なんと言われようとも気にしませんでした。誰にでも分かるやさしい言葉を用いて、格調高い詩を目指していたからです。

 

作者によると、富山県は仏教の盛んな所で、何事にも南無阿弥陀仏を唱える。この老夫婦も湯に浸かりながら念仏を唱えたが、それは省略され、〈だまって〉というのは、念仏の後の安らぎを表わしたといいます。この無念無想の静寂境(詩人鈴木亨評)を描くため、苦心に苦心を重ねること、半年を要したそうです。

【注】黒薙温泉は、富山県黒部市宇奈月温泉(旧国越中)にある温泉。黒部峡谷鉄道本線黒薙駅下車。駅からは徒歩20分。展望は良いが起伏が激しい登山道である。



       美しき夕暮れ

 

         山は美しい夕焼

        女はナプキンをたたんでゐる
        椅子にかけた その女は膝を組み重ねる
        すると腿のあたりが はっきりして燃え上るやうだ

        食卓 頑丈で磨きのよくかかった栗の木の食卓に
        白い皿 ぎんのスプーン ナイフ フォーク
        未だあかるい厨房では 姫鱒(ひめます)をボイルしてゐる
        夕暮の空気に 女の髪の毛がシトロンのやうに匂い 快い興奮と
        何かしら身うちに

        熱(ほて)るものをわきたてる

        山は美しい夕暮
        女はナプキンに 美しい夕焼をたたんでゐる

 

               詩集『晩春の日に』(高村光太郎賞)1961年



 

恩師の一人、詩人菊地貞三は「山荘の食卓で夕陽を浴びながらナプキンをたたんでいる女を泰西名画のような色調で描きあげた詩の魅力」(エッセイ集『詩に触る』)と評しています。

「極めてデリケートな感性が、選びぬき、細心の注意を払って構築した言葉による詩的空間。その独特のリリシズム。どの一語、どの一行にも意味の重さはなく」(同上書)と言われる通りです。

最終連の〈女はナプキンに 美しい夕焼をたたんでゐる〉という、詩の言葉でしか表現できない世界が冬二が追い求めたロマン――詩的美学を物語っています。

 

【注】シトロン1909(明治45)年にサッポロビールの前身である大日本麦酒によりレモン風味の炭酸飲料「シトロン」として発売。1915年以降、リボンシトロンと改称して現在に至る。

                               (この稿続く)



 
| 田中冬二 | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0)
田中冬二 1
第1話 ロマンを追う


       春

 

        すぺいんささげの鉢を

        外へ出してねてもよい頃となりました

 

        今夜から明日の朝にかけて

        太平洋の沿岸は

        暖い雨になるだろうと

        海洋測候所は報じています

                       詩集『青い夜道』1929年


 

詩人田中冬二を訪問したのは、1978(昭和53)年。冬二は84歳、亡くなる2年前のことでした。しかし、詩人の印象は気力に溢れ意気軒昂、高齢ながら矍鑠(かくしゃく)としていました。

冬二は「私は詩を書いて来て五十余年、顧みればそれは詩を書いて来たというよりも、ロマンを追ったことのようだ。そしてそのロマンが詩をもたらしたのだ」(詩集『サングラスの蕪村』前書き)と語っています。その詩精神は、一行二行の詩にも数ヶ月を要することさえあるという、詩の言葉に対する厳しい態度に裏打ちされていました。

 

『現代日本詩人全集 第11巻』(創元社)の「自伝」に、28歳頃書いた「蚊帳」の一篇が、詩誌『詩聖』(玄文社)に載らなかったら、おそらく以後詩を書かなかったろう、と綴っています。

 

「蚊帳」の一篇こそ、私の詩の運命を定めた鍵であったといえる。大正11年、私は銀座支店勤務となり上京した。「蚊帳」によって気をよくした私は詩作に精進した。しかし詩を語る友もなかった。この間私を不絶激励せられたのが第一書房の長谷川巳之吉氏である。                                 同自伝

 

【注】長谷川巳之吉(はせがわみのきち):堀口大學の訳詩集『月下の一群』(1925年)、上田敏の『上田敏詩集』等の多くの詩集を出版した「第一書房」の創業主。書物の美にこだわり、絢爛たる豪華本を刊行、在野精神と反アカデミズムの精神による長谷川の出版活動は、「第一書房文化」と讃えられた。

なお、1928(昭和3)年、岩佐又兵衛の名作「山中常磐物語絵巻」(現在はMOA美術館蔵)がドイツ人に売却されることを知り、家屋敷や他の収集品も抵当に入れて入手した逸話が、NHK教育テレビ「新日曜美術館」で紹介された。

 

1927(昭和2)年、33歳で詩集『青い夜道』が、翌年、『海の見える石段』が長谷川巳之吉の絶大な支援により第一書房より刊行されました。『青い夜道』の後書きで長谷川は、

「あのめまぐるしい 味気ない銀行の事務に あなたは身をゆだねながら、(たる)まず 静かな詩作に(ふけ)って来られた事を(おも)ふと、その勇ましいあなたの感情と、その(いぶ)しをかけたプライドとに、私はいひ得ない一種の感激を(もよ)ほすのであります。(中略)これからの日本の詩界がどういふ状態に展開して行くかは 私の予想を許さないのでありますが、(しか)し 私は あなたの詩集をもって日本の(きた)るべき詩界の序幕を照し、その指標としたいのであります。惟ふに我々の詩界は、余りにも日本的な香りを失って仕舞ひました。(中略)たとへ詩の本陣が時の(いきおひ)蹂躙(ふみにじ)られて 遂にトロヤの跡と化し去らうとも、あなたの この絶好の贈物を 喜んで受けいれてくれる人達の多いことを私は信じて疑はないものであります。本当にあなたの詩集は 私の感情に 限りなき滋味と慰めをもたらしてくれるのであります。」と惜しみないエールを送っています。

 

銀行勤務の傍ら、冬二と同じように詩作を続けた詩人に石垣りんがいます。

石垣りん先生は私のインタビューに対して、「私の作品が世の中で詩として取り扱われるようになった時、〈職場が育てた詩人〉と言われて納得しがたいものを感じたことがあります。職場は仕事の面で人を育てるかも知れないけれど、詩人などを育てていたら企業は駄目になりますよね。詩人を育てたかったら、徹底的に働かせたらいいと思うくらいです。私は自分が詩を書くということで甘やかされたくないし、家庭の中でも詩を書くということで甘やかされたくなかった。家庭や職場の仕事の中に完全に自分を放りこんで、 そこから何が出てくるかを味わってみなければ、ろくなものは書けないと思っています」

 

勤務時間中、職場の机の上で詩を書いたことはほとんどなかったといいます。銀行にいる限りは、まわりの人の顔色をうかがって、業績は上がらないながらも、夢中で仕事をやっていました。残業もたくさんやりました。何と大東亜戦争の始まった夜も残業していたそうです。

 

このような厳しい現実の中で鍛えられ、紡いだ詩だからこそ、息長く読者に愛読されているのかも知れません。田中冬二も、多忙な銀行の勤めから帰宅すると、夕食もそこそこに何よりも詩に集中したといいます。

 

家内と世間話をすることもなく、幼いものとも遊んでやらなかった。休日でも家族連れ立って、動物園や海水浴へゆくようなこともなかった。給料の大半は書物に費し、連休や公休日にはひとり旅へ出た。白骨温泉小谷温泉飛騨の平湯等へ。

                        高田敏子編『わが詩わが心』

 

悲しい出来事もありました。長女が不幸な境涯の中、22歳で自らの生命を絶って逝ったのでした。「詩文に惑溺(わくでき)していた私は、あまりにも家庭を顧みなかった。就中処女詩集『青い夜道』の出る頃が最も甚だしかった。今私は家族のものに本当にすまなかったと思っている。(中略)私は自分の過去を反省してみると、慚愧に堪えぬことが多く、それこそ懺悔録でも書かねばならぬようだ。そういう私はこれからを、せめて世の人々に温かく接してゆきたいと思っている」(同上書)

 

詩人村野四郎は作品「春」について、「一連で春の夜の温度と、花のにじんだ夜の湿度を充分に感じる。鉢の出されるのはどこか海べりの家の白いテラス。〈太平洋の沿岸は〉で、世界の気温のイメージを呼び起こす。南欧的カラーは堀口大學訳詩集『月下の一群』による」といいます。

冬二は「言葉のひとつひとつには、その意味のほかに硬軟、軽重はもちろん、匂い、味、性格、顔つきがある。詩を書くには、それを敏感に見分け、選びとる訓練を絶えずしなければならない」と説きます。例えば、〈すぺいんささげ〉という花は冬二が創作した架空の花の名です。言葉夫々の響きや匂いを作品に生かすため作りました。

この花は、スイートピーのような繊細な豆科の温室植物を作者は想定しています。

                               (この稿続く)




 
| 田中冬二 | 07:53 | comments(0) | trackbacks(0)
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