井上靖 3
 第3話 芸術家の悲劇


       生 涯

 

     若いころはどうにかして黄色の菊の大輪(たいりん)

     を夜空に打揚げんものと、寝食を忘れたものです。

     漆黒の闇の中に一瞬ぱあっと明るく開いて消える

     黄菊の幻影を、幾度夢に見て床の上に跳び起きた

     ことでしょう。しかし、結局、花火で黄いろい色

     は出せませんでしたよ。

     ――老花火師は火薬で荒れた手を膝の上において、

     痣(あざ)のある顔を俯向(うつむ)けて、こう言葉少

     く語った。

     黄菊の大輪を夜空に咲かすことはできなかったが、

     その頃、その人は「早打ち」にかけては無双の花

     火師だった。一分間に六十発、白熱した鉄片を底

     に横たえた筒の中に、次々に火薬の玉を投げ込む

     手練の技術はまさに神業といわれていた。そして

     いつも、頭上はるか高く己が打揚げる幾百の火箭

     (ひや)の祝祭に深く背を向け、観衆のどよめきか

     ら遠く、煙硝のけむりの中に、独身で過した六十

     年の痩躯(そうく)を執拗に沈めつづけていた。 

                        詩集『北国』1958年



この作品は花火師に託して、作家の宿命が語られています。創作家は誰もがオリジナリティー豊かな作品世界を目指します。でも、それを達成できるのはごく一握りの者であって多くは無念の思いで文壇から脱落していきます。ただ、長年の文学的修練によって、職人的な表現技術だけは熟練してきます。文学賞は取れなくても、売文作家として熟練した「職人として生きていくことはできます。

しかし、そこには若い日に夢見たような独創性溢れる芸術作品はありません。花火師に譬えれば、〈黄菊の大輪を夜空に咲かすことはできなかったが、その頃、その人は「早打ち」にかけては無双の花火師だった。〉ということになります。

 

作品タイトルの「生涯」は、芸術家の生涯です。創作活動の厳しさと挫折の悲劇を、一篇の寓話に託して語れるのは、作者に作家的技倆があればこそと思えます。

 

【メモ】井上 靖 1907(明治40)56 – 1991(平成3)129北海道旭川町(現在の旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家である。父・隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿である。父が軍医で任地を転転としたため、幼少期は父の故郷伊豆湯ヶ島で過ごす。

                     (写真は井上靖文学館のサイトより転載)

1912年(大正元年)、両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられる。

1914年(大正3年)、湯ヶ島尋常小学校(後の伊豆市立湯ヶ島小学校。現在は閉校)に入学。

1927年(昭和2年)、家業の医学を修めるつもりで金沢市の第四高等学校(現在の金沢大学)理科に入学したが、柔道部に入り明けても暮れても道場に通う。

1929年(昭和4年)、柔道部を退部。医学に進む気はなく、一時離れていた文学活動を本格化。

1930年(昭和5年)、第四高等学校理科を卒業。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩作活動に入る。家族の期待に反して、九州帝国大学法文学部英文科へ入学。

1932年(昭和7年)、九州帝大中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学、美学を専攻。

この頃から懸賞小説に連続して入選する。

1935年(昭和10年)京都帝大教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。

1936年(昭和11年)、京都帝大卒業。『サンデー毎日』懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊、学芸部へ復帰。部下に山崎豊子がいた。

戦後は学芸部副部長をつとめ、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にもかかわる。

1950年(昭和25年)、『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。

1951年(昭和26年)、毎日新聞社を退社。以後創作の執筆と取材講演のための旅行が続く。

1964年(昭和39年)、日本芸術院会員となる。

1976年(昭和51年)、文化勲章受章。

1982年(昭和57年)以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。

1988年(昭和63年)、ならシルクロード博覧会総合プロデューサーを務める。

1991年(平成3年)、食道がんのため死去。戒名は峰雲院文華法徳日靖居士。墓所は静岡県伊豆市、葬儀委員長は司馬遼太郎。

2007年(平成19年)、井上靖生誕100周年を記念して『風林火山』が大河ドラマとして放送された。

 

【受賞歴】

1936年(昭和11年) 『流転』で第1回千葉亀雄賞

1950年(昭和25年) 『闘牛』で第22回芥川賞

1958年(昭和33年) 『天平の甍』で芸術選奨文部大臣賞

1959年(昭和34年) 『氷壁』で日本芸術院賞

1960年(昭和35年) 『敦煌』『楼蘭』で毎日芸術賞

1961年(昭和36年) 『淀どの日記』で第12回野間文芸賞

1964年(昭和39年) 『風濤』で第15回読売文学賞

1969年(昭和44年) 『おろしや国酔夢譚』で第1回日本文学大賞。ポルトガル・インファンテ・ヘンリッケ勲章。

1976年(昭和51年) 文化勲章、文化功労者

1980年(昭和55年) 菊池寛賞

1981年(昭和56年) NHK放送文化賞・仏教文化賞

1982年(昭和57年) 『本覚坊遺文』で日本文学大賞

1985年(昭和60年) 朝日賞

1986年(昭和61年) 北京大学より名誉博士号

1989年(平成元年) 『孔子』で第42回野間文芸賞

               (ウェブ百科事典「ウィキペディア」を基に構成)


                                  (完)

| 井上靖 | 12:03 | comments(0) | trackbacks(0)
井上靖 2
第2話 悲劇の明るさ

 

      川明り

                 井上  靖

 

     石の階段が水面に向って落ち込んでいた。満潮の

     時は階段の半分が水に没し、干潮の時は小さい貝

     殻と()をつけた最下段が水面に現れた。ある

     夕方、そこで手を洗っている時、石鹼(せっけん)

     がふいに手から離れた。石鹼は生きもののように

     尾鰭(おひれ)を振って水の中を泳ぎ、あっという間

     に深処(ふかみ)に落ち込んでいって姿を消した。

     あとには、もうどんなことがあっても再び手の中

     には戻らぬといった喪失感があった。これは幼時

     の出来事だが、それ以後、私はこのように完全に

     物を(うしな)ったことはない。川明りがいかなる

     明るさとも違って、悲劇の終幕が持つ明るさであ

     ることを知ったのもこの時だ。

                詩集『運河』1967年

 

 

        輸送船

 

     初冬の海峡におそい月が出た。刃のような三角波

     がくろい海面を埋め、くらげの息をひそめた眼が、

     時折、波間から月をうかがっていた。その中を燈

     火管制した輸送船は動くともなく動いて行った。

     満載した兵隊の一人をも(こぼ)すまいとするか

     のように――。

     いったい、いつ、どこへ上陸するのか――誰一人

     知っている者はなかった。内地の最後の灯だとい

     うどこかの燈台を、右舷(うげん)はるかに見送って

     しまうと、兵隊たちは申し合せたように船底に降り

     て、(おどろ)くほど深い睡りに落ちた。潮流のそ

     こここに無数の花が開き、祝祭にも似た異様な明る

     さが、この不思議な船に立てこめ始めたのは、確か

     にその頃からだった

                   詩集『北国』1958年



 

作品「川明り」の中の〈もうどんなことがあっても再び手の中には戻らぬといった喪失感〉は私にも身に覚えがあります。

幼い頃、お祭りで買ってもらった風船を家に帰り着く間際で、うっかり手放してしまいました。屋根よりも高く昇っていく黄色い風船と、その背景の空の青さは、何十年経っても目に鮮やかに浮んで来ます。他のものをなくしたのなら、駄々をこねてまた買ってもらったでしょうが、その時は、子供心にも、もう絶対に手許に戻ってこないという実感に打ちのめされて、しょんぼりとして家路につきました。

 

後半部の〈悲劇の終幕が持つ明るさ〉という詩句は、人生的悲哀が極まった後の放心、虚心。あるいはすべてを失った心身の軽さ、というものを〈明るさ〉と呼んだのでしょう。

 

この〈悲劇の終幕が持つ明るさ〉は、作品「輸送船」の〈祝祭にも似た異様な明るさ〉と同質に違いありません。兵士達は敵の潜水艦攻撃によって、いつ撃沈されるかわからぬ絶望的な運命に身を委ねています。乗船すればどこにも逃げ場はありません。生命が助かるかもしれないといった希望は無に等しい。皆、生を諦めて死を受容しています。だから、死地へ赴くにもかかわらず、〈愕くほど/深い睡りに落ちた〉のです。〈異様な明るさ〉とは、人が極限状況を受け入れた時の、迷いや憂悶のなくなった諦観の明るさといってよいでしょう。

                               (この稿続く)


| 井上靖 | 21:09 | comments(0) | trackbacks(0)
井上 靖 1
第1話 詩の保存器


 

      詩集『北国』あとがき()

 

      私はこんど改めてノートを読み返してみて、自分の作品

     が詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さ

     な箱のような気がした。これらの文章を書かなかったら、

     とうにこれらの詩は、私の手許から飛び去って行方も知ら

     なくなっていたに違いない。併し、こうしたものを書いて

     おいたお蔭で、一篇ずつ読んで行くと、(かつ)て私を訪れた詩

     の一つ一つが――ふと私の心にひらめいた影のようなもの

     や、私が自分で外界の事象の中に発見した小さな秘密の意

     味が、どこへも逃げ出さないで、言葉の漆喰塗りの箱の中

     の隅の方に、昔のままで閉じ込められてあるのを感じた。
      そういう意味では、私にとっては、これらの文章は、詩

     というより、非常に便利調法な詩の保存器であり、多少面

     倒臭い操作を施した詩の覚え書きである。覚え書きなら、

     二三行に書きつけておいてもいいわけだが、私はその何倍

     かの言葉を使って、詩の覚え書きを、比較的堅固頑丈なも

     のにしたわけであった。


井上靖は北海道に生まれ、伊豆で育ちました。京都大学美学科を卒業後、毎日新聞社の記者の(かたわ)ら、昭和22年に小説『闘牛』、翌年『猟銃』を執筆し、『闘牛』で芥川賞を受賞。それを期に多忙な作家生活に入りました。その後、幾多の名作を発表して、文学賞のほとんどを独占。しかし、小説家として活躍する一方、詩作の筆を絶たず、詩集『北国』『地中海』『運河』などを出しています。

 

『北国』の後書きには、小説家としてデビューする前の約20年間、50篇の詩を生み出したと語っています。欧米では小説家となる前に詩を書くのが一般的ですが、日本では希有な例でしょう。この種の小説家としては、島崎藤村、室生犀星、他に伊藤桂一(戦記文学・直木賞)、清岡卓行(芥川賞)などが挙げられます。


井上靖の小説には、詩のモチーフを発展させたもの、また詩作品と同名のタイトルが多く、引き比べて読むと詩と小説の関係について一層興味深い発見があります。

井上靖の詩の表現形式は、ほとんど散文詩です。散文詩とは、詩人村野四郎が「井上の詩には、小説と同じ題名のものが多くありますが、そうした詩は、すべて小説を極度に圧縮したもので、この圧縮作業によって散文的な要素、つまり説明的叙述が次々に取り除かれ、ついに濃密な詩的要素だけが凝結して残ります。それが散文詩の形をとっているのです」(村野四郎『現代詩入門』)と定義しています            

 

特筆すべきは、詩集『北国』の後書きで井上靖自らが散文詩を「詩の保存器」と命名していることです。自作は「詩」ではなく、詩が逃げないように閉じ込めた小さい箱にすぎないと。この呼び方はとても謙虚な印象を与えますが、散文詩が見かけ上は散文の形を取っていることを考えると「形式は散文でも中味は詩である」と訴えているようにも思えます。そして何よりも、知的で精密な構成力と乾いた非情な文体が、高度で清冽な詩情を結晶させています。

 

「詩の保存器」について恩師高田敏子先生が触れています。

「(後書きの中で一つ注意していただきたいことは「詩」という言葉が、詩の素の感動、発見を指す場合と作品としての詩を指す場合に使われていることで、そこを読み分けなければなりません。多分おわかりと思いますが)
「詩の保存器」とは「感動(発見)の保存器ということです。感動が逃げないように、鮮やかによみがえるように、堅固頑丈にするとは、言葉をしっかりと緻密ていねいに組立てて書くという意味です。
野火の例会(注・高田敏子主宰詩誌の月例合評会)で先生方の作品評が、言葉の不備についてを指すことが多いのは、この保存器をしっかりさせることにあてはまります。内容はどんなによくても、言葉の組立てがあやふやだと作者の感動は伝わりません。
では、その言葉の組立法はどうすればよいか、それは言葉を学ぶ以外にありません。辞書で学び、人の書いた文章よく読んで、学ぶ興味を持つことから、言葉を豊かに持つことができます。でもまた、言葉をたくさん知ったからといって、それをならべ使うだけでは駄目で、多くの言葉の中から、内容にふさわしい言葉を選ぶことをしなければなりません。作品の持ち味とは、その言葉できまり、それがまた、その言葉を選び出した作者の人柄に通じます。
言葉は少なく内容をゆたかに、が、詩の特徴でもありますから、余韻を生かす使い方なども工夫することでしょう。
そうした書く技術となると、その習得にはある年月がかかるといえますけれど、言葉とは、私達の日常の中でいつも使われ、誰もが使い持っているものですから、上手な組立てとはまた別に、その人らしい言葉使いの魅力もあって、詩の自由さ、たのしさもそこにあるのでしょう。自分を無邪気にこめる天心らんまんさも必要ですね。
詩を書く心には、いろいろな要素があって、それは結局生きてゆくのと同じの心の柔軟性を持つことではないでしょうか



 

     比良のシャクナゲ

     むかし写真画報という雑誌で猗耄匹離轡礇ナゲ

     の写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡

     のような湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、

     あの香り高く白い高山植物の群落が、その急峻な

     斜面を美しくおおっていた。
     その写真を見た時、私はいつか自分が、人の世の

     生活の疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、

     まなかいに立つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の

     小さい軽便鉄道にゆられ、この美しい山巓(さんて

     ん)の一角に辿りつく日があるであろうことを、ひ

     そかに心に期して疑わなかった。絶望と孤独の日、

     必ずや自分はこの山に登るであろうと――

     それからおそらく十年になるだろうが、私はいま

     だに比良のシャクナゲを知らない。忘れていたわ

     けではない。年々歳々、その高い峰の白い花を瞼

     に描く機会は私に多くなっている。ただあの比良

     の峰の頂き、香り高い花の群落のもとで、星に顔

     を向けて眠る己が睡りを想うと、その時の自分の

     姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひたすらな

     る悲しみのようなものに触れると、なぜか、下界

     のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥雑な

     くだらぬものに思えてくるのであった。
                      詩集『北国』1958年


 石楠花は高山種の花木で渓谷に自生しています。新緑の季節に、ツツジに似た大形の花を枝先に咲かせます。作者は写真で見た、孤高に咲く花の清浄無垢な白さが目に焼きつきます。そして〈絶望と孤独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと〉心に誓います。が、その時が現実に到来しても足は山に向かいませんでした。その理由は作中では述べられてはいません。(写真は、ウェブサイト「Key:雑学事典」より転載)


おそらく、石楠花の群落地帯は作者にとって立ち入ってはならない「聖域」のようなものだったのでしょう。高貴な花々に囲まれた清浄な哀しみを、猥雑な下界から遠く想像することで、〈人の世の生活の疲労と悲しみ〉に疲弊した心を清め――この世の絶望も孤独も空無なものとして――自分を慰撫していたのかも知れません。
(写真は、比良山より琵琶湖を望む。ウェブサイト「ふるさと滋賀の自然とのふれあいコーナー」より転載)


この「比良のシャクナゲ」のように井上靖の詩学は、「花、星など自然美が象徴するような、永遠的なものに触れた時に感じる、人間というものの卑小さ、憂愁の思いを特徴としている」と詩人大岡信が述べています。
これは私たちも日常で経験のあることでしょう。高層ビルから街並みを見下ろして、人の営みの空しさや哀しみを感じる時。星を見上げて自分の悩みのちっぽけなありようを思う時。荘厳な夕焼けの景色に目を奪われて、自分の存在を忘れる時。
私達も我知らず、日々の暮らしの中で、永遠的なものに触れるひと時を過ごしているのかも知れません。

そして、詩を書く者の胸には、「比良のシャクナゲ」のような孤高な聖域が宿っていることでしょう。

                         (この稿続く)


 
| 井上靖 | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0)
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