大木実 5
 第5話 平明の美

           裸木

 

       日曜日の昼

       買物かごをさげ

       近くのパン屋へ出かける

       妻に頼まれた

       食パンを一斤買う

 

       若いときにはあった

       気どりはなくなった

       若いときには見えなかった

       もののすがたが

       ふしぎに視えるようになった

 

       ひとのこころの

       嘘とまこと

       みてくれのまやかし

       うつくしいものとみにくいもの

       年齢(とし)をとったということだろう

 

       老いはみにくいか

         ノン

       老いて美しく

       静かに死んでゆかねばならぬ

       葉を落として輝くあの裸木のように


               詩集『夜半の声』1976年



 

実直な生活者として真摯(しんし)な半生を歩んで来た作者であればこそ、〈若いときには見えなかったもののすがたが/ふしぎに視えるようになった〉という言葉が読者の胸に深く響きます。「その平易な表現には、磨かれたような美しい言葉の選択があり、しかも親しみやすい体温がある」(詩人村野四郎)と讃辞を贈られる通りです。

 

余分な飾りの言葉を切り捨て、心から見栄といった爐砲瓦雖瓩鮗茲蟲遒蠅気辰禿達した平明な言葉の美――「裸木」とは大木実の詩業そのものを象徴する作品ではないでしょうか。

 

ただ、現実がいつも目の前にあり、いくら生活から題材を採るといっても、それが常識的なものであってはいけないといいます。

作者自身が語った次の言葉には、詩を書き、読む者へのエッセンスが満ちています。

 


 

     大木 実の言葉(高田敏子主宰詩誌より抜粋)

 

    ○詩は作ろうとして作れず、作ろうとしなければ作れない。詩は作

    るものだが作りものであってはならないだろう。厄介な微妙な生き

    ものだ。

 

    ○よい詩とよくない詩がある。よくない詩は書き足りない詩、書き

    過ぎた詩、未熟な詩、推敲の不足な詩である。よい詩はまことのあ

    る詩、そして現しかたのうまい詩である。まことは嘘まことのまこ

    とである。まことは事実とも違う。うまい詩でもうまさが表面に出

    過ぎている詩は私は好きでない。騒がしい詩、身振りの大きい詩も

    好きではない。

 

    ○詩はそこに現されただけのものではなく、現されない、現すこと

    のできない、何かを、その背後に感じさせる、そういう詩こそ詩な

    のだと思う。

 

    ○ものを書くということは後に恥を残すことでもあろうか。けれど

    恥をおそれては、すくなくとも詩や小説はかけまい。

 

    ○数年来、私は散文詩形を好み、散文詩形で書くものが多くなった。

    詩に現したい私の感情は激情ではない。感情の強弱の波が淡い。ず

    うっとなだらかに続いていく情感は、行を切らずに、散文詩形で現

    す方が自然でありふさわしく感じられるのである。


 

【メモ】大木 実 191312101996417。大正2年、東京・本所(ほんじょ)(墨田区)生。現在総武線・北側一体の地。電気学校中退。

7歳で母と死別。11歳、関東大震災で義母と弟妹を喪う。13歳、三人目の母逝去。14歳、四人目の母を迎える。16歳で室生犀星『愛の詩集』に親しみ、同人詩誌に参加。1939(昭和14)年、尾崎一雄の尽力で砂小屋書房に就職。同年、26歳で処女詩集『場末の子』上梓。

1940(昭和15)年、丸山薫の推輓で「四季」同人。1941(昭和16)年、

結婚。その二ヶ月後、召集。1946(昭和21)年、復員。1948(昭和23)年、35歳から埼玉県大宮市役所勤務。「決まった収入は得られるが、壮年期の大事な時期の時間とエネルギーの多くを失う。詩で生計は立たず、恒産なく商人に向かない自分は適当な勤め口を持って働くより仕方がなかった」勤めて4年後、結核を患う。その後十年間、勤めながら療養生活。27年間、地方公務員として後半生を過ごす。大宮時代の「前半は貧乏と病気で苦しんだ」

1984(昭和59)年、古希を記念し既刊12冊を集成し『大木実全集』(潮流社)上梓。

1989(平成元)年、『現代詩文庫大木実詩集』(思潮社)。

1992(平成4)年、『柴の折戸』で第10回現代詩人賞。

1996(平成8)年、遺稿詩集『年暮れる』(潮流社)

             (肖像写真は、Webサイト「埼玉の文学-現代編-」より転載)


                                (完)

 

   
| 大木実 | 11:56 | comments(0) | trackbacks(0)
大木実 4
 第4話 日本のマイナー・ポエット


       

 

     何ということなく

     妻のかたわらに()

     煮物をしている妻をみている

     そのうしろ姿に 若かった日の姿が重なる

 

     この妻が僕は好きだ

     三十年いっしょに暮らしてきた妻

     髪に白いものがみえる妻

     口にだして言ったらおかしいだろうか

 

       きみが好きだよ

 

     青年のように

     年の日のように

                    詩集『夜半の声』1976(昭和51)


この作品を見た詩の仲間の主婦の方が、「私も、きみが好きだよと、こんなふうに言われてみたい」と羨ましがっていました。心の中で愛していても、なかなか口には出せないもの。特にある年齢以上の人には。


臆面もなく妻が好きだと言って、のろけにも嫌味にもならないのは、作者の実直な人柄に他なりません。大木先生のお宅を訪問した時、お宅の前で夫婦仲良く並んで出迎えて下さいました。奥様はふっくりとした包容力のある方で、お似合いのご夫婦でした。


 

        チェロのように

 
 

      好きな曲をひとつだけ挙げよと問われたら、私はすこしためらい

     ながらも、ドボルザークの「チェロ協奏曲」を挙げるだろう。華麗

     で清燈な哀感をたたえるモーツアルトの数多い「ピアノ協奏曲」

     も好きだし、淡くさりげなく夢幻的な世界へ誘いこむドビッシイの

     洗練された情感も好きだが、それにくらべるとき、野性的ではある

     が生き生きとした生命感に溢れる、この曲を私は選びたい。

      古来「チェロ協奏曲」は数がすくなく、ドボルザークにもこの一

     曲しかない。ドボルザークのこの曲の旋律と和声が好きなのは勿論

     のことだが、それにもまして私がこの曲に惹かれるのは、どうやら

     チェロの持つ音色にもよるようだ。つぶやくように、口ごもるよう

     に、ときに激しい情熱をこめて、語り訴えてくるぶこつで渋く低

     い音色  

      私の詩もチェロのようであれ。

     バイオリンのように、ピアノのように、多くのひとから好まれ愛さ

     れる華やかさは持たないが、僅かのひとに親しまれ、こころに深

     く通いたい。

                          詩集『夜半の声』1976年

 

「誰にとっても愛されるマイナー・ポエットのルイ・フィリップそして大木実」――詩集『冬の支度』(1971年刊)に詩友丸山薫が贈った序文の一節です。マイナー・ポエット(小さな詩人)を(おの)が分と知って生きた詩人への、最上の献辞といえるでしょう。

(注)シャルル・ルイ・フィリップ1874 - 1909年)フランスの作家。セリイという小さな町に木靴職人の子として生まれる。リセ卒業後パリに出て、市役所勤めのかたわら創作活動。35歳で夭折。死後出版された短編集『小さな町で』、書簡集『若き日の手紙』など。

 

日本のマイナー・ポエット、大木実。高村光太郎が詩集『故郷』に寄せた跋文が、その詩業の到達点を余すことなく現しています。

「今の世にこれほど率直な、ありのままの詩を見るのは珍しい。しかもそれが正しい技術によってゆるみなき表現を持ち、おのずから人間生活の深い実相と感動とを人にさとらしめる。書いているところはほんの身辺の日常時であるが、それが不思議に瑣末の感を起こさせず、凡俗の気をきれいに絶っている。(略)素直な芸術というと、人はよく稚拙の美を連想しがちであるが、この詩人は決して稚拙ではない。むしろつつましいが潔癖なくらいの語感を持っていて、それで甚だ自由に的確に、いかにも表現に値するだけのものを表現している。(略)日本に於ける質素な、かくれた生活そのものの詩が、さびしいけれども決然とした覚悟を以てひびいて来る。われわれ日本人の持つ一つの美しい資質が此所にあると思うのは喜である」

 

「チェロのように」の一節、〈私の詩もチェロのようであれ。/バイオリンのように、ピアノのように、多くのひとから好まれ愛される華やかさは持たないが、僅かのひとに親しまれ、こころに深く通いたい。〉と、作者自らマイナー・ポエットの心を伝えています。

                               (この稿続く)



| 大木実 | 12:01 | comments(0) | trackbacks(0)
大木実 3
 第3話 自己観照の目

 

     鶴岡(つるがおか)八幡宮

   

     鶴岡八幡宮の石段にたち

     娘は目をかがやかせ眺めている

     その横顔は 若かった日の妻の横顔にそっくりおなじだ

 

     戦争のはじまった年だった

     一日 鎌倉の町を妻とふたりで歩いた

     八幡宮から長谷の大仏 そして由比が浜

 

     幸せにしてやるつもりだったが

     暮らしの苦労ばかりさせてしまった

     鎌倉のほか どこへも連れていかなかった

 

     このごろ娘は目にみえて

     若かった日の妻ににてくる

     色が白くて ふっくらとした頬のあたりは

 

     ぼくのようなものといっしょになって

     妻には気の毒なことをしてしまった

     鶴岡八幡宮の石段にたち 僕は妻に詫びたくなった

 

                 詩集『月夜の町』1966(昭和41)年



戦後の窮乏の中で、質屋へ行く詩、お米のキロ買いの詩を書き、若い詩人から「要するに彼の詩は生活の愚痴ではないか」と決めつけられます。

「でも、その時に僕は反省したんです。批判を逆手にとって居直ることを覚えました。自分はこういう者だから仕方がないという気持ちですね。まあ、弱さに徹しようと思ったわけですよ。後は人が何と言おうとかまわないわけでしょ。

ただ、そのように指摘される前には確かに(にご)り瓩あったように思います。夾雑物というのかしら、飾り、見栄といったものがそれ以前にはあったわけですが、この辺からそういうものがとれたような気がしますね」(インタビュー)

 

弱者であることを自ら自覚し、同時期、結実したのが「鶴岡八幡宮」でした。

詩を詩たしめるものは自己観照の目であると詩人は説きます。

「自己観照とは、詩を書く自分を見ているもう一人の自分がいることですね。例えば、鶴岡八幡宮という詩は僕が本当に泣きながら書いたんですよ。けれど一方では涙を流している自分を見つめている目があるんです。それがあの詩を書かせたんですよ。だから詩人は二つの分身を持っていると思うんですね。物事に感激して涙を流す自分と、それを客観的に眺めるもう一人の自分。その二つがうまく噛み合った時に詩になるんじゃないでしょうか」(インタビュー)


                               (この稿続く)



| 大木実 | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0)
大木実 2
 第2話 観念よりも現実


       前へ 

 

     少年の日読んだ「家なき子」の物語の結びは、こういう言葉で終っている。

       前へ

     僕はこの言葉が好きだ。

 

     物語は終っても、僕らの人生は終らない。

     僕らの人生の不幸は終りがない。

     希望を失わず、つねに前へ進んでいく、物語のなかの少年ルミよ。

     僕はあの健気なルミが好きだ。

 

     辛いこと、厭なこと、哀しいことに、出会うたび、

     僕は弱い自分を励ます。

       前へ。

                 詩集『冬の支度』1971(昭和46)年


 

一読して何の解説もいらないほど平明な、やさしい詩です。

「家なき子」はフランスの小説家マロが百年余り前に書いた児童書で、不朽の名作として世界的に評価されています。「希望を捨てずに頑張れ」とか、「負けずに前へ進もう」という言い古された呼びかけでは、あまり心に響きません。作者が感動した「家なき子」の言葉であればこそ、人の胸に残るのではないでしょうか。

 

詩の題材を質実な生活性に求める姿勢は、詩人の生い立ちにも深く関わっていました。大木先生をご自宅に訪問した際のインタビューに答えて、

「僕は小さい頃から苦労が多くて、母親を早く亡くしましたし家が貧乏だった。だから気持ちの上で観念の詩に遊ぶ余裕がなかったんです。観念よりも現実がいつも僕の前にあったんですよ。始めから現実にぶつかっていたから観念の方へ入っていくゆとりがなかったんですね」と語っています。

 

自筆年譜の昭和16年(28歳)の頃にはこう記されています。

「結婚。同年末召集をうける。終戦の翌年春サイゴンから復員。同年東京から埼玉へ転居。23年(35歳)から大宮市役所(埼玉県)へ勤め、その後27年間地方公務員として後半生を過ごす。その前半は貧乏と病気で苦しんだ」

「初雪」という作品には、同年12月、召集を受けた時の煩悶が綴られています。

 

       私は去年の日記を読んでいた

       十三日 妻病む

       十四日 終日風強く寒し

       十五日 初雪降る 積らず

       十六日 妻入院す

       十七日 召集令状を受く 夕方ひとり飲む

       十八日 妻を見舞う 告げず

       十九日 告げず

 

闘病中の妻に余計な心配をかけまいと、自分の召集を秘しておこうとする思いが、告げず〉という簡素な言葉に籠っています。

このような苦境の中で、作者はことある毎に「家なき子」の言葉を思い出し、自分を励まして来たのでしょうか。 

                                (この稿続く)

 


| 大木実 | 08:41 | comments(2) | trackbacks(0)
大木実 1
第1話 言葉はやさしく 思いは深く

 

        自伝     大木  実

 

          大正のはじめ

          東京本所の

          場末の町で

          生まれ

          父は電気工夫

          母は農家の娘

          路地で遊び

          貧しく育ち

          学び

          働き

          文学へあこがれ

          恋愛し

          結婚し

          戦争へゆき

          生きて還って

          埼玉に住み

          市役所へ勤め

          病気し

          貧乏し

          詩を書いて五十年

          詩集十冊あまり

          特記事項

          無し


現代詩人の中で、大木実ほど平明でわかりやすい詩を書く詩人は他にいないと思われます。16歳で室生犀星の『愛の詩集』に親しみ、詩とは思っていること感じたことを、思ったように感じたように、平明に正直に書けばよいのだということを悟りました。

生涯を貫く詩観の萌芽は犀星にあったと、恩師高田敏子主宰詩誌に掲載した自伝エッセイで述懐しています。

 

大木実は1913(大正2)年、東京・本所に生まれました。7歳で母と死別。11歳、関東大震災で義母、弟、妹を喪います。13歳、三人目の母の死去。14歳、四人目の母を迎えます。生母の記憶はなく、歳月が美化したイメージかも知れぬが、「幸せではなかったひとのように思えてならない」(同上エッセイ)と。そして自身も「暗い前半生であった」と。

 

1939(昭和14)年、26歳で尾崎一雄の尽力により砂小屋書房(太宰治の処女創作集『晩年』を出版)に就職。同年、処女詩集『場末の子』上梓。「いかにも都会の片隅、場末のまずしい街の生活がよくあらわれている。人間のいとなみのさびしさ、曇った日々のような庶民の生活が、しみじみと身にしみるような作品である」と評論家・吉田精一が温かい評言を寄せています。

 


        みそ汁や握り飯など

 

      味噌汁の煮える匂いに眼覚めると

      母はいつもお勝手にいた

      かまどの前にしゃがんでいる母の顔はあかかった

      母はときどき私の好きな握り飯をにぎってくれた

      その握り飯は香ばしく熱かった

 

      味噌汁の煮える匂いで私はいまも眼覚める

      味噌汁の煮える匂いを嗅ぎながら

      寂しかったであろう母のあけくれや短かった二十七歳の生涯をおもう

 

      母は私に子守歌もあかるい笑いも遺してはくれなかった

      母が私に遺してくれたものは

      朝味噌汁をつくっていたうしろ姿と幼い日

      息をふきふき喰べた握り飯の味であった

 

                   詩集『屋根』1941(昭和16)年

 

 

私は若き日に大木実先生のお宅に伺ってインタビューする幸運に恵まれました。

「穏やかで、静かで、時にはにかむ、決して重苦しくなく、控え目で、丹念で、抒情に孤独感がにじむ」(詩人川崎洋)という詩人像の通り、(じか)に触れた実直で温かな人柄は深く私の胸に刻まれました。

 

『場末の子』には、明らかに犀星の影響があり、犀星の持つ質実な生活性と、佐藤春夫の清新な抒情性を合わせた詩を願ったといいます。「みそ汁や握り飯など」は、まさに〈庶民の生活が、しみじみと身にしみるような作品〉に違いありません。

 

「私の気持が明るく快活になり、透明になってきたのは、詩が私をあわれんで私にお返しをしてくれているのである。詩が私の生きる支えとなってきた、などという言い方は嫌味でありオーバーだが、私の生活、私の人生、いまとなってみると詩のほかに何もなかった。詩と出会い、詩を知ったことは確かに私にとって幸せなことであった。けれど一方では、或いは不幸なことであったかもしれない。(えら)くなろうとか、おかねもうけをしようとかいう気持を、私は早くから失くしてしまった。そういう才覚が私に欠けているとしても」(同上エッセイ)

                                (この稿続く)


| 大木実 | 17:13 | comments(2) | trackbacks(0)
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