石垣りん 7
 第7話 甘えぬ愛



       その夜


         女ひとり

         働いて四十に近い声をきけば

         私を横に寝かせて起こさない

         思い病気が恋人のようだ

 

         どんなにうめこうと

         心を痛めるしたしい人もここにはいない

         三等病室のすみのベッドで

         貧しければ親族にも甘えかねた

         さみしい心が解けてゆく、

 

         あしたは背骨を手術される

         そのとき私はやさしく、病気に向かっていう

         死んでもいいのよ

 

         ねむれない夜の苦しみも

         このさき生きてゆくそれにくらべたら

         どうして大きいと言えよう

         ああ疲れた

         ほんとうに疲れた

 

         シーツが

         黙って差し出す白い手の中で

         いたい、いたい、とたわむれている

         にぎやかな夜は

         まるで私ひとりの祝祭日だ。

 

             詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』1959年



詩人と呼ばれる人たちは、自作について解説文を書く者はあまりいません。解説すればするほど、自分の作品の欠点の言い訳をするような後ろめたさを感じてしまうのかも知れません。
その中で、石垣りんは自作について実に多くの解説や、創作時の背景を細かく丁寧に綴っています。ですから、初めて作品に触れる人にとってはとてもありがたい、読者サービスに溢れた詩人と言えるでしょう。

父親が亡くなった翌年、作者は背骨の手術をうけました。「その夜」は、入院中の苦闘を描いたものです。石垣りんは、親が生きている内に大きな病気をしなくてよかったと語っています。手術後、四度目に迎えた母親の介護をすることになります。作者の家庭環境は複雑で、生母が亡くなった後、後妻を迎えても次々に他界や離婚が相継ぎ、病弱の父親と、実の兄弟と連れ子達が共に暮らす大家族となっていました。そして、この一家の家計を女手ひとつで支えていたのが、石垣りんでした。

自分が大病をしなくてよかった、という言葉の中には、働き手である自分が倒れたら一家が路頭に迷うという危機感があったからでしょう。

「私は自分の中に愛がないと思っています。というのは、愛ということばを厳密に考えるとき、それは執着とか憎悪とか、要求などということばに置き換えられてしまう場合が、私にとって多すぎたからです。それでもわずかながら愛情のようなものがあったとすれば、〈貧しければ親族にも甘えかねた〉という一行の中に含まれているのかもしれません。」
                 石垣りん編『家庭の詩』「喜びも悲しみも豊かに」

貧しければ親族にも甘えかねた、という言葉は、あまりにも苦労の多い親族に、これ以上の心配をかけたくないという願いから生まれたのでした。「病院というところなら、気がねなく自分の病気に甘えられるという解放感がありました」と。家族に甘えないということが、作者にとってぎりぎりの愛であったというのです。

家族に甘えず、痛苦を精一杯こらえることが、家族の者がもっとしあわせになるために役立つと思い込んでいました。しかし、60歳になってそれは思い上がりだと気がつきました。

「人間がほかの人間に向かって、幸福にしてあげられる力など限られたもので、みんな、自分の力で幸福になる以外にないということ。幸福とはそういうものではないか、と」
                                  同上エッセイ

私はこの自作自注を読んで、石垣りんという詩人は、なんと自分に厳しい、厳し過ぎるほど自分に対決してきた人かと、改めて感銘を受けました。他にも、平明な言葉で綴られた、詩を書く上で座右の銘となるような珠玉の言葉が数々あります。最後にそれらを紹介して、この連載を閉じたいと思います。


 

○私が好きなのは実用的な詩です。使いものになる詩。飾ってながめるのではなく、くらしにかかわる力を持った、働きのある詩です。

                  エッセイ集『ユーモアの鎖国』北洋社

 

○こんど出した詩集(『表札など』)にユーモアがある。という批評ほど意外なことはありませんでした。精一杯書いた私の詩の、どこからそんなものがニジミ出たのか、見当がつきません。面白くない、というのが自分への不満でした。                                           同 上

 

○書いてるなあ、と思わせる詩は好きじゃない。

               高田敏子主宰詩誌『野火』夏期ゼミナール講評

 

○私の詩は、一番微小なものとしての自分の暮らしをおろそかにしたくないという立場よ。あまり大きなことを書いた詩は大きくないのね。ひどく宇宙的な言葉は(あぶ)ないわ。自分の力にあまる言葉を使うと難解になるのよ。詩はいつも余白が大事な表現方法よね。

         1990112日付朝日新聞・インタビュー記事「余白を語る」

 

○私などの世代は、人に気をかねる、世の中に気をかねる、すべてに気をかねた世代だと思うんです。戦前はもちろん男尊女卑。職場では人の顔色をばかり見て生きてきたという感じがする。戦後になって自由だといっても、依然として女性の地位は低いし。だけどそういう状況の中で押さえられてきたから、どうしても自分の発言する場所が欲しかったということは言えますね。それで、誰にも気がねなくものが言えるのは──書くことです。ここでは思ったことを言って、その責任は自分が負えばいいだけなの。だから本音を吐く場所を夢中でこしらえたんですね。自分が生きていく所で、口開く場所がほしかった。それが何であったかといえば、過ぎてみたら、私の場合どうやら詩であったらしい、ということではないのかしら。        高田敏子主宰詩誌『野火』インタビュー記事「石垣りん先生訪問記」


【メモ】 石垣 りん 大正9221〜平成16122419202004)。詩集『表札など』(1968年刊・第19回H氏賞)、『略歴』(1979年刊・第四回地球賞)、散文集『ユーモアの鎖国』(1973年刊)『焔に手をかざして』(1980年刊)。

 1920年(大正9)東京・赤坂生。生家は薪炭商と牛乳屋を営む。4歳で母の死。次に迎えた母の妹も、共に30歳で逝去。3人目の母は17歳の時、離婚。4人目の母は、定年の前年の1974年死去。生母は関東大震災時、子供を庇うため落ちてきた鴨居を背中に受け止め、後に腹膜炎発症し死去。

青春時代は、戦争、不景気、飢えの時代。自分も母達と同じく早世して子供に同じ思いをさせたくないと、結婚を望む気持ちはなかった。

昭和9年(1934)高等小学校卒後、日本興業銀行へ事務見習(給仕)として入行。

20代は、文芸誌の投稿、同人雑誌発行と、書くことと読むことに熱中して大東亜戦争へと進む。召集礼状の来た弟に「おめでとうございます」と頭を下げた軍国乙女であった。戦後、父病気のため私(石垣りん)の定収入が一家の大黒柱となる。父存命中は、父の度重なる結婚を父だけの責任として批判し続ける。四度目の母他界後、親戚の「おまえのお母さんが死んだのが悪かった」の言葉で、母の死が父の不運の重大な原因だったと悟る。

自分がいれば家族は最低餓死はしないだろうとの気負いから、家庭に執着した。私が独立して家を離れていれば父母は心労もなく、兄弟は自立したはずである。

親類は独身のまま年をとった私のことを家の犠牲になったというが、それは逆。なによりも家庭が大好きだった。どこよりも大事な、どこへも行きたくないほど良い場所だった。親や兄弟の生活が私の前に立ちはだかった時、それに背を向けて生きようとは願わなかった。それが私にできる唯一の前向きの姿勢だった

                石垣りん編『家庭の詩』筑摩書房(1981年)抜粋

(写真は、『現代詩手帖特集版 石垣りん』〈思潮社より転載)

                                (この稿 完)



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石垣りん 6
 第6話 詩は余白


 

       貧しい町

 

        一日働いて帰ってくる。

        家の近くのお総菜屋(そうざいや)の店先は

        客もとだえて

        売れ残りのてんぷらなどが

        棚の上に まばらに残っている。

 

        そのように

        私の手もとにも

        自分の時間、が少しばかり

        残されている。

        疲れた 元気のない時間、

        熱のさめたてんぷらのような時間。

 

        お総菜屋の家族は

        今日も店の売れ残りで

        夕食の膳をかこむ。

        私もくたぶれた時間を食べて

        自分の糧にする。

 

        それにしても

        私の売り渡した

        一日のうち最も良い部分、

        生きのいい時間、

        それらを買って行った昼間の客は

        今頃どうしているだろう。

        町はすっかり夜である。

                   詩集『表札など』1968年


サラリーマンの頃、この作品を見て身につまされる思いでした。

働く、ということはまさに自分の時間を犠牲にして――売り渡して、生活費を得るということです。その自分の時間とは、一日の中で一番元気で、頭の回転もよい時です。そんな極上の時間を使い果たした後の疲労感を、作者は〈売れ残りのてんぷら〉に譬えました。


日常のありきたりな題材を詩作の材料に使うのは、石垣りんが何よりも「生活実感」を大切にする詩人であるからです。「生活実感」が失われたところで詩を書くと、頭で言葉をこしらえた観念的な作品に仕上がります。詩的修飾の過剰な、もって回った表現や、難解な比喩が多を占めるようになります。生活実感がないというのは、言い換えれば生身の感動がないということです。それは読者を無視した「一人よがりの詩」にも繋がるでしょう。


作家伊藤整に「書くことの実感と論理」(野間宏編『小説の書き方』所収)という一文があります。


「菫(すみれ)の花を見ると、可憐だ、と私たちは感じる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちをいだくのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ、可憐な、という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。それが作家の仕事である」


売れ残りの天ぷらなど詩にはならないという通念があったら、「貧しい町」という作品は生まれなかったでしょう。自分が感じた印象を固定観念なしに拾いあげるのは、小説でも詩でも重要な仕事です。


「初心者は〈小説らしさ力作らしさ大長編らしさに目をくらまされて、せっかく自分が手に入れた細部の真実らしさを失うものである。私たちは細部の感動の切実さの失われたところでは書くことをやめるべきである。小説らしい形のよさや気のきいた結末をつけようなどという欲を起こしてはならない」            伊藤整「書くことの実感と論理


この文章で小説を詩に読み替えて読んでもいいでしょう。「細部の感動の切実さ」とは私の言う生活実感と同意の言葉でもあります。


石垣りんが社会派の詩人と呼ばれるのは、社会的な事件や出来事を扱うからでなく、日常の生活実感を詩の中心に据えているからです。私は「貧しい町」を読んで、どんな学術書を読むよりも、売れ残りのてんぷら〉という比喩で労働の本質というものを即座に悟ることができました。すぐれた詩とは、イメージを通して一瞬に物の本質を理解させるものです。


サラリーマン時代、花金の夜になると明け方近くまで意味もなく深夜番組を見続けるのが常でした。あれは自分の時間を売り渡した反動だったのですね。手許に残されたわずかの〈疲れた 元気のない時間、/熱のさめたてんぷらのような時間。〉を目一杯使おうという虚しいあがきだったように思います。それが私流の〈くたぶれた時間を食べて/自分の糧にする。〉ということでした。



 

       シジミ

 

        夜中に目をさました。

        ゆうべ買ったシジミたちが

        台所のすみで

        口をあけて生きていた。

 

        「夜があけたら

        ドレモコレモ

        ミンナクッテヤル」

 

        鬼ババの笑いを

        私は笑った。

        それから先は

        うっすら口をあけて

        寝るよりほかに私の夜はなかった。

 

                   詩集『表札など』1968年


この詩については作者のコメントが記されています。


一人暮らしには五十円も買うと、一回では食べきれないシジミ。長く生かしてあげたいなどと甘い気持ちで二日おき、三日たつ間に、シジミは元気をなくし、ひとつ、またひとつ、パカッパカッと口をあけて死んでゆきました。どっちみち死ぬ運命にあるのだから、シジミにとっては同じだろう、と思いましたが、ある日、やっぱりムダ死にさせてはいけないと身勝手に決めました。シジミをナベに入れるとき語りかけます。「あのね、私といっしょに、もう少し遠くまで行きましょう」             エッセイ集『ユーモアの鎖国』

(写真は、詩人と茨木のり子氏と。『現代詩手帖特集版 石垣りん』より転載)


シジミの生命と自分の生命を同一視したのは、作者の詩的直感でしょう。どっちみち死ぬ運命にあるのは、シジミも人間も同じです。寿命が短いか、少し長いかの違いに過ぎません。身の周りの事物、出来事を通してしか、作者は詩を作ろうとはしませんでした。詩において、生活実感が何よりも確かな拠り所と信じていたからに違いありません。

 

私の詩は、一番微小なものとしての自分の暮らしをおろそかにしたくないという立場よ。あまり大きなことを書いた詩は大きくないのね。ひどく宇宙的な言葉は(あぶ)ないわ。自分の力にあまる言葉を使うと難解になるのよ。詩はいつも余白が大事な表現方法よね。

         1990112日付朝日新聞・インタビュー記事「余白を語る」

 

                                   (この稿続く)

| 石垣りん | 11:11 | comments(0) | trackbacks(0)
石垣りん 5
 第5話 精神の自立とは


       表札     

     自分の住むところには
     自分で表札を出すにかぎる。
 
     自分の寝泊りする場所に
     他人がかけてくれる表札は
     いつもろくなことはない。
 
     病院へ入院したら
     病室の名札には石垣りん様と
     様が付いた。
 
     旅館に泊まつても
     部屋の外に名前は出ないが
     やがて焼場の鑵(かま)にはいると
     とじた扉の上に
     石垣りん殿と札が下がるだろう
     そのとき私はこばめるか?
 
     様も
     殿も
     付いてはいけない、
 
     自分の住む所には
     自分の手で表札をかけるに限る。
 
     精神の在り場所も
     ハタから表札をかけられてはならない
     石垣りん
     それでよい。
                          詩集『表札など』1968年


詩集『表札など』で石垣先生は詩壇の芥川賞と称されるH氏賞を受賞しました。
エッセイ集『ユーモアの鎖国』の中の「立場のある詩」という一章に、「表札」を書いた時の背景が記されています。
「家に帰ると宗教の勧誘がきます。あなたが幸福になるためにはこの会にはいる以外に道はない、はいらないと家族は現在以上の不幸や困難に見舞われているでしょう、という。ずいぶん気持ちの悪い親切で、強迫に近いものだ、と忿懣(ふんまん)やるかたないのですが、ご近所とあれば遠慮の仕方もこみ入ってしまう。
表札はただ単純に、表札についてだけ書いた詩ですが、気持ちの下敷きとして、私をささやかにとりまくこのような状勢があり、それがまったく関係のない表札の記憶と不意に結び付いたとき詩になりました」
(写真は、2000年、80歳。NHKテレビ「おはよう日本」出演。『現代詩手帖特集版 石垣りん』より転載)

(注)H氏賞:実業家平澤貞次郎の基金により1950(昭和25)年に創設。基金拠出者で、プロレタリア詩人でもあった平澤が匿名を強く希望したため、賞の名はHirasawaの頭文字だけを冠する。

独善的な宗教の勧誘や、政党からの支持の誘いかけに自分を任せることのためらいが、最終連の〈精神の在り場所も/ハタから表札をかけられてはならない〉の一節を生み出したように思われます。

「表札」を読む度に私が思うのは、病院で「患者様」という敬称を付けられ、持ち上げられた居心地の悪さです。私は「○○さん」程度でいいと思うのですが、過剰に敬称をつけるのは、何かトラブった時の気配りかと勘ぐってしまいます。こういうのを「ホメ殺し」というのでしょうか。

作者によると、終りから4行目の〈精神の在り場所〉を〈精神の在り場所〉と直した方がよいかどうか、発表する直前まで迷ったといいます。「地理的にいうとお茶の水駅周辺をうろうろ歩いて迷いました。歩いていたのはです。結局にする以外ないと考えました。にすると曖昧な部分はなくなりますが、詩が狭くなるような気がしました」(同上エッセイ)

「表札」のように、精神の自立ということに関して、自分の内面にありながらはっきりとした形をとらないでいたものが徐々に明確に出てくる、あらためて知るといった逆の効果が、詩を書くことにはあるようだといいます。
それは恩師高田敏子が語った次の言葉にも通じるものです。


     書くことは、ある意味で傷つくこと。傷つくこと――血を流すことで自分と
     いうものを知る。書くことが痛くも何にもない作品はつまらない。

                                  (この稿続く)

| 石垣りん | 18:02 | comments(0) | trackbacks(0)
石垣りん 4
 第4話 開戦の日も残業!

処女詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を出版されたのが、1959(昭和34)年。
第2詩集『表札など』(第19回H氏賞受賞)が1968(昭和43)年。前記二冊を収録した『石垣りん詩集』(現代詩文庫)で田村俊子賞を受け、定年後上梓した『略歴』が第3詩集となります。

それらの詩集の行間にこもる 略歴 瓩鮓れば、4人の母との死別、15歳での就職、戦争、終戦、戦後の組合運動、40年余を勤めた銀行での定年退職があります。その中で、祖父を原爆で喪っている私には、一瞬にして犠牲になった25万人の命に呼びかけた作品「挨拶」は忘れられない秀作です。


 

      挨拶

            原爆の写真によせて

 

 

     あ、

     この焼けただれた顔は

     一九四五年八月六日

     その時広島にいた人

     二五万の焼けただれのひとつ

 

     すでに此の世にないもの

     とはいえ

     友よ

     向き合った互の顔を

     も一度見直そう

     戦火の跡もとどめぬ

     すこやかな今日の顔

     すがすがしい朝の顔を

 

     その顔の中に明日の表情をさがすとき

     私はりつぜんとするのだ

 

     地球が原爆を数百個所持して

     生と死のきわどい淵を歩くとき

     なぜそんなにも安らかに

     あなたは美しいのか

     しずかに耳を澄ませ

     何かが近づいてきはしないか

     見きわめなければならないものは目の前に

     えり分けなければならないものは

     手の中にある

     午前八時一五分は

     毎朝やってくる

 

     一九四五年八月六日の朝

     一瞬にして死んだ二五万人の人のすべて

     いま在る

     あなたの如く 私の如く

     やすらかに 美しく 油断していた。

 

          詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』1959年


「挨拶」が書かれたのは、昭和27年。戦前の封建的な社会が解放され、職場でも労働組合が結成されて、その会議では女も男も同じ席について発言できるようになった時期でした。1950(昭和25)年に初めて組合の常任委員を務めた石垣りん先生は、非常に伸び伸びとものが言えた時代だったといいます。
戦前なら、旅行をしても女性は連れていかない、職場内に親睦会があっても男性だけの団体で、女性はものの数ではないから入れてもらえないという、男性と女性の間には大変な差がありました。女性でも事務員と事務見習員では坐る椅子の形が違うような差別がありました。それが当然のことだった激しい差別の時代だったわけです。(写真は、1948年、28歳。勤務先の日本興業銀行の運動会。思潮社刊『現代詩手帖特集版 石垣りん』より転載)


ところが終戦で世の中の体制が一気に切り替わって、みんなで組合運動をやり、上もなく下もなく自由にものを言えるようになりました。気持の上で非常に解放感のあった時代だから、詩ものびのび書いていますね、と石垣先生。


「私などの世代は、人に気をかねる、世の中に気をかねる、すべてに気をかねた世代だと思うんです。戦前はもちろん男尊女卑。職場では人の顔色ばかり見て生きてきたという感じする。戦後になって自由だといっても、依然として女性の地位は低いし……。だけどそういう情況の中で抑えられてきたから、どうしても自分の発言する場所が欲しかったということは言えますね。それで、誰にも気がねなくものが言えるのは――書くことです。ここでは思ったことを言って、その責任は自分が負えばいいだけなの。だから本音を吐く場所を夢中でこしらえたんですね。自分が生きていく所で、口を開く場所がほしかった。それが何であったかといえば、過ぎてみたら、私の場合どうやら詩であったらしい、ということではないのかしら」
    高田敏子主宰詩誌「野火」掲載「石垣りん先生訪問記」(1979年11月刊)


石垣りんの作品が世間で初めて取り上げられたのは、戦後、金融機関の組合連合が編集したアンソロジー『銀行員の詩集』によってでした。そのためか、石垣先生はかねて「生活派の詩人」、あるいは「職場が育てた詩人」と呼ばれてきました。

「私の作品が世の中で詩として取り扱われるようになった時、「職場が育てた詩人」と言われて納得しがたいものを感じたことがあります。職場は仕事の面で人を育てるかも知れないけれど、詩人などを育てていたら企業は駄目になりますよね。詩人を育てたかったら、徹底的に働かせたらいいと思うくらいです。私は自分が詩を書くということで甘やかされたくないし、家庭の中でも詩を書くということで甘やかされたくなかった。家庭や職場の仕事の中に完全に自分を放りこんで、そこから何が出てくるかを味わってみなければ、ろくなものは書けないと思っています」


勤務時間中職場の机の上で詩を書いたことはほとんどなかったといいます。銀行にいる限りは、まわりの人の顔色をうかがって、業績は上がらないながらも、夢中で仕事をやっていました。残業もたくさんやりました。何と大東亜戦争の始まった夜も残業していたそうです。

「あの晩、女性が残業したのは、私ともう一人の先輩と二人だけだったのじゃないかと思っています。仕事を終えて外へ出たら、灯火管制で、まっ暗。開戦が発令されたら、一晩で丸の内は、まっ暗。帰り道を東京駅の方へ曲がった時、本当に私はあそこで戦争への曲がり角を曲がったんだと後になって思いました。あの丸の内の暗い闇は忘れない……昭和16年12日8日」

                                (この稿続く)

| 石垣りん | 08:48 | comments(1) | trackbacks(0)
石垣りん 3
 第3話 私の略歴から日本の略歴へ


       略歴

 

     私は連隊のある町で生れた。

     兵営の門は固く

     いつも剣付鉄砲を持った歩哨が立ち

     番所には営兵がずらりと並んで

     はいってゆく者をあらためていた。

     棟をつらねた兵舎

     広い営庭。

 

     私は金庫のある職場で働いた。

 

     受付の女性は愛想よく客を迎え

     案内することを仕事にしているが

     戦後三十年

     このごろは警備会社の制服を着た男たちが

     兵士のように入口をかためている。

 

     兵隊は戦争に行った。

 

     東京丸の内を歩いていると

     ガードマンのいる門にぶつかる。

     それが気がかりである。

 

     私は宮城のある町で年をとった。

                        詩集『略歴』1979年

 

石垣りん先生は55歳で定年退職しました。『略歴』は59歳で上梓された詩集です。作中には作者の人生を象徴する三つの章句があります。一つは〈私は連隊のある町で生れた。〉生地・赤坂には往時、陸軍の練兵場がありました。

二つ目は〈私は金庫のある職場で働いた。〉金庫のある職場とは銀行を暗示。「銀行」というより、何と本質を言い当てた表現でしょう。三つ目は〈私は宮城のある町で年をとった。〉勤務先の丸の内は、目の前に皇居があります。


この三つの事柄が日本という国の特質を表していることに、作者はこの詩を書いて初めて気がついたといいます。

「連隊のある町で生まれたということ。そこは徴兵制度と切り離せない場所。当時成年に達した男には否応なく徴兵に応じる義務があったのですから。

それから私がどこで働いたといえば、銀行という金融機関。これもまた資本主義の本丸のようなところで産業金融を目的としてつくられた特殊銀行だった。ではその銀行のある場所はどこだと考えたら、丸の内、朝夕皇居の見えるところ。


 たったそれだけの事実だけれど、連隊のある町で生まれ、金庫のある職場、銀行というところで働き、東京、それも千代田区という宮城のある町で年をとった  この三つは日本という国を成り立たせている大きな要素であったわけなんです」   (高田敏子主宰詩誌『野火』掲載インタビュー)


石垣りんの作品が世に出た時、「職場が育てた詩人」と評されました。その言葉は納得しがたいと本人はいいます。詩人を育てたかったら徹底的に働かせたらいい。詩を書くことで職場の中で甘やかせられたくない、と。自分は夢中で働いた。大平洋戦争開戦の夜も残業をした。一晩で灯火管制となった丸の内の暗い闇は忘れられないものだったといいます。

15歳から55歳の定年退職まで、石垣りんにとって「仕事」とは単に口を養う(すべ)でなく、開戦の夜の残業の記憶のように、時代の変動を肌身を通して教えてくれるものでした。

下積みの銀行員として仕事に鍛えられた厳しい目。情熱的な文学少女の心。それらが一体となって詩人・石垣りんが颯爽(さっそう)と立っています。
 

(参考文献)

高田敏子主宰詩誌「野火」84号掲載「石垣りん先生訪問記」(1979年11月刊)

                                   (この稿続く)

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石垣りん 2
 第2話 投稿魔としてスタート

石垣先生と初めて会ったのは、高田敏子先生宅でインタビューを行った1979(昭和54)年9月19日でした。先生は当時59歳。4年前に40年余を勤めた銀行を定年退職したばかりでした。

「鬼の食事」で怖い詩人という印象を植え付けられた私でしたが、間近に接するご本人は、詩のイメージとは似ても似つかない温厚な笑みを湛えた人でした。おまけに声の美しさ。〈とても綺麗な声。その詩は、ローレライの歌のようだ。聞いた者はみな難破する〉と評されるほどのものでした。

少女のような円(まろ)やかな声、明るい表情、温和な眼差し。これほど読者の先入観を裏切る詩人もいないと思われます。その後、度々、石垣先生の朗読を目にする機会に恵まれました。胸の前で詩集をふたつに綺麗に開いて、背筋を伸ばし、こちらに笑顔を向け聴衆に語りかけるような姿が印象に残っています。

詩人石垣りんは、1920年(大正5)東京・赤坂に生まれました。生家は薪炭(しんたん)と牛乳を商っていました。4歳で母の死。関東大震災で、我が子を庇(かば)うため落ちてきた鴨居を背中に受け止め、その後遺症で亡くなっています.
次に迎えた母の妹も30歳で逝去。三人目の母は、石垣りんが17歳で離婚。四人目の母だけが長命で、石垣りんが定年退職した前年に世を去りました。
(写真は、南伊豆町ホームページ「石垣りん文学記念基金について」より転載)

この複雑な家庭環境は、多感な思春期に少なからぬ影響を与えました。石垣りんの青春時代は、戦争、不景気、飢えの時代。自分も母達のように早世して子供に同じ思いをさせたくないと、結婚を望む気持ちはなかったといいます。

1934年(昭和9)、高等小学校卒業後、14歳で東京・丸の内の日本興業銀行へ事務見習(給仕)として入行。
二十代は、文芸誌への投稿、同人詩誌発行と、書くことと読むことに熱中しました。すでに小学生の頃から「幼年倶楽部」「少女倶楽部」を夢中で読み、女性投稿雑誌に「石垣りん子」のペンネームで投稿を続けました。短歌・俳句・詩・童話・創作・戯曲と片端から応募した典型的な文学少女でした。(写真は、20歳の頃。「現代詩手帖特集版 石垣りん」より転載)

石垣りんが世に出たのは戦後。
金融機関の組合連合が編集したアンソロジー、『銀行員の詩集』によってでした。筆者がインタビューした際、詩を書くきっかけを語っています。
「私などの世代は人に気をかねる、世の中に気をかねる、すべてに気をかねた世代だと思うんです。戦前はもちろん男尊女卑。職場では人の顔色をばかり見て生きてきたという感じがする。戦後になって自由だといっても、依然として女性の地位は低いし。

だけどそういう状況の中で押さえられてきたから、どうしても自分の発言する場所が欲しかったということは言えますね。それで、誰にも気がねなくものが言えるのは――書くことです。ここでは思ったことを言って、その責任は自分が負えばいいだけなの。だから本音を吐く場所を夢中でこしらえたんですね。自分が生きていく所で、口を開く場所がほしかった。それが何であったかといえば、過ぎてみたら、私の場合どうやら詩であったらしい、ということではないのかしら」                                      



      くらし         石垣 りん

    食わずには生きてゆけない。
    メシを
    野菜を
    肉を
    空気を
    光を
    水を
    親を
    きょうだいを
    師を
    金もこころも
    食わずには生きてこれなかった。
    ふくれた腹をかかえ
    口をぬぐえば
    台所に散らばっている
    にんじんのしっぽ
    鳥の骨
    父のはらわた 
    四十の日暮れ
    私の目にはじめてあふれる獣(けもの)の涙。      
                          詩集『表札など』1968年

作者自身の懇切な解説があります。
「たくさんの親不幸をして父を死なせたあと、この詩を書きました。考えてみると、親もきょうだいも食べて自分が生きてきたこと、ほんとうに、食べものだけでなくすべてのものを食わずには生きてこれない。そのあさましい獣の悲しみ、そのことについてはじめて知ったように思います。それまでは人間としての教育を受け、人間としての涙を流し、喜びを喜び、生きてきたように思いますが、食わずには生きていけない、
人間が獣であるということの悲しみを知るまでには、40歳の日暮れまで生きてこなければならなかった。50歳近くなって、はじめて気がついたのでした」         
                石垣りん編『家庭の詩 詩のおくりもの3』1981年

「くらし」は石垣りんの代表作として、教科書にもよく掲載されています。
まず冒頭で、〈メシを/野菜を/肉を〉と食物を犠牲にして生きていくことをうたい、次に〈空気を/光を/水を〉と生きるために環境を犠牲にし、そこから飛躍して〈親を/きょうだいを/師を〉と周りの人間を犠牲にしていくと、スピード感を持って詩句をたたみかけていきます。

特に〈父のはらわた〉の暗喩の残酷な迫力。それまでの〈台所に散らばっている/にんじんのしっぽ/鳥の骨〉という日常的光景が、ここから一転して詩の世界へと変貌します。
散文が詩へと鮮かな"離陸"を遂げる機微を示すものとして、詩作を学ぶ者にとってお手本のような完成度があります。詩人茨木のり子はこの詩について「生きものの持つあさましさがテーマ」と評しています。

石垣りんは、自分の詩は「ぶっきらぼう」だといいます。この言辞は、詩から飾りの言葉を捨て、物の実相をむきだしにする手法をへりくだって語った言葉でしょう。「私が好きなのは実用的な詩です。使いものになる詩。飾ってながめるのではなく、くらしにかかわる力を持った、働きのある詩です」
                          エッセイ集『ユーモアの鎖国』

(参考文献)

高田敏子主宰詩誌「野火」84号掲載「石垣りん訪問記」(1979年11月刊)
「現代詩手帖特集版 石垣りん」思潮社
                                 (この稿続く)


| 石垣りん | 13:53 | comments(0) | trackbacks(0)
石垣りん 1
第1話 聡(さと)く、厳しく、恐ろしく

恩師高田敏子先生が主宰した詩誌『野火』は昭和41(1966)年に創刊されて以来、平成元(1989)年、主催者の死去により23年余の歴史を閉じました。
私が投稿を始めたのは大学生だった昭和51(1976)年。『野火』が創刊十周年を迎えた直後でした。当時、野火の会には、毎週水曜日夜、高田宅で若者を中心に勉強会を行う小さな集いがありました。特に、『野火』誌上では会員有志による詩人訪問記事の新企画がスタートしたばかりで、若手会員が執筆を担当していました。私も入会早々、その一員に加わりました。
(写真は、1980年7月16日、高田敏子宅での詩人・吉野弘先生出版記念会。左端より3人目が吉野先生。その隣りから、安西均先生、伊藤桂一先生、高田敏子先生、筆者)

訪問インタビューは好評で回を重ねること、四年余。
27人の諸先達にまみえることが叶いました。詩人をはじめ、小説家、画家、評論家など、高田先生と交遊の深い多士済々の顔ぶれでした。
訪問先の中には、
大木実、吉野弘、黒田三郎、新川和江、深澤紅子、磯村英樹、堀口大學、嵯峨信之、田中冬二、伊藤信吉(敬称略、訪問順)の諸氏がいました。
この得難い経験は、『野火』に入会した最大の特典でした。わが目で見、肌で感じた先人の詩精神が自分の貧しい詩観を揺さぶり、新たな詩句を生み出していく思いでした。

石垣りん先生(教えを受けたので、敬意を込め先生と呼びます)とのインタビューもその仕事の一環として実現しました。
石垣先生には当時、ある" 伝説 "がありました。
どんな親しい者も決して自室には入れないというものでした。こんなエピソードがあります。石垣先生が栄えある詩人賞を受賞した時、ごく親しい詩人仲間がワインを持参してマンションを訪れたのですが、それでも部屋には入れてもらえませんでした。それで仕方なく、管理人室の前で祝杯をあげたというのです。公私をこれほど厳しく峻別する詩人を私は他に知りません。

「先生訪問記」は相手のお宅に伺うのが原則なのですが、このような経緯を踏まえ、石垣先生の折は高田先生宅に来てもらうことにしました。私が依頼の電話を差し上げたのですが、都合が悪く、半年余り後にインタビューが叶いました。その折、再度、電話をかけると即座に「野火の○○さんでしょ」と私の名前を覚えておられました。一介の学生の名を覚えてもらっていたとうことが私にはことのほか嬉しく、同時に、とても聡明な女性なのだと感じました。

しかし、まだ未熟な私は石垣りんの詩業はほとんど知りませんでした。たまたま、インタビューの前にNHK教育TVで、このような詩を紹介しているのが目に入りました。


       鬼の食事        石垣 りん

     泣いていた者も目をあげた。
     泣かないでいた者も目を据えた。

     開かれた扉の奥で
     火は
     矩形にしなだれ落ちる
     一瞬の花火だった。

     行年(ぎょうねん)四十三歳
     男子。

     お待たせしました。
     と言った。

     火の消えた暗闇の奥から
     おんぼうが出てきて
     火照(ほて)る白い骨をひろげた。

     たしかにみんな、
     待っていたのだ。

     会葬者は物を食う手付きで
     箸を取り上げた。

     礼装していなければ
     恰好のつくことではなかった。
                         詩集『表札など』1968年


まず目に飛び込んだのが、世にも恐ろしげなタイトルでした。何か妖怪めいた話かと思いきや、読み進むと火葬の様子をうたったものだとわかります。〈鬼の食事〉と譬えられていたのは、実は死者の骨を箸で拾う行為なのでした。葬儀の風習として普段、私達が全く疑問もなく行っていることですが、外国人が見たら、ずいぶん奇異な行為に映るかも知れません。日本人でありながら、よくぞこんな風に冷徹に観察できたものだと感嘆します。

そして、背筋の凍るような語り口。〈泣いていた者も目をあげた。/泣かないでいた者も目を据えた。〉、〈お待たせしました。/と言った。〉、〈たしかにみんな、/待っていたのだ。〉
感情を押し殺し、即物的な事実だけを告白するような言い回し。作者はホラー作家の才能も持ち合わせているかのようです。


火葬の描写も迫力があります。〈開かれた扉の奥で/火は/矩形にしなだれ落ちる/一瞬の花火だった。〉の詩句はガス・重油による強力なバーナーの炎を表わしています。また、〈火の消えた暗闇の奥から/おんぼうが出てきて/火照(ほて)る白い骨をひろげた。〉の詩句には、火葬炉の中から出たばかりの、焼けた骨の余熱さえ漂って来ます。
なお、〈おんぼう〉とは、「隠亡」あるいは「隠坊」とも表記します。死者を荼毘に付し、遺骨にする係です。現在は差別用語になっているため使われることはありません。

死者を弔う行為は、〈物を食う手付きで/箸を取り上げた。〉ような、ある意味で一種グロテスクな、禍々(まがまが)しいものなのかも知れません。だからこそ、〈礼装していなければ/恰好のつくことではなかった。〉のです。
私はこの詩を知った後では、親族などの火葬の際に、骨を拾う段になると必ず詩の章句を思い出してしまいます。それほどまでに、比類のない衝撃的な作品に違いありません。

この「鬼の食事」が念頭にあったので、インタビュー前、私は石垣りんという詩人は、物の実相を見抜く何と怖い人なのだろうという先入観を持ってしまいました。しかし、現実に会った石垣先生は、私の思いを全く裏切るような人物だったのです。
                                   (この稿続く)

| 石垣りん | 14:30 | comments(0) | trackbacks(0)
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