茨木のり子 6
 第6話 琥珀色の哀しみ


     梅酒

   
梅酒を漬けるとき
   いつも光太郎の詩をおもいだした
   智恵子が漬けた梅酒を
   ひとり残った光太郎がしみじみと味わう詩
   そんなことになったらどうしよう
   あなたがそんなことになったら……
   ふとよぎる想念をあわててふりはらいつつ
   毎年漬けてきた青い梅

   後に残るあなたのことばかり案じてきた私が
   先に行くとばかり思ってきた私が
   ぽつんと一人残されてしまい
   梅酒はもう見るのも厭で
   台所の隅にほったらかし
   梅酒は深沈(しんちん)と醸(かも)されてとろりと凝(こご)った琥珀(こはく)いろ

   八月二十八日
   今日はあなたの誕生日
   ゲーテと同じなんだと威張っていた日
   おもいたって今宵はじめて口に含む
   一九七四年製の古い梅酒
   十年間の哀しみの濃さ
   グラスにふれて氷片のみがチリンと鳴る

                   詩集『歳月』2007年


この詩にある高村光太郎の同じタイトルの「梅酒」には、亡き妻智恵子が漬けた梅酒について、〈十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、/いま琥珀の杯に凝(こご)つて玉のやうだ。〉の詩句があります。
〈ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、/これをあがつてください〉という遺言を残してくれたと、光太郎。

〈梅酒は深沈(しんちん)と醸(かも)されてとろりと凝(こご)った琥珀(こはく)いろ〉という章句は、光太郎にならった表現です。茨木のり子さんは、奇しくもゲーテと同じ夫の誕生日の日に、思い立って十年を経た梅酒を口にしてみます。
(写真は、1975(昭和50)年 40歳。「ことばの勉強会」にて。右から谷川俊太郎、金子光晴、茨木のり子。「花神ブックス1 茨木のり子」より転載

さて、その味はどんなものであったか。その微妙な味を表現する詩人の手腕が試される所でもあります。詩人は〈十年間の哀しみの濃さ〉と書きました。梅酒のイメージに託して深い哀しみをうたったすばらしい一行です。
私の恩師の安西均先生は、「詩はイメージで書け」がモットーでした。説明でなく、理屈でなく、イメージによって作者の思いを五感に訴えるのが詩なのです。

茨木さんが飲んだ古い梅酒の〈十年間の哀しみの濃さ〉の味わいがわかるような気がするのも、比類のない詩人の力量ゆえであり、私自身が年齢を重ねたからかも知れません。

【メモ】茨木のり子 (いばらぎ のりこ、本姓・三浦、1926年(大正15)6月12日 - 2006年2月17日)大阪府生、愛知県西尾市育ち。愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京し、帝国医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しみ、20歳の時に終戦を迎え、1946年に同校を卒業。帝国劇場で上映されていシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志す。「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1950年、医師三浦安信と結婚。埼玉県所沢町(現、所沢市)在住。(写真は、1986年 40歳。「花神ブックス1 茨木のり子」より転載

家事のかたわら雑誌「詩学」の詩学研究会という投稿欄に投稿を開始。最初は二篇を投稿、うち一篇の「いさましい歌」が選者村野四郎に選ばれ、1950年9月号に掲載。1953年、川崎洋からの誘いで、同人誌「櫂」を創刊。創刊号は川崎洋・茨木のり子の二人だけの同人誌だったが、二号からは谷川俊太郎、三号から吉野弘が参加し、その後の第二次戦後派の詩人を多数輩出した。
1991年、『韓国現代詩選』で読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。
1999年、詩集『倚りかからず』が10月16日の朝日新聞「天声人語」で取り上げられて話題となり、詩集としては異例の15万部の売り上げを記録。
2006年2月17日、病気のため東京都西東京市東伏見の自宅で死去。享年79。夫・安信と1975年に死別してから独り暮らしのため、19日に訪ねて来た親戚が寝室で死亡しているのを発見。遺書は用意されてあった。鶴岡市加茂の浄禅寺にある夫の眠る墓地に埋葬された。

(参考文献)

「花神ブックス1 茨木のり子」花神社

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版

                                (茨木のり子 完)


| 茨木のり子 | 10:25 | comments(0) | trackbacks(0)
茨木のり子 5
 第5話 最期まで〈倚りかからず

        ひとり暮し


       一人では
       生きてゆけないように
       どうも人間はなっているらしい
 
       群れて群れて生きてきた習性かしら
       補いあってここまできた人類の遺伝子なのかしら
       喜怒哀楽の桶のなか
       ごろごろと泥つき里芋洗うよう
       犇(ひし)めきあって暮らすのが一番自然な
       人の生き方なのかしら
 
       ものごころついた時は
       父と母と弟と四人で暮し(あの頃はよかった)
       学生時代は寮生活 四、五人いっしょにわやわや暮し
       結婚してからはあなたと二人
       今はじめて 生まれてはじめて一人になって
       ひとり暮し十年ともなれば
       宇宙船のなか
       あられもなく遊泳の感覚
       さかさまになって
       宇宙食嚙かじるような索漠の日々
 
       手鏡をひょいと取れば
       そこには
       はぐれ猿の顔
       ずいぶん無理をしている
       寂寥(せきりょう)がぴったり顔に貼りついて
       パック剤剥はがすようにはいかなくなった
       さりとて もう
       ほかの誰かとも暮す気はなし
       あなた以外の誰とも もう
       しかたがない
       さつまいでも嚙りましょう
 
                   詩集『歳月』2007年

2006年3月、亡くなった茨木のり子さんから友人にお別れの手紙が届きました。「このたび私…この世におさらばすることになりました。これは生前に書き置くものです。…『あの人も逝ったか』と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」

石垣りんさんら親しい詩人をみとり、最期は潔(いさぎよ)くと念じていました。身辺の整理を済ませ、日付だけが空白のあいさつ状まで用意していました。
親族によると、2月17日から連絡が取れず、19日に訪ねると寝室で亡くなっていました。くも膜下出血で転倒し頭にけがをしながら、自力でベッドに横たわったらしいそうです。脳に動脈瘤があり、「高性能の時限爆弾なのよ」と冗談めかして語っていたといいます。
まさに覚悟の死であり、本人が願った通りの「倚りかからず」、毅然とした、潔い身の処し方でした。

75年に逝った夫安信さんの思い出が残る東京西郊の家で、身内には苦労をかけたくないからと一人暮らしに徹していました。
書斎からは甥の治さんが「Y」と書かれた箱を見つけました。「Y」は死別した伴侶・三浦安信さんの頭文字。中にはさびたクリップで留められた原稿の束があり、掲載順も記されていました。遺稿詩集『歳月』の出版元になった花神社の社長・大久保憲一さんには「最後の詩集はよろしく」とだけ、頼んであったといいます。

『歳月』には、世のあり方を問いただす、これまでの代表作とは異なる、安信さんへの追懐、夫婦の心の機微が描かれています。
死後、寝室の枕元で小さな木箱が見つかりました。何度も触った跡があり、箱には安信さんの戒名と「骨」の文字。中には遺骨が数かけ入っていたといいます。
                                  (この稿続く)

(参考文献・記事)

朝日新聞 2006年3月21日付記事「追悼 詩人 茨木のり子さん」
朝日新聞 2006年12月5日付記事「夫との歳月 遺稿40編」

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版


| 茨木のり子 | 17:12 | comments(0) | trackbacks(0)
茨木のり子 4
 第4話 亡き夫へのラブレター



     誤算

     あら 雨

     あじさいがきれい

     このブラウス似合います?

     お茶が濃すぎるぞ

     キャッ! ごきぶり

     あの返事は書いておいてくれたか

     レコードはもう少し低くして 隣の赤ちゃん目をさますわ

 

     とりとめもない会話

     気にもとめなかった なにげなさ

     それらが日々の暮らしのなかで

     どれほどの輝きと安らぎを帯びていたか

 

     応答ものんびりした返事も返ってこない

     一人言をつぶやくとき

     自問自答の頼りなさに

     おもわず顔を(おお)ってしまう

     かつて

     ふんだんに持っていた

     とりとめなさの よろしさ

     それらに

     一顧(いっこ)だに与えてこなかった迂闊(うかつ)

 

                   詩集『歳月』2007年


詩人は23歳で結婚。49歳で夫君を亡くし、そのあと79歳の死までの31年間一人暮らしを余儀なくされました。晩年、「夫と暮らした年月より一人暮らしのほうが長くなりました」と言ってから、ぽつんと「死にたい」と呟いたのが悲しく記憶に残っていると、童話屋社長田中和雄さんは語っています。

(写真は、1953(昭和28)5月 26歳 愛知県西尾市吉田海岸で夫・安信氏と「花神ブックス1 茨木のり子」より転載)





生前、夫君安信氏に宛てたラブレターの詩を書き続けていることを何人もの人が聞いていました。「でも絶対に見せません。わたしが死んだあとで見てください」と悪戯(いたずら)っ子のように笑うばかりで、親しい詩の仲間が「一つだけでも」と懇願しても果たされたことはありませんでした。


そして死後、自宅の書斎から「Y」と記された茶色のクラフトボックスが発見されました。それが詩集『歳月』(花神社)として出版されたのは一周忌の時です。

それまで出された八冊の詩集のどれにもない、亡き夫への追慕が生の声で語られていて、読み進むのが辛くなったと田中さん。

ここには、もう「自分の感受性くらい」「倚りかからず」のような竹を割ったような直裁なメッセージや、端切れ良さ、爽快さはありません。詩風は別人のように変貌しています。

谷川俊太郎さんも一読して思わず茨木さんんに電話をしようと手が伸びたといいます。「でも、もうそれはかなわない。そう思うとひどく辛くなりましたね」と語ったそうです。

 

私も周りを見渡せば、連れ合いを亡くした知人が多く、ふと気がつけばこの炎暑のもとに、永年寄り添って暮らしてきた妻が一人いるばかり。

「誤算」が訴えるように、人生で一番何でもなかったことが、実は一番大切なものであったという手痛い認識。その大事さを、伴侶を喪ってから気がつくような“誤算”をしないよう心していかねばと思います。


(参考文献)

「花神ブックス1 茨木のり子」花神社

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版

                               (この稿続く)


| 茨木のり子 | 11:12 | comments(0) | trackbacks(0)
茨木のり子 3
 第3話 父の遺訓が大ヒット


      倚りかからず


    もはや
    できあいの思想には倚りかかりたくない 
    もはや
    できあいの宗教には倚りかかりたくない
    もはや
    できあいの学問には倚りかかりたくない
    もはや
    いかなる権威にも倚りかかりたくない
    ながく生きて
    心底(しんそこ)
学んだのはそれぐらい
    じぶんの耳目
    じぶんの二本足のみで立っていて
    なに不都合のことやある


    倚りかかるとすれば
    それは
    椅子の背もたれだけ


199010月、文壇を揺るがす大事件が起こりました。一冊の薄っぺらな詩集が十万部を越えるベストセラーになったのです。茨木のり子さんが書いた『倚りかからず』です。

詩集の出版部数はプロの詩人でも普通千冊です。恩師の高田敏子先生でも三千冊。しかも自費出版で、その内、半分の1500冊を自腹で買取り、他の詩人と詩集交換するために取っておくのだと言っていました。

 

それほどに、詩では食えない、のが定説です。そうした状況下で、十万冊は驚天動地でした。その仕掛人は朝日新聞の「天声人語」。コラムの書き出しはこうです。

――「ここ数日、一冊の本を前に、ぼうぜんとしている。ただ、圧倒されているのだ。茨木のり子さんが七年ぶりに出した詩集『倚りかからず』(筑摩書房)である」

 

天声人語はこう続きます。

――「精神の背骨が、ぴんと伸びている。日本語が、みごとに結晶化している。むずかしいことばは、一つもない。だから、よくわかる。わかるから、圧倒される。▼茨木さんは、いま七十三歳。自分がかりにそこまで生きられたとして、『倚りかからない』ことを心底学べるだろうか。『なに不都合のことやある』と言い切れるか。『できあいの』思想や宗教や学問の背もたれに、相変わらず倚りかかっているのではなかろうか。どうしても、そんな思いにさせられる


天声人語子は茨木のり子さんに会いに行って話を聞いてこう書きました。

――「外国の詩人が、詩とは思想を果物のように食べさせるものだ、と言いました。詩には、思索の美しさ、ものを考えることの美しさがあると思います。でも、日本の詩歌の歴史には、それが欠落していたと思うんです。それを埋めたいという感じが、生意気なんですが、ずっとありました」

新聞読者からの問い合わせが朝日新聞社に殺到し、筑摩書房には全国の書店から大量の注文が舞い込みました。担当者の話では151800円の詩集が羽のように宙を翔んだそうです。

NHKのラジオ番組に出演した際、茨木さんは「倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ と書いたあとで、『やがて杖も』と書いたのですが、それをやめてすっきりしました」と語ったそうです。

 

前述の高田敏子主宰による夏期ゼミの席で茨木さんは、「辞書をひかなければ分からない言葉、観念的な言葉などを使わないで、ふだんの言葉で書いて来たつもりです。ふだんの言葉で、凡ならざるもの、つまり非凡なものを書くことは大変です」と語っていました。天声人語子が、「むずかしいことばは、一つもない。だから、よくわかる。わかるから、圧倒される」と感嘆した通りです。

(写真は、 1966(昭和41) 上野・笹乃雪で 前列左から谷川俊太郎 嵯峨信之 吉野弘 後列左から大岡信 川崎洋 友竹辰 茨木のり子 水尾比呂志 岸田衿子 「花神ブックス1 茨木のり子」より転載)

 

倚りかからず」の言葉のルーツは、医者だった父親だったそうです。赤ひげ先生と慕われていた父親は、事あるごとに「人間というものは、独立独歩で生きていくべきだ。日本人は依頼心、依存心がことさらに強い。とくに男性がひどい」と耳にタコができるほど聞かされ、「独立独歩」「人には倚りかからず」が茨木さんのモットーとなったのでした。

 

詩書専門店「童話屋」社長、田中和雄さんが「倚りかからずの〈倚〉という字は人偏です。それに対して椅子の〈椅〉という字は木偏です。人にはよりかからないけれど、木偏の椅子や杖ならよりかかる、つまりこの大自然、この宇宙にならよりかかるのはOKということですね」とたずねると、茨木さんは「それには気がつきませんでしたね。この詩ができたとき、()った、と思いましたが、いまの人偏と木偏のお話で、いよいよこの詩が、実った、という思いが強くなりました」と答えたのが印象的だったそうです。


(参考文献)

「花神ブックス1 茨木のり子」花神社

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版

                               (この稿続く)


| 茨木のり子 | 09:12 | comments(2) | trackbacks(0)
茨木のり子 2
 第2話

     自分の感受性くらい


    ぱさぱさに乾いてゆく心を
    ひとのせいにはするな
    みずから水やりを怠っておいて

    気難しくなってきたのを
    友人のせいにはするな
    しなやかさを失ったのはどちらなのか

    苛立つのを
    近親のせいにはするな
    なにもかも下手だったのはわたくし

    初心消えかかるのを
    暮らしのせいにはするな
    そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

    駄目なことの一切を
    時代のせいにはするな
    わずかに光る尊厳の放棄

    自分の感受性くらい
    自分で守れ
    ばかものよ


 

作者の著書『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)の序文に、「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます」とあります。


誰の心にもあるやさしい気持を、いい詩を読むとそれが誘いだされる、というのです。

しかし作者の言葉とは裏腹に、この詩は、実に〈おっかない〉詩です。この詩を読むまで、そもそも、自分の感受性なんて考えたこともありませんでした。感受性――感性は詩人の心臓にも匹敵する最も大事なものです。


人並みの感性しか持ち合わせない私は、高田敏子という優れた師に巡り逢ったおかげで今日まで、詩の教室の講師として持ちこたえて来たという思いです。心がぱさぱさに乾いていても、うまくいけば鼻たかだか。うまくいかなければそれはみんな社会のせい、時代のせい、ひとのせい。すべてをひとのせいにするほど楽な生き方はありません。

 

でも、作者は〈ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて〉と、言い訳はやめなさいと手厳しく迫ります。そして最後に、〈ばかものよ〉と、頭をガーンととどめを刺され……。でも、これは単なる悪口雑言の類いではありません。

詩人たる者、自分への厳しさを忘れず、「さあ、これから人生をやり直しなさい」と叱咤激励しているのです。

                               (この稿続く)

(参考文献)

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版



| 茨木のり子 | 18:31 | comments(4) | trackbacks(0)
茨木のり子 1
第1話 わたしが一番きれいだったとき

茨木のり子さんが所属した同人詩誌「(かい)」のメンバーの一人、詩人川崎洋さんは、初めて作者に会った時の印象を次のように記しています。

――五○年代、「詩学」という詩の専門誌があり、そこに「詩学研究会」という投稿欄があって、疎開先の九州から引き揚げてきたばかりのわたしは、書き始めていた詩に熱くなっていて、せっせと投稿していた。茨木氏はその常連の一人で、その掲載作にわたしは特に惹かれた。

そうこうするうちに、「詩学」から推薦詩人と推挙され、もう投稿できないことになった。

当時、同人詩誌を出すという意欲は非常に高かったように思う。ガリ版印刷の詩誌が多かった。活版印刷は高くついたからだ。わたしは、未知の茨木氏に手紙を出し、一緒に同人詩誌をやりませんかと誘い、やりましょうという返事を受け取り、195332911時に東京駅の八重洲口改札口で会うことになった。約束の時刻に、ひとりのすらっとした、原節子に似た絶世の美女が、わたしの横に立った。詩才と美貌を併有することをミューズ(注・詩の女神)はお許しなっていないと、頭から信じていたから、この人であるはずがないと思っていたら、その美人が茨木氏だったのだ。わたしが23歳、茨木氏が28歳。できたばかりのブリヂストン美術館へ行き、銀座へ出て、オリンピックでコーヒーを飲んだ。

その二か月後、「櫂」一号ができた。アート紙6ページ、印刷費は120部で6千円だった。

そば(もり・かけ)が、20円、米価が一キロ68円、理髪料金が140円の時代である。更に言えば、茨木(三浦)夫妻にはわれわれ夫婦の仲人までして頂いている。茨木氏と出会った大きな幸運を思う。

 

私も生前に一度だけ、お目にかかったことがあります。1980(昭和55)年8月、恩師高田敏子先生が主宰する夏期ゼミナールにゲストとして出席した時です。私は30歳、茨木さんは54歳でした。“クールビューティー”という雰囲気で、知的で凛とした印象が残っています。高田先生の仲介で、茨木さんとインタビューの約束を取り付けたのですが、仲間うちで「あの先生、ちょっとこわいんじゃない?」と気遅れしてしまい、インタビューは結局、流れてしまいました。もったいないことをしたと今も後悔しています。

 

 

 

      わたしが一番きれいだったとき


    わたしが一番きれいだったとき
    街々はがらがら崩れていって
    とんでもないところから
    青空なんかが見えたりした

    わたしが一番きれいだったとき
    まわりの人達がたくさん死んだ
    工場で 海で 名もない島で
    わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

    わたしが一番きれいだったとき
    だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
    男たちは挙手の礼しか知らなくて
    きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしの頭はからっぽで
    わたしの心はかたくなで
    手足ばかりが栗色に光った

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしの国は戦争で負けた
    そんな馬鹿なことってあるものか
    ブラウスの腕をまくり
    卑屈な町をのし歩いた

    わたしが一番きれいだったとき
    ラジオからはジャズが溢れた
    禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
    わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

    わたしが一番きれいだったとき
    わたしはとてもふしあわせ
    わたしはとてもとんちんかん
    わたしはめっぽうさびしかった

    だから決めた できれば長生きすることに
    年とってから凄く美しい絵を描いた
    フランスのルオー爺さんのように

                  


いわゆる昭和ひとけた世代である茨木のり子さんは、〈わたしが一番きれいだった〉20歳の時、終戦を迎えます。戦争の惨禍に直撃された世代なのです。「はたちが敗戦」という一文にはこう書かれています。(写真は、1946年(昭和21年)20歳の記念に。「花神ブックス1 茨木のり子」より転載)

「太平洋戦争に突入したとき、私は女学校の三年生になっていた。全国にさきがけて校服をモンペに改めた学校で、良妻賢母教育と、軍国主義教育を一身に浴びていた。

退役将校が教官になって分列行進の訓練があり、どうしたわけか全校の中から私が中隊長に選ばれて、号令と指揮をとらされたのだが、霜柱の立った大根畑に向って、号令の訓練を何度受けたことか。

  かしらァ……右イ

  かしらァ……左イ

  分列に前に進め!

  左に向きをかえて 進め!

  大隊長殿に敬礼! 直れ!

 

私の馬鹿声は凛凛とひびくようになり、つんざくような裂帛(れっぱく)の気合が籠るようになった。

そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。

             「花神ブックス1 茨木のり子」所収「はたちが敗戦」

 

文中の女学校とは、愛知県立西尾女学校です。茨木さんが16歳の時のことです。この後、1943年に帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現東邦大学)薬学部に入学しました。 

「空襲も日に夜をついでというふうに烈しくなり、娘らしい気持を満たしてくれる(たの)しみも色彩もまわりには何一つなく、そういう時代的な暗さと、自分自身に対する絶望から私は時々死を(おも)った。」 同上書

 

中学校の教科書にも掲載され、よく知られている「わたしが一番きれいだったとき」は、戦時下のあまたの女性達の声を代弁するものでしょう。茨木のり子さんの詩が生まれる基盤が、この時代にあると強く感じさせます。

                               (この稿続く)


(参考文献)

「花神ブックス1 茨木のり子」花神社

「NHKカルチャーラジオ 詩のトビラ ひらけごま」NHK出版


 
| 茨木のり子 | 08:39 | comments(0) | trackbacks(0)
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