征矢(そや)泰子 5
 第5話 人と花との間を生きる

  白いシクラメン

 

いま

ちょうどななつめのしくらめんのはなが

ひらいたところです

はくちょうよりもしろく

うなじをたかくもたげて

いま ちょうど

ななつめのしくらめんのはなが

さいたばかりです

しはすのしろいひかりのなかで

はねをこころもちうしろにひいて

いまにもとびたとうとするちょうのような

ななつめのしろいしくらめんのはなを

ただひたすらみつづけていると

せかいはひどくしずまりかえり

すきとおり

なにもかもがまるで

えいがのらすと・しいんのように

うつくしくとおざかっていくのがわかります

なぜあれほど

たったひとつのらちもないことばに

こだわりつづけていたのだろう

なぜにくむのかなぜかなしむのか

わたしのなかで

ほぐしようもなくむすぼれていたおもいが

しろいしくらめんのはなびらのうえを いま

やわらかくほどけながらとおくとおく

とおざかっていくのがみえます

                       詩集『綱引き』

 

詩人・新川和江先生は、征矢泰子を「内気なことと平仮名好きなこととで征矢さんは、私に大手拓次(メモ参照)を連想させる詩人だが、〈空想の猟人〉とみずから称した拓次に較べ、征矢さんには、現実生活者としての強靭な芯がいっぽん通っている。子を産み育てる存在である女性は、空想や幻想のみを追いもとめる猟人にはなれないし、また、ならない。征矢さんもその例外ではない」と評しています。

 

征矢の詩のスタイルの特徴である平仮名表記について、作者自身が語っています。

「ひと頃、わたしは意識的に漢字を使わず、ひらがなばかりで詩をかいていた。べつに、大手拓次をまねたわけではないのだが、わたしが素材にすることの多い心のひだや、肉体の生理のなかにはいりこませるのに、漢字はちょっとごつごつして使いにくかったのだ。「涙」と「なみだ」では、個体と液体ほどの感触のちがいが、わたしにはあった。表意文字としての長い歴史をもつ漢字が、書かれただけですでに表現してしまう既成の意味もわずらわしかった。もうすこし、裸かの音としてことばを使いたくもあった。(もちろん、この問題はひどく大きくて、とても簡単に解決のつくことではないが)


平仮名には、肌にまとわりつくような、ねばっこい触感があります。

征矢の言う「裸かの音」からは、文字や漢字という形になる前の、言葉になる前の感情の原形が滲み出て来ます。それが征矢の「肉体の生理」に合っていたのでしょう。

 

征矢泰子には〈花〉に対して特別な思いがあります。

「お(めかけ)さんの子」ということで、幼少時からいじめられっ子だった征矢は、自分が常に現実から疎外されている意識がありました。

〈だからわたしは出来るだけ、生まの現実から逃げていようとした。自分だけの「もう一つの世界」にとじこもろうとして「書く」ことを求めた。人間(社会)なんてもううんざり、花(美)だけがいい、というわけだ。ところが、わたしの心のおくそこでは、実はいつもはげしく人間の営みのただ中にもつれこんでその葛藤を生きることをのぞんでいたのだから、事はややこしくなる。

京都の大学を出て東京へ。みすず書房を皮切りに、いろいろな小さな出版社をわたり歩いた後、子育てのために家庭にはいったのだったが、そのすべての時を通じて、わたしは人と花のあいだをゆれうごきながら、そのどちら側にも落ちつけない自分のもどかしさを詩というかたちでかきつづけてきたような気がする。わたしの詩に共感してくださる人たちもきっと同じ苦しみをもちながら、花と人のはざまで生きておられるにちがいない。完璧な逃げ場なんか、どこにもないのだ。としたら、宙吊りのまま、生きぬくしか、ないではないか。

                   詩集「花のかたち 人のかたち」裏表紙

 

作品「白いシクラメン」には、人と花との間――言い換えれば、現実と詩の世界との間を揺れ動く作者の憂苦が込められています。

〈なぜあれほど/たったひとつのらちもないことばに/こだわりつづけていたのだろう/なぜにくむのかなぜかなしむのか〉と謳(うた)われるように、人はそれぞれ、頑(かたくな)な思い込みや理屈に合わないエゴを抱えて生きています。そんなどうしようもない感情が、花や詩という至高の美に出逢って(ほど)けていく。その束の間の安らぎを描いています。


現実が透明化し、〈なにもかもがまるで/えいがのらすと・しいんのように/うつくしくとおざかっていく〉という優れた修辞。〈ほぐしようもなくむすぼれていたおもいが/しろいしくらめんのはなびらのうえを いま/やわらかくほどけながらとおくとおく/とおざかっていく〉という甘美で流麗な章句は、その美しさとは裏腹に、〈のっぴきならずひとであること〉を背負い、〈そのむごたらしさのまんなか〉を、〈まっすぐ〉生きて来た詩人の気魄が生み出したものなのです。


恩師安西均先生は、「詩はイメージで書く」と合評会で常に語っていました。

今回、征矢泰子の詩を手がけてみて、安西先生の教えの正しさを改めて覚えました。

イメージで書くとは、「思想(詩的メッセージ)を薔薇の香りのように感じさせるもの」とエリオットが定義した言葉と同質です。

 

自分の体験を通して詩を読み解くという私の姿勢からは、どうしても自分の過去を語ることを余儀なくされます。そのため、私自身の恥多い蹉跌(さてつ)や愚かさをお聞かせすることになり、今回は重苦しい思いを与えたかも知れません。それにもかかわらず、読者の皆さんにはここまで読んで下さってありがとうございました。


【メモ】征矢泰子1934611- 19921128日)京都市生。

1953年、嵯峨野高校を卒業、京都大学入学。在学中に詩作を始める。1957年、京都大学仏文科卒業。みすず書房に入社。編集者として働く。在職中に、高見順、三島由紀夫の担当となる。1959年、三村章

子の筆名で発表した小説「人形の歌」が映画化される。翌年、編集と同時に映画評論の仕事も始める。その後、育児教育雑誌の編集長を務める。1964年、結婚。1966年、育児教育雑誌を退職。フリーライターとなる。1972年、学生時代と共に捨て去ったつもりの詩を再び書き始める。1976年、詩集『砂時計』(私家版)1977年、詩集『綱引き』(私家版)1980年、詩集『てのひら』(私家版)。同年、童話『とべ、ぼくのつばくろ・さんぼ』。

1983年、新川和江・吉原幸子編集『現代詩ラ・メール』の会員になる。1984年、詩集『すこしゆっくり』(思潮社)1985年、第9回現代詩女流賞受賞。1989年、詩集『花のかたち 人のかたち』(思潮社)。同年、多摩芸術学園の講師として文章講座を担当。また、子供の絵本について講演活動で全国を巡回。1991年、詩誌『詩学』研究作品合評の選評者となる。

1992年、1128日死去。              『征矢泰子詩集』(思潮社)年譜

(写真は『征矢泰子詩集』より転載

 

【メモ】大手拓次1887113 - 1934418日)

群馬県碓氷郡西上磯部村(現安中市)、磯部温泉の温泉旅館の家に生まれる。同県の安中中学校、高崎中学校、早稲田大学第三高等予科を経て、19079月、早稲田大学文学部英文科に入学。この頃より詩を発表しはじめた。1912年卒業。卒論は「私の象徴詩論」。

卒業後しばらくは、詩作のほかこれといった仕事をせず、貧窮に甘んじていたが、1916年にライオン歯磨本舗に就職。以後、生涯をサラリーマンと詩人の二重生活に捧げた。学生時代以来の左耳難聴や頭痛に悩まされ、その後もさまざまな病気で通院、入院を繰り返すなど健康状態は概して良くなく、最後は結核によって亡くなった。

生涯に書かれた詩作品は2400篇余。生前に詩集が発刊されることはなかった。友人や詩壇とのつきあいに乏しく、生涯を独身で通したため、彼に関する偏見や誤解は、生前も死後も強い。死後(1936年)に刊行された詩集『藍色の蟇』に寄せられた、北原白秋や萩原朔太郎の文章に見られる「亜麻色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人」「仏蘭西語の書物以外に、日本語の本を殆ど読んで居ない」「永遠の童貞」などはその典型である。

『藍色の蟇』に続き、1940年に詩画集『蛇の花嫁』、1941年に訳詩集『異国の香』、1943年に遺稿集『詩日記と手紙』が刊行され、1941年には北原白秋、萩原朔太郎、大木惇夫らによって「拓次の会」が発足。                   ウィキペディアより
(写真はブログ「海峡web版」より転載させていただきました


(参考文献)
新川和江著『女たちの名詩集』思潮社

現代詩文庫 征矢泰子』思潮社

                              (征矢泰子 完


| 征矢泰子 | 10:38 | comments(2) | trackbacks(0)
征矢泰子(そや) 4
 第4話 詩を封印した苦しさ

  人魚姫に

 

声と一しょに多分

おまえはことばも

捨ててしまうべきだったのだ

声を失くしたおまえのことばは

おまえの中で

なんと重たく(いた)かったことか

ことばはもうけっして

おまえの外へは出ていかず

いつもただ おまえの中にふりつもった

愛に熟れていこうとするおまえの

ういういしいからだの中で

閉じこめられたことばはおまえを閉じこめた

おまえにはわからなかったのだ

愛はからだからもはじまることなど

ああ だからこそ

おまえはいのちと引きかえに

ことばたちに望みを託したのにちがいない

おしげもなくなげ捨てた

おまえのうつくしいからだから

ときはなたれた愛のことばたちが

すきとおった泡になって

遠くさらに遠く

とびちっていくのがみえる

                       詩集『綱引き』

 

この作品には作者の自作自註があります。

「王子さまと王女さまが登場する童話は、いろいろあるけれど、大てい最期は二人が結ばれて、めでたしめでたしで終る。その点、人魚姫は、珍らしいアン・ハッピーエンディングといえるだろう。幸せな結末にはつけいる隙がないので、わたしはごく自然ななりゆきで、かわいそうな人魚姫に惹かれていったともいえる。でも、人魚姫がわたしをひきつける最大の理由は、彼女の不幸の原因が“ ことば ”にあるからにちがいない。彼女は、人間の姿形になることとひきかえに、その美しい声を失ってしまう。だから、彼女はしゃべれない、ことばを知りながら……。わたしが賛美してやまないダンサー、アキコ・カンダは、〈もしことばがなかったら、人はもっと幸せになれたろうといった。メキシコの踊りのすさまじいばかりの美しさに絶望しながらも、わたしはわたしなりに、このメルヘンにことよせて、ことばとからだの宿命的なせめぎあいを考えてみたかったのだ。     新川和江編『女たちの名詩集』

 

「ことばとからだの宿命的なせめぎあい」という言葉から、私は詩から離れていた、かつての十年間を思い出します。

私は社会人になってから職場の人間関係や仕事に適応できず、本当はこんな所にいるべき人間ではないという思いに長らく苛まれ続けました。自分で自分を裏切りながら生きているという負い目がありました。

 

本来私は内気な人間で、人を押しのけてでも自分の意見を通すタイプではありません。

そのため組織という人間と人間が利害関係でぶつかり合う世界では随分苦労しました。職場という所は、理に叶っていなくても、大きな声を出して我を通す人間が勝ちを得やすくなります。

上司や他の部局から理不尽な要求を押し付けられても、私は怒りを覚える前に、哀しみや自分の情けなさを感じて落ち込んでしまう性分なのです。

同僚からは、「あの時、どうして怒鳴り返してやらなかったんだ!」と、私が怒らないことで逆に怒られる、逆ぎれされるという始末でした。

 

私は自分でもわかりませんが、先天的に人を怒ることができません。やさしさと言えば聞こえはいいのかも知れませんが、会議では相手に言い負かされて意見を通せず、結局、部下には迷惑をかけたように思います。

この時期の私を評して親しい同僚が、「いつもうつむいて暗い顔をしていたよ」と語っていました。到底、詩を書けるような精神状態ではなかったのです。大学卒業以降は高田先生主宰の勉強会に背を向け、毎晩、同僚とバカ騒ぎをして苦い酒を飲み続ける30代を送っていました。

当時の私こそ、〈声と一しょに多分/おまえはことばも/捨ててしまうべきだった〉のです。

 

十年近く、詩とは無縁の生活を送った頃、平成元年に恩師高田敏子先生が亡くなられました。私は39歳になっていました。先生に死なれて、私は初めて自分の愚かさに気付きました。

両手に受け切れぬほどの恩をいただいていながら、詩も書かず読まずの忘恩の徒と化した自分に絶望しました。

 

紆余曲折の後、私は会社を辞め、少しでも言葉に関わりのある日本語学校の教師の道を選びました。もう、自分の生き方への後ろめたさはありませんでした。高田先生の教え子達の同人詩誌に入って、詩の勉強をもう一度やり直しました。

月イチの合評会でしたが、私は毎回、出来る限り作品を提出し、少しずつ詩的な感覚を取り戻していきました。同じ時期、思い切って読売・日本テレビ系列のカルチャーセンターに志願して詩の教室を開きました。そして先生の逝去から約十年後の2000年、私は「詩の教室」の講師として郷里に帰ることができました。

 

〈ことばはもうけっして/おまえの外へは出ていかず/いつもただ おまえの中にふりつもった〉という章句は、長期間、閉塞的な精神状況にいた私には自分を描いたように響く言葉です。私がもし征矢泰子のような強固な魂の持ち主なら、自分の絶望や葛藤をテーマとして優れた作品を書けたことでしょう。でも、私は不器用な人間でした。自分を裏切る生き方をしているという自意識から解放されない間は、ひと言も詩の言葉を綴れませんでした。

学生時代、自分の生きがいであった詩の世界は、詩を封印した勤め人の私の中では、重く、身を切り裂くものに変わっていました。

生き方の歪みのために、詩の言葉を知りながら、しゃべれない苦しさ――そんな心の地獄を「人魚姫」は、童話に託してリアルにイメージ化しています。

 

私の解釈は間違っているかも知れません。征矢は「人魚姫」で、男女の間の愛の問題を言葉と肉体のせめぎ合いを通して鮮明にしたかったように思います。

でも、これまで何度もお話したように、自分の体験を通した読み解きでなければ、詩の鑑賞は私にとって何の意味も持ちません。

 

〈おしげもなくなげ捨てた/おまえのうつくしいからだから/今/ときはなたれた愛のことばたちが/すきとおった泡になって/遠くさらに遠く/とびちっていく〉と謳(うた)われるように、身体を投げ捨てた時、愛の言葉が封印を解かれて飛び散っていきます。作者の言う、身を投げ捨てるとは、何か大きな決心、今の自分の生き方を捨てるような決意を示唆しているように思います。〈いのちと引きかえに〉するほどの決意です。

私にとって、〈閉じこめられたことば〉を解き放つには、長年勤めた会社人生から別世界へ転身することでした。

 

個人的な恣意に偏った読み解きに終始してしまいましたが、ひとつの読み解きとして受け入れてもらえばありがたいです。


(参考文献)
新川和江著『女たちの名詩集』思潮社

現代詩文庫 征矢泰子』思潮社

                              (この稿続く)



| 征矢泰子 | 18:40 | comments(0) | trackbacks(0)
征矢(そや)泰子 3
 第3話 人であり続けるむごたらしさ

  息子に

 

かくも容赦なくのっぴきならずひとであることの

あけてもくれてもひとでありつづけることの

そのむごたらしさのまんなかをこそ

おまえは生きよまっすぐに

おまえはねがうな野の花のやすらかさを

ひたすらにあるがままに身をゆだねてつつましく

みちたりてもだえないことをうらやむな

おまえはいつもうえつづけほしがりつづけ

みちたりなさのなかでめぐりあいに生きよ

おまえは閉ざすな

窓という窓戸口という戸口を

そこからとびこんでくる一切のものにめぐりあえるように

小さな一匹のコガネムシとさえ

おまえはめぐりあえ こころのありったけで

汚辱や悪意不運や挫折をこわがるな

めぐりあいのなかでおののきながら

こころは深くなり大きくなるのだ

ああ おまえは生きよ

かくも苛烈なひとのよにおまえをうんだ

わたしのうしろめたさをふみしだいて

ひとであることのまがまがしさをつきぬけて

しんそこいのちのいとおしさにたどりつける日まで

                           詩集『てのひら』

 

征矢泰子は、昭和9(1934)年に京都に生まれました。十歳で父が他界、住み込みで働き始めた母が生家を手放して、一家は離散します。幼い征矢は親類に引き取られ、居候生活のため家族に内緒で京都大学を受験して合格しました。志望理由の一つは、国立は授業料が安いこと。母子家庭を利用すれば授業料が免除され、奨学金をもらいながらアルバイトをすれば、家出しても生活できると思ったからです。そして、少なくとも4年間は誰にも干渉されない自由時間を獲得できるからです。18歳まで、親や親戚から細かく管理・抑圧されことへの、「こみあげるような反動」でした。それほどまでに、若き日の征矢は貧困と社会の抑圧に(さいな)まれていたのでした。

「息子に」には、征矢の厳しい生い立ちが反映しています。青少年に向けて書かれた励ましの詩はあまたありますが、これほど現実の(むご)さを踏まえた、上滑りのない表現で書かれた詩はないと思います。希望や未来をうたった詩は、讃歌のための讃歌といったような、言葉だけが踊る空疎な応援歌になりがちです。

〈容赦なくのっぴきならずひとであること〉〈あけてもくれてもひとでありつづけることの/そのむごたらしさ〉の詩行は、この世の不条理に翻弄されている者の胸に沁み入ることでしょう。

 

〈野の花のやすらかさ〉よりも、〈いつもうえつづけほしがりつづけ/みちたりなさのなかでめぐりあいに生きよ〉と訴えるのは、〈かくも苛烈なひとのよにおまえをうんだ/わたしのうしろめたさ〉があるからこそです。

でも、母親である作者は、〈ひとであることのまがまがしさをつきぬけて/しんそこいのちのいとおしさにたどりつける〉と信じているのでしょう。

 

息子へこれほどの真摯な愛情を注ぐ作者が、家族を残して何故自ら生命を絶ったのか。その不可解な事実と人間の複雑性がより重く私の心に残りました。


(参考文献)

現代詩文庫 征矢泰子』思潮社

                               (この稿続く)



| 征矢泰子 | 21:13 | comments(2) | trackbacks(0)
征矢(そや)泰子 2
 第2話 心のメルトダウン


  アンタッチャブル・ワールド

 

汗ばんだあなたの裸身を両手でだきしめるとき。

わたしはのこされた最期の現実に触っているのだ。

もっと多くのものに触れたい手のさびしさは。

氾濫するうつつの映像にただむなしくさしのべられて。

さわれないうつつ、ふれあえないうつつ。

こんなにもたえずいっぱい見つづけながら。

その指先はけっしてとどかないうつつは。

鏡の中にとじこめられている。

目ざめても目ざめてもまるでなおゆめのつづき。

のようなこの日々のよそよそしさは。

少しずつたましいをやせほそらせていく。

溺れても溺れても濡れない海の中で。

生きているうつつにさわれないでなお生きていく。

身体はどこまでたましいを生かしつづけることができるだろうか。

どれほどにはげしく、どれほどに深く。

あなたに触りつづけたとしても。

一人のあなたでは世界はまずしすぎるとしたら。

 

                       遺稿詩集『花の行方』


思潮社文庫『征矢泰子詩集』には、新川和江先生の「生と死の修辞学――句点の打ち方」という詩人論が掲載されています。

〈ここ一、二年、気になっていたことがありました。この詩集にも収められている「旅立つ夏」「FINAL EXIT」「アンタッチャブル・ワールド」など、近年のあなたの詩に、句点の使用が目立ちはじめていたことです。句読点の使用は、私自身の関心事でもありましたので、いつか折を見てお話を聞きたい――そう思っていました。しかしほとんど各行の末尾に句点が打たれた作品を眺めていると、とめどなく流出し落下しようとするものを、あなたが必死で堰き止めようとしていらっしゃるかに見えてきて、「何が流れてしまうの? ね、何が落ちていくの?」と聞いてあげねばならない気持に、駆りたてられるのでした。すでに修辞学上の問題を超えて、あなた自身の生命の中で、夥しい流出と落下がはじまっていたのではないでしょうか。

 

私は教室で句点のある詩についての質問を受けると、それは作品を明確に締め括りたいという作者の強い意思の表れだと説明して来ましたが、新川先生の達見に触れて、自分が実に浅い認識であったと思い知らされました。句点というものが、心のメルトダウンを阻止しようとする創作心理のなせる技であるとは、眼から鱗の思いでした。

 

征矢の詩集に、「手」への想いを綴った一文があります。

「人間の手ほど、ふしぎなものはないと、このごろ、つくづく思うのです。悲しみや苦痛をあたたかくいやす手が、にくしみのなかでは、人のいのちをうばいさえする。どんなみにくいこと、うとましいこともやってのけるしたたかさをもちながら、手と手をあわせて無心に祈ることもできるふしぎさ。わたしもこれからは、この世を、みるだけでなくこの手でさわって生きていきたい、と思うのです。

これは(=詩集)は、そんなわたしがつたない思いをこめてこの世の心にさしのべた手、とでもいえましょうか。どうかこの手が、むすびあうやさしい手に、首尾よくめぐりあうことができますように……。              詩集『てのひら』より「おわりに」

 

〈この世を、みるだけでなくこの手でさわって生きていきたい〉〈どうかこの手が、むすびあうやさしい手に、首尾よくめぐりあうことができますように〉という章句は、生きる手応えを執拗に求めていた作者の姿が浮かび上がって来ます。

しかし、そんな作者の願いは、この作品を見る限り、果たされなかったように思えます。

触っても触っても、到達できない現実(うつつ)。〈つたない思いをこめてこの世の心にさしのべた手〉から、自分を取り囲むうつつは空しくすべり落ちてしまいます。

〈生きているうつつにさわれないでなお生きていく。〉という、生きている実感のない空しさ。

追いつめられた作者は、人と交わる究極の触れ合いが、〈のこされた最期の現実〉だと言い切ります。それだけが手で触ることのできる確かな存在だと。しかし、最終行に至って、〈どれほどにはげしく、どれほどに深く。/あなたに触りつづけたとしても。/一人のあなたでは世界はまずしすぎる〉と、自らを救いのない切り岸に立たせます。

 

征矢泰子が個人的にどんな懊悩を抱えて生きていたのか、私には伺い知ることはできません。

ただ、「アンタッチャブル・ワールド」が教えているのは、“ もっと多くのものに触れたい手のさびしさ ”です。征矢は、生きる実感のない空無感を“手のさびしさ”という言葉で生々しくイメージ化しました。

 

現実(うつつ)に触り続け=関わり続け、征矢が求めたものは何だったのでしょうか。

迷い、流されるだけの日常は、生の実感が希薄となり、人間から生きる意欲を奪い、自分の存在価値を見失わせます。

作者は、自らの存在価値を確かめるために手の触感を重視しました。

観念ではなく、手触りで、何よりも実感で相手を確かめ、手と手が溶け合うことを通して、征矢泰子は魂と魂の溶融を最終的に夢見ていたように思います。

 

二十世紀を代表する詩人、T.. エリオットは、現代詩とは「思想を薔薇の香りのように感じさせるもの」と定義しています。征矢の「アンタッチャブル・ワールド」は、現実には触れることのできない寂寥というものを、てのひらで触るように、手触りで伝えています。

これが詩の醍醐味というものでしょう。

 

詩友の國峰照子は、「彼女はお酒と睡眠薬に頼って苦しさを眠らせようとしてきた。一夜の眠りは得ても、また覚める。また同じ空虚な明日が来るのは堪え難いことだ。その心のクライシスは、精神医学の領域にゆだねるべき危険水準に達していたのだろう」と語っています。〈目ざめても目ざめてもまるでなおゆめのつづき。〉〈溺れても溺れても濡れない海の中で。〉の章句は、征矢の癒えることのない憂悶を、卓越したイメージで語った修辞でしょう。

(参考文献)
北川朱美著『死んでなお生きる詩人』思潮社

現代詩文庫 征矢泰子』思潮社

                               (この稿続く)

| 征矢泰子 | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0)
征矢(そや)泰子 1
 第1話  女性専門詩誌からの出発

 

今回取り上げた詩人は私にとっても未知数です。北川朱美著『死んでなお生きる詩人』という書物から知りました。この本に登場する詩人は、二十代で余命一年という癌宣告を受けた女性詩人を始め、病苦、自死など志なかばで倒れた13人の詩人達の過酷な人生を辿り、その詩作品を検証したユニークな一書です。この中に女性詩人は二人いて、その内の一人が征矢泰子です。

 

征矢泰子のプロフィールを簡単に紹介します。

1934611日京都市生。1957年、京都大学仏文科卒業。1959年、三村章子の筆名で小説「人形の歌」を発表、映画化される。結婚、出産を経て38歳から再び詩を書き始め、1985年第9回現代詩女流賞受賞。みすず書房の編集者時代の担当に三島由紀夫がいた。19921128日、58歳で突然、自らの生を断った


詩を再開した動機を、「生活の手ぬるさ、生暖かさ、あいまいさに、一刻どうしても燃えるようなクライマックスが、ほしかった」と第一詩集の『砂時計』の後書きに記しています。

征矢の恩師は、私も若き日に薫陶を受けた新川和江先生です。しかし、私は東京在住中、まわりの先達から一度も征矢の名は耳にしませんでしたし、会う機会もありませんでした。

縁がなかったということなのでしょう。東京を離れて十年を経て、こうして征矢を取り上げるのも不思議な巡り合わせを感じます。

 

征矢と新川先生との繋がりは、詩誌『ラ・メール』が仲立ちとなりました。

詩誌『ラ・メール』は、ウィキペディアによると1983年に創刊された女性のための詩誌で、新川和江と吉原幸子の両者を編集人として思潮社から一般書店で販売されました。「女性詩の系譜」を縦糸に、「あらゆる分野の女性アーティスト」を横糸にして一枚の布を織るというコンセプトのもと、「すべての生きもののふるさと」としてフランス語のラ・メール(海)を誌名としました。編集には詩人の白石かずこ、新藤涼子、高橋順子らも名を連ねました。21号からは思潮社から独立し、書肆(しょし)水族館発行となりますが、1990年頃から吉原がパーキンソン症候群を発症し、『どちらかが倒れたら辞める』という創刊時の約束に従って1993年(平成5年)の通巻40号をもって終刊となりました。全盛期には定期購読の会員が1300人を突破したといわれています。また、毎年、ラ・メール新人賞を設け、鈴木ユリイカ、小池昌代など多くの女流詩人を輩出しました。

 

 治癒

 

深い傷の淵から

ゆっくりと癒されていくとき

傷口のさらにおくから

すこしずつ湧きあがってくる

この世でもっともすみ切った水にあらわれて

傷口はやがて新しい目になるだろう

もはやなんのためらいもなく

まっすぐ天にむかってひらかれたレンズの

焦点は深く視界は広く

ついに新しいおのれの星を発見するそのとき

あれほどいたかった傷口は

しずかに満々と水をたたえて

天にもっとも近い湖

新しい星一つうかべて

なおはげしくのぞみつづけるだろう

さらにあたらしい目差しだけを

 

今回、征矢泰子を調べるにあたり、『征矢泰子』(思潮社・現代詩文庫)を購入しました。

既刊詩集のほとんどが網羅されていますが、その中で私が最も愛好する作品です。遺稿詩集『花の行方』に収められています。

この詩のテーマは端的に言えば、〈希望〉ということになるでしょうか。しかし、それは言葉の上の薄っぺらい希望ではなく、絶望の淵から見上げた価値ある希望です。

〈傷口のさらにおくから/すこしずつ湧きあがってくる/この世でもっともすみ切った水〉という詩句が、壊れた心が回復していく過程を詩的に暗示しています。水という要素(ファクター)によって見事にイメージコーディネイトが施されています。

 

傷口(トラウマ)から澄み切った水が滲んで来るまでには、きっと多くの時間が必要になるでしょう。

卑近な例ですが、私個人の傷口の一つが、母の死でした。そして、日本という国にとっては、3.11の震災だったでしょう。とりわけ、母の死は震災直後から8日目でしたので、二つの大きな悲しみが私の中で同心円のように渦となって重なり、胸の奥を(えぐ)っていきました。


母の死からすでに2年余が経ちました。でも、いまだに私は母の死に正面から向き合えないままでいます。向き合えないということは、母についてまだ本格的に詩を書くことができないということです。

4年近く寝たきりだった母は、ある時期から急速に食事量が減りました。それと共に脱水症状に見舞われましたので点滴を施しました。胃に穴をあけ流動食を流し込む方法もありましたが、無理な延命措置は痛ましく思いましたので点滴でしのごうとしました。それで穏やかに末期を迎えてくれればと願ったのです。

 

ところが、点滴を繰り返す内に高齢のため血管に針が通せなくなりました。それで、点滴の針を直接身体に差し込めるような医療器具を、痩せ衰えた体内に埋め込む手術をしました。手術は成功し、その日の内に家に帰れましたが、その夜、麻酔が切れた母はおそらく激痛のために、朝まで獣のような大声を挙げ続け、わずかに残された体力を使い果たして夜明けに絶命しました。

 

長期間の寝たきりによって、かなり心臓機能が弱っていましたので、手術の負担に心臓が持ちこたえられなかったと思われます。口から食べ物が入らなくなった母のために、家族が選択した方法でしたが、結果的には命取りとなってしまいました。最良のケアを願ったにもかかわらず、母には最大の苦痛を与えたのです。その責任は、私達家族が医学的知識に無知で、主治医の言うなりに任せたことにあります。


私は今も自分が母を殺したような心境から抜け出せないままでいます。大震災で残された人が、家族を救えなかったと言って泣き崩れる姿を幾度も報道で視聴しましたが、私にはその人達の痛苦が我が事のようにわかります。

 

私の傷口に〈この世でもっともすみ切った水〉が湧きあがって来るのはいつの日でしょうか。

そんな日がやって来たら、私は母をテーマに詩に書くことができるかも知れません。

母を死なせた心の(ひず)みを抱える私が、征矢の「治癒」に出逢えたことは、ある意味で時機を得た(えにし)だったかも知れません。人との出逢いが縁であるように、詩作品との出逢いも、かけがえのない縁でしょうから。

 

澄み切った水が集まれば、それは水鏡となり、この世の万象がそこに映り込むでしょう。

征矢が〈新しい目〉と言ったのは、水の(おもて)が瞳のように世界を写す様子を譬えたものと思われます。〈もはやなんのためらいもなく/まっすぐ天にむかってひらかれたレンズの/焦点は深く視界は広く〉と(うた)われるように、深淵から見開かれた目は、曇り無く現実を直視し、物の真実を深く、広く見通すに違いありません。

そのような濁りのない目――悲しみに洗われた目だけが〈新しいおのれの星を発見する〉と作者は訴えかけます。そして、自分の星を発見した時、傷口は痛みを忘れたかのように安らかな静けさを湛え、作者は〈新しい星〉=新しい目標を道しるべとして、新生へ向かいます。

そしてさらに新たな希望を見出す眼差しを獲得しようと強く願うのです。

 

私はこのように「治癒」を読み解いてみました。読み解いたというより、自分の憂悶から脱却したいという、私自身の願いを語ったというのが正しいかも知れません。

いつか長い時間が経った後で、母を死に追いやった自分を許すことができる日が、もし訪れたとしたら、その時こそ私は作品「治癒」に描かれた心理ドラマを賞味できそうな気がするのです。


(参考文献)
北川朱美著『死んでなお生きる詩人』思潮社

現代詩文庫 征矢泰子』思潮社

                               (この稿続く)



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