宮沢賢治 5
 第5話 タイタニック号の姉弟

ジョバンニは列車に乗り込んで来る様々な死者と会話をしながら、「死」の意味を学んでいきます。その中で、タイタニック号の沈没事故で亡くなった姉弟を連れて、銀河鉄道に乗り込んで来た青年のエピソードを紹介してみましょう。


 

  銀河鉄道の夜()

 

「何だか苹果(りんご)の匂がする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか。」

カムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしました。(略)

 そしたら(にわ)かにそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたような顔をしてがたがたふるえてはだしで立っていました。隣りには黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれているけやきの木のような姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。

 

「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議そうに窓の外を見ているのでした。(略)

「ぼくおおねえさんのとこへ行くんだよう。」腰掛けたばかりの男の子は顔を変にして燈台看守(とうだいもり)の向うの席に座ったばかりの青年に云いました。青年は何とも云えず悲しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれてぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり両手を顔にあててしくしく泣いてしまいました。(略)

「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」さっきの燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。

 

「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうして

もこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。(たれ)が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一生けん命で甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく○○番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちもう渦に入ったと思いながらしっかりこの人たちをだいてそれからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一昨年()くなられました。ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」

 

タイタニック号の遭難事故が起こったのは、1912年4月14日。同時代、世界最悪の海難事故でした。処女航海で沈んだことから歴史的事件となりました。当時、宮沢賢治は8歳。事故の記憶が幼い心に強烈に刻まれたことが想像されます。

『銀河鉄道の夜』の初稿が執筆されたのは1924年で、晩年の1931年頃まで推敲が繰り返されました。


私が驚くのは、『銀河鉄道の夜』の中で描かれている事故現場の描写力です。

現代の私達は映画などで遭難時の生命の極限状態を再現映像で見ることができますが、賢治は自分の想像力だけで描きました。まるで自分が体験したかのような、その迫真的な筆力には脱帽の思いがします。


この姉弟の若い家庭教師は人を押しのけてまで助かるのが果たして本当の幸せだろうかと考え、他の子供達に救命ボートを譲って三人は天に召されたのでした。このエピソードは自分のことだけでなく、他人の幸せを思うことが善い行いであり、それを実践すれば、たとえ生命を失ってもよりよい場所へ行けることを暗示しています。川に溺れた級友を助けようとして生命を犠牲にしたカンパネルラも、家庭教師の青年と同じように人のために生命を捧げました。

 

そんな生き方を賢治に教えたのは妹トシでした。肉体は滅んでも、トシの魂はこの世から消えることはない。それなら、彼女の魂と一緒にどこまでも自分が正しいと思って道を歩んでいこう、というのが『銀河鉄道の夜』を書いた意義だったと思えます。

 

これまで回かにわたって、賢治がトシへ捧げた追悼詩を読んで来ましたが、そこからわかることは、『銀河鉄道の夜』はトシの遺志を文学の世界で実現させたものだということです。

であれば、この作品はジョバンニとカムパネルラのように銀河鉄道に乗って鎮魂の旅を続ける賢治とトシの兄妹の物語なのではないでしょうか。


(今回の記事をまとめるに当たっては、NHK教育テレビ放映「100分de名著 銀河鉄道の夜 宮沢賢治」に沿って、同テキストの内容を引用し、筆者がコメントを加えて構成しました

 

【メモ】宮沢 賢治 明治29827 - 昭和8921日(1896 - 1933)享年37

岩手県花巻市出身。盛岡高等農林学校(旧制)卒。中学時代から短歌を作り、その後童話を書くようになった。その一方で仏典に親しみ、法華経に深く帰依する。大正101921)年、上京、伝道生活に入ろうとしたが、妹トシの病気のため帰郷、稗貫(ひえぬき)農学校の教諭となる。

その間、文芸による大乗教典の宣布を意図して、盛んに詩作・劇作を試みる。大正111922)年、27歳で詩集『春と修羅』を起稿。ドイツ語・エスペラント語に熱中、歌曲を作詩作曲。同年11月、最愛の妹トシを亡くし大きな打撃を受ける。大正131924)年、29歳で詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を刊行するが、両著とも全く反響はなかった。

この頃より、農村改造の熱意が(みなぎ)り、大正151926)年、31歳で農村革新のため農学校を退職、羅須地人(らすちじん)協会を創立。農村青年を集めて農業化学、芸術論等を講義する(かたわ)ら、北上川畔に農耕しながら農事指導に専心した。

昭和31928)年、33歳で過労のため腹膜炎を発したが、昭和61931)年、快方に向かったので、東北砕石工場の技師となり、製品販売のため東北各地・東京などを旅行。昭和81933)年、東京で病気再発、帰郷した。同年9月、急性肺炎となり永眠。前夜まで肥料設計に応じていたという。遺言により、法華経一千部を友人知己に贈った。

生前ほとんど無名で、死後、高村光太郎・草野心平(しんぺい)の紹介で、文壇に注目され一般に広く知られるようになった。「雨にも負けず」「永訣の朝」などの詩、「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「セロひきのゴーシュ」などの童話や劇を代表作とするほか、「農民芸術概論」の論文、短歌も800首余。           (小海英二『現代詩の解釈と研究』を基に記す)

 

【メモ】宮沢 トシ 明治31115 - 大正111127日(1898 - 1922)享年24

賢治と二つ違いで生まれる。花城尋常高等小学校での成績は6学年を通して全甲、4年生の時には模範生として表彰される。大正41915年、花巻高等女学校を卒業。1年次より卒業まで首席を続け、卒業式では総代として答辞を述べる。同年4月、日本女子大学校家政学部予科に入学。宮沢家一族は教育熱心な家風で日本女子大には何人もの親族が進学。

同年7月、詩人タゴールの自作詩「ギタンジャリー」の朗読(英語・ベンガル語)を聞く機会を得る。大正7191811月、スペイン風に感染、永楽病院(東京帝国大学医学部付属病院小石川分院)に入院。賢治と母イチは永楽病院近くに宿をとり献身的に看病にあたる。

 

「病院で賢治がとし子さんを看病する有様をおぽろげにはいまも知っておりますが、便のしまつから服薬、またいちいちその日の状態を医師に問い合わせたり、青年のできないようなことを、実に克明にやられるのでした。」 (関『随聞』 校本宮沢賢治全集 第14巻 筑摩書房)

 

大正719182月、退院。花巻の実家で静養。3月末、日本女子大学校卒業。

大正91920年、母校花巻高等女学校の教諭心得となり英語と家事を担当。

大正101921年、9月に喀血。同月、花巻高女退職。賢治はトシ病気の知らせを受けて帰花、12月に稗貫郡郡立稗貫学校の教諭となる。大正111922年、トシは下根子桜(しもねこざくら)(現花巻市桜町)の別荘へ移る。母が本宅から食料を運び、妹シゲが(まかな)いをした。賢治は別荘2階に泊まり、通勤。学校から帰ると、その日あったことを面白おかしくトシに話して聞かせた。

1119日、トシ本宅に帰る。1127日、父・母・弟・妹が見守り、賢治が耳元で南無妙法蓮華教を叫ぶ中、逝去。

 

「女学校へ入ってからも学校始まって以来という、平均点が95点とか8点とかのすばらしい成績をとるので、町でもたいした評判になっていたものです」
「容貌もやさしくにこやかで、だれに向かっても親切でていねいで、ものを話すときの声も、実に澄んでいてきれいな人でした」 小学校同級生、関登久也著『新装版宮沢賢治物語』学習研究社


(参考文献)

ロジャー・パルバース『銀河鉄道の夜 宮沢賢治』NHKテレビテキスト
小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』有精堂

                              (宮沢賢治 完)



| 宮沢賢治 | 08:24 | comments(2) | trackbacks(0)
宮沢賢治 4
 第4話 銀河鉄道の夜

 

宮沢賢治の詩と童話について、詩人村野四郎は「その文学の魅力は結局、科学者の眼と哲人の知恵と詩人の心が一緒に作用しているところに源泉がある」と述べています。

「銀河鉄道の夜」の特異な宇宙感覚も賢治の科学者としての知見から生まれたものでしょう。

 

しかし、賢治は科学者であると同時に狂信的といっていいほどの法華経の信者でした。

3話で紹介した「無声慟哭」の一節、〈わたくしのふたつのこころをみつめているためだ〉は、賢治が仏の世界と現実の世界の両方にまたがって、心が葛藤していることを暗示しています。このように多岐に亘る精神世界の豊かさゆえに、賢治の作品は人間の複雑性を表現した高度の感動をもたらしています。

 

今回は賢治の代表作「銀河鉄道の夜」と読み、そこにどんなメッセージが込められているのかを読み解いていきたいと思います。

 

賢治は農林高校を卒業後、稗貫(ひえぬき)農学校(のちの花巻農学校。現・花巻農業高校)の教師になりましたが、三年間で辞し、農民に農民芸術や農業技術を指導する私塾「羅須(らす)地人協会」を設立しました。

 

羅須地人協会の講義のために賢治が書き下ろした教科書『農民芸術概論綱要』の中に、こんな言葉を残しています。――世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

 

これが賢治の創作活動の原点でした。個人を超えて万人を幸せにすることを自分の使命と考えたのです。これは彼が深く帰依した法華経の教えを現実世界で実践する道でした。農業をやりなさいと上から偉そうに指導し、安定した給料を貰う生活を送っている自分を許せませんでした。それで自分も土地を耕しながら、農民を指導する立場を選び、公立高校をやめてボランティアで私塾を立ち上げたのです。

 

ですから賢治は作家というより、日蓮宗の伝道者であるといった方が正確かも知れません。

また、妹トシは熱心な浄土真宗の信徒である父に反対して、兄賢治と共に日蓮宗を信仰しました。賢治の生き方を一番理解していた妹トシが臨終の床で呟いた、〈また人間に生まれてくる時は、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます〉(「2 grief(かなしみ)を乗り越える」で解説)という言葉も、同じ信仰の賜物(たまもの)と言わねばなりません。


今回取り上げる『銀河鉄道の夜』は、大正13(1924)年、賢治28歳の時に書かれました。

その後、37歳で亡くなるまで何度も推敲の手が入れられました。現在では賢治の代表作といわれているものですが、生前に出版されることはありませんでした。最愛の妹トシの死を契機に書かれた作品といわれ、賢治が実際に体験した「最愛の人の死」をモチーフに描き、生と死をどう受け止めるべきかという、人間の根源的な問題がテーマになっています。

では、一度ストーリーをおさらいしてみましょう。

主人公は小学校に通うジョバンニという少年です。父親は漁師を生業としていますが、なんらかの罪で収監されていて、母親は病気療養中。少しでも貧しい家計の足しになればと、けなげなジョバンニは学校の帰りに活版印刷所でアルバイトを続けています。アルバイトで忙しいジョバンニは、クラスメイトと遊ぶ暇もなく孤独を感じていて、さらに父親のことでたびたびいじめを受けているという設定です。もうひとり、重要な人物として登場するのがジョバンニの友人であるカムパネルラ。彼はジョバンニとは逆に裕福な家庭の少年で、他のクラスメイトとは違い、ジョバンニに対して優しく接してくれるため、二人の間には友情が芽生えています。

 

ある日、放課後のアルバイトを終えて家に戻ったジョバンニは、毎日配達されるはずの母に飲ませるための牛乳が届けられていないのを知り、家を出て牛乳屋へと向かいます。ちょうどその日、町を流れる川では祭(灯籠流しのような祭)が開催されていて、ジョバンニは祭に出かけるカンパネルラを含むクラスメイト達と途中で出会います。楽しそうなみんなの様子を見たジョバンニは疎外感を感じ、寂しさをまぎらわすために。ふらりと寄り道して町外れの丘に一人で登り、しばし時間を過ごすことになります。

 

一人寂しく、ぼんやりと日が暮れ始めた空を眺めているうちに、ジョバンニは、いつの間にか自分が銀河を北十字星から南十字星へと走る汽車に乗り込んでいることに気づきます。

隣の席にはなぜか、祭に出かけたはずの親友のカンパネルラが坐っていました。二人は旅の途中、化石を捕る大学士や、鳥を捕る人、タイタニック号の遭難事故にあったと思われる姉弟など不思議な人々と出会いながら、「人間にとってほほんとうのさいわい(幸福)とはなんなのか?」などと考えつつ一緒に旅を続けることになります。

 

やがて南十字星あたりに到着すると、それまで「どこまでも一緒に旅しよう」と言っていたはずのカンパネルラが忽然(こつぜん)と姿を消していることに気づきます。次の瞬間、ジョバンニは丘の上で泣きながら目覚めました。すべては夢だったというわけです。

 

その後、母親に飲ませる牛乳を受け取った後、川の近くでは「子供が川に落ちたぞ」と大騒ぎになっていました。ジョバンニは近くにいた人から「川に落ちたザネリ(ジョバンニをいじめていたクラスメイト)を助けようとしたカンパネルラが浮かんでこない」と聞かされます。これを知ったジョバンニは、さっき丘の上で見た夢の中で会った人々は死者であり、カンパネルラが天上界へ向かう列車に自分が乗り合わせていた――ということを改めて知ることになります。           NHKテレビテキスト『100de名著 銀河鉄道の夜』より引用

 

以上が『銀河鉄道の夜』の梗概です。列車が銀河を驀進していくというのは、とてつもないスケールのファンタジー童話で、子供の好奇心を刺激してやまないでしょう。

しかし、列車の乗客はジョバンニを除いてすべて死者であり、小中学生の子供が読んだら何だかとても悲しい物語だなという印象しか残らないのではないでしょうか。

 

そこに作者のどんなメッセージが込められているのかは、大人になって、いや、中高年になって読んで、初めて切実に真意が理解できる性質のものだと思います。

賢治の作品は、詩であれ童話であれ、単なる悲しみ、追悼を描こうとしたものはないと思います。詩「永訣の朝」で、賢治は妹の死という堪え難い悲しみを、霙(みぞれ)の清浄さで清め、天上へと昇華する祈りに変えることで悲しみを乗り越えようとしました。

 

『銀河鉄道の夜』を英訳した作家ロジャー・パルバースは、こう語っています。

賢治はトシが亡くなった後に、自分もいっそのこと死んだほうがいいのでは――とも思ったようです。でも生きていこうと決心した。それができたのは、賢治がジョバンニという自分の分身と一緒に銀河を旅しながら、「宇宙=天上界とはいかなるものなのか?」を想像し、自らの悲しみと折り合いをつける方法を見つけたからだと僕は思うのです。『銀河鉄道の夜』は死をテーマに描きながら、それを乗り越えていく希望の物語であったのです。

 

「永訣の朝」の終りに、「どうかこれが天上のアイスクリームになって/おまへとみんなとに清い資糧をもたらすやうに/わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」というフレーズが出て来ます。これこそ、賢治の思想の原点である、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という考え方を詩的に結実させたものです。

 

最愛の者の死によって悲嘆の底に突き落とされながらも、自分のことだけでなく、絶えず他者を思い遣る気持が大切であり、これを実践していれば個人の悲しみは天上で生まれ変わって、万人の御霊(みたま)の清い糧となる――そう考えることで、賢治は妹の死を自分なりに受け入れ、より次元の高いものにすることで、悲しみを乗り越えようとしたのです。

 

そして、「永訣の朝」でうたった天上界の様子をより詳しくファンタジックに描いてみせたのが『銀河鉄道の夜』のように思えます。ですから、ある意味で「銀河鉄道」は妹トシの遺志を運び続ける乗り物であると言えるかも知れません。


(今回の記事をまとめるに当たっては、NHK教育テレビ放映「100分de名著 銀河鉄道の夜 宮沢賢治」に沿って、同テキストの内容を引用し、筆者がコメントを加えて構成しました

 

(参考文献)

日本近代文学大系第36巻『高村光太郎・宮沢賢治集』角川書店

『日本の詩歌 第18巻 宮沢賢治』中公文庫

ロジャー・パルバース『銀河鉄道の夜 宮沢賢治』NHKテレビテキスト

村野四郎『現代詩入門』潮新書

『現代詩鑑賞講座 第6巻 人道主義の周辺』角川書店                                               (この稿続く)

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宮沢賢治 3
 第3話 無声慟哭

 

前回は「永訣の朝」を通して、賢治が最愛の妹の死というgrief(かなしみ)を、祈りのレベルまで昇華することで、懸命に乗り越えようとしたことを学びました。

「永訣の朝」はこれまで妹の死の当日に書かれたとされてきましたが、近年の研究で一年後に完成したことが明らかになっています。

 

それは当然のことでしょう。最愛の肉親を喪って賢治は悲傷に打ちひしがれ、到底、詩を書ける状態ではなかったはずです。「永訣の朝」を書くまでには、一年もの時間を要したと考えるべきでしょう。では、その一年の間、賢治は何を思い、行動していたのでしょうか。

 

賢治はトシの死の翌年、サハリン(日本名・樺太)へ約二週間、一人で旅行しています。この旅は、妹の死を忘れるための傷心旅行であったと、一般に解されていますが、賢治の悲嘆の深さを考えれば、そんな簡単に妹の悲劇を忘れられるはずもありません。

妹との思い出深い故郷を離れて、たった一人、異国の地に身をおくことによって、旅の中で最愛の人の死を見つめ、死の意味を考え、自分なりに受容した。――だからこそ、「永訣の朝」は生まれたのでしょう。

 

今回は「永訣の朝」と同時期に書かれた追悼詩、「無声慟哭」を読み解きます。


 

      無声慟哭

  

     こんなにみんなにみまもられながら

     おまへはまだここでくるしまなければならないか

     ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ

     また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ

     わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき

     おまへはじぶんにさだめられたみちを

     ひとりさびしく往かうとするか

     信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが

     あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて

     毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき

     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

      ら おかないふうしてらべ)

     何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら

     またわたくしのどんなちひさな表情も

     けつして見遁さないやうにしながら

     おまへはけなげに母に訊くのだ

       (うんにや ずゐぶん立派だぢやい

        けふはほんとに立派だぢやい)

     ほんたうにさうだ

     髪だつていつそうくろいし

     まるでこどもの苹果(りんご)の頬だ

     どうかきれいな頬をして

     あたらしく天にうまれてくれ

      れでもからだくさえがべ?⦆

       ⦅うんにや いつかう⦆

     ほんたうにそんなことはない

     かへつてここはなつののはらの

     ちひさな白い花の匂でいつぱいだから

     ただわたくしはそれをいま言へないのだ

       (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)

     わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは

     わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

     ああそんなに

     かなしく眼をそらしてはいけない

 

                   詩集『春と修羅』1924年

 

                   註

                  *あたしこはいふうをしてるでせう

                  *それでもわるいにほひでせう


 

追悼詩というと、一般的に知られているのが高村光太郎の『智恵子抄』所収の「レモン哀歌」でしょう。ところが、その「レモン哀歌」を書いた高村光太郎が絶賛したのが、賢治の「永訣の朝」でした。


 

       レモン哀歌      高村 光太郎


     そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
     かなしく白くあかるい死の床で
     わたしの手からとつた一つのレモンを
     あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
     トパアズいろの香気が立つ
     その数滴の天のものなるレモンの汁は
     ぱつとあなたの意識を正常にした
     あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
     わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
     あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
     かういふ命の瀬戸ぎはに
     智恵子はもとの智恵子となり
     生涯の愛を一瞬にかたむけた
     それからひと時
     昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
     あなたの機関はそれなり止まつた
     写真の前に挿した桜の花かげに
     すずしく光るレモンを今日も置かう

 

                     詩集『智恵子抄』1939(昭和14)年


 

日本の詩を代表する、この二つの挽歌について、詩人村野四郎が次のように比較分析しています。


挽歌としては、高村光太郎の『智恵子抄』中の「レモン哀歌」などが、まず思いだされますが、この二つの挽歌をくらべると、おのずから作者の詩人としての人柄のちがいが、はっきりと浮かび上がって、大変興味があります。

光太郎の挽歌は、何といっても名匠の冴えを見せるような名セリフですが、賢治が妹トシを歌ったこの哀歌ときては、歯切れもわるく読みづらく、かりにも愛唱歌といえる代物(しろもの)ではありません。

しかし、「レモン哀歌」の、あの名調子が、読者の感傷をさそって擦過するのに対して、賢治の哀歌には、鈍重であるが垂直的に、深く読者の胸にしみこんでいく不思議な迫力がたたえられています。

これは、賢治の知恵、いわば賢治が抱いていた、人間の実存的悲哀観によるものでしょう。

賢治がえがく瀕死のトシには、光太郎の智恵子のように、「きれいな歯」も「青く澄んだ眼」もありません。そのかわりに「おかないふう」(死相)と「くさえがべ」(死臭)とがあるだけです。

しかし、そこから立ちのぼる人間的悲哀のすさまじさは、到底「レモン哀歌」の「トパアズ色の香気」どころの比ではありません。

【注】実存的悲哀観:生きる意味を何よりも大切に考える人間が、悲しみに対して抱く思い方。

 

この文章の後には以下のような言葉が続きます。

「詩というものの真の迫力は、単なる言葉の上だけのきれいごとなどからは生まれないということを、この作品(=無声慟哭)によって知ってもらいたいのです。

言葉をえらび、言葉をみがくということは、自分の認識を確かめ、深めることですから、詩作上の欠かせない要件ではありますが、それが間違って文章をかざる(いわゆる言葉のきれいごと)ことになると、自然に認識も習慣的、類型的になって、肝心の詩的迫力を逃がしてしまうことになります。

一見無技巧にみえるレトリック(修辞)の迫力というものは、実は、いわゆる言葉上の〈うまさを超えた、高次元のレトリックのことなのです

 

恩師高田敏子は、後進の者に常々、こう語っていました。

「大事な自分の内部に目を向けることより、言葉を詩的に飾ろうとすることに気をとられたり、持ってまわった言い方をするのが詩なのだと思い違いをしている方が多いようです。

自分は、この詩を書くことで何を知ろうとしたのか? と、自分に問いかける心を持って、一つの詩をまとめてゆかなければなりません。

自己の追求、また、ものの見方の追求、話題を広げるのではなく、一つのことへの追求こそ大切なのです。言葉について考えることは、思いを深めることでもあるのですから

 

これはまさに村野四郎が賢治の詩を評して語ったメッセージと同質のものです。賢治がいかに高い詩観をもって詩作していたかを物語る、確かな証左に違いありません。

 

「無声慟哭」の語釈に移ります。

タイトルの「無声慟哭」ですが、これは「無声」=声を挙げない、という語と、「慟哭」=声を挙げて泣く、という相反する語を組み合わせています。二つの矛盾する言葉を連結することで、深い痛切の情が伝わります。声を出さないというのではなく、声を押し殺して泣く、という苦悶の情を表わしていると考えていいのではないでしょうか。

 

人が余りに深い悲しみを背負わされると、涙も出なくなると聞いたことがあります。

今年2月21日付の朝日新聞にこんな記事を見つけました。

「泣きてえけど、上手に泣けねえ。涙が出ねんだ」。岩手県陸前高田市の電器店主小島(おじま)幸久さん(40)は語った。震災で妻の紀子さん(38)、娘の千空(ちひろ)ちゃん(7)を失い、今はプレハブの仮設住宅で独り暮らしだ。

あの日、消防団員の幸久さんは仕事先から家に戻り、停電後の警戒に町へ出た。津波が来るとは思ってもみなかった。家族とも会えないまま、泥だらけの遺体運びを手伝った。6日後、家の近くで家族の遺体がみつかった。ちいちゃん、ちいちゃん。仲間に「そろそろだぞ」と言われるまで娘を呼び続けた。

 

涙が出ないほどの究極の悲傷――それが「無声慟哭」の真実だったのでしょう。

 

巨きな信のちからからことさらにはなれ〉=信仰によって得られる「ちから」がもたらした生きる活力から離れている状態。5行目の〈青ぐらい修羅〉は、それを言い換えた表現。

〈青ぐらい〉色とは、悲しみのために心が暗く濁った状態を暗示しています。

なお、「修羅」とは「阿修羅」(インド神話の悪魔・鬼神)の略。賢治が使った「修羅」の意味は、阿修羅の住むような、争いや怒りの絶えない世界。悟りからは、ほど遠い煩悩のただ中にいることを譬えています。「修羅場」の修羅と同じ意味あいと考えられます。

 

信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ〉=浄土真宗一色の宮沢家の中で法華経を信仰していたのは、賢治とトシの二人だけでした。

 

あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて〉=心の「修羅」の状態を言い換えたもの。次行の、〈毒草や蛍光菌のくらい野原〉も同じく、修羅的な心境を表わします。

蛍光菌は発光菌の意で、不気味で陰湿な救いのない心の闇を譬えています。

 

〈おら おかないふうしてらべ〉=母親に呼びかけた言葉です。私は薄気味の悪い姿をしているでしょう、と臨終のトシは、死の苦しみのさ中にいても、自分を客観的に見つめる知性を備えていました。どんな状況でも自分の容貌を気にかける、女性らしさが溢れた言葉です。哀切でもあります。

 

〈わたくしのどんなちひさな表情も/けつして見遁さないやうにしながら〉=トシは病いに(やつ)れた我が身の姿を気にして母親に問いかけました。しかし、本当は兄の賢治が同じ問いかけに対して、どんな風に答えるかを注意深く見つめているのでした。

 

〈うんにや ずゐぶん立派だぢやい/けふはほんとに立派だぢやい〉=トシの問いかけへ、「薄気味悪いことなんかないよ。今日は一段と立派だよ」と母親は答えました。我が子を落胆させたくないと気遣う、母親らしい愛情の(こも)った言葉です。

 

〈まるでこどもの苹果の頬だ〉=前行に黒髪の艶やかさを()でる言葉を置くことによって、林檎のような赤い頬が一層鮮やかに伝わって来ます。トシは色白の東北美人であったので、頬が赤く染まっていたのでしょうが、結核の症状のひとつに肌が透き通るように白いという特徴があります。さらに、病熱のせいもあって顔が上気し、瀕死のトシは異様な美しさに輝いていたとも想像されます。

 

〈ただわたくしはそれをいま言へないのだ/(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)〉

=私は修羅の闇に落ちている。信仰から外れた正常な精神状態でないことを指し、そのため妹の今際(いまわ)(きわ)の呟き――(おら おかないふうしてらべ)⦅それでもからだくさえがべ?⦆――に対して病人が安堵するような適切な受け答えができないと嘆いています。

 

〈わたくしのふたつのこころをみつめてゐる〉=妹を安心させる言葉をかけてやりたい気持と、修羅を生きる自分にはその資格はないという、相矛盾する気持がせめぎ合う〈ふたつのこころ〉を意味します。

ところで、賢治が繰り返し語る「修羅」とは、どのような懊悩であったのか、もう少し詳しく読み解いてみましょう。

 

先ほど、〈おら おかないふうしてらべ〉という詩句の解説で、これはトシが、自分が病いのためにひどい容姿をしているのではないかと気にかける言葉だと解説しました。

しかし、この悲痛な問いかけは、容姿のことばかりでなく、信心深いトシであればこそ、死に臨んで心を取り乱してはいないか、と精神面での問いかけだとも解釈されます。

 

そうであれば、母親がトシの問いかけに、〈うんにや ずゐぶん立派だぢやい/けふはほんとに立派だぢやい〉と答えたのは、容姿に対してだけでなく、死に臨む態度の〈立派さ〉も(たた)えていると考えられるのです。

 

ところが賢治は、母親と違って、妹に向かって立派だと言える資格は、自分にはないと考えます。それはなぜかと言えば、〈わたくしは修羅をあるいてゐる〉からなのです。

賢治に修羅の闇を歩かせているのは、厳格なまでの自己凝視でした。もともと狂信に近い日蓮宗信者であったように、物事を突き詰める過激さは生来備わったものでした。

 

末期の床にいる妹は、「永訣の朝」で(うた)われていたように、髪も頬も美しかったに違いありませんが、長らく病床にあったため(やつ)れた表情もあったと想像されます。熱臭も漂っていたかも知れません。

賢治の冷たく研ぎすまされた理性は、いくら母親が〈ほんとに立派だぢゃい〉と言っても、妹のいたわしい姿を否定することができません。瀕死の姿に打ちのめされ、日頃の信仰心も活かせず、なすすべもなく、沈黙しています。

そこには、妹の問いかけに答えられぬ惨めな兄である自分を嘆く、弱々しい、赤裸々な人間像が浮かんで来ます。――修羅とはこういう葛藤を指すのではないでしょうか。

 

思えば、賢治は実に不器用な人です。一徹な人です。母親のように、その場限りでもいいから、病人を安心させるようなことが言えない人なのです。しかし、そこに賢治の真っ正直な人間的魅力があるとも言えるでしょう。

(今回の記事をまとめるに当たっては、NHK教育テレビ放映「100分de名著 銀河鉄道の夜 宮沢賢治」に沿って、同テキストの内容を引用し、筆者がコメントを加えて構成しました。また、「無声慟哭」の語釈は恩田逸夫氏の「宮沢賢治集注釈」(『高村光太郎・宮沢賢治集』所収に基づいています)

 

(参考文献)

日本近代文学大系第36巻『高村光太郎・宮沢賢治集』角川書店

『日本の詩歌 第18巻 宮沢賢治』中公文庫

ロジャー・パルバース『銀河鉄道の夜 宮沢賢治』NHKテレビテキスト

村野四郎『現代詩入門』潮新書

『現代詩鑑賞講座 第6巻 人道主義の周辺』角川書店
                               (この稿続く)
  


| 宮沢賢治 | 11:07 | comments(2) | trackbacks(0)
宮沢賢治 2
 第2話  grief(かなしみ)を乗り越える

恩師伊藤桂一先生(詩人・直木賞作家)によると、優れた悼みの詩とは作者が悲しみを背負って読者に負担をかけず、感動の上澄みだけを与えるものだと説かれています。

「悲傷をきわめた状態でありながら、読んでいる私たちには、暗い、湿った、やりきれない重苦しさはかんじられないということです。むしろ透明で切実な(本質的には暗くない)感動をおぼえます。

なぜ、私たちがそういう感動に浸れるのかというと、私たちに負わされる苦痛を、作者自身が背負ってしまっていて、私たちには、一場の劇から(かも)される、純粋な感動だけが伝達されてくるからです。そのかわり、作者自身の苦痛は倍加し、言語に絶します。それに耐えうる(つよ)さがもし作者になかったら、茫々と泣いているだけで、表現には到らないのです」

                         『実作のための抒情詩入門』

 

「永訣の朝」を読むと、恩師の言葉がことごとくあてはまる思いがします。

現実には獣のように吠え狂うほどの悲嘆であったにもかかわらず、この詩がもたらす悲しみは、不思議なほど清澄に研ぎすまされ、個人的な悲痛を超えて、もっと広い人間普遍の悲しみに昇華されています。

それはひとえに、賢治の(つよ)さが支えているのです。作中に挿入されている妹トシの方言による肉声のみごとな詩的技巧は、自身の悲痛を客観的に見つめられる、冷徹な自己凝視と強靭な精神がなければ叶わないことでしょう。
(写真は、大正1328歳の賢治。花巻農学校教諭時代。上着は鹿皮の陣羽織を仕立て直したもの。林風舎のサイトより転載)


この詩を高度な次元の追悼詩に結晶させたのは、霙でした。純白の雪のイメージは作品を清浄化し、悲しみを祈りに変える力がありました。妹が雨雪を取って来てほしいと言ったのは偶然の事実だったにせよ、賢治は〈雪のひとわん〉に〈わたくしをいっしょうあかるくするために〉与えられたものだと感情移入しました。

さらに〈あんなおそろしいみだれたそらから/このうつくしい雪がきた〉とうたい、霙というものが自分達兄妹への天の恵みであるかのような清浄な心象風景を造形しました。

 

賢治はどうやって妹の死を乗り越えようとしたのか。それは、霙という題材を通して、悲傷を祈りに高め、個人の悲しみを万人の悲しみに普遍化することでした。そして、それを可能にしたのは、他ならぬ妹トシの言葉でした。

今際(いまわ)(きわ)に妹トシが発した、「また人間に生まれてくる時は、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます」という遺言を思うと、賢治が「永訣の朝」によって個人の悲しみを、すべての人の悲しみに同化させようとしたのは、まさに妹の遺志に叶ったものではなかったでしょうか。

写真は、大正7年頃、日本女子大学在学中、20歳の宮沢トシ。翌年卒業。林風舎のサイトより転載

 

これは見方を変えれば、「永訣の朝」は賢治と妹トシの合作であり、妹の遺言を実現するために書かれたものだといっても過言でもないでしょう。

 

一般に、英語で「悲しみ」はsadness(サッドネス)と表記されますが、もっと深い悲しみや懊悩を表わすものとしてgrief(グリーフ)という言葉があります。最愛の人を喪った時の悲しみは、griefがふさわしいでしょう。この悲痛を乗り越えるのは不可能に近いものです。しかし、賢治は「永訣の朝」を通して、griefを乗り越えるひとつの光を導いているように思います。

 

なお、詩人草野心平は「肉親をうたってこんな美しい詩が世界にあろうとは思われない」とまで絶賛しています。また、高村光太郎が妻智恵子の死に際して作った挽歌「レモン哀歌」は、「永訣の朝」の影響を受けて書かれたものと言われています。

  

(参考文献)

      ロジャー・パルバース『銀河鉄道の夜 宮沢賢治』NHKテレビテキスト

      小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』有精堂

      『日本の詩歌 第18巻 宮沢賢治』中公文庫

      『現代詩鑑賞講座 第6巻 人道主義の周辺』角川書店

      伊藤桂一『実作のための抒情詩入門』大泉書店

                               (この稿続く)



| 宮沢賢治 | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0)
宮沢賢治 1
第1話 永訣の朝

宮沢賢治(18961933)は今でこそ国民詩人としての名声が高いのですが、彼の作品が正当に評価されるようになったのは、わずが15年ほど前のことなのです。それは、1996年頃のことで、宮沢賢治生誕百年を迎えたのが契機となりました。

生前はほとんど無名の存在でした。それもそのはず、生前に出版された作品は、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけ、それも自費出版で身近な人達に配られました。詩集『春と修羅』は、1924(大正13)年4月、発行部数1千部。童話集『注文の多い料理店』は同年12月の刊行ですが、ほとんど反響はありませんでした。

 

昭和30年代から賢治作品は小中学校の教科書に取り上げられていましたが、それは「文学」ではなく、あくまで「童話」という限られたジャンルでの評価でした。ところが、没後百年に当たる1996年はバブル経済がはじけ、阪神大震災(19951月)、オウム真理教による地下鉄サリン事件(同年3月)が起こった頃でした。これらの社会事象によって、日本人の考え方は大きな影響を受けました。それまでの物質至上主義や拝金主義が崩れ、人間の幸せはもっと別のところにあるのではないか、という新たな価値観が生まれました。

そのタイミングで賢治生誕百年という記念すべき年が重なったことで、賢治作品が発するメッセージが注視されるようになりました。そして今、3.11の東日本大震災で、賢治の残した思想やメッセージをより一層日本人は必要としているように思われます。

 

初回は賢治の数ある作品の中から、代表作「永訣の朝」を通して、賢治の死生観をお話したいと思います。愛する人を突然に喪った悲しみを賢治がどのようにして理解し、受け入れ、そして乗り越えていったのかを探ります。


(今回の記事をまとめるに当たっては、NHK教育テレビ放映「100分de名著 銀河鉄道の夜 宮沢賢治」に沿って、同テキストの内容を引用し、筆者がコメントを加えて構成しました。また、作品「永訣の朝」の語釈は小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』に基づいています)


                   *


賢治に死について深く考えさせるきっかけとなったのは、二歳違いの妹トシの死でした。

賢治の37年間の短い生涯の中で、最愛の妹との永遠(とわ)の別れは、人生最大の悲しむべき出来事でした。血を分けた肉親の中でとりわけ仲がよかっただけでなく、賢治の最良の理解者であり、情感を共有できる同志であり、精神的な支えとなるパートナーのような存在でした。

万葉集の中で、恋人や妻を「吾妹子(わぎもこ)」という言葉で呼んでいます。これは、実の妹のように愛しいという意味で使われていますが、賢治にとってトシはまさに吾妹子であったのです。

トシは花巻高等女学校、日本女子大学家政学科卒業後、母校花巻高女の教諭になりましたが、在職中、結核を発病して24歳で亡くなりました。学業成績は抜群で、頭の良さは賢治の兄妹中随一であり、賢治と同じ日蓮宗の信仰を持ち、賢治の分身のようなかけがえのない存在でした。発病の報に接して、賢治は東京での生活を投げ打って帰郷しました。トシは療養のため一年半の間、祖父が隠居部屋として建てた別荘に住みましたが、賢治も一緒に住み込んで付きっきりで介護を続けたといいます。そしてトシが息を引き取った時、賢治は押し入れに頭を突っ込んで吠えるように慟哭したそうです。

 

トシを喪った賢治の大きな衝撃は、詩集『春と修羅』所収の「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」の三篇を結晶させました。「永訣の朝」について高村光太郎は「こんなまことのこもった美しい詩がまたとあるだろうか。その詩を書き写しているうちに、わたしは自然と清らかな涙に洗われる気がした」と絶賛しています。


 

       永訣の朝 


      きょうのうちに

      とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ

      みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

         (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

      うすあかくいっそう陰惨な雲から

      みぞれはびちょびちょふってくる

         (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

      青い蓴菜(じゅんさい)のもようのついた

      これらふたつのかけた陶椀(とうわん)

      おまえがたべるあめゆきをとろうとして

      わたくしはまがったてっぽうだまのように

      このくらいみぞれのなかに飛びだした

         (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

      蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から

      みぞれはびちょびちょ沈んでくる

      ああとし子

      死ぬといういまごろになって

      わたくしをいっしゃうあかるくするために

      こんなさっぱりした雪のひとわんを

      おまえはわたくしにたのんだのだ

      ありがとうわたくしのけなげないもうとよ

      わたくしもまっすぐにすすんでいくから

         (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

      はげしいはげしい熱やあえぎのあいだから

      おまえはわたくしにたのんだのだ

      銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの

      そらからおちた雪のさいごのひとわんを……

      ……ふたきれのみかげせきざいに

      みぞれはさびしくたまっている

      わたくしはそのうえにあぶなくたち

      雪と水とのまっしろな二相系(にそうけい)をたもち

      すきとおるつめたい雫にみちた

      このつややかな松のえだから

      わたくしのやさしいいもうとの

      さいごのたべものをもらっていこう

      わたしたちがいっしょにそだってきたあいだ

      みなれたちゃわんのこの藍のもようにも

      もうきょうおまえはわかれてしまう

         (Ora Ora de Shitori egumo

      ほんとうにきょうおまえはわかれてしまう

      あああのとざされた病室の

      くらいびょうぶやかやのなかに

      やさしくあおじろく燃えている

      わたくしのけなげないもうとよ

      この雪はどこをえらぼうにも

      あんまりどこもまっしろなのだ

      あんなおそろしいみだれたそらから

      このうつくしい雪がきたのだ

         (うまれでくるたて

      こんどはこたにわりゃのごとばかりで

      くるしまなえよにうまれてくる)

      おまえがたべるこのふたわんのゆきに

      わたくしはいまこころからいのる

      どうかこれが兜率(とそつ)の天の(じき)になって

      おまえとみんなとに

      聖(きよ)資糧(かて)をもたらすように

      わたくしのすべてのさいわいをかけてねがう


                   

                  *あめゆきとつてきてください

                  *あたしはあたしでひとりいきます

                  *またひとにうまれてくるときは

                    こんなにじぶんのことばかりで

                    くるしまないやうにうまれてきます

                  *ああいい さつぱりした

                   まるではやしのなかにきたやうだ

 

                        詩集『春と修羅』1924年


 

タイトルの「永訣」とは文字通り、永遠の別れを表わします。冒頭の〈きょうのうちに〉の〈きょう〉とは、大正11(1922)1127日。この日の内に、追悼詩「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」の3篇が作られたといわれていますが、後世の研究で「永訣の朝」は妹の死後、一年を経て完成したことが分かっています。

2行目の〈わたくしのいもうとよ〉と〈わたくしの〉と呼びかけているのは、ほかならぬ、かけがえのない妹という強調です。賢治の深い悲しみから発した言葉に違いありません。

 

〈みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ〉は、部屋の中から外を見た時、雪の降る日の印象を的確に表現した描写です。その後の〈うすあかくいっそう陰惨な雲〉と照応するものです。死にゆく妹を前にすると、空の明るさが、より不吉に目に映じるのでしょう。

 

〈あめゆじゅとてちてけんじゃ〉は、岩手県花巻地方の方言で、雨雪((みぞれ))を取って来て下さい、の意です。病熱のために渇いた喉を潤したいという願いを訴えています。

方言を使って肉声を響かせることで、病める妹の存在が生々しく伝わって来ます。作中では、この言葉は三回繰り返されていますが、効果的なリフレインとなって、詩のリズムを刻んでいます。花巻方言のやさしい味わいが感得できます。

 

蓴菜は、池や沼に自生する水草で茎と葉の裏側から寒天状の粘液を出し、食用として珍重されています。〈これらふたつのかけた陶椀〉の〈陶椀〉は陶器の茶碗。〈わたしたちがいっしょにそだってきたあいだ/みなれたちゃわんのこの藍のもよう〉と後半部にあるように、賢治兄妹が長年愛用して、(ふち)が欠けている愛着の深い品です。

〈まがったてっぽうだまのように〉は、瀕死の妹の願いを叶えるために、一目散に外へ飛び出そうとするのですが、部屋から表に出るまで家の中をあちこち曲がることを指しています。

その曲がり方は、曲がる所は急角度で、曲がらずに済む所は一直線に走る様子が伺えます。実に観察の行き届いた表現と言うべきでしょう。

 

〈蒼鉛いろの暗い雲から〉は、〈蒼鉛〉は金属元素のひとつで、赤みを帯びた灰白色です。

陶器の上絵用に使われます。前半部に〈うすあかくいっそう陰惨な雲〉という詩句がありますが、この部分を別の言葉で表現したものです。

賢治は地質学・岩石学に造詣が深く、学問的な特殊用語を多用しています。

 

みぞれはびちょびちょ沈んでくる〉は、その前に〈みぞれはびちょびちょふってくる〉という同じ表現がありますが、〈沈んでくる〉の方が、重く下へ沈むようにして降って来るという、実感のある言葉です。そして、〈ああとし子〉と呼びかける嘆きの言葉が出て来たことで、この詩全体が妹に向けて書かれたものであることがわかります。

 

〈わたくしをいっしょうあかるくするために〉は、暗澹たる思いでいた賢治は、妹に「雨雪を取って来てほしい」と頼まれたことで、ひと時、気持を救われ、目の前が明るくなったよに感じました。それまで、〈うすあかくいっそう陰惨な雲〉〈蒼鉛いろの暗い雲〉と、陰鬱な空模様が描かれていただけに、この場面で光が射すのは対比的で劇的な効果をあげています。そして妹の頼みは、単に雨雪を口に含みたいということよりも、暗く(ふさ)いだ賢治の心を一生涯明るくするための〈けなげな〉計らいであったと作者は悟るのでした。

 

〈ありがとうわたくしのけなげないもうとよ〉は、死の瀬戸際でも兄の自分を思い遣ってくれたことへの感謝です。〈わたくしをいっしょうあかるくするために〉〈さっぱりした雪のひとわん〉を頼んでくれたことへの返礼です。

 

〈わたくしもまっすぐにすすんでいくから〉は、自分も人として正しい道をひとすじに歩んでいく、との決意です。この後に(だから安心してほしい)という言葉が隠されていると想像されます。

 

〈銀河や太陽 気圏などとよばれたせかい〉では、〈気圏〉は地球を包んでいる大気の存在する範囲。銀河、太陽、気圏は賢治独特の宇宙観から生まれた言葉で、詩作品や童話に頻出しています。

 

〈ふたきれのみかげせきざい〉は、御影石の石材が二かけら、の意。御影石は花崗岩のことで、建築資材として使われています。

〈みぞれはさびしくたまっている〉は、心寂しい作者がみぞれに感情移入して、〈さびしく〉見えるのです。〈そのうえにあぶなくたち〉は、〈その上〉は〈ふたきれのみかげせきざい〉に危うく立っているのです。

雪と水とのまっしろな二相系(にそうけい)をたもち〉は、(みぞれ)を賢治独特の表現で言い換えた表現で、霙は氷という個体と、水という液体の二相から成り立っているからです。そして、この二相を保ったまま載せているのは、2行あとの〈松のえだ〉です。だから、霙の雫にぬれて、〈つややかな松のえだ〉に映るのです。

 

〈あああのとざされた病室〉とは、表で雪を掬いながら、病室に付す危篤の妹を思い浮かべた言葉です。〈くらいびょうぶやかやのなかに〉は、当時は病人の暖房ために冬でも蚊帳をつり、屏風を囲いました。

やさしくあおじろく燃えている〉とは、病いでやつれて青ざめた妹の顔を暗示し、最期の生命の火が燃えている、という意味も含んでいます。

ですから、次行の〈わたくしのけなげないもうとよ〉の〈けなげな〉の意味は、最期の生命の火を燃やして、死と闘っていることをいいます。

 

この雪はどこをえらぼうにも/あんまりどこもまっしろなのだ〉は、妹のために純白の雪を取ろうにも、すべてまっ白なので、どこから取っていいか迷っています。

そして、この雪は妹の死を美しく清めるものとして賢治は見つめています。

 

(うまれでくるたて/こんどはこたにわりゃのごとばかりで/くるしまなえよにうまれてくる)〉は、父親が最期に言い残すことはないかと聞いた時、妹トシが言った言葉だといいます。意味は、「また人間に生まれてくる時は、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてきます」。その真意は、自分のことだけに苦しむのではなくて、人のため、すべての人の幸福のために苦しむような生き方をしたい、ということでした。

これは驚くべき言葉です。普通、こんな業病を患ったら、今度生まれたら二度とこんな病気にはなりたくない、こんな苦しみは味わいたくないと言うのが当然だと思います。

 

ところが、彼女は自分の辛い運命を嘆くよりも、自分の苦痛を人のために活かしたい、と語ったのです。私が「永訣の朝」の詩篇中、最も心を打たれた箇所であり、トシという女性の崇高さと情愛の豊かさを感じさせられました。

 

どうかこれが兜率(とそつ)の天の(じき)になって〉では、〈これ〉は〈おまえがたべるこのふたわんのゆき〉を指します。〈兜率の天〉は仏教用語で、遠い未来、この世に降臨して衆生(しゅじょう)を救うと信じられている、弥勒菩薩が治めている天界が兜率天。〈食〉は、食べ物。

初版本では、〈兜率(とそつ)の天の(じき)〉というという箇所は、〈天上のアイスクリーム〉という表現になっていました。

 

〈やがておまえとみんなに〉は、妹の〈おまえ〉だけでなく、天上に住む者達も、の意。妹トシと同じように、すべての人の幸いを願う、賢治の深い信仰心から生まれた言葉であるように思います。

〈わたくしのすべてのさいわいをかけてねがう〉は、自分の一切の幸福をかけて願う、の意。

〈かける〉という言葉は、失敗した時はそれを失う覚悟で行うことを言います。

そうであれば、賢治は自分のすべての幸福を失ってもいいという覚悟で、妹に与えた雨雪が天上の多くの御霊(みたま)の聖なる糧となることを祈ったのでした。

                               (この稿続く)

(参考文献)

NHKテレビテキスト『100分de名著 銀河鉄道の夜 宮沢賢治』

小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』
 

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