中原中也の人と詩業 22
 第22話 中也代表作鑑賞「骨」

 

       

 

     ホラホラ、これが僕の骨だ、

     生きていた時の苦労にみちた

     あのけがらわしい肉を破って、

     しらじらと雨に洗われ、

     ヌックと出た、骨の(さき)

 

     それは光沢もない、

     ただいたずらにしらじらと、

     雨を吸収する、

     風に吹かれる、

     幾分空を反映する。

 

     生きていた時に、

     これが食堂の雑踏の中に、

     坐つていたこともある、

     みつばのおしたしを食ったこともある、

     と思えばなんとも可笑(おか)しい。

 

     ホラホラ、これが僕の骨  

     見ているのは僕? 可笑しなことだ。

     霊魂はあとに残つて、

     また骨の処にやって来て、

     見ているのかしら?

 

     故郷(ふるさと)の小川のへりに、

     半ばは枯れた草に立って、

     見ているのは、  僕?

     恰度(ちょうど)立札ほどの高さに、

     骨はしらじらととんがつている。

               詩集『在りし日の歌』昭和13(1938)年




「骨」は、東京生活の挫折感を味わう作者が、郷里の冬に帰省し、小川(吉敷川?)の水辺に風雨に晒された、白っぽい棒杭をモチーフとしているといわれています。作中に〈杭〉という言葉は出ませんが、終連が暗示しています。


「骨」を読む度に思い出す愛誦短歌があります。


   他界より眺めてあらばしづかなる(まと)となるべきゆふぐれの水

                     葛原妙子(くずはらたえこ)

 

この短歌は、夕暮れの水辺も、他の世界から眺めれば、何かの標的のように見えるかもしれない、という内容を歌っています。「他界」は死後の世界の意味ではなく、「異界」の意味合いです。

この短歌を解説のプロローグに使ったのは、中也の詩に、現実の自分を別の場所から眺めるような独自の視線を色濃く感じるからです。

 

中也は8歳の時に弟を亡くし、16歳で故郷を追放され、18歳で長谷川泰子に去られ、

21歳で父謙介を亡くし、29歳で愛息文也を亡くしました。

その生涯は、故郷、恋人、家族という、かけがえのないものを失い続ける遍歴だったといっても過言ではありません。


このことは、中也をこの世に繋ぎ止める手だてが失われたことを意味します。現実に生きている意識が希薄になるといってもよいでしょう。中也が、骨となった自分を眺めるような視点をとったのは、耐え難い哀しみと鬱屈した心の世界に身を置くのに耐え切れず、自身をこの世から遊離した存在とするような心理的処置を執ったのかも知れません。一種の「離人症」的視点ともいえるでしょう。自分を異界に置き、言わば〈死の世界からみた生の世界〉をうたっています。


詩人・伊藤信吉は、「骨とはなんだろう、生の残骸である。それならば生とはなんだろう。この詩を作った中也にとって、それは〈骨になるまでの錯雑した過程にほかならない」(『現代詩の鑑賞 下)と語っています。中也が生きた人生が「錯雑した過程」であったればこそ、〈あのけがらわしい肉を破って〉と、生に対する作者の嫌悪感や虚無感が現れています。そして生と対極にある骨が象徴する死後の心やすさ、親しさが、〈ホラホラ〉というおどけた語調に微妙に反映しています。


「骨」は、このように我が身を冷徹に見つめた作品ですが、その中には〈みつばのおしたし〉という詩語に中也らしい、庶民的ないじらしさも顔を出しています。

                              (この稿続く)




| 中原中也の人と詩業 | 09:21 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 21
 第21話 中也代表作鑑賞 「サーカス」

第20話まで中也の生涯をご紹介しましたが、記事で触れなかった中也の代表作について、しばらくお話させて下さい。今回は、有名な「サーカス」です。

      サーカス

 

     幾時代かがありまして

       茶色い戦争ありました

 

     幾時代かがありまして

       冬は疾風吹きました

 

     幾時代かがありまして

       今夜此処(ここ)での()殷盛(さか)

       今夜此処での一と殷盛り

 

     サーカス小屋は高い梁

       そこに一つのブランコだ

     見えるともないブランコだ

 

     頭(さか)さに手を垂れて

       汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと

     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

     それの近くの白い灯が

       安値(やす)いリボンと息を吐き

 

     観客様はみな鰯

       咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)

     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

     屋外(やがい)は真ッ(くら) (くら)(くら)

       夜は刧々(こうこう)と更けまする

     落下傘奴(らくかがさめ)のノスタルヂアと

       ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

               詩集『山羊の歌』昭和9(1934)年


 中也は、聴覚のすぐれた詩人でした。その才能はオノマトペ(擬音)となって開花しました。彼にはまた、作品の中で様々な人物像に身をやつして歌う嗜好がありました。

役者的詩人であったともいえます。作品毎に、流れ者、歌舞伎の口上、香具師(やし)の口調を真似た独特のリズムで情感を伝えようとしています。


この「サーカス」も歌舞伎役者の口上などをまねたもので、中也が最もよく朗読した作品です。1行目の〈幾時代かがありまして〉という歌い出しは、わざと昔話風に突き放した語り口で、中也流の表現となっています。


〈茶色い戦争〉=赤でなく、黒でなく、茶色を使ったのは、茶色が、戦場の土ぼこり、軍服、あるいは遠い過去のセピア色を連想させるからではないかと言われています。


〈汚れ木綿の屋蓋のもと〉=舞台となっているサーカス小屋は、現代のディズニーランドのような華やかなものではありません。戦前の貧しい時代の、うらぶれた見せ物小屋的たたずまいを想像して下さい。


安値いリボンと息を吐き〉=安っぽさを表すためのダダ的表現。


〈観客様はみな鰯〉=観客をブランコの上から見下ろしている視点で描かれています。観客は、目を丸くし、口を半開きにして見上げています。その様子を皮肉をこめて、目がぎらぎらとしたイワシのような表情だといっています。


咽喉が鳴ります牡蠣殻と〉=見上げているので、あごが突き出て、唾を呑み込み、のど仏があらわになっている様子を譬えています。その、のど仏の形を、牡蠣殻だとからかっているのではないでしょうか。


屋外は真ッ 〉=歌舞伎の口上のような、面白いリズム。〈闇〉は夜の闇だけでなく、時代の闇、中也の心の闇を暗示しています。


落下傘奴のノスタルヂア〉=前半で〈茶色い戦争〉が出て来たので、空軍のパラシュート部隊の敵地への降下を思わせます。しかし、それよりも、このサーカス小屋のテントそのものを、巨大なパラシュートと見立てて、どこまでも闇の中へ墜落していくイメージを想像するのも面白いと思います。


ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん〉=このオノマトペに、中也の生きた時代の暗さ、やるせなさ、わびさ、哀しさ  すべての思いを託しています。

 

この「サーカス」は、芝居小屋の前に立っている、呼び込みのような口調で書かれています。〈今夜此処での一と殷盛り〉〈夜は刧々と更けまする〉などが特徴的です。

ですから、この詩を朗読する場合は、歌舞伎役者の襲名披露のような口調がふさわしいのではないか、と私は思います。

中也の意図は、そうやって詩を楽しむことにあったのではないでしょうか。


【参考文献】

・青木健編著『年表作家読本 中原中也』
・『現代詩鑑賞講座 第8巻』
・『日本の詩歌 第23巻』

                             (この稿続く)

 


| 中原中也の人と詩業 | 11:55 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 20
 第20話 母のてのひら


    ぼくはお母さんにめったにあえんから、見送りたいんです  中也の言



 中也は人を見送るのが好きでした。母が上京して帰るときは、必ず東京駅まで見送りました。それも母が座っている窓際にじっと立って見送ってくれたのです。

「ぼくは山口には帰らん人間じゃから、いま別れたら、いつ会えるかわからん。だから、ぼくはここにじっとしておりますよ」


中也は上京後、夏と冬には帰省していました。トレードマークのお釜帽に長髪で黒マント(ランボーを真似て)を着て。「中原へ行くと、坊ちゃんのようだけど、お嬢さんのような髪を長うした人がおいででしたが、あれはどなたでございましたか」と近所の者が母フクの実家まで問い合わせに行ったというエピソードが残っています。


        帰 郷

 

        柱も庭も乾いてゐる

        今日は好い天気だ

            縁の下では蜘蛛の巣が

            心細さうに揺れてゐる

 

        山では枯木も息を()

        あゝ今日は好い天気だ

        路傍(ろばた)の草影が

        あどけない(かなし)みをする

 

        これが私の故里だ

        さやかに風も吹いてゐる

        心置なく泣かれよと

        年増婦(としま)の低い声もする

        あゝ おまへはなにをして来たのだと……

        吹き来る風が私に云ふ

                     詩集『山羊の歌』1934年(昭9)


【注釈】 柱も庭も乾いてゐる 風土、旧家のたたずまいの象徴

     年増婦の低い声もする 長谷川泰子、母フク、湯田温泉芸者と諸説あり


 中也は8歳の時に弟を亡くし、16歳で故郷を追放され、18歳で長谷川泰子に去られ、

21歳で父謙介を亡くし、29歳で愛息文也を亡くしました。その生涯は、故郷、恋人、家族という、かけがえのないものを失い続ける遍歴だったといっても過言ではありません。

 

東京生活では、年上の文学仲間のいじめの標的にされました。彼の詩を理解するのは、小林秀雄、高森文夫など少数の友でした。中也の安らぎは故郷の風光と、放蕩無頼を繰り返しても変わることのない母フクの愛情でした。中也という希代の詩人は、自由奔放な生き方をしましたが、結局、最期まで母のてのひらの中にいたと言えるでしょう。

が、文也の死で心は壊れ、神経衰弱で入院、衰弱死に至ったのです。



       私には中也の詩だけは妙によくわかるのです   ❖母フクの言

       文学者のわからないところでも、

       よくわかるところがあるのです

 

角川書店から全集が出て、改めてフクは中也の詩を読み返してみました。中也の詩の所々に異常な共感を持ちました。90歳で山口市より文化功労者として表彰されます。「中也を育てる上に功績があったとでもいうのでしょうか。私は詩人になれと願ったことは一度もありませんでした。詩人になることを絶えず阻止して来ました。そして今は印税の一部まで貰っています。中也にすまない気がします」

(写真は母フク、百歳の書。『別冊太陽 中原中也』より転載)


 論文の調べもののために、大学の休みになると多くの大学生がフクをたずね、それが生き甲斐になりました。

「中也が生きておりますころは、湯田のあたりで、〈あれは胆やき息子だ〉という評判になっておったようです。けれども、このごろではみなさんが、〈死んで孝行なさいましたな〉といってくださいます。〈中也さんがおいでくださったために、公園に詩碑もできるし、湯田に住む者はほんとうに名誉に思っております。あなたもお若い時には苦労なさいましたろうけど、あんなに立派になられるとは、ほんとうに親孝行でございましたよ〉」


中也没後43年を経た昭和55(1980)年11月12日、フクは101歳の天寿を全うしました。

フクの長命は、中也の亡き魂が親孝行を果たすために、生き長らえさせたといえるかも知れません。


【参考文献】

・青木健編著『年表作家読本 中原中也』

・『別冊太陽 中原中也』
中原フク述、村上護編 『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』

                              (この稿続く)


| 中原中也の人と詩業 | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 19
 第19話 天才の最期

 

         お母さん、            ❖中也の言

         ぼくは本当は孝行者だったんですよ


昭和12(1937)年10月15日頃、鎌倉養成院(現清川病院)に入院した中也の許へ、母フクと弟思郎が駆けつけた時、中也の意識はもうありませんでした。同月22日、中也は「おかあさん」と呼び、母フクの指をタバコを吸うように自分の指にはさんで二度吸い、「僕は本当は孝行者だったんですよ」と言い、「今にわかるときが来ますよ」と続け、ひと呼吸おいて「本当は孝行者だったんですよ」と言ったそうです。「最後の声は正気の声であった」(中原思郎「死」)


中也を見舞った青山二郎は、『文学界』昭和12年12月号の「独り言」という追悼文で、末期の中也を回想しています。
「ハイ病院に駆け付けた時は、もう中原でなくて、脳膜炎でした。ぞうきんの様に使い荒らされて、遂に我が手に掛けられ打捨てられてしまった様な、今更はっと思うような肉体が、置き忘れられたように寝ていました。(中略)枕元には懐中手(ふところで)をして突立った、小林(小林秀雄)のしみじみと見下ろした姿があった。無口でぎょっとした連続みたいな、河上(河上徹太郎)の顔があった。大岡(大岡昇平)、中村光夫の顔が二人の肩越しに見詰めていた。奥さんは胸の辺りをさすり、お母さんは手を取って指を揉んでいた。その母親の指を煙草を吸うように指に夾んで、口に持って行く、いまは悲しい中原中也であった」

昭和12(1937)年10月23日午前0時10分永眠。享年30歳の若さでした。


         四行詩


       おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。

       煥発する都会の夜々の燈火を後に、

       おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。

       そして心の呟きを、ゆつくりと聴くがよい。

 

             中也、最後の詩、昭和11(1937)年9月30日


 

この作品は、「今日も無事に終わった。来月は帰省だ。」と、中也が日記に書いた9月30日に、詩篇「秋の夜に、湯に浸かり」と共に成ったと言われています。


この詩のテーマは〈孤高〉。一人気高くある生き方です。あえて親しい人から離れ、創作のために〈心の呟きを、ゆっくりと聴く〉時間を求めるのです。

(写真は、『別冊太陽 中原中也』より転載)


中也は、「労働としての散歩」を心がけました。歩行することによって詩作する人でした。「大正12年より昭和810月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の12時頃迄あるくなり」

大正12年は立命館中学入学、昭和8年は結婚直前。独身時代、文学修行時代に当たります。一日三里は歩いたという詩人の最後を飾るにふさわしい作品といえるでしょう。


【参考文献】

・青木健編著『年表作家読本 中原中也』

『別冊太陽 中原中也』
                                  (この稿続く)


| 中原中也の人と詩業 | 10:26 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 16
 第16話

         思郎、屋根の上に白蛇がいる    ❖中也の言        


昭和11(1936)年暮れに中也の異変を妻が知らせ母フク、続いて弟思郎が上京します。中也の耳に、巡査の足音や文也の葬式で悪口を言う者の声が聞こえます。家族は昭和12(1936)1月、精神病院とは内緒で千葉寺療養所に中也を入院させました。

         ああ、あそこは通らん。          ❖中也の言

         あの家で文也にオモチャを買ってやったから、

         あの前は通らん


同年2月、中也は病院を抜け出して家に帰るなり、妻の孝子をひどくぶったといいます。母フクが退院後の中也が妻に暴力を振るうことを恐れ、再度上京しました。来て見ると孝子はほうぼうに包帯をしていました。


療養所から逃げ帰った後、中也と母と孝子が三人で散歩すると、「ああ、あそこは通らん。あの家で文也にオモチャを買ってやったから、あの前は通らん」といいます。死んだ文也のことを思い出させるようなものがあると、中也はとても耐えられなくなるようでした。住み慣れた市ヶ谷あたりは暮らすのが辛いので、鎌倉へ転居することになります。


引っ越し先は、扇ケ谷(おおぎがやつ)の寿福寺境内にある六畳二間と四畳半と台所のある小さな家でした。母フクは中也が入院、引っ越しをするたびに上京し、東京と山口の間を何度も往復しました。

10月、中也は結核性脳膜炎を発病、入院します。皮肉にも、中也が東京での行き詰まった生活を清算し、帰山予定の月に入院することになりました。仕事に行き詰まりを感じ、郷里で小説でも書いて、また気分が一新できたら上京する心づもりであったようです。


この時期の心境を中也は日記に記しています。

「私の神経衰弱は、子供が急激に亡くなつて、所謂(いわゆる)此の世が夢のやうに思はれたことに原因しました。かてて加へてその後の弔ひの事、つまり私の未経験なことをしなければならなかったといふことがいやが上にも私の神経を疲らせました。死ぬ前のまる三昼夜殆ど一睡もしないことも亦影響してをりませうし、その亡くなりました月が妻の臨月にて、亡くなりました子供の入院中に次が生まれるかも知れないといふ有様であつたのです。それで小生は看病をしながら、一方妻が心配しないやうにと、何かと心を遣ひました。

そんなことで、しつかりした人でさへも多少は動揺する所へ以て来て、小生はいたつて世間馴れのしてゐない方であります、それに妻がまたほんのおぼこ、田舎より出て参りました母がまたのほんの喪服を着けてゐるだけにて何の役にも立たず、小生は喪主兼世話役。」                                  『千葉寺雑記』

(写真は昭和12年1月、千葉市「中村古峡療養所」第一寮室内図。中村民雄画。『別冊太陽 中原中也』より転載)


 

       春日狂想

 

           1

 

        愛するものが死んだ時には、

        自殺しなけあなりません。

 

        愛するものが死んだ時には、

        それより他に、方法がない。

 

        けれどもそれでも、(ごふ)(?)が深くて、

        なほもながらふことともなつたら、

 

        奉仕の気持に、なることなんです。

        奉仕の気持に、なることなんです。

 

        愛するものは、死んだのですから、

        たしかにそれは、死んだのですから、

 

        もはやどうにも、ならぬのですから、

        そのもののために、そのもののために、

 

        奉仕の気持に、ならなけあならない。

        奉仕の気持に、ならなけあならない。

 

                 詩集『在りし日の歌』1938年(昭和13)

 

「春日狂想」は昭和121937)年『文学界』5月号に発表。中也、30歳の作です。

愛児の死で精神が極限まで追い詰められた中也が、自分を守るために編み出した言葉が、〈奉仕の気持に、ならなけあならない〉の詩句です。(ごう)が深くて、文也の後を追うことができないのなら、出家でもするような奉仕の気持ちになるより他はないというのです。


同作品の第2章では、〈奉仕の気持ちになりはなったが、/さて格別の、ことも出来ない。〉〈そこで以前(せん)より、本なら熟読。/そこで以前より、人には丁寧。〉、第3章では、〈ではみなさん、/喜びすぎず悲しみすぎず、/テムポ正しく、握手をしませう〉と結んでいます。


ですから、中也が宗教的な境地に至ったと考えるよりも、わざと、ひょうげて(おどけて)見せることで、一時的にでも絶望的な哀しみから逃れようとしていると思えます。

これらの詩句は、絶望の中で開き直った境地から生まれた言葉なのでしょう。なお、当時の〈奉仕〉とは、現代のボランティア的な奉仕とは異なることを留意しなければならないとの識者の意見があります。


【参考文献】
・『名言 中原中也』彩図社
・青木健編著『年表作家読本 中原中也』

『別冊太陽 中原中也』

                              (この稿続く)

                    


| 中原中也の人と詩業 | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 15
 第15話

        僕たちだけでいてやりたいから   ❖中也の言

        帰ってくれないか



家庭的な幸せに浸(ひた)っていた中也は、思いもかけない暗運に見舞われます。

2歳の誕生日を過ぎた愛息文也に異変が起こったのです。昭和11年(1936)10月の日記に「文也の誕生日。雨天なので、動物園行きをやめる」と記され、翌11月4日の日記には、「坊やの胃は相変わらずわるく、終日むづかる。明日頃はなほるであらう」と書かれています。


ところが、一週間を経て、「十一月午前九時二十分文也死去/ひのへ申一白おさん大安異/文空童子」と日記の欄外へ墨で大書されています。昭和111110日午前920分、文也逝去、享年2歳の儚さでした。

中也の悲嘆は尋常なものではなく、葬儀の時、いつまでも遺体を抱いて離さず、母フクがやっとのことであきらめさせて、遺体を棺の中に入れました。その後49日の間、毎日僧侶を呼んで読経を頼み、文也の位牌から離れず、般若心経を読み続けました。


文也を抱いた中也の姿は、奇しくも2歳の中也を抱いた父謙介の姿と二重写しになります。文也を溺愛した中也には、父親譲りの情の深い気質が伺われます。我が子にすべてを捧げて裏切られ、失意の中で死んだ父と、愛児の死で正気を失った中也には、父子を巡る中原家の悲しみの連鎖があるように思えます。


劇画家・曽根富美子は中也の一生を描いた作品『含羞』(はじらひ)の中で、「中原のうしろにその父親の影が見える。自分の子に全存在を賭け、全人生を失った父親が重なる」と描いています。まるで、“天才のぬけがら  長年の不摂生で身体をボロボロに傷(いた)めていた中也は、文也の死後は自分の身体のことを一切考えなくなりました。
同時期、「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」を制作しています。



      夏の夜の博覧会はかなしからずや

 

      夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

      雨ちよと降りて、やがてもあがりぬ

      夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

 

      女房買物をなす間、かなしからずや

      象の前に余と坊やとはゐぬ

      二人(しやが)んでゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

 

      三人博覧会を出でぬかなしからずや

      不忍ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

 

      そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき

        かなしからずや、

      髪毛風に吹かれつ

      見てありぬ、見てありぬ、

      それより手を引きて歩きて

      広小路に出でぬ、かなしからずや

 

      広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや

 

         2

 

      その日博覧会に入りしばかりの(とき)

      なほ明るく、昼の(あかり)ありぬ、

      われら三人(みたり)飛行機に乗りぬ

      例の廻旋する飛行機に乗りぬ

 

      飛行機の夕空にめぐれば、

      四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

 

      夕空は、紺青の色なりき

      燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

 

      その時よ、坊や見てありぬ

      その時よ、めぐる釦を

      その時よ、坊やみてありぬ

      その時よ、紺青の空!       

                     未発表詩篇 1936・12・24



「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は、愛児・文也が亡くなってひと月後、その短い生涯を綴った「文也の一生」を書いた日(昭和111936)年1212日)に書かれ、24日に推敲されました。愛児の生前、親子三人で訪れた遊園地での一日を回想しています。

全編、〈かなしからずや〉の句がリフレインとなって鳴り続けます。思い出される遺児の一挙手一投足が、すべて哀しみの棘(とげ)となって詩人の心を刺していくのでしょう。

(写真は、『別冊太陽』より転載)



 

       冬の長門峡(ちょうもんきょう)

 

     長門峡に、水は流れてありにけり。

     寒い寒い日なりき。

 

     われは料亭にありぬ。

     酒()みてありぬ。

 

     われのほか別に、

     客とてもなかりけり。

 

     水は、(あたか)も魂あるものの如く、

     流れ流れてありにけり。

 

     やがても密柑の如き夕陽、

     欄干にこぼれたり。

 

     ああ!   そのやうな時もありき、

     寒い寒い 日なりき。

 

              詩集『在りし日の歌』1938年(昭和13)


長門峡は渓谷美に優れ、国と県の「名勝および天然記念物」に指定されている山口県の代表的な観光地です。JR新山口駅から普通列車で1時間半の距離にあります。

季節外れの厳寒の観光地を訪れた風変わりな客、中也。ただ一人、座して杯を傾けながら、水の流れに見入っていました。茫洋と夕暮れるまでの、ひと時を過ごしました。

この詩に描かれているのは、時間の経過です。あたかも川の流れのような、愛児を亡くした空白の心の時間が流れています。黄昏の中に傷心の詩人のシルエットが鮮やかに浮び上がって来ます。


【参考文献】
・『名言 中原中也』彩図社
・青木健編著『年表作家読本 中原中也』

『別冊太陽 中原中也』

                               (この稿続く)


| 中原中也の人と詩業 | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 14
 第14話 蝶であった泰子と秀雄

 カラカラの水無し川に、蝶々が来て止まったら、また、水が流れ出す・・

中也が「一つのメルヘン」で描いた特異な幻想世界を私なりに読み解いてみましょう。


この水無し川のモデルになったのは、郷里・湯田温泉町の中也のお墓のすぐ側を流れている吉敷川(よしきがわ)と言われています。

でも、詩の中の水無し川は、現実の川ではなく、中也の心の中に浮んだ、幻の川です。秋の夜の遥か彼方に、闇のトンネルを抜けると、不思議に明るい世界が広がっています。(写真は中原家代々の墓。吉敷川は墓地の裏手にある。筆者撮影

 

これは一種の臨死体験に似てはいないでしょうか。生死をさまよう魂が、トンネルのような闇を抜けると、輝くようなお花畑に出る、といった体験談を聞かれた方もおられると思います。そんな、この世にはないような、しらじらとした河原が広がっています。陽の光は、砂粒が落ちるようなサラサラという音を立てながら、降りそそいでいます。

 

そこに、どこからともなく、一匹の蝶がやってきます。

蝶が現れたことで、陽の光以外には何もなかった世界に、「ひとつのメルヘン」という物語が始まるのです。その物語とは何か。水が流れ出すんですね。それこそ、この詩の中心なのです。中也が何を言いたかったのか? 秘密を解く鍵がここにあります。


詩というのは、そこに出て来る題材は、すべて心の(たと)えです。河原、蝶、みんな心のシンボルだと思って読むと分りやすくなります。

からからに干上がった河原は、渇いた心。そこにやってきて、水をあふれさせる蝶は、希望や優しさの象徴。そんな風に読み解いてみたらどうでしょう。少し、画一的ですが、ひとつの手がかりにはなるでしょう。

 

中也は、この水無し川を賽の河原のような、みじんも希望がない世界と捉えています。

まるで、自分の荒れ果てた心を見ているようだと。こういう見方を、専門的に「心象風景」と呼んでいます。

極端に言えば、詩の中に出て来る景色は、実景のようなものでも、ぜんぶ作者の心象風景――心の風景の譬えです。だから、私は詩の教室で、詩を読む時は詩の行の頭に、〈私の心はまるで・・・〉という文句をくっつけて読めばいいとお話しています。

白々と乾いた河原を、仮に荒廃した心としましょう。だったら、蝶はそんな不毛な世界にうるおいをもたらしてくた希望と夢のシンボルですね。

 

中也は親の期待を裏切り、中学生の身で郷里を追放同然に離れます。転校先の京都で出逢ったのが、生涯の恋人・長谷川康子でした。やがて居を東京に移し、無二の親友であり、恋敵でもあった後の評論家・小林秀雄と親交を結びます。

 

人生の途上の、辛い節目節目に、康子や秀雄は中也にとって 蝶 瓩里茲Δ並減澆任呂覆ったでしょうか。

私たちもさびしさや苦しみの底にいる時、友人、家族のひと言、文学作品などで励まされることがあります。水無し川にうるおいが戻るように救われた経験は誰もが持っていると思います。

 

最も孤独な日、自分の心にとまった蝶は何であったか、と人生を振り返ってみるのもよいでしょう。もし、そこにかけがえのない蝶が見つかったら、その時こそ、この「ひとつのメルヘン」という作品は、自分の経験を通して我がものになるのです。
                                 (この稿続く)

| 中原中也の人と詩業 | 19:58 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 13
 第13話 天才は目で聴く

       一つのメルヘン
 
      秋の夜は、はるかの彼方に、
      小石ばかりの、河原があつて、
      それに陽は、さらさらと
      さらさらと射してゐるのでありました。
 
      陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、
      非常な個体の粉末のやうで、
      さればこそ、さらさらと
      かすかな音を立ててもゐるのでした。
 
      さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
      淡い、それでゐてくつきりとした
      影を落としてゐるのでした。
 
      やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
      今迄流れてもゐなかつた川床(かわどこ)に、水は
      さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
 
               詩集『在りし日の歌』昭和13(1938)年

「一つのメルヘン」は、昭和11(1936)年、29歳の中也が「文芸汎論」に発表しました。
国語の教科書に最も多く採用される中也の代表作であり、小林秀雄も「最も美しい遺品」と呼んでいます。制作月は9月頃と推定されます。この年、中也は愛息・文也のために「遺言的記事」(「中原中也の人と詩業 11」参照)を書いています。

しかし、「遺言的記事」は本当の ”遺言 ”になります。なぜなら、約一年後、中也は急逝してしまうからです。作品「一つのメルヘン」が湛(たた)える神秘的な美しさは、その事実に思いを馳せると、何か不吉な影さえ立ち籠めます。

まず、「一つのメルヘン」の詩的な技術や構成についてスポットを当ててみましょう。タイトルに「メルヘン」という言葉が使われています。おとぎ話とか童話といった意味のドイツ語です。中也が、「一つのメルヘン」としたのは、幻想世界を描いたという意味あいの他に、 「子供のようなたわいもない詩だが、という自嘲的な響きがある。(詩人・小海英二)」と解されています。

中也という人は、大酒飲みで、喧嘩っぱやくて、詩の仲間からはずいぶん迷惑がられていました。でも、ほんとうは恥ずかしがり屋のシャイな魂の持ち主だったと私は思っています。そんなキャラが、こんなタイトル付けにも現れています。
 
詩の中で何回も繰り返されているのが、〈・・のでありました〉という語り口。物語を読み聴かせる時の、お決まりのフレーズです。昔、昔、あるところに・・と同じパターン。この語り口によって、少しずつ現実から過去へ、幻の世界へ読者を誘う効果があります。
 
陽の光が降り注ぐ様子を、〈さらさら〉という擬態語で表現しているのも、この詩の特徴のひとつです。「珪石」というのは、水晶が粒状に寄り集まっている鉱物です。つまり、陽の光が、水晶の粒のように硬いので、サラサラという音をたてているわけです。中也は、このように、現実を独特の言葉の響きで捉えるのが得意でした。
例えば、有名な「サーカス」という作品。空中ブランコの綱が揺れる様子を、〈ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん〉と。実にユニークな表現で、ブランコの綱がきしる音まで聞こえてきそうです。中也は、きっと聴覚の優れた人だったと私は想像しています。

陽の光は、目には見えますが、音は聞こえません。映画やドラマで演出上、特殊な効果音をつけることはあるでしょうが。
光という音のないものに、まるで音が響いてくるかのように「さらさら」と表現したのです。まさに、中也は「目で聴いた」のですね。それが、詩人独自の感性なのでしょう。

 
荒れ果てた河原に、ふと一匹の蝶がとまり、再び川の水がさらさらと流れ出します。「さらさら」というのは、水が流れる様子を現すものです。だから、「さらさら」という擬態語そのものは珍しくも何ともありません。
ところが、中也は人が使うはずのない所に使ったので、この「さらさら」は、比類のない詩の言葉となりました。
 
〈淡いそれでいてくっきりとした影〉という章句は矛盾した表現です。淡くて、しかも、くっきり、ですから。しかし、この矛盾が作品に一層非現実感をかもし出して、メルヘンにふさわしい効果を与えています。

「一つのメルヘン」のテーマと作品の読み解きについては次回にお話します。


【参考文献】
・小海英二『現代詩の解釈と鑑賞』有精堂
                              (この稿続く)

| 中原中也の人と詩業 | 07:35 | comments(0) | trackbacks(0)
中原中也の人と詩業 12
 第12話 疾走する詩人
 

       天才とは自分自身であった人のことだ   ❖中也の言


ここでいう〈自分自身〉とは、芸術家としての自分。我が道をひとすじに歩むことを指します。ところが、凡人はこうはいきません。家庭では親、夫、外では社会人としての振る舞いを全うしなければならない。生きるために仕方がないから、我慢してこの世の約束事やマナーを守っているのです。


劇画家・曽根冨美子は中也の一生を描いた作品『含羞』(はじらひ)の中で、「おれは15の時から詩を一生の仕事と決めた。おれはおれなんだ。おれ自身でありたいだけなんだ」と主人公に語らしめています。


      それ以外の履歴が私にとって何か意味があるのですか   ❖中也の言


中也は生涯定職には就きませんでした。裕福な家庭からの仕送りで生活を続けました。ただ、一度だけ就職活動をしました。妻の遠戚にあたるNHKの理事のコネで面接。履歴書の備考欄に「詩生活」としか書いておらず、面接官の「これでは面接にならない」と言われて答えたのが、この言葉です。

(写真は、29歳の頃。NHKの就職試験を受けるため撮影。『新潮日本文学アルバム 中原中也より転載

 


中也の一生は、詩人として生きるとはどういうことか? ということを考えさせます。

中也は言わば、傍若無人な生活者で子供のようです。駄々っ子がそのまま大人になったといっても過言ではありません。とは言え、純粋な意味での子供ではありません。

物書きとしてのモラルがありました。

〆酩覆里燭瓩垢戮討魑樟靴砲靴討任盻颪という、極度の自己中心的なモラル。

既成の権威・芸術観に臆することなく挑む

 

       わが半生    中原 中也


     私は随分苦労して来た。

     それがどうした苦労であつたか、

     語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。

     またその苦労が果して価値の

     あつたものかなかつたものか、

     そんなことなぞ考へてもみぬ。

 

     とにかく私は苦労して来た。

     苦労して来たことであつた!

     そして、今、此処(ここ)、机の前の、

     自分を見出すばつかりだ。

     じつと手を出し眺めるほどの

     ことしか私は出来ないのだ。

 

     外では今宵、木の葉がそよぐ。

     はるかな気持の、春の宵だ。

     そして私は、静かに死ぬる、

     坐つたまんまで、死んでゆくのだ。

 

              詩集『在りし日の歌』1938年(昭和13)


「わが半生」は、昭和11(1936)年、詩誌『四季』7月号に発表されました。

作品が完成したのは、昭和11(1936)年5月6日。翌月の6月には、訳詩集『ランボオ詩抄』刊行。妻子に恵まれ、創作力の盛んな、中也絶頂期でした。


ここにうたわれているのは、物書きの至福の時間です。しかし、それは世間一般とは異質の幸福感です。役者が舞台で死ぬのが本望(ほんもう)だと言われるように、物書きにとっては、机の前で執筆中に絶命するのが理想でした。

私は、静かに死ぬる、/坐つたまんまで、死んでゆくのだ。〉の詩句は、そんな作家の本懐(ほんかい)を吐露していると思われます。


中也は、壊れかけた心をかかえ、壊れかけた肉体を鞭打って、真夜中に10キロも疾駆した詩人でした。孤独で痛ましい、ランボーを気取った道化の身なりで、自分を認めない白昼の光を避け、夜盗のように東京府下を疾走しました。どこまでも自分を追い立てる物狂おしい衝動がありました。それが中也の天才性だったに違いありません。


【参考文献】
・『名言 中原中也』彩図社

                              (この稿続く)



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中原中也の人と詩業 11
 第11話 二代の詩人

       僕 女房を貰ふことにしました  ❖中也の言


昭和7年(1932,25歳)6月に、中也は処女詩集『山羊の歌』を予約募集しますが、予約者は10名ほどしかなく出版は暗礁に乗り上げました。予約出版を断念した中也は、同年8月帰省して印刷費用300円(現代の相場で、100万円位)を母から引き出しました。中也が詩集を出すというので知人達が資金を集めてくれていたのですが、中也は酒代として飲んでしまったので。この300円という大金は、母から中也への最大の仕送り額でした。

それでも豪華本を目指したため印刷した所で資金がつきました。年末、版元探しが難航する中で神経衰弱が極限に達し、強迫観念に襲われて幻聴も伴うようになりました。

詩人とは、感受性が鋭い人種。感じやすいということは、誰よりも傷つきやすいということでもあります。


この危機を救ったのが、母が見合いを勧めた上野孝子との結婚でした。中也が結婚したのは、昭和8(1933)12月、26歳。遠戚の上野孝子と見合いをし、当日に結婚が決まりました。中也は不平の多い男でしたが、結婚式の時は素直で、披露宴でも酔わずにおとなしくしていました。中也の七不思議のひとつと実弟が名付けています。

「中也は、上野孝子との結婚において、最も素直な子であった。母のなすがままになっていた。孝子が気にいったからかもしれないが、母から金をせしめたとき以外は、すべてについて必ず一言あった中也が、結婚については全く従順な息子であった。中也の七不思議というものがあるとすれば、素直な結婚はその一つの不思議である」(写真は、昭和8年(1933)12月3日、遠縁の上野孝子と結婚。式後の披露宴は地元の名士を余すことなく動員し、2日間盛大に行われた。『新潮日本文学アルバム 中原中也より転載


でも普段は大酒飲みだったので、妻孝子はよく辛抱しました。大岡昇平と大喧嘩した時、鉢巻きをしたこまい男(小男)がかかっていくのが、「おかしゅうて、おかしゅうて」と、話しています。また、母フクへは、「お母さん、あなたは中也さんがガミガミいうときに、真面目になって聞いてじゃからいけんのです。私のようにケタケタ笑っていらっしゃいよ。そうすると、向こうは怒っているのがはりあいがないから、怒るのをやめますよ」と妻孝子。

しかし、「孝ちゃんは笑えるからええけど、私は腹が立って、笑うどころじゃありません。泣きたくなりますよ」と、母フクは ”肝焼き息子 ”への嘆きは止まないのでした。

 

中也の死後、孝子は詩や小説を作る者は大嫌いで、「私はああいう連中には、もう寄りつかん」と言っていたといいます。母フクは夫と二児に先立たれ天涯孤独となった孝子を中原家の養女とし、他家へ再婚させました。世間によくある嫁と姑のいさかいは、この二人には無縁でした。母フクは妻孝子を実の娘のように愛(いと)うしみ、最後まで面倒をみました。

 

結婚した昭和8(1933)年には、詩誌「四季」等に詩篇や翻訳詩を発表。生活面では、同年3月に東京外国語学校専修科仏語を修了し、フランス語の個人教授を行いました。結婚で帰省中のわずかな期間にも、生家で精力的に翻訳に専念しました。その翻訳の成果として同年12月、最初の翻訳集『ランボオ詩集』が三笠書房より刊行されました。

        あんなに外出好きだつたのが、  ❖中也の言

       此の節ではすつかり引蘢つて、

       子供と遊んでばかりゐます


翌年、長男・文也(ふみや)が誕生します。
次のような言葉を綴るほど、
中也は文也を溺愛しました。
「詩を研究したノートを読めば他の本を読む必要はない。迷わず詩人になれる。詩人として悩むことはおれがさんざんしてきたんだから、文也にそんな思いはさせねえ。おれが一生文也についててやる」


  文也も詩が好きになればいいが。    ❖中也の言

  二代がゝりなら可なりことが出来よう


(写真は、昭和10年(1935)、文也を抱く中也。市ヶ谷谷町

 『新潮日本文学アルバム 中原中也より転載



結婚によって精神の平衡を回復した中也は、詩作の高揚期を迎え、昭和9年(1934,27歳)11月、文圃堂から中也の処女詩集であり、生前、唯一冊の詩集『山羊の歌』が小林秀雄の助力でついに刊行されました。


【参考文献】
・『名言 中原中也』彩図社
・青木健編著『年表作家読本 中原中也』
『新潮日本文学アルバム 中原中也                                                   (この稿続く)   



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