金子みすゞ 9
 第9話 芸術の発掘者

金子みすゞは、ある児童文学者の執拗な情熱によって発掘されました。

岩波文庫の『日本童謡集』に、たった一篇だけみすゞの「大漁」が載っています。それを読んだ学生が烈しく()かれました。大漁のお祭り騒ぎをよそに、小さな、か弱いものの悲しみを見つめる金子みすゞとは、一体どんな人か。以来16年、学生は爐澆后橋賢瓩噺討个譴襪曚鼻⇔鮖砲琉任膨世鵑清盪劼澆后兇了躑箸鯆匹さ瓩瓠∨弩緘樟さぶりに全作品を発見しました。それが矢崎節夫さんです。

 

30年近く前、私は「よみがえる幻の童謡詩人」という見出しで、朝日新聞に載った記事を切り抜きました。19831214日付の朝刊でした。金子みすゞの名を初めて知った瞬間でした。同年、みすゞの全詩集が刊行。その後、みすゞの生誕100年目にあたる2003411日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。みすゞは北原白秋と並ぶ国民詩人、童謡詩人の地位が確立しました。

 

これと同種のエピソードがあります。私の詩集『白夢』の表紙を飾って下さった、画家・味戸ケイコ先生から伺った話です。味戸先生がまだ美大の学生だった頃、美術作品年鑑に作品が載りました。それは一年間に輩出した新人の絵画作品を掲載したカタログで、電話帳のような厚みがありました。多数の新人作家がいるために、掲載された個々人の絵画の大きさはマッチ箱くらいの大きさだったそうです。まず人の目に触れるような機会はないと味戸先生は思いました。

 

ところが、その極小サイズで印刷された味戸先生の絵を見た、あるデザイン会社から声が掛かり、プロのデザイナーとしてデビューすることができました。あの分厚い作品集から、本当によく見つけてくれたものだと、味戸先生の方が驚きました。

この話は勇気を与えます。どんなに無名であっても、真に価値ある作品ならば、必ずそれを見いだしてくれる人がこの世にはいるということを。みすゞの例に限らず、芸術の世界にはそのような奇蹟が起こり得ることを、私は恩人である味戸先生から教えられました。

 

【メモ】金子みすゞ 1903年(明治36411――1930年(昭和5310

山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)出身。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津高等学校)卒業。父・庄之助は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長。1906年(明治39210日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死をとげる。

劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟だが、幼くして母の妹(みすゞにとって叔母)の嫁ぎ先である上山家の養子となる。叔母の死後、雅輔の養父・上山 松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。みすゞと雅輔は実の姉弟であり、同時に、義理の姉弟の関係となる。

1926年(大正15)、叔父松蔵の経営する上山文英堂の番頭格の男性・宮本啓喜と結婚、 娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、みすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどしたことから1930年(昭和52月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年310日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺、26年の短い生涯を閉じた。(写真は金子みすゞ著作保存会より転載)

                                  (完)



| 金子みすゞ | 08:51 | comments(2) | trackbacks(0)
金子みすゞ 8
 第8話 みすゞの怖さと虚無
 

みすゞのCMへの厳しい批判を述べた新聞記事があります。筆者は、文芸評論家の尾形明子さん。「金子みすゞの虚無」と題した寄稿文で、今年74日付東京新聞に掲載されました。

「もし今、金子みすゞが、私たちの心を捉えるとしたら、コマーシャルのリズムにのってすっかり有名になったあのやさしい共生のイメージではなく、その詩が、底知れない怖さと虚無を含み、それが透明なベールで包まれているからなのではないか」

冒頭に書かれたこのメッセージは、みすゞの詩へこれまでにない切り込み方をしたユニークなものでした。

 

みすゞはかつての未成熟な日本――男尊女卑と貧困の世に生まれ、およそ女性が蒙る悲劇をすべて一身に受けました。経済的困窮から血を分けた弟と離別、義父の命による不条理な結婚、遊女が公認された社会で罹患した忌まわしい病い、治療薬のない絶望的な闘病生活、女性ゆえ離婚時に親権のない差別、これらの犠牲になった典型的な悲劇の女性です。

このような詩人が書く詩が、“ 底知れない怖さと虚無 ”を含んでいるのは当然と言えるでしょう。文学によって人間の心を突き詰めていくと、闇が、深淵が見えます。

 

ただ、みすゞの心の深淵は童謡詩という、一見、やさしい〈透明なベールで包まれている〉ために、歪曲された鑑賞のされ方をしてしまうのです。尾形さんは、大津波によって生活の場を根こそぎにされた廃墟の光景、音も姿もなく降り注ぐ放射能、〈そうした恐怖と心の底に広がっていく虚無感に、金子みすゞの詩はなんと似ているのだろう〉といいます。

そしてみすゞの代表的な詩を取り上げて、従来とは全く異なった解釈を加えます。


      木

 

お花がちって

実がうれて、

 

その実が落ちて

葉が落ちて、

 

それから芽が出て

花がさく。

 

そうして何べん

まわったら、

この木はご用が

すむかしら。

 

季節のめぐりの中で繰り返される、自然の営みに生命の喜びを見るのではなく、「御用がすむ」時を待つ少女はすでに疲れ果てている。――尾形明子

 

      私と小鳥と鈴と

     私が両手をひろげても、
     お空はちっとも飛べないが、
     飛べる小鳥は私のやうに、
     地面(じべた)を速くは走れない。

     私がからだをゆすっても、
     きれいな音は出ないけど、
     あの鳴る鈴は私のやうに、
     たくさんな唄は知らないよ。

     鈴と、小鳥と、それから私、
     みんなちがって、みんないい。

 

(疲れ果てている)少女が書いた「私と小鳥と鈴と」という詩がなぜ個性尊重や平等のシンボルなどでありえるのだろう。比較なんかしようのない異次元の「私」「小鳥」「鈴」をメルヘン調に並べて「みんなちがって、みんないい」と結ばれても困るのだ。心のどこかが粟立(あわだ)って、ブラックホールにのみこまれていくような怖れにたじろぐ。――尾形明子

 

尾形さんのメッセージに触発されて、私は「私と小鳥と鈴と」という詩を新たに読み解いてみました。――空を飛べない私だが、自由に空を飛ぶ鳥も地面は走れない。綺麗な音を出せない私だが、綺麗に響く鈴も、色んなメロディーを鳴らすことはできない。どこへも行けない、自由のない私だが、鳥や鈴だって万能ではなく限られた世界で生きることに耐えている。だから、自分の宿命はありのまま受け入れようと思う。この詩は、そう自分を慰め、諦めようとする虚無感をうたっているのだと――これが正しいかどうか自信はありませんが、少なくとも「私」「小鳥」「鈴」という三つの言葉を童謡風に、メルヘン風に結びつけた解釈にはならないように読み解いてみました。

 

       ぬかるみ

 

このうらまちの

ぬかるみに、

青いお空が

ありました。

 

とおく、とおく、

うつくしく、

すんだお空が

ありました。
 

このうらまちの

ぬかるみは、

深いお空で

ありました。

 

ぬかるみの空の底にはなにがあるのか。26歳で生命を絶った希有な詩人を、「絆」や「やさしさ」の象徴として、国民的な詩人にしてしまったなら、その底知れないニヒリズムも空洞も、絶望も、どこかに消えてしまうことだろう。――尾形明子


目を上げて仰ぎ見る空が希望や夢の象徴だとすれば、「ぬかるみ」に映っている深い空は、絶望的に澄み切った地獄のような世界ではないでしょうか。尾形さんの言う、〈底知れないニヒリズムも空洞も、絶望も〉映っているに違いありません。ぬかるみを覗いているみすゞの顔は、きっとあの自死の前日に撮った写真のような眼差しをしているような気がします。

 

みすゞは、詩を表現する器として、たまたま童謡詩という鋳型を選びました。しかし、みすゞの多くの作品は、この「ぬかるみ」を始め、「大漁」「木」「つもった雪」も、一般的な童謡のイメージを裏切っています。暗く、さびしく、哀切で、およそ幼い児童が親しむものとは、かけ離れています。みすゞの詩は、まさに現代詩の本質に繋がるもので、童謡詩という定型を内容が喰い破っているといってもよいでしょう。

 

詩作品というものは、自分の体験を通さなければ、あるいは追体験しなければ決して自分のものにはならない。


これは私がいつも掲げている持論ですが、みすゞの詩を自分のものにするためには、死の深淵の切り岸まで追いつめられた者でなければ、真に理解できないのかも知れません。その怖さをどれだけの人が認識しているでしょうか。その意味で、尾形明子さんのすぐれた金子みすゞ論はこれまで目にしたどの文章よりも、私を詩的に興奮させました。

                               (この稿続く)



| 金子みすゞ | 18:55 | comments(0) | trackbacks(0)
金子みすゞ 7
第7話 悲しみの共感者

これまで6回にわたってNHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」の放映番組を基に金子みすゞの生涯を紹介しました。しかし、私の本意はみすゞの生涯を振り返ることが目的ではありません。みすゞの作品を正しく鑑賞するためには、どうしてもみすゞが味わった数々の苦難を知る必要があったから取り上げたのです。


東日本大震災の直後、より多くのスポンサーがCM放送を自粛したことを受けて、民放各局が「ACジャパン(旧公共広告機構)」が作成したCMを大量に放送しました。その結果、「しつこい」「不快感がある」「内容がそぐわない」というクレームが集中しました。

 

抗議の理由としては、同じ内容のCMが流れることに対する「しつこい」、同法人CMの最後に流れる「エーシー」という高いメロディーが「不快さを感じる」、さらには子宮がんや脳卒中予防の内容に対し「こんな大変な時にがん検診なんか行けるか」といった内容があるといいます。視聴者から抗議が殺到したことを受けて、同団体はホームページに謝罪文を掲載しました。

 

大量に放送されたACジャパンのCM。その中で繰り返された金子みすゞの「こだまでしょうか」。昼夜を問わず煩雑に流されたことで、みすゞの詩は注目を集め、詩集の注文が殺到しました。その一方で、童謡詩というやさしい表現、癒し系という安易な選択によって、作品の背景への深い理解もなく、みすゞの詩は誤ったイメージを被(こおむ)りました。NHKがみすゞを取り上げたのは、そんな危機感があったのではないかと思います。


 近年、みすゞの名は郷里山口で、みすゞ列車、みすゞ饅頭のように、観光の目玉として町おこしに使われて来ました。芸術作品は時にこのようにして、マスメディアによって、あるいは営利目的によって変質させられます。それは、みすゞの詩とは全く無縁なものです。


TVの特集番組が描いたのは、みすゞの人生の限りない悲劇性でした。ほのぼのするとか、癒しだと言うのは、死者への冒涜にも等しいものではないでしょうか。

みすゞという詩人は、仙台FM局のパーソナリティー(「金子みすゞ 6」の記事参照)が語っていたように、「みすゞは、色んな悲しみを知っているから、偽りの言葉ではなく、本当に心の中から出てきた言葉」を刻んだ芸術家です。悲しみの共感者、あるいは同伴者として位置づけねば、その詩の神髄を見失ってしまうでしょう。

                              (この稿続く)


| 金子みすゞ | 12:51 | comments(0) | trackbacks(0)
金子みすゞ 6
 第6話 忘却の闇から奇蹟の復活

(今回で、NHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」の放映番組を原文のまま引用した、みすゞの生涯の紹介記事を終ります。掲載の写真はテレビの放映画面から転載しました)

姉の死は東京にいた正祐の許にすぐに知らされました。正祐は大きな衝撃を受けます。正祐の許に残されたのは、みすゞから託された三冊のノート。これまで書いた512篇の詩をみすゞ自身が清書してまとめたものです。姉の残した作品を必ず世に出さねばならない。正祐は仕事の合間を縫って出版社を廻り始めます。

しかし、どこも引き受け手は現われませんでした。みすゞの死の翌年、満州事変が勃発。世の中が戦争一色になり、童謡雑誌は次々に廃刊になっていたからです。

 

「毎日のように何とか多くの人に届けたいという思いで出版しようとしたんだがね、どこも商売にならないと言って、やってくれなかったんだよ、という言葉を聞きました。」(正祐の後輩 田辺国武)

 

みすゞの死から半世紀――。高度経済成長から、バブル経済へと時代が進む中、戦前の地方のアマチュア詩人のことは忘れ去られていきました。しかし、日本の豊かさが曲がり角を迎えた1993年、突然、ある新聞記事(朝日新聞「天声人語」)が出ます。コラムで金子みすゞの詩が取り上げられ詳しく紹介されたのです。きっかけは出版を諦めかけていた正祐の許に、一人の童謡詩人が訪ねてきたことでした。矢崎節夫です。戦前のみすゞの作品を知って強く引きつけられた矢崎さんは正祐の協力を得て、その遺稿集を限定1000部で出版していたのです。それが新聞記者の目に留まりました。

「生きることと死ぬことがわずか10行で書いてあるというのは驚くほどの衝撃でした。ああ、この人の作品をもっと読んでみたいなあ、と思ったのが最初でした。」(童謡詩人 矢崎 節夫)


これをきっかけにみすゞの詩は広く知られるようになり、三年後には小学校の教科書に採用されるまでになりました。悲しい死を遂げた金子みすゞが弟に託した詩は、半世紀の時を経て、全国の子供が口ずさむ永遠の名作となったのです。


その娘のふさえさんは現在神奈川で暮しています。一人娘を残し、僅か26歳でこの世を去った詩人。長い間、母のみすゞが自分を残して自殺したことにわだかまりを抱いていたいいます。しかし、70歳を過ぎた頃、みすゞが自分の言葉を記してくれたノート「南京玉」を読み返しました。「オカアチャン ブウチャン ダッコシタ、ブウチャン テンテン ダッコシタ、イイネ、」。





  ブウチャンとは、ふさえさんのこと。自分の片言(かたこと)の言葉を残らず書き留めてくれた文章を読んで、母親の愛情に初めて気づいたといいます。「母が死んだことはわたしをいらなくなったからと思っていたけど、今はもうただおかあさんに感謝したいとだけ思っています」(みすゞの長女 上村ふさえ)

 

金子みすゞの詩が東日本大震災の被災地でも改めて読み返されています。

今年3月に起きた大震災で大きな被害に見舞われた宮城県仙台市。地域のFM局から流れてくるのは金子みすゞの詩です。震災の3か月後から朗読を放送し始めました。震災で3人の親戚を亡くしたパーソナリティーの高橋美和さん。自らも被災し混乱する気持ちの中で、唯一心に届いたのがみすゞの詩の言葉だったといいます。

「みすゞは、色んな悲しみを知っているから、偽りの言葉ではなく、本当に心の中から出てきた言葉で、うそじゃない言葉なんだなあって。やっぱりこの大きな悲しみがたくさんあるということに、耐えられない方たちが、たくさんいると思うんですね。だから、ホッとできるような、そういう感じを、感じていただければなって。」

 

更に津波で大きな被害を受けた石巻市の沿岸部にある開北小学校。この学校でもボランティアによってみすゞの詩の読み聞かせが始まっています。苦悩に満ちた人生の中でも優しい気持ちを守り続け、美しい詩を紡いでいった金子みすゞ。人々の心にそっと寄り添う金子みすゞの言葉の力です。

                              (この稿続く)



| 金子みすゞ | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0)
金子みすゞ 5
 第5話 結婚生活の悲劇

(しばらく、NHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」での放映番組を原文のまま引用して、みすゞの生涯をご紹介します。掲載の写真はテレビの放映画面から転載しました)

 

昭和3年(1928)7月、辛い結婚生活に耐えていたみすゞに悲しいことが起こります。みすゞを支えていた正祐が劇作家を目指して上京し、みすゞの許からいなくなってしまったのです。





正祐が東京からみすゞに送った葉書です。冒頭には、「みすゞ女史〜〜」という言葉。そばにいた時と同様に変わらず励まし続けようとする気持ちがうかがえます。

 「いかにわたしが金子みすゞの童謡をかじりつくようにして読み、感嘆しているか。あなたの生活が少しずつでも良くなっていくように祈ります。」(正祐の手紙より)


受け取った手紙の欄外にみすゞの言葉が記されています。「ありがとう。ありがとう。くりかえし読んで、私はうれしく、かなしく、やるせない。」みすゞにとって正祐から送られてくる手紙だけが心の支えになりました。


 

 一人になって詩作を続けるみすゞに更に決定的なことが起こります。夫が詩を書くことに癇癪を起こし、詩作を禁じてしまったのです。心を解放する唯一の手段だった詩の禁止。みすゞは家事の合間に詩を書く自由すら奪われてしまいました。詩作を禁じられたみすゞは不思議な記録を始めます。


「オカアチャン ブウチャン ダッコシタ、ブウチャン テンテン ダッコシタ、イイネ、」。書かれているのは奇妙な言葉の羅列。実は3になる娘ふさえの語る言葉を4か月にわたって延々と書き連ねたものです。何かを書き続けることで折れそうな心を支えようとしたのでしょうか。


 


この頃から病状は急速に悪化。寝込む日が増え、周囲を心配させるようになります。身ともに疲れ切ったみすゞを心配した母親はついに離婚させることにします。みすゞは娘を連れて親元に身を寄せました。しかし、心が安らいだのもつかの間、夫は娘を渡すことに納得せず、返せと主張してきました。この時代、子供を引き取る権利は通常、父親にしか認められていませんでした。

 

「娘が夫のもとで育っても幸せにはなれない。ふさえには心の豊かな子に育ってほしい」(みすゞの言葉より)みすゞは何とかして娘を護らなければならないと深く思い詰めるようになります。離婚から数日後、夫は更に強硬な手段に出てきます。期日を指定して「娘を連れ戻す」と手紙で通告してきたのです。この出来事で更に追い込まれたみすゞ。ついに、ある恐ろしい決断をします。それは夫に願いを受け入れてもらうため、自ら生命を絶つというものでした。追いつめられ、他に方法がないと考えたのでしょうか。

 

39日、決意を胸に秘めたみすゞはある場所に向かっています。そこは神社のそばの写真館。静かにこちらを見つめるみすゞ。娘のために自分の姿を残そうとした最後の写真でした。その晩、みすゞは娘をお風呂に入れました。風呂場では童謡を明るく歌って聞かせるみすゞの声が響いていたといいます。寝る前、娘の寝顔を見たみすゞは、こうつぶやきました。

「かわいい顔して寝とるね」それがみすゞがこの世で残した最後の言葉でした。

 310日、睡眠薬を使いみすゞは自殺。26年の短い生涯でした。(写真は自決前日の肖像写真)

                             (この稿続く)



| 金子みすゞ | 07:55 | comments(0) | trackbacks(0)
金子みすゞ 4
第4話

(引き続き、NHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」での放映番組を原文のまま引用して、みすゞの生涯をご紹介します。掲載の写真はテレビの放映画面から転載しました)

 

全国を巡回している金子みすゞ展はこれまでに10万人もの人を集めています。

ここで最も注目されているのは、もちろん「こだまでしょうか」。多くの人がこの詩からほのぼのとした温かいイメージを感じています。しかし、これを書いた25歳の頃、みすゞは重い病を患い、不幸のどん底にいました。母親への手紙には、こう綴られています。「また五日休みました。このごろは起きてもなんにもしません」さらに夫と喧嘩が絶えず、離婚の危機も迎えていました。金子みすゞ人生最悪の時に生まれた、「こだまでしょうか」。

 

大正12(1923)10月、異色の天才詩人としてデビューし、自分を表現し始めたみすゞ。その成功を誰よりも喜んだ人がいました。かつて養子に出された弟の正祐です。二人は離ればなれになった後も煩雑に会う仲の良い関係でした。しかも正祐は作曲家を目指していたため、芸術について話し合える大切な存在でした。正祐はみすゞならプロの詩人になれると期待し、「東京へ飛び出し芸術家として身を立てるよう」(正祐の手紙より)促します。しかし、みすゞは正祐の言葉に積極的に応じることはありませんでした。当時の文壇では与謝野晶子などが活躍していましたが、女性はごく(わず)か。女が筆一本で生きていくのはまだ難しい時代でした。みすゞは地方で主婦をしながら慎ましく詩を書いていく方が自分にふさわしいと考えます。(写真は養子先の正祐

 

そして22歳の時、親に勧められるまま結婚することを決めました。しかし、この選択がみすゞの運命を暗い方向へ変えていきます。結婚後、みすゞは娘を出産。夫は本屋の店員で仕事ができると評判でしたが、一緒に暮らすようになると遊郭通い(遊郭:公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画。成立は安土桃山時代に遡る。)が好きで、金遣いの荒い一面を見せるようになります。しかもその後、本屋の主人と喧嘩し、仕事をくびになってしまいます。夫の評判は悪くなる一方でしたが、それでもみすゞは夫を信じ続けました。

「くびになったことは本屋の主人が思い違いをしているの。それではうちの人がかわいそうすぎる。」(みすゞの言葉より)

 
みすゞは実家に援助を頼みながら家計を支え、夫が立ち直るのを待とうとします。しかし、夫は定職に就くことはなく、遊郭通いもますます増えていきました。

そんな中、更なる悲劇が襲います。遊郭に出入りする夫から性病の一つ、淋病をうつされたのです。特効薬のまだない時代、淋病は死に至ることもある不治の病でした。烈しい痛みで歩くのも困難になったといいます。当時、みすゞが母親に出した葉書です。 写真は、みすゞが母ミチに出した葉書 昭和4(1929)926日付 病状が悪化して寝たり起きたりの様子がうかがえる

「また五日休みました。このごろは起きてもなんにもしません」

体調の不良を訴えながらも、夫を責めることは一切ありませんでした。重い病に苦しむ中、なかなか立ち直ってくれない夫をじっと待ち続ける日々。この頃書いた詩の一つが「こだまでしょうか」です。( 以下の写真は、 金子みすゞ遺稿手帳『さみしい王女』より 「こだまでしょうか」部分



 

優しい言葉をかけ続ければ、いつか相手も変わってくれるのではないか、そんな気持ちが伝わってくる詩です。夫への思いが反映されているともいわれています。

「わたしはもう一度やさしい言葉をかけてみよう、というような、本当にやり直せるかも知れないという気持ちが語られていると思います。」(東京成徳大学准教授 田中真理子)

辛い心の内を美しい言葉に変えることで、苦しい生活に耐えていったみすゞ。しかし、ついに夫から優しい言葉が返ってくることはなく、結婚生活は破綻を迎えることになるのです。

 

「こだまでしょうか」が大変有名になったみすゞですが、他にも人気となっている詩があります。


        積もった雪

    上の雪
        さむかろな。
        つめたい月がさしていて。

        下の雪
        重かろな。
        何百人ものせていて。

        中の雪
        さみしかろな。
        空も地面(じべた)もみえないで。

 

なんとここでみすゞが思いを寄せるのは、表面からは見えない内側の雪のこと。普通では考えつかない視点です。

 

        夜がくるまで沈んでる、

        昼のお星は目に見えぬ。

 

        見えぬけれども あるんだよ、

        見えぬものでも あるんだよ。

                      「星とたんぽぽ」より抜粋

 

この詩ではみすゞは見えない昼間の星に目を向けています。「ああいう発想の人は、あの時代にはちょっといない。誰も気が付かないことを発見し、もう一つ深く見る視野の広い詩人だった」(児童文学者 武鹿悦子)

思わぬ視点で私達の持っている常識や見方を覆してくれる、それも金子みすゞの詩の魅力の一つかも知れません。

                              (この稿続く)



| 金子みすゞ | 12:02 | comments(2) | trackbacks(0)
金子みすゞ 3
 第3話 童謡詩人としてデビュー

(引き続き、NHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」での放映番組を原文のまま引用して、みすゞの生涯をご紹介します。掲載の写真はテレビの放映画面から転載しました)

 

大正12年、高等女学校を卒業したみすゞは、故郷の仙崎を離れ、下関の本屋に就職します。そこで店番を任されたみすゞは、ある日、店に置いていた雑誌に釘付けになります。それは大正の中頃から出版され始めた児童文学雑誌でした。


 それまでの児童教育は明治以来の忠君愛国や親孝行の勧めなど、画一的な道徳が中心でした。しかし、「赤い鳥」など新たな児童雑誌では北原白秋や島崎藤村らが優れた児童小説や詩を発表していました。

 

その一つが大正7年に発表された芥川龍之介「蜘蛛の糸」です。人間の醜いエゴや人生の残酷な現実も伝えた作品。今も読み継がれる多くの児童文学がこの大正期に生み出されていました。新しい児童文学に衝撃を受けたみすゞは自ら詩を書き、雑誌に投稿し始めました。この時書いたのが、幼い頃空想を巡らせた海の詩でした。



 

人の大漁の喜びが鰯にとっては悲しい弔いになる。大漁の風景を魚の視点から切り取っ

た斬新な詩でした。投稿した雑誌「童話」の選者西條八十はその海の詩に衝撃を受けます。


「金子みすゞ氏の「大漁」にはアッといわせるようなイマジネーションの飛躍がある。この点は他の人々のちょっと模し難いところである。」西條はみすゞから送られて来る詩を毎月のように掲載。みすゞは誰も思いつかない発想をする異色の天才詩人として一躍注目を集めるようになります。


「真実に対するむき出しの正直さがある」(児童文学作家 ひこ・田中)といわれるように、みすゞの詩は読者の大きな反響を呼びました。「金子みすゞ様のが相変わらず出ているのでうれしく思いました」「金子みすゞ様、私はあなたの童謡に憧れています」(読者の投稿より)


みすゞは若き童謡詩人の巨星と評価されるようになり、一流の詩人だけが参加できる童謡詩人会のメンバーに選ばれます。歌人の与謝野晶子と並び、女性としては二人だけという栄誉でした。地方で暮していたごく普通の少女はこうして文学界のスターとなっていったのです。

                              (この稿続く)




| 金子みすゞ | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0)
金子みすゞ 2
 第2話 みすゞの幼少期

(前回に引き続き、NHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」での放映番組を原文のまま引用して、みすゞの生涯をご紹介します)

【本編】


みすゞの故郷に伝わる名物料理、「さえずり鍋」。鯨の舌をぐつぐつと煮込んだものです。金子みすゞが生まれ育った山口県仙崎はかつて鯨漁が大変盛んだった場所。今も昔の勇壮な鯨漁を再現した祭りが行われている活気のある町です。仙崎は鯨以外にも脂ののった新鮮なアジやイカが自慢の土地。実はみすゞがその詩の中で最も多く書いたのは鯨や魚など海を描いた詩でした。


        さかなの姫さまお嫁入り、

          むこうの島までお嫁入り。

          島までつづいたお行列、

       ぎんぎら、ぎんぎら、銀かざり。

                  「魚の嫁入り」より抜粋


 仙崎は周囲をぐるりと海に囲まれた小さな町です。明治361903)年、金子みすゞ――本名金子テルはこの町で誕生します。祖母や両親、兄や弟に囲まれた賑やかな6人家族でした。しかし、2歳の時、金子家を思わぬ不幸が襲います。父の正之介が仕事で訪れた中国で亡くなったのです。

父親の突然の死はみすゞの穏やかだった暮らしを一変させます。(あるじ)をうしなった金子家では、母親が本屋を経営して家計を切り盛りすることになりました。さらに店からの収入だけでは足りないため母親は内職を始め、家族を顧みる余裕がなくなっていきます。

みすゞが後に書いた詩は、母に構ってもらえない寂しさをうかがわせるものがあります。


  「母さま、母さま、ちょいと見て、

  雪がまじって降っててよ。」

 「ああ、降るのね。」とお母さま、

  お裁縫(しごと)してるお母さま。

  こちら向かないお母さま。

  ――さみしくあてる、左の頬に

  つめたいつめたい硝子です。


       「冬の雨」より抜粋


みすゞが3歳の時にも悲しい出来事が起こります。

家計を楽にするため弟の正祐(まさすけ)が養子に出されたのです。しかも正祐は養子先で実の子として育てられることになり、みすゞは周囲に自分の弟だと言うことを固く禁じられます。幼くして家族を次々に失い、更にその寂しさを口にすることすら自由でなかった、みすゞ。一人、本に向かうことが多く、友達とも距離を置きがちな子供だったといわれています。

 

そんなみすゞがよく一人で過ごすようなったのが、家のすぐ目の前に広がる海辺でした。海を見ながら様々な空想を巡らしていたことがうかがえます。

 

 沖で鯨の子がひとり、

 その鳴る鐘をききながら、

 

 死んだ父さま、母さまを、

 こいし、こいしと泣いてます。


    「鯨法会」より抜粋

 


両親を恋しがる鯨の子をうたった詩、幼い頃の自分と重ね合わせたのでしょうか。同級生によるとみすゞは学校でも自分の考えた空想の物語を話す少し変わった少女だったといいます。

(写真は小学校時代のみすゞ


                              (この稿続く)


                               

| 金子みすゞ | 08:21 | comments(0) | trackbacks(0)
金子みすゞ 1
 第1話 みすゞの生い立ち

今、広島市内のデパートで金子みすゞ展が開かれています。開幕、数日ですでに1万人の来場者がありました。これほどまでに根強い人気のある詩人ですが、東日本大震災の後にみすゞの詩がコマーシャルで度々流されたことも人気に拍車をかけました。

 今年1020日、NHKTVの歴史番組「歴史物語ヒストリア」で、「愛と悲しみの“こだまでしょうか” ――大正の詩人・金子みすゞ」と題する番組が放映されました。

東日本大震災後、話題となったみすゞの詩「こだまでしょうか」。多くの人はこの詩にほのぼのとした温かいイメージを感じています。しかし、これを書いた 25歳のみすゞは、重い病や夫との不和に苦しみ、不幸のどん底にいました。人生最悪の時に書かれた名作に秘められたみすゞのメッセージとは? というのが番組の主旨でした。

この番組の価値は、みすゞの詩の真の意義をもう一度検証し直したところにあり、反響を呼びました。


それでは、みすゞの詩を問い直す前に、NHKTVの放送内容を基にみすゞの生涯をおさらいしておきたいと思います。(以下は、放映された番組のナレーションをほぼ原文のまま引用して、私がリライトしてブログ上に再現したものです。なお掲載した写真はすべて番組画面から転載しました)

 

愛と悲しみの“こだまでしょうか” ――大正の詩人・金子みすゞの秘密

 

【プロローグ】

 

■エピソード1 わたし 海の子! 金子みすゞ  衝撃のデビュー

みすゞの故郷・山口県仙崎は、かつて鯨漁で賑わった海の町。

みすゞが詩の中で、最も多く書いたのは鯨や魚など海を描いた詩でした。今や日本中の誰にも知られるようになった大正時代の童謡詩人、子供の世界を歌った詩人と思いきや、最も多く書いたのが海の生き物達を生き生きと詠んだ詩――美しいウォーターワールド。海の詩によって一躍、人気詩人となった金子みすゞの大正サクセスストーリーです。

 

■エピソード2 「こだまでしょうか」 結婚生活の悲劇

金子みすゞの名を世に知らしめた、名作「こだまでしょうか」。

しかしこれを書いたのは、みすゞの人生最悪の時代、重い病と夫との不和に苦しんだ時期でした。みすゞの最愛の弟、正祐(まさすけ)。輝けるデビューの時から不幸のどん底に陥った時まで、みすゞを見守り支え続けました。みすゞの死んだ後、その遺志を継いだ正祐の行動は半世紀後、ある奇蹟を起こします。震災後、人々の心に優しく響いたみすゞの詩。知られざる愛と悲しみの物語です。

 

■エピソード3 みすゞ を支えた弟 半世紀後の奇跡

プロの詩人ではなく、アマチュアの投稿詩人。子供を育てながら投稿していた、ごく普通の主婦でした。なぜ一人の主婦が天才詩人ともてはやされるようになったのか。画家や作曲家など今や現代の多くのアーティストに影響を与えている金子みすゞが、世に知られるようになったのは平成になる直前のこと。それまでみすゞの作品は埋もれたままでした。金子みすゞ“再発見”の影には、みすゞの死後、姉の作品を世に出そうとした弟の奮闘がありました。金子みすゞと、みすゞを永遠の詩人として世に広めた弟。二人の絆が起こした奇跡の物語です。


                                  (この稿続く)

| 金子みすゞ | 08:56 | comments(0) | trackbacks(0)
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