自作詩「夕映」

         夕映

      砂漠から吹き寄せる地熱を避けるために、城門の日陰に女がうず
     くまっていた。
      女は身をひさいで日々の糧(かて)を得ていた。容色は盛りを過
     ぎ、終日、街角に佇んでも声をかける者はいなかった。空腹と足の
     痛みをこらえながら、頭をうなだれて足許にまなざしを注いでいた。
      女の足先に荷馬の尿(いばり)が、鏡ほどの水たまりを作ってい
     た。傾いた陽が射し、汚れた水が夕紅(ゆうくれない)に照り映え、
     水たまりに写る女の顔の周りを薔薇に染めた。
      ふと、水の面(おもて)が翳(かげ)った。目を上げると旅の男
     が微笑んでいる。
      一日の終わりの最も寂しいひと時、薔薇の花びらのように、この
     世に夕映が花ひらく。女の人生で最も望みのないひと時、目の前に
     見知らぬ微笑が咲いた。
      夕映えをまとった男が語る不思議な言葉は、女の貧しい心を、し
     ばし薄紅にほてらせた。
      翌日から、黄昏(たそがれ)になると女は城門に立ち男を待つの
     が習いとなった。
      が、男は現われなかった。夕映えさえも長く町を訪れなかった。
      出会いの時のように再び夕空が燃えた日、盗賊とともに処刑され、
     三日後に骸(むくろ)が消えた囚人の話を、女は風の中で聞いた。

                            詩集『白夢(びゃくむ)』

第三者の目を通して見た〈イエス・キリスト〉の姿を想像して描きました。
私は信仰の薄い者ですが、聖書の説くヒューマニズムには若い時分から深く共感して来ました。終りの〈盗賊とともに処刑され、三日後に骸が消えた囚人の話〉とは、ゴルゴダの丘で二人の盗賊と共に磔刑(たくけい)に処せられたキリストを暗示しています。

作品上の工夫としては、聖書の物語の風土を背景に、夕映えの輝きで情景を統一しました。
なお、作中人物の女性はマグダラのマリアのイメージを重ねています。

※マグダラのマリア:聖書では、イエスに「七つの悪霊を追い出された」ことにより彼の伝道に同行し、イエスの十字架での刑死後、その復活を最初に目撃した人と伝えている。また、「七つの悪霊」ということから、マグダラのマリアは「娼婦であった」と長く伝承されて来た。




| 自作詩集より | 12:05 | comments(0) | trackbacks(0)
自作詩「魔窟」
        魔窟

      賑やかな女学生の一団の後を、病んだ父の手を曳(ひ)き散歩をしている。
     彼女達が塀の角を曲がると、声が途絶えた。後を追うとトンネルのような通
     路がY字路に分かれて、通路は天井も壁も白く光っている。
      一方は、斜面のように深く落ち込んで、底は鏡と鏡を向き合わせたように
     奈落の闇を湛(たた)えている。他方は、白い空洞が果てなく一筋に伸び、
     入口は、押し上げ式の透明なガラス戸で閉ざされている。
      扉の向こうでは掃除夫がモップを動かしている。
      どちらに行こうかと父に尋ねると、下り坂の方は怖いから真っ直(す)ぐ
     な方がいいと言う。重いガラス扉を片手で押し上げながら、もう一方の手で
     その隙間へ父の痩せ衰えた身体を押し入れる。余力を振り絞って一気に扉を
     持ち上げ、自分も通路の中に転げ込んだ。
      先に入ったはずの父の姿が見えない。普段服用している薬袋が足許に散ら
     ばっている。掃除夫が手早く薬の包み紙を片づけている。
      道を間違ったと後悔した。と、私の心を見透かしたように、掃除夫が呟い
     た。
     ーーここは、血に繋がる者が見えなくなる魔窟だ。

      父を呼び戻すにはどうすればいいんだ。
     ーー父を憎め。父への思いを殺して、他人のように見捨てればいい。
      憎んだら、父が現われるのか。
     ーー憎めなければ忘れてしまえ。
      どうして病(やまい)の父を憎み、忘れることができるんだ。
      心の中で吐き捨てると、それはお前が密かに望んでいたものじゃないのか、
     という声が背中から胸を突き抜けていった。
      遥かに連なる白い闇を見透かすと、彼方から啜(すす)り泣くような嗄
    (しわが)れた声が木霊(こだま)してくる。
      精密機械のように動く掃除夫の手が、より鮮やかさを増している。

                                 詩集『白夢』

父の死の前後に、不思議な夢を続けて見ることがありました。
老齢の父を連れて散歩していると、トンネルのような密室に入り込むはめになってしまいました。

中に入ったとたん、父の姿が消えました。ところが中でモップを動かしている掃除夫の姿だけは、はっきりと見えます。私はこの夢から、赤の他人は鮮やかに見えるのに、身内の者だけが姿が見えない、〈魔界〉のような場所を創作しました。

この作品に描かれている夢の有様は私の創造ではなく、実際に見た夢の細部をそのまま再現しました。私はこの夢が何を意味しているのか、考えてみました。全く非現実の世界なのですが、夢というものは内容が唐突なものであっても、そこに動いている感情は真実で、リアルな実感があるのが面白いと思います。

この夢を見た心理を、私は自分なりにこう解釈しています。
夢を見たのは、父が不治の病の床に就いていた頃でした。やがて父はこの世からいなくなってしまうという潜在的な恐れが、こんな異夢を見せたのかも知れません。

〈父を憎め〉と語らせたのも、介護での心の疲労が鬱積し、本来憎んではならない肉親に対する怨嗟(えんさ)の情が吹き出た、現実での経験から生まれた言葉でした。


| 自作詩集より | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0)
自作詩「雷鳴」
        雷鳴

     夜半 戦闘前の丘の上で稲妻が閃(ひらめ)いている
     重い轟(とどろ)きが落ちるたびに 機銃を磨く手がとまる
     塹壕でつぶやく口が閉じられる 背を寄せてまどろむ目が見ひらく
     雷鳴の響く間だけ 兵士の心は空白になる
     敵味方のすべてが 初めて自分に返って
     一つの音に耳を傾けている
     雷鳴の響く間だけ 戦場の上を
     ひとすじの透き通ったものが流れている

                           詩集『アンコール』

東京でのサラリーマン時代、勤務中に絨毯爆撃のような猛烈な雷雨に襲われたことがあります。
そのただならぬ激しさに、同僚達も席を離れ、窓際に寄ってあたりの様子を眺めていました。
向かいのビルの窓を見ると、自分達と同じように不安そうに外を眺めている会社員の群れが目に入りました。

私は奇妙な連帯感を覚えました。会社も職業も違うのに、皆この瞬間だけ、我を忘れて同じ思いで同じ音に打たれている。私は都会の中で起こった実体験を基にして、舞台を戦場に移し変えてみました。雷鳴の響く間だけは、敵味方の意識を忘れて双方が〈一つの音に耳を傾けている〉と。
〈ひとすじの透き通ったものが流れている〉という詩章は、このような清浄な情感を表現しています。

峻厳な批評を下す選者・安西均先生は、この作品に対しては懇切な作品評を書いて下さいました。亡き先生の師恩に感謝する思いで、以下に全文を紹介します。

作者は戦争体験を知らない若い世代であるから、ここに描かれた「戦場」は、むろん作者のヴィジョン(詩的幻想)である。
これから、まさに戦闘がはじまるかも知れないという真夜中に、稲妻がひらめき、どこかで落雷の「重い響き」がする。いつまでも「雷鳴」は空を走る。
その間、戦闘は起こらない。敵も味方もなく、陣地である丘の闇のなかでは、ただ「兵士の心は空白」であり、「初めて自分に返」った思いにとらわれている。
この「雷鳴」は何を意味しているのだろうか? 敵味方ともに殺戮し合うことも忘れたかのように「ひとつの音に耳を傾けている」が、その「一つの音」とは何を意味しているのだろうか? 戦場の上を「ひとすじの透き通ったものがながれている」というが、それはどういうことか?
人によってその解釈はちがうだろう。ちがっていてもよいのである。それは狄性瓩寮爾世伐鮗瓩垢訖佑あってもよいし、戦争ということの虚(むな)しさを、精神の奥処(おくが)では誰もが秘めて持っている、その意味での崇高なヒューマニティといってもよいだろう。
作者が仮にそういう考えをもっていたとしても、雷鳴を「神の声のように」などと書いてしまえば、それは説明じみてつまらなくなる。神の声とかヒューマニティとかに限定できない、何かを「雷鳴」は暗示しているのである。
               高田敏子主宰詩誌『野火』76号(1978年7月発行)掲載

| 自作詩集より | 19:12 | comments(2) | trackbacks(0)
自作詩「ぼどぅざん」

      ぼどぅざん


       砂丘の中に小高い斜面がある。その頂きに老いた父が
       小さく坐っている。
       強い陽射しが砂に照り返して、眩しさで父を見るのが

       い。父の身体は陽炎に揺らめいている。斜面からは
       まなく砂粒がこぼれ、砂が流れる乾いた音が聞こ
       える。
       崩れやすい足許が心配になる。父の身体が傾き、すべ
       るように落ちていく。下の方では青く光る池が口を開
       けている。父の身体は音もなく水面に吸い込まれる。
       池をのぞくと透き通って見える。父は水底
(みなそこ)
      
に仰向けに横たわっている。目を見開いたまま、遠く
       私を見つめている。
       冷たい水底から届く、父の見透かすような深いまなざ
       しを受け止めていると、私は父に詫びなければならな
       いものがあるように思う。
       雲が流れ、池の面
(おもて)暗く翳(かげ)り、父
       の姿がひと時消える。
       青い水底が再び現れた時、父はもう瞼を閉じ彫像のよ
       うに動かない。私は父を水に葬ったような悲しみを感
       じる。
       顔を池の中に突き入れ、許しを乞うために、お父さん
       と叫ぶ。声は水の中で泡となって、"ぼどぉざん"と濁
       って耳に響く。厚い水の層が喉に流れ込む。息が続く
       まで私は呼び続ける。ぼどぉざん  の声の水泡
(み
       なわ)
が長く尾を曳いて水に溶けていく。
                        
詩集『白夢』

ある夜、父が水の底に横たわって、下から私を見つめている奇妙な夢を見ました。
その目は厳しいまなざしで、何か私を責めているように感じました。私が父にどんな悪いことをしたのか、それはわからないままに、父に許しを乞うため水の中に顔を突き入れて、〈お父さん〉と叫びました。
声は水中では〈ぼどぉざん〉と濁って響きます。喉に水が入ってきて苦しむところで、目が覚めました。

誰でも、自分の両親に対して負い目のようなものかかえているのではないでしょうか。そんな贖罪の思いをテーマにしています。


「ぼどぉざん」は発想のモデルがあります。早坂暁さんという著名なシナリオライターがいますが、この人の手になったラジオドラマがありました。「ぼがぁざ んーー戦艦大和の少女」という作品で、戦艦大和に密航した少女が、艦と共に運命を共にする物語でした。大和が敵の猛爆を受けて沈む中で、少女が「おかあさ ん!」と絶叫する断末魔の声が、水の中で発声するために、「ぼがぁざん」と響くのです。

私はこのラジオドラマから発想を得て、考えあぐね ていた作品の末尾をまとめることができました。人の作品や言葉をそのまま盗用すると、まさに”破廉恥罪”ですが、発想を盗むのは許されると恩師からも言わ れていました。その言葉に背中を押されて、このようなタイトルを考えてみました。

この作品は父の死後まもなくの頃だったので、父への思いが色濃く投影されているようです。
作品をまとめる時、表現に迷ったのは、〈厚い水の層が喉に流れ込む。息が続くまで私は呼び続ける〉という章句の部分です。

最初は、水が喉の中に入って来て、苦しくなった所で目が覚める、という終り方を考えていました。つまり、ここまで綴ってきた不可思議な話は、夢ですよという種明かしをしたのです。
しかし、これでは説明になってしまって、詩的なトーンが著しく失われてしまいます。
最後まで、夢の光景を描き切った方が作品の自立性を保てると思いました。

自作に自信がないと、これで読者に理解してもらえるのだろうかと、作品中でつい作者が読者への説明サービスを加えてしまいます。わかりやすくなる分、詩的密度を損ないます。
まさに、「蛇足」なのですが、このあたりの見極めには、毎回、悩んでいます。

私が詩の題材とする夢は、特徴として目が覚めても、夢の内容をよく覚えていることです。
普通、夢は目をあけたとたん、今まで見ていた内容が瞬時に消えてしまうのですが、時間を経ても鮮明に覚えています。学問的な理由はわかりませんが、何か潜在意識に深く食い込んでいるのでしょうか。ですから、作品中の夢の描写では、ほとんど実際に見た夢を忠実に再現することができました。

この作品を載せた詩集『白夢』は、そのような夢から生まれた作品群を多く収録しています。


| 自作詩集より | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0)
自作詩「樹海」
      樹海

       西湖(にしのうみ)と呼ばれる富士五湖の畔り周囲一六
       平方キロ、針葉広葉の原生林が太古そのままに樹海を成
       している。迷い込めば土地の者すら出口を見失う死の迷
       路である。
       自殺者の密入地としても知られ、今もなお推定百余り

       骸(むくろ)がその奥に眠り続けるという。
       西湖近くの高台に立ち、私が初めて樹海を見渡したの

       穏やかな初秋の午後であった。
       中央を白く輝かせた、波一つない眼下の湖面、茶褐色

       かげる溶岩の岸辺。対岸からひろがるなだらかな樹木
       群落。その果ては遥か正面の富士の山裾までも覆いつ
       し、澄んだ大気の底に青黒く息づく相貌は、巨大な爬
       類が横たわっているようだった。
       その日遅く、富嶽(ふがく)の旅から立ち返ると、登

       靴のまま私は都心の一角へ足を早めた。
       夜空の彼方に赤く点滅する超高層ビルの航空障害灯、

       の谷間の公園で、大理石の石組と人工の泉を見つめる
       かな瞳が、火山土に汚れた重い靴音を待っているのだ
       た。
       深夜、頭上近く月が昇り、柔らかな微光がビルの壁面

       照らし始めた。このひと時、細い肩を抱きしめる自分
       腕の異様な蒼白さを見つめる内に、一つの幻影が浮か
       できた。
       原生林の闇を透き、溶岩流土の底深く、永遠に抱き合

       二体の白骨  それは今夜同じ月光に貫かれた私たち
       蒼白の陰画(ネガ)だった。自分に寄り添う石灰質のマ
       スク、人の面影は消滅し黒く深い眼窩が星へ向かってい
       た。

                       
詩集『アンコール』


富士山麓の樹海は、近年自殺者が多いことでで度々報道で取り上げられています。樹海はいまだに訪れたことはなく、作中の情景は想像で描きました。
作家・松本清張に樹海を舞台とした『波の塔』という小説があり、先だってもTVドラマで放映していました。私は原作を映画化した作品を見て、未知の樹海を描写をする参考にしました。詩はフィクションも取り入れられることを試みた、私なりの実験作でした。

男女の恋愛をモチーフにしていますが、愛し合う互いが抱擁する時、恍惚感と同時に、このまま死んでしまうのではないか  そんな〈死〉を予感するような戦慄に襲われることはないでしょうか。
その〈死の意識〉を、樹海の奥で抱き合う白骨の幻影を用いてイメージ化しました。

20代での若書きでしたので、気取った表現が先行し、60代の私からは他人の作品を眺めるような感慨があります。演出としては、富士山麓という荒々しい自然と、高層ビル群に象徴される文明とを対比させることで、作品にメリハリを与えようと意図しました。

作品内容は恋愛を深く思索したものではなく、樹海の白骨を通して特別のメッセージがあるわけでもありません。この作品については、イメージの構築がすべてであったように思います。
現実にはあり得ない、言葉で作られた非現実の空間を造形すること、それを作者独自の美意識で彩(いろど)ることに、この時代の私は情熱を傾けたのでした。

「樹海」は、恩師高田敏子先生の詩誌グループ「野火の会」の機関誌に投稿して入選したものです。選者は高田先生を補佐する詩人の安西均先生でした。安西先生の批評は厳しいことで知られていました。私は安西評を受けて、原作を書き直し、詩集に収録しました。作品後半部の原文は当初以下のようになっていました。

〈それは今夜同じ月光に貫かれた僕達自身の蒼白の陰画であった。だがこの一枚のネガが宣告するものは今の虚偽の愛との訣別だった。自分の下に横たわる石灰質のマスク、一切の恋人の面影は消滅し、そこにはただ、過去に見覚えのある暗い
眼窩が冷たく星へ真向かっているのだった。

安西先生は終末部の不備を鋭く指摘しました。
「相手の女(「僕」の恋人でもある)の描出が、あまりうまくないと思う。恋人という言葉も、不必要に甘くひびく。あとで肩を組み合う場面も書くのだから、恋人などとわざわざ書かなくてもよいだろう。

虚偽の愛」というのが、よくわからない。「僕達」が現在おこなっている愛が虚偽の愛」なのか、それとも、現実の恋人との間柄は虚偽ではないが、「非情な幻影」を見てしまった「僕」には、あたかも虚偽の愛」のように感じられてならない、という意味なのか。
また「自分の下に横たわる」というのも、不正確な表現に思われる。なんだか「石灰質のマスクが足下に横たわっているように感じられるが、そうではあるまい。

このように後半は、前半の緻密さにくらべて、やや不透明なところがある。自然描写と違って幻想美を描くのだから、むずかしいことはわかるが、ここが成功しないとこの作品の最も大切なものが出し切れない。
この作品に、どことなく作りごとの感じがただようのは、そのためである。」

数十年も前の旧作の恥部を、公(おおやけ)に晒して、恥ずかしさで脂汗が出る思いです。
でも、私の教室の皆さんの詩作の参考になれば、それも無駄にはならないかも知れません。

| 自作詩集より | 11:43 | comments(0) | trackbacks(0)
自作詩「幾何学」

         幾何学

       線とは幅のない長さである
       平行線とは同一平面内で交差しない二本の線である


       黒板に端正な白線を書き終わると、老年の数学教師
       は頬に薄く笑い皺を浮かべた。
      「現実には完全な平行線というものはないんだな。

       製図に引かれた平行線でも、厳密には目に見えない
       誤差で傾いているのさ。
       もし、このチョークの線を無限に伸ばしたら、どこ
       か遠い宇宙の一点で必ず交わるはずだよ」
       少年の私は伸び続ける白線の行方を追って窓を眺め、
       時空の果てに浮かぶ交点を幻に見た。

       ただ人並みの幅を守る私の境涯も、年齢の長さだけ
       の淋しい線だろう。そのかぼそい線が、半生をわず
       かに越えた夜々。
       名前を思い出せない顔が幾たびか夢に現れる。
       同級生の誰とも口をきかなかった女生徒。終日、居
       眠りをしていた病気あがりの重役。
       人の世の同一平面内で、一度も交わることのなかっ
       た淡い面影ばかりが枕辺に佇む。

       眠りの底には黒板のような静かで清潔な平面が広が
       っているらしい。遠く忘れられた私が、私を忘れ去
       った者の夢の中で、交差する密かな火花を散らして
       いるかも知れない。
                       
詩集『白夢』

高校時代、幾何学の授業で、平行線の項目がありました。その時、現実には純粋な平行線はあり得ないのだと語った教師のひと言が、学窓を出て何十年もたったのに妙に頭に残っていました。
現実には、どんなに正確に平行線を引いても、人の手によるわずかな線の傾きで、二本の線を無限に伸ばせば必ずどこかで交わる、というのです。

それなら、この二本の線を、人に見立ててみたらどうだろうか。一人ひとりが全く無関係に別々に歩んでいる人生にも、現実の世界なのだからわずかな傾きがあるはずです。
言いかえれば、かすかな共通点 がある。本人同士が気がつかない、人知を超えた所で交わっているかも知れない、こんな詩想が浮かびました。

無限に引かれた平行線のような、現代の希薄な人間関係の中で、私は人と人の新たなつながりの可能性を描こうとしました。この世で絶縁した者同士でも、夢のような異界では密かに触れ合っているのかも知れない・・。

世界の様々な紛争の中で、危機打開のため日夜努めている心ある人々の行動は、両極の平行線にかすかな傾きを探り出し、遠い日、両者が交わる一点を生むのではないでしょうか。不完全な〈誤差〉を抱えた人間であればこそ、紙に書かれた平行線のように、いつかは交わる日も訪れるのではないでしょうか。

誠に甘い楽観論と一笑にふされそうです。でも、この世に完全な平行線がないように、人と人との間にも無限の平行線はないことを、私は自作の詩を通して願っています。

作中で、〈
同級生の誰とも口をきかなかった女生徒〉には、モデルがいます。高校時代の私です。いじめのせいで、一年間ほど不登校の時期があり、その頃の自分を思い出して、自作に若き日の分身を埋め込んでみました。

終日、居眠りをしていた病気あがりの重役〉にもモデルがあります。サラリーマン時代、末期癌に侵されながら、体力の限界まで出社していた上司がいました。病状から見れば、即入院という状況でしたが、彼は妻子のために少しでも出勤日数を稼ごうと、苦痛と闘っていたのです。勤務日数が減れば、退職金や給与・賞与に大きく響きますから。

心の師と仰ぐ、ドイツの詩人リルケが、「詩は感情でなく、経験である」と語っています。
楽しい経験であれ、堪え難い経験であれ、人の胸に響く詩の言葉の源泉は、ここ以外にはないと年々確信しています。



| 自作詩集より | 21:35 | comments(2) | trackbacks(0)
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