微笑の詩学 2
 第2話 孤独者の微笑

慈悲とは、高所よりの同情心や博愛ではなく、もっと身につまされた生の嘆きであろう。善をのみなつかしむのではない。悪をもなつかしむのだ。いっそ善悪を分別せぬ人間のありのままの相に身を沈めて行くのだといったほうがよい。すなわち化身の所作である。化身とは捨身(しゃしん)である。苦痛にちがいない。慈悲の根底にある無限の忍耐、いわば人生を耐えに耐えたあげく、ふとあの微笑が湧くのかもしれぬ。救世観音(ぐぜかんのん)や中宮寺思惟像の微笑は極度に内面化されたものだ。あの口辺(こうへん)をみていると、なにかをいおうとして口ごもっているように感ぜられる。それは微笑の寸前でもあるとともに、慟哭の寸前でもあるようにみうけられる。菩薩の微笑とは、あるいは慟哭と一つなのかもしれない。凄惨な人生に向かって、思わずわっと泣くほんの少し前に浮かび出る微笑であるかもしれない。

 

     *

 

なにごとでも自由に表現できるか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は(とどこお)りなくあらわすことができるか。はっきりいいきってしまうことが可能か。たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが信仰や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界といっていい。これを感じたところに、神仏の世界がある。だれにも理解してもらえないが、なお我独り生きて行かんという孤独者の強烈な祈りがある。菩薩のもつ微妙心はそこに通うにちがいない。

 

     *

 

菩薩は群衆を拒否する。群衆として(もう)でても、菩薩はそれを一人一人に切り離し、孤独者としてのみ迎えるであろう。孤独者のみが微笑の真義を知る。そして孤独者を微笑させるものこそ菩薩といえる。                       『大和古寺風物誌』1943年


 〈化身とは捨身である。苦痛にちがいない。慈悲の根底にある無限の忍耐、いわば人生を耐えに耐えたあげく、ふとあの微笑が湧くのかもしれぬ。〉

この章句は仏の慈悲を語りながら、勝一郎自身の転向経験を告白しているかのようです。

捨身――つまり自分を投げ捨てるように、思想の拠り所である社会主義を捨てた若き日の傷心(トラウマ)を思い起こし、〈人生を耐えに耐えた〉無限の忍耐に思いを馳せているのでしょう。

 

古仏の微笑には、時代に翻弄された人間の痛苦が反映しています。政争の絶え間なかった飛鳥時代のもとに生きた仏師、昭和の自由弾圧下に生きた勝一郎。それぞれの痛苦が時空を超えて、微笑の一点で繋がったのです。

 

【メモ】亀井 勝一郎 1907年(明治4026 - 1966年(昭和411114日)昭和期の文芸評論家、日本藝術院会員。

函館市元町生。旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)から旧制山形高等学校(現・山形大学)経て、1926年(大正15)に東京帝国大学文学部美学科に入学。マルクス・レーニンに傾倒し、1928年(昭和3)退学。

同年4月、治安維持法違反の疑いにより豊多摩刑務所に投獄、1930年(昭和5)に保釈。1932年(昭和7)、プロレタリア作家同盟に属すが、翌年には解散。以後、同人雑誌『現実』(1934年)、『日本浪曼派』(1935年)を創刊、評論を発表。1934年、最初の評論集『転形期の文学』を刊行。

1937年(昭和12)、『人間教育(ゲエテへの一つの試み)』を刊行。1938年(昭和13)、『人間教育』が評価され菊池寛より池谷賞を受ける。同年の『日本浪漫派』廃刊後は、『文学界』同人となり、以後同誌に多く連載。この頃に、太宰治と親密になる。同じ時期に大和路紀行を行い、古代・中世の日本仏教との出会いにより開眼、聖徳太子、親鸞の教義を信仰し、その人間原理に根ざした宗教論、美術論、文明・歴史論、文学論の著作を多数出版。

1942年(昭和17)に、日本文学報国会評論部会幹事。1945年(昭和208月、第二国民兵として3日間軍事教練を受け、その3日目に敗戦の報を聞く。

戦前・中は、武者小路実篤の人生論を解説つきで出版、戦後昭和30年代に再刊し重版。自身の人生論・恋愛論の類もベストセラーで、複数の版元で多く重版された。

1959年(昭和34)より『文學界』に、ライフワークとして「日本人の精神史研究」を連載開始。1964年(昭和39)に、日本芸術院賞受賞、翌年には芸術院会員。1965年(昭和40)『日本人の精神史研究』等で、菊池寛賞を受賞したが、翌年ガンにより逝去。「日本人の〜」は5巻目の半ばで中絶(全6巻予定)。

1969年(昭和44)、文藝評論を対象した文学賞として亀井勝一郎賞を創設(14回で休止)。

                    (ウィキペディアを基に記す)

※肖像写真はウェブサイト「はこだて人物誌」より転載




| 亀井勝一郎 | 10:55 | comments(0) | trackbacks(0)
微笑の詩学 1
第1話 人間再生への道

     微笑について         亀井 勝一郎


古仏の微笑は言うまでもなく慈悲心をあらわしたものにちがいな

いが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので私はいつもはらはらしながら眺めざるをえない。菩薩は一切衆生(いっさいしゅじょう)をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いとをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと云った思いがみじんでもあったならばどうか。表情は忽ち誇示的になるか、説教的になるか、さもなくば媚態と化すであろう。大陸や南方の仏様には時々この種の表情がみうけられる。大げさで奇怪で、奥床しいところは少しもない。これは仏師の罪のみではなく、根本をいえば大乗(だいじょう)の教(おしえ)の至らざるところからくる、思想の不消化に関連しているようである。わが中宮寺(ちゅうぐうじ)の思惟(しい)像があの幽遠な微笑を浮かべるまでには、どれほどの難行苦行があったか。そこには思想消化の長い時間があり、また生硬で露骨な表情に対する激しい嫌悪があったにちがいない。古人のこうした戦いを私は思惟像の背後に察せざるをえないのだ。美的感覚の問題もむろんあるが、その成長の根には信仰の戦いが必ずあったであろうと思う。微笑は必ずしも心和(なご)かな時の所産でなく、かえって憤怒に憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない。

                           『大和古寺風物誌』


        ※写真は中宮寺半跏(はんか)菩薩像。中宮寺絵葉書より転載


亀井勝一郎は、文明の問題に強い関心を示し、現代の危機を救うものとして貴族的な古典美の再興を考え、飛鳥・奈良時代の文化へ深く傾倒していきました。『大和古寺風物誌』はそれを物語る代表作で、1943年(昭和18)著者36歳の刊行でした。


私が亀井勝一郎の「微笑について」という一文を目にしたのは、予備校生の頃でした。『現代国語の読解法』(旺文社)という大学受験参考書に載っていました。筆者は当時、成城大学教授・坂本浩先生。大手受験専門出版社が提供しているラジオ講座の講師でもありました。

 

この書は、受験参考書の枠組みを超えた名著でした。作家、詩人、歌人、俳人等の文学者の紹介作品に付された詳細な解説を通して、私は文学に目覚めました。爾来、半世紀を経ても座右の銘となっています。「微笑について」にも、坂本先生の平易な表現による懇切を極めた解説文がありますので、以下に全文を記し鑑賞文に代えたいと思います。

 

第一段。それは(=微笑)慈悲心を表わしたものに違いないけれども、はたしてそのようにだけ解釈してよいものかどうか、と筆者は問題をなげかける。この微笑を彫刻するにはどれほどの困難があることか。なぜならこの微笑は左へ傾いても右へ傾いても、その深い意味を失ってしまうといった、実にあやうい平衡の上にのみ表わすことのできる、微妙なものだからである。筆者は仏像を眺めるたびに、このあやうさを感ぜずにはいられない。そこに慈悲心の表現とのみ解することへの疑問が生まれるわけである。

 

第二段。つぎに筆者はそのあやうさについて説明する。左か右かの一方に少しでも傾けばどうなるか。一切衆生をあわれみ救うという自意識が出てしまって、その表情は誇示的(慈悲を売り物にする)になるか、説教的(美でなくて説教的)になるか、媚態的(救ってやるからおがんでくれ)になるかである。奥ゆかしい美しさは消えてしまうのである。大乗仏教は小乗仏教に対して起こったもので、小乗が大陸や南方に広がって卑近な教理を説き、消極的・虚無的であるのに反抗して、深遠な真理を説き、積極的・活動的に人間の救済を求めるのが大乗なのである。大乗はこのように広大無辺な慈悲心を説くものではあるが、それは押し売り式の露骨なものではけっしてない。この深遠な教義を十分に理解しないところから、奇怪な仏像が生まれるのである。


第三段。そして最後に、筆者はそのようなあやうさをきりぬけたものとして、わが中宮寺の思惟像(中宮()寺の本尊、半跏(はんか)思惟相の黒色木彫像)を問題にする。大乗の、教えを深く汲みとろうとする長い間の苦心が、この幽遠な微笑を生んだのである。これは、苦しみ憤り、それにも負けず精進し、たったひとりで耐えぬいたあげくのはてに、はじめて美しく花咲いた微笑であったに違いないのだ。筆者は目に見える微笑のかげに、さらに深くかくされている仏師の血のにじむような苦行の姿を思い浮かべているのである。


 私が亀井勝一郎の文章に惹かれる理由は、余人の及ばぬ思索の深さは言うまでもありませんが、その表現の詩的な香気です。〈微笑は必ずしも心和かな時の所産でなく、かえって憤怒に憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない。〉という一節は何度読み返しみても淡い酔いを覚えます。

 

勝一郎が28歳に創刊した同人誌『日本浪漫派』には作家・評論家の他、萩原朔太郎、佐藤春夫、三好達治など日本を代表する詩人も同人として加わっていました。文章に詩的な味わいがあるのはこれらの詩人達の影響も大きいのではないでしょうか。


                    *



父が函館の銀行支配人という裕福な家庭に生まれた勝一郎は、中学に入れなかった貧しい同級生と自分を比較して、罪を負っているのではないかと思い悩み、日曜毎に教会で説教を聞く正義感の強い少年でした。15歳、教会で賀川豊彦の講演を聴き、初めて社会主義的なものに触れます。17歳の折、学生の左翼運動が起こり、強く心を動かされます。大学生になるとマルクス主義芸術研究会に出席し、大学の講義には出なくなります。


21歳で「共産主義青年同盟」に入り、大学を自主退学。同1928年(昭和3)に三・一五事件(社会主義者、共産主義者への全国一斉弾圧事件)で検挙され、治安維持法違反の疑いで獄に幽閉されます。獄中で喀血、市ヶ谷刑務所の病監に移された後、釈放されます。保釈後、25歳で日本プロレタリア作家同盟に所属しますが、のちに転向(戦前・戦中の厳しい弾圧により共産主義や社会主義の立場を放棄した現象)しています。


31歳 で刊行した著書『人間教育』の後記には、「私の二十代後半に直面した問題というのは、共産主義運動の圧迫による崩壊と、そこに生じたさまざまな思想的混 迷、それと、いかにして自己を再生させるかという転向の方向の問題であった。『人間教育』は、当時私の選んだ転身の道の記録である」と述べています。


では、勝一郎が自己再生のために進んだ道とは何であったか。それは、仏教信仰でした。『歎異抄(たんにしょう)』(親鸞が弟子唯円に語った言葉を記した仏教書)を読んで、親鸞に深く傾倒し、奈良の古寺巡りを毎年続けました。仏像や仏塔の美しさにも心ひかれていきます。


時は昭和16年、第二次世界大戦が勃発する気運が迫っていましたが、それらの世界情勢を背景にして国内思想も復古的精神主義が広まりました。その中にあって、勝一郎は古寺巡りを通して、日本人の精神の根源を探ろうとします。信仰についての論文も多くなっていきました。1943年(昭和18)、数カ年にわたる奈良旅行の紀行文、論文を集録した『大和古寺風物誌』を出版します。この著作は、仏教美術への素直な感動の書であると同時に、仏教を通じての人間再生への祈りが込められています。


1944年(昭和19)、『親鸞』を新潮社より出版。戦争は激化し、東京は空襲に(さら)されますが、勝一郎は空襲下の灯火管制のもとで、『聖徳太子』の執筆を始めます。完成したのは、戦後の1946年(昭和21)でした。


著者自身の解説によれば、「戦災は拡大し、むろん出版元も焼失して、原稿を印刷するという希望は失われてしまった。しかし当時の私にとっては、それを書きつづけることが唯一の生き甲斐であり、自分の半生をふりかえっても、これほど熱心に努力を払って原稿を書いたことはなかったと思われる」と記されています。

                                 (この稿続く)


| 亀井勝一郎 | 14:15 | comments(0) | trackbacks(0)
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