杉山平一 3
 第3話 「わからない」という詩



       天女

 

     その日 ぼんやり
     広場を横切っていた

     そのとき とつぜん
     ドサッと女の子が落ちてきた
     すべり台から

     女の子は恥しそうに私を見上げ
     微笑んでみせた

     きょうは何かよいことが
     ありそうだ

                    詩集『希望』2011年


「普段は見過ごされ埋もれている日常の一瞬やおかしみを発見し、そこに詩として光を当てると、自ずとユーモアやウイットがにじみ出る」という杉山の言葉を典型的に作品化した詩です。滑り台から女の子が目の前に落ちて来て驚いた、というただそれだけの日常の些事を、「天女」という捉え方をすると、詩が滲んで来るから不思議です。

 

 

       わからない

     お父さんは
     お母さんに怒鳴りました
     こんなことわからんのか

     お母さんは兄さんを叱りました
     どうしてわからないの

     お兄さんは妹につっかかりました
     お前はバカだな

     妹は犬の頭をなでて
     よしよしといいました

     犬の名はジョンといいます

                    詩集『希望』2011年



父が、母を怒鳴る。怒鳴られた母が、兄を叱る。叱られた兄が、「お前はバカだな」と妹に対してうっぷんを晴らす。こうして、家族への苛立ちが、攻撃が連鎖していきます。では妹は、飼い犬に八つ当たりをするかと思えば、いじめません。反対に、犬を可愛がります。妹は攻撃の連鎖を断ち切ったのです。そこに詩があります。


ある詩人がこう解説しています。

「犬」は、動物であり、ある種、われわれの世界を「わからない」者の代表です。悲しみ、苦しみや、憎しみがこの世界に、あることは、百も承知だけれど。そして。きみが傷ついていることも、しっているけれど。ぼくは、きみは、せめて、それを、連鎖させないで、おこうよ、という。詩人の、人間に対する強い祈り、のような、声が、深く、烈しく、心に、ひびいてきて、しかたがない。

 

【メモ】杉山 平一 1914112 - 2012519福島県会津若松市生。

東京帝国大学美術学部卒。詩人、映画評論家、帝塚山学院大学名誉教授。東大在学中、杉山だけが唯一の弟子と三好達治認められる。詩誌『四季』に参加、同人となる。同期生に立原道造。卒業後、織田作之助らと『大阪文学』を創刊。

1941(昭和16)27、第2回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)

1943年、29歳で『夜学生』刊、翌年、第十回文芸汎論詩集賞受賞。


1956(昭和31)42歳、工場倒産。

1966(昭和41)52歳、帝塚山短期大学教授。

1976(昭和51)62歳、大阪シナリオ学校校長。

2003年『戦後関西詩壇回想』で小野十三郎賞特別賞受賞。その他、大阪府知事賞、大阪芸術賞、兵庫県文化賞など。

戦後は映画評論で活躍、『映画芸術』『映画評論』に多く寄稿。1966年、帝塚山学院短期大学教授。1985年定年、名誉教授。四季派学会会長、現代詩人会会長。

(写真は、97歳の近影。ブック・アサヒ・コム「何でもないことこそ詩になる 杉山平一さん」より転載)

                                  (完)


| 杉山平一 | 17:23 | comments(0) | trackbacks(0)
杉山平一 2
 第2話 わかりすぎて困った詩



       希望

        夕ぐれはしずかに
        おそってくるのに
        不幸や悲しみの
        事件は

        列車や電車の
        トンネルのように
        とつぜん不意に
        自分たちを
        闇のなかに放り込んでしまうが
        我慢していればよいのだ
        一点
        小さな銀貨のような光が
        みるみるぐんぐん
        拡がって迎えにくる筈だ

        負けるな

                    詩集『希望』2011年 


 

杉山平一は、戦前から父親が起こした尼崎精工という会社の経営に携わっていましたが、その会社が行き詰まり、果ては破産宣告を受け「身ぐるみ剥がれるようになって落ち着いたのは昭和48年だった」(現代詩文庫 杉山平一詩集の年譜)という、転落の半生を過ごしています。

 

昭和32(1957)年からは、「以後10年、給料工賃、などの金融への奔走、手形のジャングル、労組との団交、債権者、町の金融業者や暴力団とのやりとりが、日に夜をつぎ、安穏の日とてなかった。」(「わが敗走」)とあります。また、戦時下と戦後すぐに、続けて二人の幼い息子を亡くしています。ようやく落ち着いて、今の宝塚へ移り住んだのが昭和48(1973)年、59 歳の時でした。

 

苦しい資金繰りの中、ジェーン台風(1950年近畿・四国地方に大被害を与えた台風)によって工場が倒壊し、どん底の状態になった時、杉山はこう書いています。
「少し風は落ちたようでした。見ていますと、西の空の端の雲が切れたようです。クライマックスを過ぎたのでしょうか。/そこには淡い青空が少し覗いています。深く溜め息をついた私は、そのきよらかな青空を見上げました。そのうちに、私はなんともいえない安らぎにおちついてくる自分を発見しました。私が自分をごまかそうとしていた何かもやもやとした一切のものが、断固として吹きとばされたような気がしてきたのです。(略)私の待っていたいいこと、救いはこの徹底したどん底だったのではないか、負け惜しみでしょうか、いやそんなことはない、いつのまにか私は立ち上がっていました。そして空の一角のきよらかな一点の青空を、長いトンネルの中で小さな出口のあかりを見つけた思いで、飽かず眺めていました。」(「風浪」)


行き詰まった資金繰りに追い打ちをかけるように台風が工場をなぎ倒し、杉山を追い詰めたはずなのに、むしろそのどん底にこそ希望を見出すという物の見方に驚かされます。

この、トンネルの向こうに出口の明かりが見えるという比喩が、最後の詩集『希望』のタイトルポエムの、東日本大震災被災地への祈りを込めた詩に受け継がれているのです。

 

20126月、97歳で死去した杉山平一に対する第30回現代詩人賞(日本現代詩人会主催)の贈呈が東京都内で開かれた「日本の詩祭2012」に際し行われました。詩集『希望』による受賞は同年3月に決まり、杉山はこの日の出席を望んでいましたが、肺炎のため直前に亡くなり、果たせませんでした。

 

受賞作は2011年に刊行されましたが、編集の過程で発生した東日本大震災に衝撃を受け、「少しでも復興への気持ちを支える力になれば」(あとがき)と表題作などを加え、タイトルを『希望』としました。現代詩人賞の受賞に際して、作者は次のように述べています。

「私の詩はヒューマニズムが基本にあり、身近な事物を主な題材にしています。普段は見過ごされ埋もれている日常の一瞬やおかしみを発見し、そこに詩として光を当てると、自ずとユーモアやウイットがにじみ出るのだと思います。(中略)昔『夜学生』を出した時、土方定一氏から「わかりすぎて困った」という批評をもらいましたが、褒めて切り捨てて下さった土方さんの、わかりやすさだけでは ダメだという真意が、今はわかるような気がします。今回の『希望』も短くわかりやすい詩が多く、今まで詩に触れてこなかった一般の方からも心に響くという反響があり、広く受け入れられたように思いますが、現代詩人の会で深く詩を読まれてきた方々にも、深い所にユーモアやウイットを感じていただき、琴線に触れるものを見つけて下さった方がおられる事を有り難く思います。
こんなに永く生き延びてこられたのは、実用にならないが詩という心の支えがあったからこそです。人生の終わり近くにこのような賞を戴くことができ、胸に迫るものがあります」

 

選考委員長を務めた仙台市在住の原田勇男氏は「(受賞作に)被災地の者として勇気づけられた。ライトバース(軽妙な詩)の名手、杉山さんにお祝いとともに心からお悔やみを申し上げます」と呼びかけました。

また、選考委員の詩人以倉紘平は、事業の面で倒産などの苦労を重ねた杉山さんの人生の軌跡に触れ、「全生涯をかけて他者と自己に語りかけた杉山さんの魂の表現だ。長年の人生苦を背負った人にして初めて、日常生活のかけがえのなさ、賛歌が書けたのだと思う」と讃えました。

 

杉山に代わって賞を受けた長男の稔さんは「父は受賞の報に大変驚き、喜んだ。厳しい状況下でも、詩があるから生きてこられたと話していた。きょうも自分で詩の朗読をするつもりで練習していました」と生前の様子を話し、謝意を述べました。

                               (この稿続く)


(参考記事)

・「杉山さんを偲ぶ会」(ブログ「森のことば、ことばの森」所収)

・「68年ぶりの受賞」(日本現代詩人会ホームページ「受賞者の声」所収)


| 杉山平一 | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0)
杉山平一 1
 第1話 何でもないことが詩になる

日常の何でもないことが詩になることを教えてくれたのは、杉山平一でした。

私が詩を書き始めた頃、優れた詩は優れた詩的想念から生まれるという固定観念を持っていたのですが、それを見事に壊してくれた詩人でした。

 

恩師高田敏子先生の許に通っていたある日、高田宅の応接間に詩人吉野先生が訪れていて、杉山平一という詩人が出した詩集の話題で盛り上がっていました。高田先生も吉野先生も感動を抑え切れないという心の(たかぶ)りで、目の前で立ち上がって幾篇かを朗々と読み上げました。そして、これらの詩のどこが優れているか、熱弁をふるって解説しました。その中に、「吠えられる」という詩がありました。 


 

       吠えられる

 

     途上に何箇所か飼い犬がいる

     そいつに石をなげつけておく

 

     彼が通ると犬は壮烈に吠え立ててくる

 

     三十年ひっそりと勤めている彼の

     おれは在る と思うひとときである

 

             詩集『ぜぴゅろす』1977年

 

この詩の面白さは、〈三十年ひっそり勤めている〉=窓際族的なサラリーマンで、職場内で誰からも(かえり)みられないような存在感の薄い者でも、犬だけはこちらの存在を認めて、猛烈に吠え立ててくるという所です。

人から無視される者も、犬だけは絶対に無視しない。〈在る〉という存在を認めてくれるということですね。

 

この詩を知った時、私は入社したてで最下層の地位でしたから、作品に描かれた不遇なサラリーマンの悲哀が自分のことのように共感できました。何よりも、犬に吠えられるということだけで、詩ができるというのが新鮮な驚きでした。

 

言葉遣いも、〈壮烈に戦死〉という言葉ユーモアが独特の味わいを出しています。


 

         

 

      ものをとりに部屋へ入って

      何をとりにきたか忘れて

      もどることがある

      もどる途中でハタと

      思い出すことがあるが

      そのときはすばらしい

 

      身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである

      その用事は何であったか

      いつの日か思い当るときのある人は

      幸福である

 

      思い出せぬまゝ

      僕はすごすごあの世へもどる

 

                   詩集『ぜぴゅろす』1977年

 

2連がなければ、高齢者の日常の愚痴に終わっていたでしょう。「もの忘れ」から発想を得て、人生の目的にまでテーマを広げた所がすばらしいと思います。

学生時代、自分探しの旅に悩んだ私には、人生の用事が何であったか、思い当たる人は本当にうらやましく見えました。

 

ですから、作者自身は、詩人としてはっきりと自分の用事がわかっているはずなのに、終連で〈思い出せぬまゝ/僕はすごすごあの世へもどる〉と、最後をつつましく締めくくっている姿勢に好感が持てるのです。

師の高田敏子は、詩はやさしく言えば、〈思い方のゲーム〉。普段の生活の中で出会う様々なものについて、楽しい思い方を探すのが詩。詩は価値ある“思い方”をさぐる文学と定義しています。

「詩って、思い方のゲームね。ゲームだから楽しいのよ。言葉をたのしむことなのね。楽しみでなかったら、私、詩を書き続けられないわ」と語っていました。

                               (この稿続く) 

| 杉山平一 | 19:16 | comments(2) | trackbacks(0)
杉山 平一「解決」2

この作品について、詩人吉野弘先生(先生と呼ぶのは、若き日にインタビューに伺い薫陶を受けたからです)が、恩師高田敏子先生主宰の同人詩誌『野火』に解説を寄せています。

この詩はいろいろな解釈に堪える作品だと思うが、私はこの硝子に、人間の生命の不透明性みたいなものを感じた。どんなに透明でありたいとねがっても、生命には透明になることができない性質がある。それは死によってだけ、透明になることができる。

本来、ものを透明に見せるためにつくられた透き硝子でも、それが無いということ(存在しなくなったということ)の透明さには及ぶべくもないのである。これは、すばらしい一篇である。

 

吉野先生の説かれる〈人間の生命の不透明性〉とは、汚れたくないと思っても生きるために他を侵し、傷つけ、心を汚してしまう人の(ごう)のようなものだろうと私は解釈しています。

その葛藤を作者は、石炭のすすにまみれて働く鉄道員に重ねました。作中の〈煤けた彼〉とは、粉塵に汚れたという意味以上に、内面の、あるいは人生の汚れを象徴した修辞でしょう。

私は吉野先生から作品解釈の手がかりをもらいましたが、この度の母の逝去の後、ふと、この作品が心に浮かびました。

 

母の介護の日々、寝たきりが長期間に及んだことで、母の膝から下は水がたまって浮腫(むく)み、象のようにぱんぱんに腫れ上がっていました。ヘルパーさんや訪問看護士さんが、足首や腿を根気よくマッサージして下さいましたが、なかなか改善されませんでした。その浮腫みが原因で母は心臓の機能が悪化し、それが命取りになりました。通夜の前日、亡骸(なきがら)湯灌(ゆかん)してもらいながら、長年、お風呂に入れなかった問題も、足の腫れもすべて、〈煤けた彼が 何年かねがい 努め 悩んだものが そのように解決されていた〉という章句の通り、解決されたことを知りました。

〈硝子は/割れてはずれていた〉、すなわち死という酷い現実と引き換えに、私達家族の問題は解決されたのです。実に寒々とした解決でした。通夜の日は氷雨の降る寒い日で、葬儀場の周りは、心象風景そのままに〈戸外の闇から凍った冬の夜風が吹きこんでいた〉のでした。

 

母の死によって、私は「解決」という詩の、私にとっての本当の解釈を得ました。

日頃、教室で、一篇の詩は読む人の経験を通して読み解かねば真に自分のものにはならないと繰り返しお話していますが、その言葉通りになりました。

なお、詩集タイトルの「ぜぴゅろす」とは、ラテン語で「西風」の意。ボッティチェルリの「春」では、開花を促す役を務めています。「愛」の風でもあります。


【メモ】杉山 平一1914112日〜)詩人、映画評論家、帝塚山学院大学名誉教授。

福島県生。東京帝国大学美学美術史学科卒業。在学中三好達治に認められ『四季』に参加、同人となる。卒業後織田作之助らと『大阪文学』を創刊。1941年第2回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)、1943年『夜学生』で文芸汎論詩集賞受賞。2003年『戦後関西詩壇回想』で小野十三郎賞特別賞受賞。その他大阪府知事賞、大阪芸術賞、兵庫県文化賞など。   (経歴はウィキペデアより引用)

| 杉山平一 | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0)
杉山平一「解決」 1


     解決        杉山 平一

 

   古ぼけて煤(すす)けた駅であった その窓硝子も煤け

   ていた よく駅夫が熱心に拭っていたがすぐもとにもど

   っていた る夜のこと その一枚が 戸外の闇までつ

   やつや見える位美しくすき透っているのを見た 近づく

   と硝子は割れてはずれていたのだった 煤けた彼が 

   何年かねがい 努め 悩んだものが そのように解決

   されていた 戸外(こがい)の闇か凍ったの夜風が

   吹きこんでいた

 

                      詩集『ぜぴゅろす』1977

| 杉山平一 | 10:56 | comments(0) | trackbacks(0)
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