立原道造 9

作品「晩秋」冒頭の、〈建築と建築とが さびしい影を曳いている/人どおりのすくない 裏道〉という風景には私も見覚えがあります。

上京したての学生の頃、自分の目指す文芸ジャンルを求めて、大学のサークルを片端から訪れました。それでは足りず、新聞広告に出ていた読書会にも参加しました。それでも、これだと言えるものには巡り会えませんでした。

 

大学の授業も欠席がちになり、友も仲間もなく、終日、東京の街を飢えた野良犬のように彷徨(さまよ)っていました。何の収穫もなく空しく帰路に着く、そんな時、都会の風景は、人気のない建物の影だけが尾を曳くような、空虚で殺風景な空間と化しました。まさに、道造の詩句の通りです。

 

下宿に引きこもっているとノイローゼ(今で言う、鬱)になりそうで、訳もなく夕暮れの学生街をうろつきました。〈あわれな 僕の魂よ/おそい秋の午後には 行くがいい〉とは、居ても立ってもいられない葛藤が、自分をどこか遠くへ誘ってしまうという心理を語っていると私は感じます。このような彷徨(さまよ)いが1年半近く続いた後に、私はふとした偶然から恩師高田敏子先生に巡り会いました。私の長かった漂泊(さすら)いと孤独の時代は終わりました。敬愛する師と同時に、多くの詩の仲間にも恵まれました。


道造の「晩秋」は私にとって、学生時代の苦しかった迷いの出発点を思い出させる記念の詩です。また、心に失意を抱けば、いつでも再び目の前に現れる風景です。

そして、迷いと痛みを抱くすべての人間が歩き続ける原風景でもあるのでしょう。

 

 

一人の詩人の作品を読むということ、こちらの乏しい想像力であれ、作家の内的人生を追体験するということです。詩人の人生――葛藤、願い、喜び、哀しみに寄り添うということ。

無感情に論理で分析し、学問的に解釈しても何の意味もないように思います。

詩作品というものは、自分の体験を通さなければ決して自分のものにはならないと、以前、持論を述べたことがありました。その思いをさらに掘り下げれば、詩作品というものは、体験しなければ決して自分のものにはならないと言えるでしょう。

 

亡くなる最後の日々、見舞いに訪れた知人に道造は、「五月の風をゼリーにしてもって来て下さい」と言ったそうです。命の最後の間際まで、道造は詩人であったことを物語るエピソードです。

                       (この稿、完)


【メモ】立原 道造(大正31914)年730 昭和141939329日)

1914年(大正3年)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に出生。祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいる。

1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にして歌集を作り才能を発揮していた。

1931年(昭和6年)、東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学。短歌の倶楽部に入部し、『詩歌』に投稿。高校時代を通じて詩作を続け、『校友會雜誌』に物語「あひみてののちの」を掲載。

1932年(昭和7年)、自らの詩集である『こかげ』を創刊。四行詩集『さふらん』編纂も手がける。高校最後の年を迎えた1933年(昭和8年)、詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作。

1933年(昭和8年)、東京帝国大学工学部建築学科に入学。建築学科では丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築奨励賞である辰野賞を3度受賞。大学卒業年次を迎えた1936年(昭和11年)、テオドール・シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出。

1937年(昭和12年)、石本建築事務所に入所。「豊田氏山荘」を設計。詩作面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載。詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ他、詩集『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』と立て続けに出版、建築と詩作の双方で才能を発揮した。

1939年(昭和14年)、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)受賞。

同年329日午前220分、結核のため248カ月で没した。

詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残す。道造の優美な詩風は今日でも共鳴者は多く、高木東六、高田三郎、三善晃などが合唱曲を作曲している。

                        (ウィキペディアを基に記す)


●参考文献

鈴木亨『現代詩鑑賞』桜楓社

『現代詩鑑賞講座第10巻「現代の抒情」』角川書店

國中治『三好達治と立原道造』至文堂

小海英二『現代詩要解』有精堂

『日本の詩歌第24巻 立原道造、他』中公文庫

やなせたかし編集『詩とファンタジー 20097月号』かまくら春秋社


| 立原道造 | 08:58 | comments(2) | trackbacks(0)
立原道造 8

「晩秋」は、昭和131938)年『文芸』1月号に発表。信濃追分を詩的風土とする道造の詩の中では、都会が描かれているのが異色です。

〈あわれな 僕の魂よ/おそい秋の午後には 行くがいい/建築と建築とが さびしい影を曳いている/人どおりのすくない 裏道を〉の章句で、〈建築〉という語彙が、建築家である道造らしく使われています。しかし、全く詩語ではない〈建築〉という言葉が、この作品中では、新鮮ですがすがしいイメージと響きを発しています。そして、シンプルな修辞に品格のようなものさえ感じます。

私が何歳になっても郷愁のように道造の詩を思い出すのは、この詩に見られる知的に澄み通った高貴な歌いぶりに若き日以来魅せられて来たからです。

 

語釈に稿を移します。

雲鳥(くもとり)を高く飛ばせている〉=〈雲鳥〉を「くもとり」と読ませるのは、芭蕉の句「この秋は何で年よる雲に鳥」を踏まえている。この俳句の意味は、「この秋はどうしてこんなに年老いた感じがするのだろうか。遠くの雲を背に鳥が飛んで行くのが見える」と言われ、心身の衰えを〈雲鳥〉というイメージで象徴的に表している。

〈落葉をかなしく舞わせている〉=この章句も、風に舞う落葉に追われるように漂泊(さすら)った芭蕉や西行らの境地を下地にしている。

〈あの郷愁の歌〉=芭蕉、西行ら古人の歌の世界。

〈限りなくつつましくある〉=深い寂寥に襲われる時、自分はこの世で限りなく小さな存在であると自覚する。

〈友を呼ぼうと 拒もうと〉=友人を求めようと、つき離しても。そばに親しい者がいてもいなくても、自分の孤独感に変わりはない。

〈永久孤独に 飢えているであろう〉=〈永久孤独〉とは、すべての人間が背負っている運命的な孤独。孤独を埋めるものは何もなく、常に飢餓的な寂寥を抱いている。

〈すくなかったいくつもの風景たち〉=心に残っている数少ない良き思い出。〈風景〉は、心の風景。記憶。

〈自分を護りながら〉=誰も孤独を慰藉(いしゃ)してくれる者はいないから、自分で自分を(いと)おしみながら。

 

この作品は、都会の、あるいは現代人の癒され難い孤独をテーマにしたものです。

道造は、古今東西の文人、文学者から得た教養を裏地として、自らの寂寥の心象風景を編み上げました。モチベーションには不治の病魔に冒された危機感があるでしょうが、それにこだわらず、都会人の魂の闇を普遍的に描いたものとして味わえばいいのではないでしょうか。

                       (この稿続く)


| 立原道造 | 14:29 | comments(0) | trackbacks(0)
立原道造 7
 

晩秋

 

あわれな 僕の魂よ

おそい秋の午後には 行くがいい

建築と建築とが さびしい影を曳いている

人どおりのすくない 裏道を

 

雲鳥(くもとり)を高く飛ばせている

落葉をかなしく舞わせている

あの郷愁の歌の心のままに 僕よ

おまえは 限りなくつつましくあるがいい

 

おまえが 友を呼ぼうと 拒もうと

おまえは 永久孤独に 飢えているであろう

行くがいい きょうの落日のときまで

 

すくなかったいくつもの風景たちが

おまえの歩みを ささえるであろう

おまえは そして 自分を護りながら泣くであろう

 

最近、ピアノコンサートを聴く機会が続けてありました。クラッシック演奏会というと、一般受けするようなポピュラーな曲はあまり選ばれません。技巧を凝らした難曲、何楽章にも及ぶ大曲が主流を占めます。アンコールで、わずかに聴き慣れた名曲が奏でられます。

コンサートでの私の隠れた楽しみは、美しい旋律に耳を傾けながら、居眠りすることです。

いい音楽を聴く内に、いい心持ちになって、うとうとと居眠りをする。しばらくすると、また名曲に包まれながら目を覚ます。これほど贅沢にリラックスできる時間はないと思います。

 

ところが難曲、大曲は聴く側に緊張感を持ち続けることを強いるので、居眠りさえできません。コンサートが終わって、すごい演奏には違いなかったが、心に残ったのはアンコールの小曲だったということが結構多いのです。結局、一番よい演奏、優れたピアニストというのは、ピアノの音を最も美しく響かせてくれた曲であり、アーティストだったと考えるのです。難曲、大曲は超人的な技巧を乗り越えることに感動の本質があって、ピアノの音自体はあまり重きを置かれていないように感じます(私は音楽の専門家ではないので、これは全く自分勝手な好みに過ぎないかも知れません)。

 

観客席に身を沈めながら詩の世界も同じだと思いました。技巧も、詩のテーマも大切にした上で、最終的には日本語を最も美しく響かせてくれた詩作品に大きな価値があるのだと。道造の「晩秋」などを読むと、特にその思いを強くします。

道造のどの詩もそうですが、日常のありきたりな言葉が、彼の作品の中に置かれると、別次元の言葉のように詩的に輝いて来ます。

                        (この稿続く)


| 立原道造 | 17:57 | comments(0) | trackbacks(0)
立原道造 6

作品「はじめてのものに」の語釈に触れてみましょう。前述したように、四季派の舞台は、浅間山麓でした。ですから、作品中の〈地異〉とは浅間山の噴火であり、〈この村〉とは旧宿場町の信濃追分です。

 

〈かたみ〉=名残、しるし。

〈いぶかしかった〉=不審に思われた。少女が蛾を追う手つきが、本当に蛾を捕まえようとするのかどうか、疑われた。そのように人の恋心はわからないものだ。

〈いかな日に〉=いかなる日に、どういう日に。〈火の山の物語〉=道造自身の体験に裏打ちされた、火山を舞台にした悲恋物語。

〈果たして夢に〉=思った通り夢に。次行の〈織った〉=(夢に)現れた、に係る。

〈エリーザベトの物語〉=ドイツの詩人シュトルムの小説のヒロインを指すと思われる。

小説のストーリーは、エリーザベトの幼友達ラインハルトが大学に行っている間に、彼女は湖畔の地主に嫁ぐ。ラインハルトが帰省し、エリーザベトに再会すると、彼女は母の言いつけに従ったと語った。ラインハルトは二度と彼女に会わないことを心に誓って湖畔を去り、遠い昔を回顧しながら生涯を独身で過ごすという物語。

 

「はじめてのものに」の構成は、〈エリーザベトの物語〉が湖畔を舞台にしたのに対して、火山の麓――すなわち浅間山麓の信濃追分を舞台とし、異邦の失恋物語と道造自身の失恋体験を二重写しにしています。

 

道造はこの詩の書かれた昭和10年夏写真は、軽井沢での21歳当時の立原道造、追分村の定宿、油屋旅館に滞在、浅間山の噴火に遭遇しました。そんな日々、友人の遠縁にあたる少女の家に招かれました。以後、彼は少女をエリーザベトと名付けて交流しました。そして、作品に描かれたような、別離を予感したひと時を経験したといいます。

 

しかし、作品中では、少女は〈ひと〉と言い換えられ、生身の女性らしさは消えています。

しかも夢の中の出来事のように抽象化され、透明な存在になっています。また、浅間山は〈火の山〉に置き換えられ、どこかドイツ北方の山脈を感じさせます。これらの詩的操作を検証してみると、道造にとって大切だったのは、現実の出来事ではなく、想いを寄せた少女でもなく、芸術至上主義的な作品の完成だったと言わざるを得ません。

小説の世界では、芥川龍之介が芸術至上主義者の代表格と位置づけられていますが、道造は詩の世界での芸術至上主義者といってよいかも知れません。

【註】芸術至上主義「芸術のための芸術」とも呼ばれ、芸術のためにはモラルも社会性も否定する考え。芥川竜之介の小説『地獄変』では、主人公の絵師が、最上の作品のために我が娘の乗った牛車(ぎっしゃ)(平安時代の貴族の乗り物)に火をかけて悶え苦しむ姿を絵に描く。芸術の完成のためにはいかなる犠牲も厭わない姿を象徴的に表現している。

 

「はじめてのものに」は、現実の少女を巧みに詩に取り入れ、ドイツ文学で培った教養と美意識で加工して、架空の物語のヒロインに仕立てます。言わば、道造の詩は、現実を非現実化することで成り立っていると言えるでしょう。その過程で現実の悲恋の痛み、哀しみは揮発してしまいます。それがまた、彼独自の詩的 乾き 瓩鬚發燭蕕靴討い襪里任后

【註】使用した写真は、『国文学解釈と鑑賞別冊 立原道造』(至文堂)より転載

                                 (この稿続く)

| 立原道造 | 09:42 | comments(2) | trackbacks(0)
立原道造 5
        はじめてのものに

     ささやかな地異(ちい)は そのかたみに
     灰を降らした この村に ひとしきり
     灰はかなしい追憶のように 音立てて
     樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

     その夜 月は明かったが 私はひとと
     窓に凭れて語りあった (この窓からは山の姿が見えた)
     部屋の隅々に 峡谷のように 光と
     よくひびく笑い声が溢れていた

     ――人の心を知ることは……人の心とは……
     私は そのひとが蛾を追う手つきを あれは蛾を
     把(とら)えようとするのだろうか 何かいぶかしかった

     いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
     火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
     その夜習ったエリーザベトの物語を織った


この詩は昭和10(1935)年11月刊の詩誌『四季』に発表されました。「SONATINE(ソナチネ) 1」
と題した5篇の詩の冒頭に置かれています。ソナチネとは、音楽のソナタ形式を短くした小組曲。音楽への嗜好が強かった道造は、詩集のタイトルによく音楽用語を使い、詩集の装丁も自ら手がけて、楽譜のようなデザイン(右の写真は、処女詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』)を施しています。

「はじめてのものに」は、後に『萱草(わすれぐさ)に寄す』という詩集に収められました。この詩集は、道造自身がプロデュースした風信子(ヒヤシンス)叢書(そうしょ)(叢書=共通のテーマに基づいてまとめられた著作。ライブラリーの意)の第一冊目の詩集として、昭和12(1937)年7月に自費出版されました。
収録作品10篇、限定111部、すべて署名入り寄贈本でした。

デザインにこだわった道造を物語るものが、もう一つあります。それは代表作のすべてが14行詩であることです。この14行詩型はソネット形式と呼ばれ、各連の行数が4・4・3・3の4連から成り立っています。ソネットという詩型はイタリアに発した定型詩の一種です。欧州では形だけでなく、発音上で一定の韻を踏む約束事があるのですが、日本語では難しく、形式だけを踏襲しました。
道造がソネット形式を好んだのは彼の美意識によるものですが、建築家でもある彼は、詩芸術にも、建築美のような整然とした秩序を求めたのではないかと、私は想像しています。
【註】使用した写真は、『国文学解釈と鑑賞別冊 立原道造』(至文堂)より転載

                                 (この稿続く)


| 立原道造 | 09:32 | comments(0) | trackbacks(0)
立原道造 4

道造が作品を発表した場は、詩誌『四季』でした。『四季』は昭和9(1934)年に、堀辰雄・丸山薫・三好達治の三者の共同編集によって創刊されました。道造は創刊時から同誌に詩を発表し続けて、たちまち四季派の〈青春詩〉の旗手と評価されるようになりました。

創刊時、東大一年生。若干二十歳の若者を積極的に支援したのは、彼の才能を見抜いた実質的主宰者・堀辰雄でした。

 

堀辰雄は小説『風立ちぬ』の作者であり詩人です。堀は昭和9年頃からしばしば浅間山麓の信州追分村(現・軽井沢町)に足を運び、堀の後を追うようにして四季派の同人が多く訪れ、信州追分村は四季派を象徴する場所となりました。道造も掘と同行して昭和9年夏に足を運び、以後、第二の故郷と惚れ込むまでこの地を愛しました。

 

作品「夢みたものは……」は、作者が夢み、願ったものがすべてあるとうたった浅間高原の信濃追分村への讃歌(オマージュ)です。山麓の村、晴れ渡った青い空の下で輪になって踊る田舎の娘ら、そばで(さえず)る青い小鳥――愛と幸福に満ちた舞台装置があまりにも整いすぎて、かえって非現実な印象さえ与えます。一見、愛好する追分の自然に、ただただ自己陶酔したくて、この詩が作られたように思えますが、この作品が生み出された背景を調べると、読後の印象は少し変わって来ます。

 

「夢みたものは……」の詩は、詩集『優しき歌』に収録されています。

この詩集は道造が亡くなった昭和14年の前年に編まれたもので、実際に刊行されたのは彼の没後でした。

昭和12年秋、道造は肋膜炎を発症します。肋膜炎とは胸膜の炎症で、結核による原因が多い疾病です。昭和132月、喀血。同年5月、婚約者と軽井沢を訪問。病状は重症化していき、昭和138月、肺尖(はいせん)カタルと診断。肺尖カタルとは、肺尖部(肺の上部)の病変で、肺結核の初期症状です。また、当時は結核という不吉な病名をぼかして言うのにも使われました。『優しき歌』に収録された11篇は、昭和13年夏までに作られたと考えられています。

つまり、これらの詩篇は闘病中に成ったものでした。

 

道造が生きていた当時、結核は打つ手のない死病として怖れられていました。罹患した半数は亡くなりました。結核患者は熱のため頬が赤く、目が大きくうるみ、痩せて肌は白くなるため、一種妖しげな美的容貌がありました。道造は長身で白皙(はくせき)(色白)の貴公子然とした容貌でしたが、死の前年に撮影された代表的ポートレートには、さらに病的な美しさが加わっているように、私には見えてなりません。(右の写真は、銀座・ニュートーキョー 昭和13(1938)年春 23歳)

 

道造の師であり、道造を弟のように思っていた堀辰雄の『風立ちぬ』はサナトリウム(長期療養を要する患者の療養所)での末期患者を主人公にしたものです。モデルは結核で死去した婚約者で、薄倖の可憐な少女が死の影におびえながら生を養う、という物語です。

詩的感性の強かった堀は結核の悲惨な症状は描かず、静かな悲劇的イメージに徹しています。ちなみに堀自身も結核で長い病床生活を送り、昭和28(1953)年に没しています。

 

このような背景に思いを致す時、「夢みたものは……」の詩は、幸福な青年の青春讃歌ではなく、死の影に(おびや)かされた青年が憧れた、自然の命の輝きを象徴した作品となります。

自身の命の限りを自覚すればこそ、生は一層、甘美に光ることでしょう。

この心理について思い出される一文があります。それは恩師高田敏子先生のエッセイ中にありました。

 

はじめての一人旅は、夏の終わりのころに佐渡に行った。佐渡に横たふ天の川が見たかったからである。それで昼間の島内めぐりには余り興味がなく早めに宿に入った。その宿の名も、場所がどの辺りだったかも忘れてしまったが、古びた小さな宿の二階の窓に坐って暮れていく海をながめていると、さびしさが身にしみる。はるばる遠くに来た思いが身にしみて、もうこのまま家に帰れないような思いになってくる。

いまも私は旅に出る度にその思いにかられ、つい昨日までの忙しい毎日が、遠く遠く過ぎ去った過去に思われる。それは死んでしまった私が、生きていた日々をなつかしんでいる感じにも似ているのだ。

事実どこに泊まるかもきめずに家を出る旅は、その期間だけ別の世界に身をかくすことでもある。                    エッセイ集『やさしさから生まれるもの』

 

この〈死の国からみた生の懐かしさ〉を、高田先生は日常、胸深く抱き、様々な作品に投影させているように私は思います。

道造が「夢みたものは……」でうたったのは、このような末期の目に映った、信州の明るく透明なさびしさではなかったでしょうか。それはまた、冷ややかな 乾き 瓩慮酸瑤任發△辰燭任靴腓Α


【註】本ブログで使用した写真は、立原道造記念会のホームページより転載しました。

                               (この稿続く)


| 立原道造 | 16:53 | comments(0) | trackbacks(0)
立原道造 3

      夢みたものは……    立原 道造

 

     夢みたものは ひとつの幸福
     ねがったものは ひとつの愛
 
     山なみのあちらにも しずかな村がある
     明るい日曜日の 青い空がある

     日傘をさした 田舎の娘が
     着かざって 唄をうたっている
     大きなまるい輪をかいて
     田舎の娘らが 踊りをおどっている
  
     うたって告げているのは
     青い翼の一羽の小鳥
     低い枝で うたっている

 

     夢みたものは ひとつの愛

     ねがったものは ひとつの幸福
     それらはすべてここに ある と

 

立原道造の詩の世界は、道造自身が“永遠の日曜日”と名付けています。現実から切り離され、青春の自由な時間が流れ続ける、詩の中にだけある理想郷(ユートピア)という意味です。

道造にとって詩は、まさに“日曜日”のような魂の憩いとなるものでした。この「夢みたものは……」には、まさに道造が夢想した“永遠の日曜日”が広がっています。

道造の詩の特徴である 乾き 瓩蓮△海虜酩覆砲皸豐咾靴椴れています。牧歌的なメルヘンを描いていながら、自己陶酔している気配はありません。まるでひと事のように対象と客観的に距離を保っています。

 

作者のこのような冷徹な感性は、制作時の事情と深い関わりがあります。

立原道造が青春の日々を送ったのは、昭和10年代。今からざっと80年前です。

道造は東大工学部建築学科を卒業後、昭和121937)年に『萱草(わすれぐさ)に寄す』と『(あかつき)(ゆうべ)の詩』の二冊の詩集を刊行しました。それからわずか2年後の昭和144月に24歳で早世しました。死因は、当時、未来ある多くの若者の命を奪った肺結核でした。

                                (この稿続く)

 

| 立原道造 | 09:07 | comments(0) | trackbacks(0)
立原道造 2

道造のボキャブラリーには、夢、愛、花、小鳥、風、雲、空、月、星、光など、センチメンタルで甘くて綺麗な言葉――思春期の心を魅了するような言葉が頻出します。

「普通、詩の初心者は甘くて綺麗な言葉はなるべく使うな、と教えられます。詩的な綺麗な言葉、そういうものばかり使いますと、一見キラキラした効果は出るが、中身が空疎で中身が無くてつまらない詩になってしまう。あるいは作者の自己憐憫を(なま)のまま反映して湿ったベタベタした作品になってしまう。そういう失敗が多いからです。けれども立原道造の詩は乾いていました。乾いていて、金属かガラスみたいに硬質でした」大谷大学教授・國中 治

 

道造の詩が、見かけはセンチメンタルに感じられるのに、何度読んでも飽きがこない秘密は、このサラッとした 乾き 瓩任靴拭では、この 乾き 瓩蓮△匹海らもたらされるのでしょう。

例えば、1連の〈それは 花にへりどられた(=(ふち)どられた)高原の/林のなかの草地であった〉という行は、とても抒情的な一文です。でも、花といっても、どんな花なのか、何も触れてはいず、ある意味でぶっきらぼうでもあります。普通なら、高原に咲くような、アザミ、ナデシコ、ユリなど具体的な花を配置するでしょう。

 

次行の〈小鳥らの/たのしい唄をくりかえす 美しい声〉も同様です。どんな小鳥なのか、何も説明がありません。ですから、〈たのしい唄〉〈美しい声〉と明るいイメージがありげでも、極めて抽象的で無機的に乾いています。読者は、深い感情移入も出来ず、淡々(あわあわ)とした印象で情景を受け入れていきます。

 

また一方で、「金属かガラスみたいに硬質」な文体は、読者を非現実の世界に引き込む効果があります。日常の、どこにでもありそうな高原であるのに、どこにもない非現実の高原に。

道造が目指した詩の世界は、このように意図的に仕組まれた無名性を帯びており、また、無色ゆえに読者の想像力を大きくかき立てる働きがあります。

 

私が3.11の震災の直後、道造の詩の一節を郷愁のように思い出したのは、未曾有(みぞうう)(むご)い現実と向き合うことから離れて、ひと時、爽やかな風に吹かれてみたいと思ったのかも知れません。何ひとつ押し付けてこず、小石の上を澄んだ水が絶え間なく流れるような、ただ透明な時間の流れに心を浸したくて。

                        (この稿続く)

| 立原道造 | 12:03 | comments(0) | trackbacks(0)
立原道造 1
              立原道造 永遠の日曜日
 

クラッシックのコンサートやライブに行く度に、いつも夢みたことがあります。詩というものを音楽のように聴くことはできないか、と。

モーツアルトやベートーベンの演奏が始まると、ざわめく聴衆をたちどころに沈黙させ、情動を鎮め、精神を陶酔させる音楽の圧倒的な力をうらやましく思いました。

詩の言葉を音楽のように聴いてみたい、あるいは、涼風(すずかぜ)に吹かれるように、詩の言葉で心身を洗われてみたい――そんな不可能事を可能にした詩人がいます。それが、立原道造でした。

 

311日の東日本大震災を境に日本の空気は変わったという報道がなされています。

連日マスコミは、生存の足許を(さら)われ、家族を波に(さら)われた被災者の痛苦と悲しみを伝え、私はテレビ画面の前で、何も手を差し伸べられない無力感に陥っていました。

そんなやりきれない日々、何故か、ふっと郷愁が湧くように立原道造の名を思い出しました。

 

道造の詩風についてよく評されるのは、音楽のよう、歌のようだという言葉です。

透明性を帯びたやさしい語彙、彼が生涯愛好した軽井沢の高原の風のような、淡く儚い詩語の調べ。

詩を書き始めた青少年が、一度は道造の詩の洗礼を受けると言われても不思議ではありません。かくお話しする私も、大学生の頃、道造の詩集を(たずさ)えて、学校帰りに公園のベンチに寝そべり、意味もわからないまま頁を繰って無為なひと時を過ごしたことがありました。

それはこんな詩でした。

 

      草に寝て          立原道造

            六月の或る日曜日に

 

     それは 花にへりどられた 高原の

     林のなかの草地であった 小鳥らの

     たのしい唄をくりかえす 美しい声が

     まどろんだ耳のそばに きこえていた

 

     私たちは 山のあちらに

     青く 光っている空を

     淡く ながれてゆく雲を

     ながめていた 言葉すくなく

 

     ――しあわせは どこにある?

     山のあちらの あの青い空に そして

     その下の ちいさな 見知らない村に

 

     私たちの 心は あたたかだった

     山は 優しく 陽にてらされていた

     希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだった


                        (この稿続く)

| 立原道造 | 15:38 | comments(0) | trackbacks(0)
SEARCH THIS SITE.
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
CATEGORY
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE