八木重吉 9

1944(昭和19)年、登美子に転機が訪れます。神奈川県鎌倉市の歌人・吉野秀雄宅に家事手伝いとして入居、その年8月に母を失った4人の子の訓育にあたります。1947(昭和22)年10月、重吉没後21年目、登美子(43歳)、吉野秀雄(46歳)と再婚。

1948(昭和23)年、創元社より『八木重吉詩集』が刊行されました。この出版には夫である吉野秀雄の尽力がありました。また、1958(昭和33)年刊の『定本八木重吉詩集』(彌生書房)は吉野秀雄を中心に、登美子、吉野家の子供達の全面協力によって編纂されています。

 

八木重吉は30歳で早世した中原中也と同様、生前は無名の詩人でした。しかし、現代では詩を書く者でその名を知らない者はいません。それらはすべて吉野秀雄の精力的な啓発活動があったからです。言い換えれば、重吉の詩業を世に広めるために、天が登美子を吉野秀雄に会わせてくれたと思われます。思えば、登美子は数奇な詩的人生を送った人物ですね。

 

なお、恩師高田敏子先生の主宰詩誌の会員で、佐藤静子さんという方が、「八木重吉の詩碑」という一文を同詩誌に載せています。佐藤さんと八木重吉は遠い縁戚関係にあるそうです。この文章から吉野登美子という女性の人となりが偲ばれます。

「詩人・八木重吉の生家(東京都町田市相原町)は、私の家から歩いて三十分ほどの所で、その庭に詩『素朴な琴』を自然石に刻んだ詩碑があります。(略)三十数年の昔、小学生だった私に父が一篇の詩を読んでくれました。

わたしのまちがいだった/わたしのまちがいだった/こうして草にすわればそれがわかる

父は、この詩を書いたのは八木重吉という詩人で、となり村に生まれ、自分とは遠縁にあたる、と話してくれました。重吉から父にあてた手紙のあることもききました。それから私は、親しみをこめて重吉の詩を読むようになり、まもなく私は詩らしいものを書くようになりました。

昭和二十八年、父の主宰する短歌会が村の公民館で『八木重吉を偲ぶ会』を催しました。重吉の妻であったとみ子さんが、歌人・吉野秀雄の夫人となっておられ、当日、講演をされる吉野氏とごいっしょに見えました。中学生だった私は、こんな美しい人がまたとあろうかと、夫人をみつめていました。吉野秀雄氏が、重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け、とうたったのは、その頃のことだそうです。(略)毎年十月二十六日に、重吉の生家の墓前で行われる『重吉忌』に、とみ子未亡人が、お一人で、鎌倉からおいでになります。重吉を語られるとき、その昔、重吉を恋した十七歳の少女のままに、初々しく美しくいらっしゃいます」


登美子は若くして天涯孤独になりましたが、亡夫の遺徳と詩がいつも身近にありました。

詩のある人生が、彼女を支えたといっても過言ではないでしょう。

歌人吉野秀雄という二人目の伴侶と出逢ったのも、登美子が詩人の妻であったことと無縁ではありません。吉野登美子の生涯が証しているように、詩は必ず自分を支える人たちと巡り逢わせてくれます。

登美子の生きた昔も、私達の生きる今も、女性がこの猥雑な世の中で一人で生きて行く重さに変わりはないでしょう。

しかし、人間は一人ではありません。心のどこかで誰かと繋がっているから生きていけるのです。

                         (完)


【メモ】吉野 登美子190524 – 1999212日)新潟県高田市生。

旧姓島田登美。1916年父と死別し、翌年上京。1921年、女子聖学院女学部3年級の編入試験に合格。その際、勉強をみてくれた東京高等師範学校在学中で当時無名の詩人・八木重吉と知り合う。翌1922年、病気により同校を中途退学。719日、17歳で八木重吉と結婚、2児を得る。結婚生活4年目に夫・重吉は結核に冒され、19271026日、29歳で昇天。

のち1937年に桃子(14歳)が、1940年に陽二(15歳)が重吉と同じ病いで昇天。

1947年、歌人・吉野秀雄と再婚。1967年、夫・秀雄逝去。1999年、94歳で昇天。


| 八木重吉 | 22:59 | comments(4) | trackbacks(0)
八木重吉 8

【追記】吉野登美子について

八木重吉の妻、吉野登美子は女学校に入るために家庭教師の必要を感じ、その際、知人を介して紹介されたのが、当時、高等師範学校の学生であった八木重吉でした。登美子14歳、重吉22歳でした。

重吉が家庭教師となった、この受験勉強はわずか一週間でした。重吉が英語教師として神戸に赴任することになったからです。

この後、重吉は登美子のことが忘れられず、二人の間で文通が始まります。そして、3年後、肋膜炎を患っていた登美子を「必ず自分の力で教育して病気を治す」と兄を説得して結婚します。登美子はまだ17歳でした。(写真は、1922(大正11)年婚約時の重吉と登美子。吉野登美子『琴はしずかに』より転載)

 

結婚前の登美子に宛てて書かれた重吉の熱烈な手紙が、吉野登美子著『琴はしずかに』(弥生書房)に紹介されています。

「月見草のような少女! あなたは、自らをこうたとえられております、バラの華さのない淋しいけれど、それよりも幾倍美しい月見草のような少女! そうです、これこそ私が第一にあなたから受けた印象であります。

懐かしい想出の種となった池袋で、一所に勉強した、あのとき、私は、不思議な魅力を感じました、あなたの額はあの希臘(ギリシャ)の彫刻に見る聡明さがあらわれておりました。あなたの静かに静かに澄んだ瞳は、波跡すらない森厳な湖のように、限りない神秘と、悲しさを物語っておりました、そしてあなたの唇は! ああ、私が忘れようとして忘れ難いのはその美しい、けれども哀しさに充ちあふれたその唇であります、ダヴィンチの名画モナリザの唇のあたりにただよう不可思議な魅力を、私は、あなたの、秋の雨にぬれて嘆くようにつつましく閉じた美しい唇に感じたのでした、私は、直覚的に、あなたを、〈哀しみある〉少女とおもいました、そして、きっときっと何等かの信仰の光によって、その哀しみをとおして、美しい心の生活をなすっておられるにちがいないと信じました。(中略)

音楽学校は御止めですって? いったいどうなすったのですか、どんな事情で御止めになったのですか? 勿論こみ入った事情が御ありでしょうが、私の様な者でも御相談になって甲斐のあるものならばどうぞきかせて下さい。」


この「ラブレター」について登美子は遺稿集『琴はしずかに』の中で、こう綴っています。「これを読んで私はじつのところびっくりしていた。家庭の事情で音楽学校へ進みたいという希望を止めなければならないことを私は手紙に書いていたが、ここにも見られるとおり、ただ一週間を教わっただけで、私の家族のことなど詳しく話したこともなかった。それなのにこの単刀直入には、何かめまいさせるものがあった。」

 

まさに重吉の一目惚れでした。結婚後は、重吉は教師として収入が安定し、二人の子供に恵まれ申し分のない結婚生活でした。しかし、この幸福な日々は長くは続きませんでした。

結婚5年後、重吉が当時不治の病だった肺結核で倒れると、後を追うように重吉の死後10年目に愛娘の桃子(享年14歳)、それから3年後に息子の陽二(享年15歳)がみまかります。

(写真は、右から登美子、桃子、陽二。吉野登美子『琴はしずかに』より転載)

 

登美子は家族のすべてを失ってたった一人になってしまいました。

1942(昭和17)年、知人の教会員の勧めで重吉が入院していた病院の事務員となりました。

傷心の登美子を支えていたのは、「桃子、陽二が成人したら親子三人で八木の詩集を出したいと願っていたが、二人とも死んでしまったいま、是非とも詩集をつくらなくては、とそればかり考えている」という一念でした。


登美子のこの願いは思いがけない形で実ります。詩壇の重鎮、高村光太郎が「八木重吉の奥さんが原稿を持って歩いて苦労しているが、詩集を出してやってくれないか」と出版関係者に働きかけてくれたのでした。待望の詩集『貧しき信徒』は1942年(昭和177月に刊行されました。

 

登美子が家族に先立たれて一人になったのは、1940年(昭和15)。だんだん戦争の影が色濃くなって来る時代でした。その困難な時局の中で女性が一人で生きて行くことは、現代の厳しい経済情況のもとで生きることにも匹敵するような大変さがあったと思います。

しかし、登美子はいつも重吉の遺徳に守られていました。例えば、ある日、盲腸炎で入院した時、病棟の二人部屋を特別に一人で使わせてもらい、無菌者用の病棟には入ってはいけないのに、院長や婦長の留守に他の病棟の患者が見舞いに来てくれました。

「まことにとるに足らぬ私であるが、八木重吉の妻というだけで、詩集をお読み下さった患者さんや職員の皆さんが、これほどまでに親切にして下さる。私はこのときつくづくと、八木の遺した言葉に守られて、これまで生きつづけることができたのだと、詩人の妻としての幸せをしみじみとかみしめたのである。」(『琴はしずかに』)

                        (この稿続く)


| 八木重吉 | 18:00 | comments(0) | trackbacks(0)
八木重吉 7

   雨

 

   雨は土をうるおしてゆく

   雨というもののそばにしゃがんで

   雨のすることをみていたい

                          詩集『貧しき信徒』1928年


     

 

   雨のおとがきこえる

   雨がふっていたのだ

 

   あのおとのようにそっと世のためにはたらいていよう

   雨があがるようにしずかに死んでゆこう

                          詩集『八木重吉詩集』1942年

 

前者の「雨」は、大岡信の解説(『折々のうた 第8巻』岩波新書)があるのでご紹介します。

 

彼の自然現象への敬虔な接し方には、日本人がキリスト信仰を得た時に示す自然把握の最も純粋な表現の一つがある。この詩(中略)に現れる雨は、雨であって単なる雨ではない。

それでいてこれは雨以外の何物でもない。

 

では、この雨は何を象徴しているのでしょうか。私見では、重吉がイメージしている「神の愛」というものかも知れないと理解しています。干からびた自然を、乾いた人の心を、万物を潤す慈愛のような雨のやさしさです。

 

後者の「雨」は、重吉の遺言のような響きがあります。

詩の形を取った、敬虔なキリスト者の信仰告白と受け取っていいでしょう。

この2篇共、どこにも「神」や「祈り」といった宗教用語は出て来ません。

神、愛、信仰という絶対的な言葉を使わず、「木」「草」「雨」という日常慣れ親しんだ平明な言葉を、純化させ、意味を凝縮させ、深くイメージ化した所に、重吉が他のキリスト信徒の詩とは比べようのない不滅の価値を、今日まで持ち続けて来たと私は確信しています。

なお、八木重吉の妻、吉野登美子について次回のブログで補足したいと思っています。

                       (この稿続く)

 

【メモ】八木 重吉189829 – 19271026日)東京都町田市生。

神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)を経て、東京高等師範学校の英語科を1921年に卒業。兵庫県の御影師範学校(現・神戸大学)、次いで1925年から千葉県の柏東葛中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)で英語教員を務めた。神奈川県師範学校在学時より教会に通いだすようになり、1919年には駒込基督会において富永徳磨牧師から洗礼を受けた。1921年に将来の妻となる島田とみと出会う。この頃より短歌や詩を書き始め、翌年に結婚した後は詩作に精力的に打ち込んだ。1925年には、刊行詩集としては初となる『秋の瞳』を刊行した。

同年、佐藤惣之助が主催する「詩之家」の同人。この頃から雑誌や新聞に詩を発表するようになったが、翌年には体調を崩し結核と診断される。茅ヶ崎で療養生活に入り、病臥のなかで第2詩集『貧しき信徒』を制作したが、出版物を見ることなく、翌年、29歳で病没。

重吉と妻のとみの間には桃子・陽二という二人の子供がいた。その二人も重吉と同じく結核で1937年に桃子が、1940年には陽二が相次いで夭逝。残されたとみ(登美子)夫人は、後に詩人の吉野秀雄と再婚し、1999年に亡くなった。

1984年には、故郷の町田市に八木重吉記念館が開設されている。

                              (ウィキペディアより)


| 八木重吉 | 14:12 | comments(4) | trackbacks(0)
八木重吉 6
 

      白い枝

 

     白い 枝

     ほそく 痛い 枝

 

     わたしのこころに

     しろい えだ

                   詩集『秋の瞳』1925年

 

か細い、白骨のような枝が、まるで自分の心に刺さっているかのような心象風景をうたっています。非常に感覚的であり、比喩的です。

詩は散文と異なり、直接表現よりも間接的、暗示的、比喩的表現を取るのが常道です。

その意味で重吉は詩の要諦を知悉し、優れた作品を生み出しました。

この「白い枝」も〈枝〉という比喩を通して、繊細な心の痛みを伝えています。


 

     彫られた 空

 

    彫られた 空の しずけさ

    無辺際の ちからづよい その木地に

    ひたり! と あてられたる

    さやかにも 一刀の跡

 

詩集『秋の瞳』1925年

 

作品の背景には、旧約聖書に記された天地創造の物語があります。

神が(やいば)をふるって、彫刻のように空を刻み出したという、実にユニークな発想に基づいています。

(この稿続く)

| 八木重吉 | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0)
八木重吉 5

     冬

 

    木に眼が()って人を見ている

 

結核という不治の病を得て、重吉の感性はますます鋭利になり、詩情は透明さを深めたように感じます。樹木に眼が生まれているという発想は、ある意味、怪奇な印象を与えます。

しかし、重吉の詩心は、木と自分が完全に一体化するまで研ぎ澄まされ、ここで歌われた木とは、彼自身の病んだ魂そのものであるのかも知れません。そして、〈木の眼〉は、作者自身の厳しい行く末を見つめているように私には感じられてなりません。

 

     虫

 

    虫が鳴いてる

    いま ないておかなければ

    もう駄目だというふうに鳴いてる

    しぜんと

    涙をさそわせる

 

〈もう駄目だというふうに鳴いてる〉のは、病んだ重吉が虫の()を通して語る独白に違いありません。限りある(おの)が命を見据えて、自然に秋の虫の音に感情移入したものと思われます。

私はこの詩を読んで、闘病の中で無数の佳品を生み出し続けた、高見順を思い起こしました。

                       (この稿続く)

 


| 八木重吉 | 18:01 | comments(0) | trackbacks(0)
八木重吉 4
 

     素朴な琴

 

    この明るさのなかへ

    ひとつの素朴な琴をおけば

    秋の美くしさに耐えかね

    琴はしずかに鳴りいだすだろう

詩集『貧しき信徒』1928年

 

八木重吉の代表作として教科書にも掲載されている詩です。

この作品は、重吉没後に刊行された詩集『貧しき信徒』に収められています。

重吉は結核療養中に、第二詩集上梓のため詩稿を選別し夫人に清書させました。遠縁の作家で新潮社の編集者加藤武雄の尽力で、死の翌年に野菊社より刊行されたのが、『貧しき信徒』です。

タイトル中の、〈貧しき〉とは、心が貧しいとか、さもしいとか、の意味ではなく、心が控えめで邪念がない、清純という意味あいです。

 

この作中の、秋の静謐の中で鳴り響いているのは、重吉自身の豊かな感性でしょう。

鋭い詩性が、物に触れて詩を生む出す機微を伝えたものとして私は受け取っています。

3行目の〈耐えかねて〉という言い回しは、例えば、暴言に耐えかねて激怒した、というように、普通、マイナスのイメージで使われるのですが、明るいイメージで表現されたのは、非常に新鮮だと、詩人川崎洋が賞揚しています。

                        (この稿続く)


| 八木重吉 | 10:08 | comments(0) | trackbacks(0)
八木重吉 3

     貫ぬく 光

 

    はじめに ひかりがありました

    ひかりは 哀しかったのです

 

    ひかりは

    ありと あらゆるものを

    つらぬいて ながれました

    あらゆるものに 息を あたえました

    にんげんのこころも

    ひかりのなかに うまれました

    いつまでも いつまでも

    かなしかれと 祝福(いわわ)れながら

                   詩集『秋の瞳』1925年

 

 この詩は、敬虔なキリスト信徒であった八木重吉が、新約聖書のヨハネ伝冒頭の「初めに(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」の聖句を下敷きにして書いたものです。

 

聖書中の〈(ことば)〉という箇所を、重吉は〈哀しみ〉に置き換えて彼独自の信仰詩を創作しました。この詩の独創性は、人の在り方の原点を〈哀しみ〉と捉えている所にあります。

人間の心も光(=哀しみ)の中に生まれ、いつまでも哀しかれ、と祝福されていると訴えています。

なお、〈哀しみ〉にまつわる重吉の象徴的なエピソードがあります。

重吉の処女詩集『秋の瞳』を読んで感動した詩人草野心平が、当時千葉県(かしわ)市に住まいしていた重吉を訪れたことがあります。

 

その夜私は泊まった。そして彼が基督信者であること、読売の新刊紹介欄を切り抜いてノートにはりつけておくこと、まんまるい子供が二人いること、暖かい家庭であることなどを知った。サイダーの壜につばきの花がささっていた。

家庭はいかにも温暖そうなのに彼の顔は(みぞれ)のようにさびしそうだった。それがひどく印象にのこった。                       八木重吉詩集「覚え書」

 

この頃、重吉は一男一女に恵まれた満ち足りた家庭生活を送っていました。しかし、彼の顔は「霙のようにさびしい顔をしていた」と、草野心平は鋭く観察しています。

重吉は、いつも人間のさびしさや哀しみを見つめていた人だったと思います。

他人の痛みを自分の痛みのように感じて哀しむ人  それが詩人としての資質でしょう。

そこに私は重吉の詩人の魂を感じるのです。

                       (この稿続く)


| 八木重吉 | 11:02 | comments(0) | trackbacks(0)
八木重吉 2

  草に すわる

 

わたしのまちがいだった

わたしの まちがいだった

こうして 草にすわれば それがわかる

    詩集『秋の瞳』1925年

 

重吉の詩の特徴が顕著に現れた詩です。「心の一瞬のゆらぎの中にひらめく永遠的なるものを追い続け」(大岡信『続折々のうた』岩波新書)と評される通り、物の本質を感覚的、直感的に捉えた短い表現から成り立つ様式です。

〈わたしの まちがいだった〉という行と、〈こうして 草にすわれば それがわかる〉の行の間には、論理的な繋がりはありません。極めて主観的、いや生理的といってよいほどの飛躍があります。この(へだ)たりを理屈抜きに受け入れ、共感できる者だけが重吉の読者になれるのです。

 

私が冒頭で、「重吉の詩の魅力と(あや)うさ」と呼んだのはこのためです。

彼の詩の多くはこのような短詩で占められているので、読者によって愛好するか否かが、はっきりと別れるのに違いありません。

恩師安西均先生が、詩人石原吉郎との対談で、石原吉郎が八木重吉はきらいだという発言を受けて次のように語っています。

 

実は、僕も正直に言うと、八木重吉はあまり好きじゃない。それは、彼の信仰内容をどうのというものではなくて、あくまで彼の詩のスタイルの問題ですけれどね。いわば、フラグメント、断片なんですよ、あの人の書いている大部分は。メモとか、ノートに類するものが多くて、それが詩として評価されている面が多いような気がしますね。文学として見る場合の、もの足りなさみたいなものがつきまとうわけ。

 

重吉には3千篇近い作品がありますが、多くは断片といっていい短詩です。

言葉の断片を詩と見るか、詩未満のものとみるかは、読者次第ということです。

そこから、上記のような発言が生まれたのでしょう。

なお、谷川俊太郎がこの詩に触発されて「間違い」(詩集『日々の地図』)という詩を書いています。


   間違い     谷川俊太郎

 

 わたしのまちがいだった

 わたしの まちがいだった

 こうして 草にすわれば それがわかる

 

 そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)

 そんなにも深く自分の間違いが

 府に落ちたことが私にあったか  (後半部省略)


                    (この稿続く)


| 八木重吉 | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0)
八木重吉 1

八木重吉と言えば、クリスチャン詩人の第一任者として評価されています。

代表作「素朴な琴」をはじめ、彼の詩はキリスト教信仰詩の華として知られています。

影響力は大きく、キリスト教信者が詩を書く場合、ほとんどの人がエピゴーネン(模倣者)となっています。

 

東京・町田市に生まれた重吉は、師範学校時代に教会に通い、後に内村鑑三の影響を受けました。24歳で詩を書き始め、28歳で結核を発症。29歳で早世しているので、わずか5年の間に全作品3千篇が結実しました。

重吉には一男一女の遺児がいました。が、彼の死後この子供たちも同じ病いで、十代で夭折しています。家庭内で感染があったのでしょう。当時としてはあまり珍しくなかったことかも知れませんが、何とも哀切に思われます。

 

重吉の妻は旧姓、島田とみ子。重吉の没後、再婚して吉野登美子となりました。実は、吉野登美子は歌人としても著名です。というのは、彼女の夫は吉野秀雄といい、短歌結社のひとつであるアララギ派の屈指の歌人なのです。そして、重吉の遺稿を詩集を出版するにあたって尽力した人物でもあります。重吉の妻も実に不思議な運命の持ち主と言わざるを得ません。

(註:「アララギ」とは「塔」という漢字の古い読み方)

 

余談ですが、私は中学校の折、血沈検査を受けたことがあります。

クラスで私だけが名を呼ばれて、45人の校内生と共に病院に引率されました。その時分は事情がよくわからなかったのですが、後年、あれは私に結核の疑いがあったのだと合点しました。もし私が戦前に生まれていたら、発病の可能性があったかも知れません。肺結核で亡くなった文学者を知る度に、ひと事ではない感慨に襲われます。

 

私も若い日に八木重吉を知り、信仰を持たない身でありながら、その至純で敬虔な作風に感化されて、一途にのめりこんだ経験があります。詩の初心者が初めて重吉の作品に触れたら、その衝撃は強烈なものだと推測されます。しかし、心の高揚期を過ぎるとたわいもなく忘れてしまったのも事実です。

これは私の個人的経験ですが、ここには重吉の詩の魅力と(あや)うさを象徴していると思います。

 

このブログでは信仰者八木重吉を語るのではなく、文学者としての評価を重視しながら読み解いていきたいと思います。

                      (この稿続く)


| 八木重吉 | 14:21 | comments(0) | trackbacks(0)
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