山之口貘 8
 

  首

 

はじめて会ったその人がだ

一杯を飲みほして

首をかしげて言った

あなたが詩人の貘さんですか

これはまったくおどろいた

詩から受ける感じの貘さんとは

似ても似つかない紳士じゃないですかと言った

ぼくはおもわず首をすくめたのだが

すぐに首をのばして言った

詩から受けるかんじのぼろ貘と

紳士に見えるこの貘と

どちらがほんものの貘なんでしょうかと言った

するとその人は首を起こして

さあそれはと口をひらいたのだが

首に故障のある人なのか

またその首をかしげるのだ


貘は、ポケットに一文もない時も、沖縄民謡をいい調子で唄い、「今日はお金があるからごちそうしよう」というので誘われてみると、勘定が足りず、ごちそうされる人がごちそうするはめになりました。

でも、貘におごった人は、逆に貘にすっかりおごられたような、実に豊かな気持ちになったそうです。生涯、借金につぐ借金で、首がまわらず、普通ならいじけてしまう所ですが、誰よりも貧乏したのに、心は王侯のごとしという、不思議な気品がありました。

町で、飲み屋で、喫茶店で、新しい友があまた広がっていったのです。そんな貘に与えられた尊称は、〈精神の貴族〉。写真を見ると、20近く放浪生活を送った者とは信じられない、まるで大学教授か、哲学者のような瞑想的な風貌です。         (完)

                           

【註】山之口貘のエピソードは、茨木のり子『うたの心に生きた人々』の記述を引用しました。


 【メモ】山之口 貘1903911 – 1963719日)沖縄県那覇市生。

第百四十七銀行沖縄支店勤務の父・重珍、母カマト(戸籍名トヨ)の三男として生まれる。童名は、さんるー。

1917(大正6)年4月に沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)に入学。

学校では標準語を用いる様に指導されたが反発してわざと琉球語を用いた。1918(大正7)年から詩を書き始める。ウォルト・ホイットマン、島崎藤村、室生犀星の詩を読んだ。また大杉栄の影響を受けた。

1921(大正10)年に一中を退学。1922(大正11)年の秋に上京して日本美術学校に入学。

一か月後に退学。1923(大正12)年の春に家賃が払えなくなって下宿屋から夜逃げをし、一中の上級生の友人と駒込の家に移住する。同年91日に関東大震災で罹災し無賃で機関車と船に乗って帰郷。父が事業に失敗し自宅も売却されて、家族は離散。石川啄木、若山牧水の歌、ラビンドラナート・タゴールの詩を読む。1924(大正13)年の夏に再び上京。

1926(大正15/ 昭和元)年から書籍取次店店員や汲み取り作業員等の様々な仕事を勤め、家が無いので公園や知人の家で寝泊りした。同年11月に佐藤春夫と知り合う。1927(昭和2)年、佐藤から高橋新吉を紹介される。1929(昭和4)年から東京鍼灸医学研究所の事務員になる。1930(昭和5)年に知人宅に住まわせて貰う。

1931(昭和6)年に『改造』4月号で初めて雑誌で詩を発表。以降は様々な雑誌に詩を発表。1932(昭和7)年に金子光晴と知り合う。1933(昭和8)年、貘をモデルとした佐藤春夫の小説『放浪三昧』が脱稿される。1936(昭和11)年に鍼灸医学研究所を辞職。半年ほど隅田川のダルマ船に乗る。1937(昭和12)年10月に金子光晴の立会いの下で見合いをして同年12月に安田静江と結婚(婚姻届提出は1939(昭和14)年10月)。1938(昭和13)年8月に初の詩集『思弁の苑』を発表。寡作なので編むのに時間を要した。

19396月から東京府職業紹介所(職業安定所)に勤める。1940(昭和15)年12月、第二詩集『山之口貘詩集』を発表。1944(昭和19)年12月、妻静江の実家茨城へ疎開。1948(昭和23)年3月に紹介所を辞職し以降は執筆活動に専念。同年に火野葦平と知り合う。

1958(昭和33)年7月、第3詩集『定本山之口貘詩集』を発表(翌年、同著で第2回高村光太郎賞を受賞)。同年116日に34年振りに沖縄に帰郷。首里高校で帰郷記念の座談会が行われた。1959(昭和34)年16日に東京の自宅に帰る。

胃癌を発病して19633月に入院、同年716日、手術後の719日に59歳で死去。

葬儀委員長は金子が務めた。墓地は松戸市の八柱霊園。法名は、南溟院釋重思。

1963年、死の直前、全業績で沖縄タイムス賞。1964(昭和39)年12月、第四詩集『鮪に鰯』刊行。

死後、山之口貘賞が設けられる。同賞は琉球新報創刊85年を記念して1978年に創設。山之口貘記念会と南海日日新聞社が後援。奄美を含めた琉球弧の文学活動振興の立場から、受賞対象者を沖縄周辺の出身者と限定。年間を通して優れた詩作品を発表し、詩活動を行った人を表彰している。                  (ウィキペディアより)




| 山之口貘 | 16:06 | comments(0) | trackbacks(0)
山之口貘 7
 

  求婚の広告

 

一日もはやく私は結婚したいのです

結婚さえすれば

私は人一倍生きていたくなるでしょう

かように私は面白い男であると私もおもうのです

面白い男と面白く暮したくなって

私をおっとにしたくなって

せんちめんたるになっている女はそこらにいませんか

さっさと来て呉れませんか女よ

見えもしない風を見ているかのように

どの女があなたであるかは知らないが

あなたを

私は待ち侘びているのです

                   詩集『山之口貘詩集』1940年

 

放浪生活の内に30歳を迎えた貘は結婚への憧れが急速に高まりました。

詩友や詩人・金子光晴の尽力で、1937(昭和12)年、満33歳で小学校長の娘・安田静江と見合い結婚で結ばれました。その後、一男一女に恵まれます。

なお、この結婚生活の詳細については、「愛の旅人――山之口貘と静江」(http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200703240107.html)をご覧下さい。


   

 

なんにもなかった畳のうえに

いろんな物があらわれた

まるでこの世のいろんな姿の文字どもが

声を限りに詩を呼び廻って

白紙のうえにあらわれて来たように

血の出るような声を張りあげては

結婚生活を呼び呼びして

おっとになった僕があらわれた

女房になった女があらわれた

桐の簞笥(たんす)があらわれた

薬罐(やかん)

火鉢と

鏡台があらわれた

お鍋や

食器が

あらわれた

                   詩集『山之口貘詩集』1940年

 

新婚生活も貧乏との悪戦苦闘でした。

結婚式も新婚旅行もなく、寝る布団もちゃぶ台さえもありませんでした。それでも、

「貧乏はしましたけれど、わたしたちの生活にすさんだものはありませんでした。ともかくも詩がありましたから……」という言葉が貘の喜びを語っています。

この作品は、今まで無一文・無一物だった貘が結婚を機に生活が一変し、次第に増えていく家財道具に戸惑い、歓喜している思いを素直にうたっています。

                      (この稿続く)


| 山之口貘 | 10:04 | comments(2) | trackbacks(0)
山之口貘 6
 

  ねずみ

 

生死の生をほっぽり出して

ねずみが一匹浮彫(うきぼり)みたいに

往来のまんなかにもりあがっていた

まもなくねずみはひらたくなった

いろんな

車輪が

すべって来ては

あいろんみたいにねずみをのした

ねずみはだんだんひらくたくなった

ひらたくなるにしたがって

ねずみは

ねずみ一匹の

ねずみでもなければ一匹でもなくなって

その死の影すら消え果てた

ある日 往来に出てみると

ひらたい物が一枚

陽にたたかれて()っていた

                   詩集『(まぐろ)(いわし)』1964年

 

私の二人の恩師、詩人・安西均、詩人で直木賞作家・伊藤桂一が主宰していた同人詩誌『山河』に、戦時中に発表された作品です。茨木のり子の評では、テーマは戦争による生命軽視。

検閲の厳しい時代でしたが、単なるネズミの詩として見過ごされました。後に貘は風刺詩の底を見抜けなかった検閲官僚を嗤っていたといいます。

交通事故でなく、戦争によって奪われた命が――人間の存在が平たく押しつぶされ、最後には〈死の影すら消え果てた〉過程を非情な眼で見つめた貘の代表作です。

この詩をもちろん反戦詩として読む必要はありません。この世のすべての不条理な死を、ねずみは象徴しているのです。

                       (この稿続く)


| 山之口貘 | 12:31 | comments(2) | trackbacks(0)
山之口貘 5
 

  座蒲団

 

土の上には(ゆか)がある

床の上には畳がある

畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という

楽の上にはなんにもないのであろうか

どうぞおしきなさいとすすめられて

楽に座ったさびしさよ

土の世界をはるかに見下ろしているように

住み馴れぬ世界がさびしいよ

                   詩集『思辨の苑』1938年


 

16年も土の上で暮らした者でなければ書けない詩です。

まるでレンガをひとつひとつ積み重ねるように、土の上には床、床の上には畳、畳の上には座蒲団と畳み掛けて、座蒲団の上に〈人〉とはならず、〈楽〉と言葉を据えた所に発想の飛躍があります。そして、楽の上にはもう何もないのか、と人間の心理を突き詰めた深い洞察力に脱帽の思いです。(写真は、練馬での貘一家。妻・静江、長女・泉。)

思えば、太古の昔から人間の生活は、土→床→畳→楽と進化し、快楽と利便性を追求し、その集大成が文明といってもよいでしょう。しかし、快楽の極限には空虚さだけが残ります。

深読みすれば、〈楽の上にはなんにもないのであろうかという貘のつぶやきは、現代文明への詩人の警鐘と取れます。

                       (この稿続く)



| 山之口貘 | 13:31 | comments(0) | trackbacks(0)
山之口貘 4
  妹へ送る手紙

 

なんという妹なんだろう

――兄さんはきっと成功なさると信じています。とか

――兄さんはいま東京のどこにいるのでしょう。とか

ひとづてによこしたその音信のなかに

妹の眼をかんじながら

僕もまた、六、七年振りに手紙を書こうとはするのです

この兄さんは

成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのです

そんなことは書けないのです

東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔をしています

そんなことも書かないのです

兄さんは、住所不定なのです

とはますます書けないのです

如実(にょじつ)的な一切を書けなくなって

といつめられているかのように身動きも出来なくなってしまい

 満身の力をこめてやっとのおもいで書いたのです

ミンナゲンキカ

と、書いたのです。

                   詩集『思辨の苑』1938年


この作品を読んで、渥美清主演の『男はつらいよ』の寅さんとその妹・さくらを思いだしたという人がいました。確かに、山田洋次監督は、寅さんのモデルを山之口貘からヒントを得たのではないかと思わせる哀切な感動が同映画にはあります。写真は、1925年、二度目の上京前に詩の仲間達と撮った記念写真です。右端にいるのが、22歳の若き日の貘ですが、隣のスーツ姿の友人に比べ、着古した感じの服が当時の困窮ぶりを物語っています。

                      (この稿続く)



| 山之口貘 | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0)
山之口貘 3
   処女詩集

 

『思弁の苑』というのが

ぼくのはじめての詩集なのだ

その『思弁の苑』を出したとき

女房の前もかまわずに

こえをはりあげて

ぼくは泣いたのだ

あれからすでに十五、六年も起ったろうか

このごろになってはまたそろそろ

詩集を出したくなったと

女房に話しかけてみたところ

あのときのことをおぼえていやがって

詩集を出したら

また泣きなと来たのだ

                   詩集『(まぐろ)(いわし)』1964年

 

34歳で第一詩集『思弁の苑』が出た時、貘は人目もはばからず、大声で泣いたそうです。

ルンペン時代も片時も詩稿だけは手放しませんでした。生活が苦しく、自殺しようかと思う時もありましたが、詩がまだたくさん書けそうな気がして思いとどまりました。

自殺した気になったら、人の嫌がるどんな仕事でもできるようになったと語っています。

最初は詩集上梓を喜んでいた奥さんも、長年の貧乏暮らしに疲弊し、再度詩集を出したいと持ちかけると、〈詩集を出したら/また泣きな〉と逆襲されたのも可笑しく、かつ同情を禁じ得ないものがあります。

 

貘は推敲の鬼でもありました。鼻歌まじりに書いたように思える詩でも、二百枚、三百枚の原稿用紙を書きつぶします。最適の言葉を求めて、原稿用紙をひき破り、ひき破り、出来上がった時は反古の中に埋まっていました。逼迫した家計では、原稿用紙代もばかにならなかったと思われます。

いい言葉が見つからず、苦しくなると、ついにはうなり出しました。

このように完璧主義者の貘は、当然、編集者泣かせでした。文末表現だけでも、

「というのだった→というのであった→と言ったのである→などと言うのであった」と何度も訂正を繰り返したのです。

(この稿続く)


| 山之口貘 | 17:35 | comments(0) | trackbacks(0)
山之口貘 2

  自己紹介

 

ここに寄り集まった諸子(しょし)

先ほどから諸子の位置に就いて考えているうちに

考えている僕の姿に僕は気がついたのであります。

 

僕ですが?

これはまことに自惚(うぬぼ)れるようですが

びんぼうなのであります

                   詩集『思辨の苑』1938年

 

「諸子」というわざと大仰で改まった言葉を使って、ユーモラスな味わいをかもし出すのが貘の詩の特徴です。「〜であります」という軍隊風の言い回しも、貘の独特の表現です。

〈まことに自惚れるようですが/びんぼうなのであります〉の章句は、作者の最底辺の生活を知らない者にはずいぶんと気どった印象を持たれるかも知れません。

しかし、16年も畳の上で寝たことのなかった貘の生涯を思うと、これは掛け値なし、ぎりぎりのプライドをかけた言葉だったことがわかります。

                     (この稿続く)


| 山之口貘 | 15:50 | comments(0) | trackbacks(0)
山之口貘 1

私が初めて山之口貘の詩に出会ったのは、学生の頃でした。

時代は70年代、学生運動やベトナム戦争で世の中は騒然とした空気に包まれていました。

和製フォークソングも盛んで反戦歌やプロテストソングと呼ばれる反社会的な歌が一世を風靡しました。

だからでしょう、社会の規範を超越するような破天荒な生き方をした、山之口貘の詩は当時の若者の間で大いに人気がありました。若き日の私も友人から貘の詩を教えられ、たちまち(とりこ)になりました。

 

フォークソングに血道をあげていた私は、貘の「数学」という詩を友人とアレンジして作曲し、音楽コンテストで歌ったのも今では懐かしい思い出です。

しかし、作者の境涯について詳しいことは無知でした。この度、改めて調べてその貧乏暮らしのすさまじさに圧倒されました。

 

貘は沖縄で、銀行の支店長を父親に持つ裕福な家庭に生まれました。が、父がかつおぶし工場の経営に失敗。銀行支店長として貸した金も焦げ付きました。

家が傾き、学費が払えず中学校を4年で中退。沖縄で食い詰めて19歳の秋に上京しました。ところが、翌年関東大震災に遭い、ほうほうの体で沖縄に帰ります。

字を書けない沖縄遊女の代筆で飢えをしのぎました。大正14年秋、詩稿の入ったトランクをかかえて、再度上京。これが16年に及ぶ放浪生活の皮切りとなりました。

芝浦の土管、公園や駅のベンチ、銀座のキャバレーのボイラー室、が仮の住まい。

仕事は何でもやりました。書籍問屋の発送、暖房工事人夫、ニキビ・ソバカス薬の通信販売、ダルマ船の鉄くず運搬、おわい屋(汚物処理・清掃業)。

 

住所不定・無職。警官の不審尋問から逃れるため、佐藤春夫に保証人になってもらいました。一筆、(したた)めた紙には、「このものは詩人で、善良な東京市民である。 佐藤春夫」はインテリ用。警官の中には文学に疎い者がいるので、皇宮警察官の〈巡査詩人〉と呼ばれた同郷の友人に、「山之口貘氏は同郷の友人で、身元いっさいを保証します」と書いてもらいました。

 

貘の生活に明るい日差しが洩れて来たのは結婚でした。結婚後も貧乏とは切っても切れない極貧生活でしたが、周囲の人達の支えで何とか(しの)いでいきました。

どんなに困窮を極めても詩稿の入ったトランクだけは肌身から放しませんでした。

その詩人魂は敬服に値します。貘が命より大事にした原稿は、2010年、沖縄県立図書館に遺族から寄贈されました。その数、7500枚余!
                      (この稿続く)

| 山之口貘 | 15:48 | comments(0) | trackbacks(0)
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