特別講座「詩人、石垣りんを語る」を開催

先日の土曜日、詩人・石垣りんの人と詩業を語る特別講座を開きました。石垣りんは下積みの銀行員として定年まで全うし、生涯独身でした。働く女性の 本音を吐露し、家族、職場の人間関係と終生向き合った詩は、世の多くの共感を得ています。没後12年、本人に直に触れた体験を基に石垣りんの素顔と詩の本質を明らかにするものでした。
中国新聞文化センタークレドビル教室にて、広島大学大学院の西原大輔教授と対談形式で進め、朗読家の阿部律子さんに詩を朗読していただきました。
おかげさまで20名を越える参加者があり、石垣りんの代表作を語り合うひと時に、足を運んでいただいたことをありがたく思いました。

 

次回(全2回)は11月26日(土)を予定しています。関心をお持ちの方は同センターまでお問い合わせ下さい。

 

【メモ】石垣 りん 大正9・2・21〜平成16・12・24(1920〜2004)。詩集『表札など』(1968年刊・第19回H氏賞)、『略歴』(1979年刊・第四回地球賞)、散文集『ユーモアの鎖国』(1973年刊)『焔に手をかざして』(1980年刊)。
1920年(大正9)東京・赤坂生。生家は薪炭商と牛乳屋を営む。4歳の時、関東大震災で母を亡くす。後妻に迎えた母の妹も、30歳で逝去。3人目の母は 17歳の時、離婚。4人目の母は、定年前年の1974年死去。

昭和9年(1934)高等小学校卒後、日本興業銀行へ事務見習(給仕)として入行。少女時代 から、文芸誌の投稿、同人雑誌発行と、書くことと読むことに熱中。病弱の父のため石垣りんの定収入が一家の大黒柱となり、定年まで一銀行員として勤め上げる。

 

 

| 詩の教室 | 11:42 | comments(0) | trackbacks(0)
長田弘 1
第1話 食卓一期一会

2015年5
月に亡くなった詩人長田弘(おさだ ひろし)
()は、半世紀に及ぶ詩暦の中で18冊の詩集を編みました。没後、「われら新鮮な旅人」(1965年)から「奇跡ミラクル」(2013年)までの18冊の詩集を収めた「長田弘全詩集」が刊行されました。長田弘の詩は、「長田さんの詩は明晰で言葉の密度が濃い」(梅原猛)と定評があります。饒舌な詩的言い回しはなく、「天声人語」でも指摘されているように、示唆や含蓄に富む言葉が簡潔に置かれています。
また、各詩集が音楽、料理というように一冊ごとにテーマが設けられていることも特性のひとつです。今回取り上げた『食卓一期一会』(1987年刊行)は、66種類の料理のレシピを基に作られたユニークな詩集で、刊行時、朝日新聞の天声人語でも紹介され、「日本の詩はここまで、料理をつくることをとおして詩を語るところまで来た」と絶賛され話題となりました。



      言葉のダシのとりかた
                        長田  弘


       かつぶしじゃない。
     まず言葉をえらぶ。
     太くてよく乾いた言葉をえらぶ。
     はじめに言葉の表面の
     カビをたわしでさっぱりと落とす。
     血合いの黒い部分から、
     言葉を正しく削ってゆく。
     言葉が透きとおってくるまで削る。
     つぎに意味をえらぶ。
     厚みのある意味をえらぶ。
     鍋に水を入れて強火にかけて、
     意味をゆっくりと沈める。
     意味を浮きあがらせないようにして
     沸騰寸前サッと掬いとる。
     それから削った言葉を入れる。
     言葉が鍋の中で踊りだし、
     言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら
     掬ってすくって捨てる。
     鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
     火を止めて、あとは
     黙って言葉を漉しとるのだ。
     言葉の澄んだ奥行きだけがのこるだろう。
     それが言葉の一番ダシだ。
     言葉の本当の味だ。
     だが、まちがえてはいけない。
     他人の言葉はダシにはつかえない。
     いつでも自分の言葉をつかわねばならない。



だしの取り方に重ねて、詩の作り方の大事なコツが書かれています。
私は恩師高田敏子先生から、詩の眼目は、「言葉は軽く、思いは深く」と教えられました。平易な言葉で人生の深い意味を描け、というメッセージです。
言葉を正しく削ってゆく。/言葉が透きとおってくるまで削る。/つぎに意味をえらぶ。/厚みのある意味をえらぶ。〉の詩句は、同じことを語っています。

〈他人の言葉はダシにはつかえない。/いつでも自分の言葉をつかわねばならない。〉とは、安易に流行の言葉や慣用表現を使わないこと、人の言葉をパクらないことへの戒めです。

調理法を通して詩を語る長所は、言葉が観念的、抽象的にならないことです。読者は常に、日頃の料理を思い浮かべながら、作者の思想を読んでいくので、詩の言葉がイメージ豊かで説得力があり、非常にわかりやすいのです。




      包丁のつかいかた
                       長田  弘


      輪切りにする二つに切って
     半月に切る
     小口に切るはすに切る
     拍子木にまた賽の目に切る
     切りあげる切りおとす
     切りぬく切りこなす切りちぢめる
     切りまぜ切りもどし切りわける
     切りさく切りそぐ切りころばす
     あられに切るみじんに切る
     薄切りにして重ねて千切りにする
     千六本に切る
     地紙切りにする短冊に切る
     切りさばく切りつめる切りほどく
     切りはたく切りとどめる
     切りとって切りひろげる
     切りならし切りそろえ切りくばる
     桂むきするたづなに切る
     ささがきに切る松葉に切る
     末ひろに切るいちょうに切る
     坊主百人の腹を切る
     きりりと切る刃をつけて引いて切る
     押さえて切るあっさりと切る
     ぱっぱと切るさくさくと切る
     ざくっと切るとんとんと切る
     よく切れるもので切る
     手捌きで切ること、そして
     たくみに平凡であること



「切る」という言葉の類語の豊富さ、作者の語彙力に感嘆します。
まるで早口言葉のようです。朗読にうってつけの作品と言えましょう。
最終行の〈たくみに平凡であること〉に作者のメッセージがあります。
                                   (この稿続く)

 
| 詩の教室 | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0)
画期的詩のガイドブック 『日本名詩選』が刊行される
 今春、恩師高田敏子生誕100年を記念して、高田敏子の詩業について対談を行った、広島大学大学院の西原大輔教授が『日本名詩選』を上梓されました。

前書きには、「今日、現代詩に関心をもつ人は、決して多くはありません。また、ほとんどの高名な詩人たちがすでに鬼籍にある現在の状況は、必ずしも詩にとって幸せなものとは言えないでしょう。詩歌に冷たい風の吹きすさぶこの時代にあって、私は近代日本に生きた詩人たちが紡ぎだした魂の声に耳を傾け、その精華を本書に集大成することで、我が愛する日本に、一つの塔を打ち立てたいと心から願うものです。この三冊を通して、詩を愛好する人が一人でも増えることを、私は切望してやみません」と、この書にかけた著者の情熱が伝わってきます。

『日本名詩選』全三巻は、明治・大正・昭和の代表的な詩222篇を取り上げた、詩の百科事典とも言うべき労作です。編集から刊行まで8年の歳月を要して刊行の運びとなりました。本書の他に類を見ない特徴は、紹介された作品のすべてに懇切な鑑賞文と注釈が添えられていることでしょう。本書は、近現代詩研究の入門書としても活用でき、詩を学ぶ者にとって必携の書です。

精緻な解説の一例として恩師高田敏子の「靴」をあげてみます。

       小さな靴
                 高田 敏子

     小さな靴が玄関においてある
     満二歳になる英子の靴だ
     忘れていったまま二ケ月ほどが過ぎていて
     英子の足にもう合わない
     子供はそうして次々に
     新しい靴にはきかえてゆく

     おとなの 疲れた靴ばかりのならぶ玄関に
     小さな靴はおいてある
     花を飾るより ずっと明るい


引用が長くなりますが、この作品解説を以下に全文ご紹介します。

孫の靴に託して子供への愛情と未来への希望を語った詩。「おとなの 疲れた靴」と幼児の「小さな靴」が対比されている。一方、この詩には、娘喜佐への思いも託されている。
高田敏子にとって、「靴」は特別な思い入れのあるモノであった。詩人の次女高田喜佐(1941〜2006)は、靴のデザイナーとして知られ、ブランド「KISSA」と立ち上げた。娘が多摩美術大学を出て婦人靴メーカーに就職を決めた時、母敏子は、祖母と共に猛烈に反対した。高田喜佐『私の靴物語』によれば、祖母は「「女の子が靴を作るなんて、お嫁に行けなくなる!」とすごい剣幕だった」。実際次女は生涯独身を続けたのである。
その14年後に出版された高田敏子の詩集『むらさきの花』に掲載された詩「小さな靴」には、「花を飾るよりずっと明るい」と、一転して「靴」への暖かい眼差しが注がれている。この頃詩人は、娘喜佐の生き方を承認できるようになっていたのだろう。「子供はそうして次々に/新しい靴にはきかえてゆく」は、「満二歳になる英子」のことであるが、同時に、靴作りに情熱を燃やし続けている次女に対する、お母さん詩人の思いも込められているだろう。
「小さな靴」をはじめ、戦後の詩には家族愛をテーマとしたものが多い。一方、明治から戦前にかけての詩には、千家元麿や八木重吉等の例外を除き、子供への愛情を語った作品は少ない。何が相応しい主題かは、時代の価値観に大きく左右されると言えよう。       『日本名詩選3 昭和戦後篇』

詩を愛好する人なら、ぜひライブラリーに置いていただきたい名著です。一読をお奨めします。                     (笠間書院刊。全三巻、各巻とも1600円)


著者紹介:西原大輔(にしはら・だいすけ)
1967年(昭和42年) 東京に生まれる。
1989年(平成元年) 筑波大学比較文化学類卒業。
1996年(平成8年)  東京大学大学院総合文化研究科満期退学。
シンガポール国立大学、駿河台大学を経て、現在、広島大学大学院教授。学術博士。
著書に『谷崎潤一郎とオリエンタリズム』(中央公論新社、2003年)、『橋本関雪』(ミネルヴァ書房、2007年)、詩集『赤れんが』(七月堂、1997年)、『蚕豆(さんとう)集』(七月堂、2006年)、『美しい川』(七月堂、2009年)、『七五小曲集』(七月堂、2011年)、『掌の詩集』(七月堂、2014年)




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大倉昭美 3
第3話 ドラマのある会話 


     約束

 

 

     ハンドバッグからコンパクトを出して

     うつむいた眼の位置で開いた

     人前で化粧を直すという習慣を持たない私は

     コンパクトをあなたの前で開きをしたけれど

     鏡に顔を映せなかった

     掌(てのひら)につつむように閉じて ワイングラスの側に置いた

     あなたは何も言わなかった

 

     コンパクト大切にしています

     口に含んだワインをそっとのどに流してから言った

     女の人はみんなそうなのだろう?

     気に入ってくれてうれしいよ

     フォークに肉をさしながらあなたは答えた

     この図柄好きなの

     私もフォークに肉をさした

 

     今夜も山陰の海の色海の音の話をあなたはした

     暗い海に命を捨てた愛しい名前を幾度も口にして

     聞きあきた と叫ぶことが私にできたら

     しまおうとして照明に輝いたコンパクトに

     思わず きれいと呟いた

     きみにも銀が似合うと思ったから

     「きみにも銀が似合う」

     白いバラのつぼみの彫り込んであるコンパクトを

     それでも私はハンドバッグに入れたままにしている

     手帖をくりながら次の約束の日時を示したあなたに

     私はそのとき黙ってうなずいたのだから

 

                 *白バラのつぼみ……心にもない恋


 

不毛の男女関係をテーマにした斬新な作風で、詩集『あなたへの言伝(ことづて)』からの一篇です。

短編小説のような味わい。男から贈られたコンパクトという小道具を巧みに使って、進展のない情愛の行方を見つめる女性の、微細な心理の(ひだ)を活写しています。

 

〈今夜も山陰の海の色海の音の話をあなたはした/暗い海に命を捨てた愛しい名前を幾度も口にして〉という詩句は、男の見え透いた見栄を醒めた目で見つめる女性の表情まで浮び上がって来ます。

女の人はみんなそうなのだろう?/気に入ってくれてうれしいよ〉という男のセリフからは、クールで(おご)った心理が伺えます。「約束」の女性心理の冴えた筆の運びは作家的才能さえ感じさせます。

 

普通、男女の間に起こった出来事を時系列で叙述していくと、どうしても説明的要素が多くなるので、全体的に散文的な流れが出てしまうのはやむを得ないでしょう。

ところが、この作品は最後まで詩的緊張感を損なわずに完結しています。それは会話を巧みに使っているからです。

 

会話  中でも言葉が選びぬかれたセリフは、数語で複雑な情感を表現することができます。なぜなら、セリフには言葉使いの中に、性別、年齢、社会的地位、性格、心理、生活・家庭環境などを、説明抜きでさりげなく溶かし込めるからです。会話の第一の使命は、会話によって話者自身を語らせることでしょう。読者は会話から、その話し振りを通して、登場人物の全体像を瞬時に把握することができるのです。

                                (この続く)


 


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梶井基次郎『檸檬』 3
 第3話 『檸檬』の舞台

主人公が檸檬を買った「八百卯(やおう)」は2009年1月に閉店し、「丸善京都店」は2005年10月に閉店しました。梶井基次郎のいた頃の丸善は、1907年から三条麩屋町(ふやちょう)で営業し、1940年に河原町蛸薬師(たこやくし)へ移転しています。八百卯は寺町二条の角にあり、1879年創業の老舗果物屋。ビルになってからは2階でフルーツパーラーも営んでいました。1階の寺町通りに面したショーウインドウには、いつもレモンが飾られ、小説「檸檬」の説明書きも置いてあったそうです。当時の店内での梶井の様子を中谷孝雄は次のように伝えています。
(写真は、2008年頃の「八百卯」店先の様子。ウェブサイト「京都風光*梶井基次郎『檸檬』」より転載)
 
私たちは散歩の途中、よく丸善へ立寄つたものであつた。しかしここでも私は、ただざつと新刊の小説類に目をさらすだけであつたが、梶井はセザンヌだとか、 ゴッホだとかルノアールだとか、さういつた画集を棚から抜き出して、丹念に眼を通していた。そんな時の梶井は、もはやそこが丸善の売り場だといふことを忘 れたかのやうに、いつまでもそれらの画集に没入してゐるのだが、私は時間をもてあまし、こいつ厚かましい奴だなと、呆れもし、腹を立てもしたことであつ た。また時とすると彼は、西洋雑貨の売場の方へいつて、万年筆だとかナイフだとか鉛筆だとかポマードだとか香水だとか、そんなものを一つ一つ丹念に見てま はつてゐたが、その種のものに何の興味もない私は、またしてもぢりぢりさせられるばかりであつた。
                 『梶井基次郎』
(写真は、2005年10月、閉店を惜しむ客たちが京都の丸善書店にそっと残したレモン。店は「忘れ物」として文庫本「檸檬」と一緒に置いた。ウェブサイト「BOOK asahi.com」より転載)
 
この姿は、そのまま「檸檬」の主人公の姿と重なります。当時の丸善は書店としてだけではなく、一級の舶来品も数多く扱っていて、当時学生ながらに高級時計のウォルサム(アメリカ最古の懐中時計ブランド。リンカーン、川端康成も愛用)を袂(たもと)に入れるほどの趣味人であった梶井にとって、居心地のいい空間だったようです。
(写真は、2009年、丸善創業140周年記念として限定1400本のみ販売された万年筆「檸檬」。定価 39,900円 ペン先14金。ブログ「365Day's SKI MAD の日々」より転載)

 
なお、2015年春、丸善京都店は京都BALビル(中京区河原町三条下ル)に再出店することになりました。2005年に閉店してから10年。「ファンの声に応えて」オープンを決めたといいます。
                               (この稿続く)
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新聞コラム 第3回&第4回
 地元広島の中国新聞文化面の「緑地帯」というコラム欄に、4月17日から26日まで(20、21日除く)8回に亘り連載しましたので、順次、紹介していきます。新聞記事からスキャンして取り込んでいますので、画像が不鮮明な箇所はご容赦下さい。



      

            



       




        


                                 (この稿続く)


| 詩の教室 | 11:52 | comments(2) | trackbacks(0)
高田敏子生誕100年記念講座のご報告
 4月18日(金)、高田敏子生誕100年記念特別講座の第1回を開きました。開会前は何人くらいの方が足を運んで下さるのか不安でしたが、御蔭さまで20名を越える参加者に恵まれました。

講座は私と広島大学大学院の西原教授との対談で進行しました。合間に、プロの朗読家である阿部律子さん(広島市文化協会所属、朗読文学研究会「鈴音(すずね)の会」主宰者)による、高田敏子の代表作の朗読がありました。


なお、現在、中国新聞文化欄のコラム「緑地帯」に、「詩人高田敏子に学ぶ」というタイトルで、関連記事を毎日連載(日、月を除く26日まで)しています。
こちらも併せてご覧いただければありがたいです。







次回は、5月16日(金)(10:30〜12:00)に行います。興味を持たれた方はのぞいてみていただけるとうれしいです。
(写真は朗読中の阿部律子さん)











| 詩の教室 | 21:43 | comments(2) | trackbacks(0)
高田敏子生誕100年記念特別講座のご案内
 

1975(昭和50)年秋、大学生の私は詩人・高田敏子を知り、庶民的で温かな人柄に魅了されて詩を志すようになりました。私は26歳、詩人は61歳。爾来、高田宅に煩雑に出入りする師弟生活が始まりました。

時に、主宰詩誌『野火』では詩人訪問記の新企画を開始し、私も記事担当の一員に加わりました。高田先生と交遊の深かった詩人
――吉野弘、石垣りん、新川和江、田中冬二、他に小説家、翻訳者、画家など22人の多士済々の自宅を訪れ、インタビューを行いました。中でも、巨星・堀口大學とのインタビューは「生ける日本の詩史」に対面する思いで自分の貧しい詩観を揺すぶられました。(写真は自宅前の高田敏子。新宿歴史博物館企画展「諏訪の森の詩――高田敏子の世界――」図版より転載)

会員800人を擁する「野火の会」運営に、高田敏子は生命を削るような全力投球を続け、1989(平成元)年、主宰者の死去により会が解散するまでの23年間、『野火』(隔月刊)は141号に達しました。

今回の特別講座は、高田敏子生誕100年と没後25年に当たる本年を記念して企画しました。同講座では、恩師に師事した1975年から1989年の詩人の終焉まで15年間。『野火』と共にあった私の青春時代を中心に、高田敏子の人と詩業を明らかにし、恩師の詩塊を蘇らせたいと願っています。また、一般にはほとんど知られていない高田敏子の実像を晩年の詩を参考にしながら解き明かしていきます。なお、同講座は、高田敏子研究の第一人者である広島大学大学院教育学研究科の西原大輔教授の懇切な協力を得て対談形
式で進めます。


開講日時  10:301200 418日(金)「()り場のないやさしさ」

代表作「月曜日の詩集」の作品と晩年の詩を比較しながら、一般には知られぬ詩人の光と影――華やぎと孤独を明らかにしていきます。

516日(金)「高田敏子を支えた詩人たち」

高田敏子と深い交遊のあった詩人――安西均、吉野弘、石垣りん、堀口大學がインタビューの折に見せた素顔とエピソードを紹介します。(写真は西原大輔教授〈左〉と共に)

 

参加費(2回分)  5400円(一般) 4320円(会員)

 

お問い合せ・会場 中国新聞情報文化センター・クレドビル教室

         広島市中区基町6-78 そごうデパート基町クレド(パセーラ)10階

        082(962)4111



 

【メモ】高田敏子 東京・日本橋生。大正3916〜平成元・528191489)。旧制跡見女学校(現跡見学園中学校・高等学校)卒。

1949年、「若草」誌に投稿した「夜のフラスコの底に」で注目を浴びる。初期はモダニズムを追求したが、『月曜日の詩集』以降は女性の日常生活に根ざした平易な作風に変わり、マスコミから「台所詩人」「お母さん詩人」と称され、中田喜直他、数多くの作曲家が合唱組曲の詞として用いた。

三善晃の混声合唱組曲「嫁ぐ娘に」、「五つの童画」はいずれも芸術祭奨励賞を受けた。誰でも入れる全国規模の同人詩誌「野火」を主宰。会員数は常時800人を数えた。没後、『高田敏子全詩集』(花神社)を刊行

『月曜日の詩集』(第1回武内俊子賞)、『藤』(第7回室生犀星賞)、『夢の手』(第十回現代詩女流賞)。



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中原中也の人と詩業 18
 第18話 あゝ、ボーヨー、ボーヨー


精神の変調から回復した中也は、転居した晩年の鎌倉で穏やかな時を過ごしました。

鎌倉には、中也の文学を共有した旧友――小林秀雄、大岡昇平と、川端康成、島木健作らの『文学界』の同人達もいました。彼らとの交友の中で再生を期したのです。


昭和12(1937)年4月20日、中也は小林秀雄を誘って日本一の海堂を鎌倉・比企ケ谷(ひきがやつ)妙本寺に見に行きます。その日の印象を小林秀雄はエッセイ「中原中也の思い出」に記しています。


二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「あゝ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何だ」「前途茫洋さ、あゝ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は目を据え、悲し気な節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何と辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰り返し繰り返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事は出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った。

                   昭和24年『文芸』8月号「特輯中原中也」


海堂見物から数ヶ月後に書かれた第二詩集『在りし日の歌』の後書きにも〈茫洋〉という言葉が見られます。

「私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引蘢るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思っている。

扨(さて)、此の後どうなることか……それを思えば茫洋とする。

さらば東京! おゝわが青春!


中也は東京での行き詰まった生活を清算し、郷里で小説でも書いて、また気分が一新できたら上京する心づもりであったようです。私はこの「あゝ、ボーヨー、ボーヨー」という言葉に思い当たる経験があります。10年前、30年近く暮らした東京での生活を引き払い、父の介護のために帰郷した折でした。郷里での生活に全く見通しが立たず、人生的な背景は違っていても、中也の漠然とした不安の思いにかつての自分を重ねることができるのです。


運命は、中也を新しい世界に迎え入れてくれませんでした。同年10月、文也と同じ結核性脳膜炎を発病、入院したのです。皮肉にも、帰山予定の月でした。

                              (この稿続く)


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中原中也の人と詩業 17
 第17話 僕は月光派です


       泣くな心

 

     私は十七で都会の中に出て来た。

     私は何も出来ないわけではなかった。

     しかし私に出来るたつた一つの仕事は、

     あまり低俗向ではなかつた。

 

     誰しも後戻りしようと願ふ者はあるまい、

     そこで運を天に任せて、益々自分に出来るだけのことをした。

     そうして十数年の歳月が過ぎた。

     母はたゞ独りで(くに)で気を揉んでゐた。

 

     私はそれを気の毒だと思つた。

     しかしそれをどうすることも出来なかつた。

     私自身もそれで気を揉む時もあつた。

     そのために友達と会つてても急に気がその方に移ることもあった。

 

     そのうちどうもあいつはくさいと思はれた時もあつた。

     あとでは何時(いつ)でも諒解して貰へたが。

     しかしそのうち気を揉むことは遂に私のくせとなつた。

     由来憂鬱な男となつた。

 

     由来褒められるとしても作品ばかり。

     人間はどうも交際(つきあ)ひにくいと思われたことも(たま)にはあつた。

     それは誤解だとばかり私は弁解(これ)つとめた。

     さうして猶更(なおさら)嫌はれる場合もあつた。

 

     さうかうするうちに子供を亡くした。

     私はかにかくにがつかりとした。

     その挙句が此度(このたび)の神経衰弱、

     何とも面目ないことでございます。

 

     今もう治療奏効して大体何もかも分り、

     さてこそ今度はほがらかに本業に立返りたいと思つても、

     余後の養生のためなのか、

     まだ退院のお許しが出ず、

 

     日々訓練作業で心身の鍛錬をしてをれど、

     もともと実生活人のための訓練作業なれば、

     まがりなりにも詩人である小生には、

     えてしてひょつとこ踊りの材料となるばかり。

 

     それ芸術といふものは、()はば人が働く時にはそれを眺め、

     人が休む時になつてはじめて仕事のはじまるもの、

     人が働く時にその働く真似をしてゐたのでは、

     とんだ喜劇にしかなりはせぬ、しかしながら、

 

     これも何かの約束かと、

     出来る限りは努めてもをれど、

     そんな具合に努めることは、

     本業のためにはどんなものだか。

 

     たつた少しの自分に出来ることを、

     減らすことともなるではあるまいかと

     時には杞憂も起るなれど、

     院長に話すは恐縮であるし

 

     万事は前世の約束なのかと、

     老婆の言葉の味も味わひ、

     かうして未だに患者生活、

     「泣くな心よ、怖るな心」か。

                      未発表詩篇



「なくな心」は千葉市の中村古峡療養所入院中、「千葉寺雑記」に綴った詩篇です。
同雑記とは、療養所で使われた日記帖のことで、この日記帳は担当医師の検閲はなかったので、中也の心情が素直に描写されています。(写真は、千葉寺雑記。『別冊太陽 中原中也』より転載)



お変わりもありませんか。僕は子供を亡くしたのがつらくて一時頭が変になり一ケ月余り神経科に入院、それは一月から二月にかけてのことで、退院後直ちに家探しを始め、二月末に当地へ越して来たわけです。酒はやめてゐるのですが、時々貴兄と飲んで歌がうたつてみたい。鎌倉では友達にはまことにたまに会ふだけ。毎日読書三昧です。トマス・ハーディ、ジャック・ロンドン、ダウスン、ホフマン等を愛読しています。夜は早くから床に這入(はい)り、さういつた散文の夢に、ズルリ〜〜と引摺られてゐるのです。文庫も世間も、随分と遠くへスツとんでゐます。面白い作品を読む時は、ほんとに幸福に感じます。(中略)僕は自分を知りました。僕は夜曲派(妙な言葉なれども)です。夜曲派でわるければ月光派です。月光はいいものです。月光よりいいものはありません。もはや一生、さういふ気持ちから出ることはないでせう。今や僕は安んじて、月光の中にゐることが出来ます。そのほかのことは、知りません。いやなこつてす、世の中なんて、秩序の欠乏、非論理等に平然たる(やから)だけが世の中にゐるのに相違ありません。
今度の子供はよく太つてゐます。医者がほめたので嬉しいです。

                 
1937(昭和12)年6月9日、阿部六郎宛より抜粋


阿部六郎宛の手紙に記した退院直後の書簡の抜粋です。文末の「今度の子供」とは、長男文也の生まれ変わりのような次男の誕生を指しています。
〈月光派〉が意味する心境とは、悲劇が終わったあとの、不思議な心の静けさのようなものでしょうか。太陽と異なり命が生まれない月下の世界の、死んだような穏 やかさ。すべてを諦めた後に訪れた、虚無の平安に満たされた心には、冷たい月影だけが射し込むことができるのかも知れません。


精神の健康を回復した中也は、我が子の死に遭っても、自らの詩の進展や転換期と捉えました。いつでもどこでも如何なる状況にあっても詩人であったのです。
「天才とは自分自身であった人のことだ」とのモットーに生きた詩人の、背負った十字架の重さが、痛々しいほどです。凡夫の私には中也のように、24時間、詩人であることは到底不可能に思われます。

【参考文献】

・青木健編著『年表作家読本 中原中也』

『別冊太陽 中原中也』                                                             (この稿続く)


 

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