永瀬清子 10

 作品「月と二つの星の擦過」には、キリスト教関係のふたつの地名が登場しますので、まずサマリアで起こったことを聖書から要約してみます。

イエスが、現在のヨルダン川の畔りにあるサマリアという町を通りかかった折、イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っていた。そこへサマリアの女が水を汲みにきた。イエスは女に「水を飲ませてください」と言った。女は驚いた。なぜなら、ユダヤ人はサマリア人と仲が悪いからである。イエスは女に言った。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女はイエスの話に夢中になる。イエスはさらに、女のことを言い当てる。驚いた女は、イエスが救世主であると気づく。女は町に下り、サマリア人たちに、この人は自分のことを言い当てた救世主であると説明した。イエスは二日間、その町に滞在した。その間、サマリア人たちは、イエスを信じるようになった。

                   ヨハネによる福音書(第46節〜42節)

 

次にベタニア村での出来事を聖書から引用してみます。

さて、ファリサイ人(ユダヤ教信者)たちのある者が、自分と共に食事をしてくれるようにと、イエスに頼んだ。そこでイエスは、そのファリサイ人の家に入り、食事の座に横たわった。すると見よ、その町で罪人であった一人の女が、彼がそのファリサイ人の家で食事の座に横になっていると知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後方から彼の足元に進み出、泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自分の髪の毛でそれをいくども拭き、さらには彼の両足に接吻し続け、またくり返し香油を塗った。

しかし彼を招待した例のファリサイ人はこれを見て、自分の中で言った、「万が一にもこの人が預言者であったなら、自分に触っているこの女が誰で、どんな類の女か知り得たろうに。 この女は罪人なのだ」。

するとイエスは応えて、彼に対して言った、(中略)あなたは私の頭をオリーブ油で拭いてはくれなかった。しかしこの女は、香油で私の両足を拭いてくれた。このために、私はあなたに言う、この女のあまたの罪はもう(ゆる)されている。それは、この女が多く愛したことからわかる。少ししか赦されない者は、少ししか愛さないものだ」。

                    ルカによる福音書(第736節〜47節)

 

作者は、サマリアとベタニアでイエスに会った女性はこの私だ、と言っています。現実には到底あり得ない荒唐無稽の話ですが、永瀬清子という詩人の中では真実のことなのです。

ここはとても理解しがたい所なのですが、この点を述べた評論があるので紹介します。

永瀬清子は、自分の生命力を盛る景として、(略)洋の東西を問わず、古代へ、原初へ気持が向かっていく。ほかの詩集の中にも、紀元200年ごろの邪馬台国の卑弥呼や、新約聖書のマグダラのマリア、イザナギ・イザナミ神話の本歌取りの詩があるが、神話的な時間へと、ぐんぐんさかのぼり、そこに自分の居場所を見つけるのが、彼女の特徴のひとつだろうと思う。

                          井坂洋子『永瀬清子』五柳書院

 

宇宙を流れる無限大の時間と比べれば、私たち人間の生きる時間は、寸秒にも満たないものでしょう。まさに〈千年といってもつかのま、二千年といっても〉。

2千年前にエルサレム近郊のベタニア村で起こったことも、宇宙の尺度で考えれば、作者にとっては昨日の出来事にも等しいと言えるでしょう。だから、サマリアの女は私であると言っても、作者にとっては何ら不思議はないのでしょう。もし自分が2千年前に同じ地に生きて、イエスに触れていたら、聖書に記された女性達と同じようにイエスに水を与え、〈涙と香油のしたたりで〉イエスの足を清めただろうと信じているのです。

 

井坂洋子が語った「自分の居場所を見つける」とは、自分の詩塊を活かすに最もふさわしい時間、空間の意だと思います。たとえ、それが日常の時空を越えても、自分にふさわしい居場所であれば、永瀬清子の魂は現実にそこで生きているのです。

〈それらは私のひきだしの別の本〉とは、聖書を暗示した実に味のある表現です。きっと永瀬は聖書に書かれた女性達の行動を、我が身の記録のように読んだのでしょう。

 

終連の、〈月の光の中に/ペンダントのように懸かっている星たち〉の描写は比類のない美しさです。火星と木星が目の前で大接近して、〈擦過〉していった天文学的な事象から、これほどスケールの大きい物語を紡ぐ作者の力量は計り知れないほどです。女性詩の先駆けとして、「現代詩の母」と呼ばれたことを証するような力作です。

私のこの作品の解釈が本当に正しいものか、よくわかりません。しかし、恩師高田敏子先生が感動に身を震わせて読み上げた熱い思いに、私は還暦を迎えて、やっと辿り着けました。

今はそれがありがたく、喜びとしたいです。

                          (完)


【メモ】永瀬 清子(19061995)岡山県赤磐市熊山地区、生。

明治39217日、永瀬清子は赤磐(あかいわ)郡豊田村大字松木(現熊山町)に永瀬連太郎と八重野の長女として出生、戸籍名は清という。

生家は素封家として知られ、母方の祖父は明治初期に県会議員をつとめた。

清子は2歳から16歳まで電気技師の父連太郎の赴任先金沢で育った。父の転勤で名古屋へ移り、「上田敏詩集」を読んでから詩の世界に開眼。

愛知県立第一高女高等部在学中から佐藤惣之助について「詩之家」同人となった。

同校を卒業した昭和2年に結婚、大阪に新居を構えた頃、詩壇はシュールレアリズムやモダニズムの影響下にあり、「詩と詩論」が席巻していた。

清子は当時の思潮に対して冷静な距離を保ったため、容赦のない批判を浴びたが、昭和5年「グレンデルの母親」を世に問い、早くも独自の才能を顕現した。

翌年夫の転勤で上京、友人の勧めで北川冬彦主宰の「時間」同人となり、左翼文学攻勢の中、穏やかな抒情詩に決別すべく第一次「時間」を解散した北川に同調した。

「時間」が名を変えた「磁場」・「麺麹(パン)」は清子の命名による。昭和15年清子が女流詩人として名声を獲得した詩集「諸国の天女」の序文は、高村光太郎によるもので、高村とは清子が生涯敬慕した宮沢賢治の追悼会での出会いが縁となった。

また、この詩集によって仏文学翻訳の第一人者山内義雄や宮本百合子に認められることとなり、既に、昭和初期清子は深尾須磨子や長谷川時雨など、当時随一の女流文学者達の仲間入りを果たした。

戦後は生地熊山へ移り農業に初めて従事しながら、藤原審爾・山本道太郎らと昭和20年同人誌「文学祭」を発刊。翌21年同人誌「文学祭」を発刊。

 22年吉塚勤治らの「詩作」創刊に参加、また「日本未来派」同人となった。「星座の娘」・「糸針抄」・「大いなる樹木」・「美しい国」・「焔について」など次々に作品を発表しつつ、昭和27年「黄薔薇」を創刊、後進を育成した功績は大きい。

昭和30年印度でのアジア諸国民会議に参加、同38年から52年まで世界連邦岡山県協議会事務局に勤務、世界平和のために尽す。

この間詩作の泉を涸らすことなく「海から陸へ」・「永瀬清子詩集」他著書多数を刊行。昭和57年日本現代詩人会から先達詩人として顕彰された。

昭和6281歳で「あけがたにくる人よ」が地球賞。翌年同詩集でミセス現代詩女流賞を受賞。

平成7年、89歳で永眠。命日の217日を清子を慕う人々は「紅梅忌」とよぶ。

 

岡山県赤磐市「くまやまふれあいセンター」内、永瀬清子展示室内の略歴を引用

| 永瀬清子 | 17:06 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 9
 

  月と二つの星の擦過

 

早春の夜空に火星と木星が

あのようにも近づいて(あら)われている

水車のように光をほとばしらせている満月のそばで

あの星らは

まるで月からさがった

ブランコのように目にみえぬ横木につながれ

ゆれてはね上がりながら中空に懸かっている

 

彼等姉妹がそんなにも近く

二つの眼のように見える事は

長い長い年月の間でもきわめてまれな事なのに

多くの人々はそれを見もせずに

それぞれの屋根の下で眠っている

 

私たちの一生の中で

どんなにまれな事とすれちがい

たとえ世の中にたった一度の事と

火のでるほどに擦過しても

いつも気づかず眠りのうちに過ぎるパターンで  

 

そうだ今日あの人と私の出あったのは

一生の一度の稀な機会だった

その時私はあなたに何をあげた?

その時私はあなたから何をうばった?

それはたった一つのまばたき

それはたった一つのよろこび

ほんとにその機会は何光年に一度の事だったのに

私は小さく書きとめてそれをただ

緋梅を()した机の中にしまう。

 

でももっとかくれた本当の事を云えば

私はあなたに一杯の水をあげた

それはずっと昔のサマリヤでの事だった

その時の女は私だったのだ

私はあなたに出あった時

涙と香油のしたたりで足をふいてあげた。

それはずっと昔ベタニヤ村での事だった

その時の女は私だったのだ  

それらは私のひきだしの別の本にもう書かれている

千年といってもつかのま、二千年といっても

 

いま私の一生は終わりに近く

姉妹の星が並んでいるのを見ることも

もう二度とありはしないのだ

私は月の光の中に

ペンダントのように懸かっている星たちを

夜のふけ終るまでみつめ

たちまち薄雲が彼らの上に流れくるのを見た

薄雲のレースの中で月と星のつくる三角形は

ヨットのように、或は飛行機のように中空を奔りはじめ

力の限り早く早く

赤と金色のその二つの光は

つまりそのテールランプなのであった

 

永遠がこのようにして私のそばを

心をこめたウインクと共に

はしり去り 擦過していったのであった。

        註 木星と火星が最も近づいたのは三月三日午前四時であった

 

この詩は19808月号の『無限ポエトリー』という詩誌に掲載されたものです。

火星と木星が大接近するという、ちょっとした天体ショーのニュースでマスコミが騒いでいたのを私も記憶しています。しかし、夜を徹して星空を見上げるほどの人はおらず(私もその一人でしたが)、〈長い長い年月の間でもきわめてまれな事なのに/多くの人々はそれを見もせずにそれぞれの屋根の下で眠っている〉のでした。

惑星の運行に限らず、〈その機会は何光年に一度の事だったのに〉、発火するほどにすれ違っても、〈いつも気づかず眠りのうちに過ぎる〉後悔は私たち凡夫(ぼんぷ)の常なのかも知れません。

 

5連から詩の舞台は一気に時間を越え、空間を越えて飛躍します。

〈一生の一度の稀な機会〉で出逢った人――もし、それが人類の救い主と呼ばれる人であったら、一瞬の〈擦過〉=すれ違いであっても、魂を揺すぶるほどの大事件に違いありません。

新約聖書に登場する、イエス・キリストを巡る女性達の心の高揚に、作者は感情移入をしていきます。

                     (この稿続く)


| 永瀬清子 | 10:39 | comments(2) | trackbacks(0)
永瀬清子 8
 

  あけがたにくる人よ

 

あけがたにくる人よ

ててっぽっぽうの声のする方から

私の所へしずかにしずかにくる人よ

一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく

私はいま老いてしまって

ほかの年よりと同じに

若かった日のことを千万遍恋うている

 

その時私は家出しようとして

小さなバスケット一つをさげて

足は宙にふるえていた

どこへいくとも自分でわからず

恋している自分の心だけがたよりで

若さ、それは苦しさだった

 

その時あなたが来てくれればよかったのに

その時あなたは来てくれなかった

どんなに待っているか

道べりの柳の木に云えばよかったのか

吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く

茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように

通りすぎていってしまった

 

もう過ぎてしまった

いま来てもつぐなえぬ

一生は過ぎてしまったのに

あけがたに来る人よ

ててっぽっぽうの声のする方から

私の所へしずかにしずかにくる人よ

足音もなくて何しにくる人よ

涙流させにだけくる人よ

                     詩集『あけがたに来る人よ』1987年


永瀬清子81歳の作品です。上京して親戚の家に泊まった折、朝方、山鳩が鳴く声(ててっぽっぽうの声)を聞いて作詩したそうです。評伝『永瀬清子』(井坂洋子著)には、「繰り返し読んでも鮮度のおちない、ふしぎな詩である。思考のあとや、それを塗りこめる華麗な喩や、感性による答え(認識)が、つまり永瀬清子らしさがこの詩に、ない。レトリックを感じさせない理想的なレトリックによって、手放しに泣いている。めったに書けない詩だ。」と賞賛しています。

 

「レトリックを感じさせない理想的なレトリック」を生み出せるのが、長年詩を書いて来た練達の詩人にして初めてなせる技と言えます。どのプロの詩人もそうですが、若い頃の作品は華麗で瞠目するようなレトリックが散りばめられています。しかし、年を経るに従って、人目を驚かす比喩は影をひそめ、一読しただけでは読み取れないような透明なレトリックのベールが何重にも裏打ちされているようになります。

60代からの恩師高田敏子先生の詩もそうでした。言葉は限りなく平易でありながら、内容の把握は初心の者には難解で、私も還暦に近づいてから深く味わうことができるようになりました。

 

あけがたに来る人とは、どんな人なのか。

幻の恋人、若かった日の自分の姿、象徴としての「あなた」、色々な解釈があるようです。

『女人随筆』(19911月号)に作者自身による創作の意図が載っています。

『あけがた』に誰かがくると云えばこの「詩」が来てくれた事が一番あたっていると云えよう。何の誰それと云ってももうそれは何十年も年月がすぎて昔の事情とはちがっている。でもこの『詩』が来たのは嘘いつわりではないのだ。それは本当に「来た」のだ。

 

私には、あけがたに来る人とは幻の恋人と見るのが、素直な取り方だと思います。

仔細に作品を読めば、あけがたに来る人とは、恋に身を焼いた少女時代の作者が一番辛かった日々に、〈その時あなたが来てくれればよかったのに/その時あなたは来てくれなかった〉と嘆かせている存在です。取り返しのつかない無念さで、〈涙流させにだけくる人〉です。

作者が語ることは事実かも知れませんが、読者には読者なりの見方があり、その方が真実だということもあるのです。

人を恋うる思いは――恋の痛みは年齢を越えて、永瀬清子の奥深く生き続けているように私は感じます。

 

それでもさらに深読みすれば、自分が最も辛い時、悲しい時に待ち望んで裏切られたことから、あけがたに来る人とは、“届かなかった希望や救い”というものの象徴表現であるかも知れません。

なお、詩集『あけがたにくる人よ』は第12回地球賞(「地球」は新川和江先生の属する同人詩誌)を受賞しています。

                              (この稿続く)


| 永瀬清子 | 17:07 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 7
 

  焔について

 

焔よ

足音のないきらびやかな踊りよ

心ままなる命の噴出よ

お前は千百の舌をもって私に語る、

暁け方のまっくらな世帯場で――。        (註)世帯場=厨房

 

年毎に落葉してしまう樹のように

一日のうちにすっかり心も身体もちびてしまう私は

その時あたらしい千百の芽の燃えはじめるのを感じる。

その時いつも黄金色(きんいろ)の詩がはばたいて私の中へ降りてくるのを感じる

 

焔よ

火の(たてがみ)

お前のきらめき、お前の歌

お前は滝のようだ

お前は珠玉のようだ。

お前は束の間の私だ。

 

でもその時はすぐ過ぎる

ほんの十分間。

なぜなら私は去らねばならない

まだ星のかがやいている戸の外へ水を汲みに。

そしてもう野菜をきざまねばならない。

一日を落葉のほうへいそがねばならない。

焔よ

その眼にみえぬ鉄床(かなとこ)の上に私を打ちかがやかすものよ

わが時の間の夢殿よ。

                       詩集『焔について』1950

 

詩人・大岡信は永瀬の詩作のモチベーションをこんな風に指摘しています。

女であること、とくに職を持って働く上で、男ではなく女であったため蒙った数多くの傷に対する憤りや呻きが、永瀬清子の詩の奥底に流れているように思われる。

(中略)彼女はたぶん、しばしば、自分が男だったらどんなによかっただろうと思ったことがあるのだろう。(中略)常にどこか満たされないでうずいている存在そのものの渇き、それこそ彼女にみずみずしい詩を書かせている原動力ではないのか。

                     『続永瀬清子詩集』解説・1982年思潮社

 

この男まさりとでも言うような負けん気が、女性詩には稀な思想的骨格を築いているのかも知れません。終戦後、岡山の山村に居を構え、農業をしながら詩を書く詩人として大地に根ざした生き方も、作品に非凡な生命力と力強さを与えているように思います。

 

この「焔について」は、石垣りん先生が愛好した詩で、エッセイ集『詩の中の風景』(婦人之友社、1992年)に詳しく述べられています。

明け方の台所、まだ家族は眠っている。女がひとり起き出して、かまどの闇に火を付ける。薪が燃えはじめ、勢いを増す。ここは法隆寺の金堂ならぬ、くらしの中の夢殿、その奥に焔の姿して立ち上がるいのち、自分の像を見届ける。

この熱い詩をたちまち冷気にさらす、次の一行が私は好きです。

爐泙誓韻里がやいている戸の外へ水を汲みに瓩燭困気┐深蟆海僚鼎澆泙播舛錣襪茲Δ福

かまどの方はもう、薪を足さなくてもご飯の炊きあがる火加減なのでしょう、次の仕事が待っています。

ついこの間までの日本の家庭、ことに村落ではほとんどの主婦が、このようにして朝を迎えました。千百の芽があたらしく燃え出たと思ったのも束の間、あとは落葉のほうへ急ぐだけ、心も身体もちびてしまうばかりの一日がはじまります。その日暮れに至る道のり、精一杯の働きが、作者を夢殿にみちびくのでしょうか。

 

〈焔よ/火の鬣よ/お前のきらめき、お前の歌/お前は滝のようだ/お前は珠玉のようだ。/お前は束の間の私だ。〉――このたたみかけるようなリズム、気迫。これこそが、永瀬清子の神髄です。命です。

〈焔よ/その眼に見えぬ鉄床(かなとこ)の上に私を打ちかがやかすものよ〉という詩行からは、焔を見つめ、一日を乗り切るエネルギーを焔から吸収しようとする、作者の熱いまなざしを感じます。刀工が鉄床の上に熱く焼けた鉄を乗せて、鎚(つち)を振り下ろし、ひと振りの白刃(はくじん)が生まれるように、我が身も焔の力によって新しく生まれ変わりたい、との願いが込められています。

                       (この稿続く)

| 永瀬清子 | 20:31 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 6
 

  花の美しいのは

 

花の美しいのはその紫であることや

薄紅であることによるのではない

何ものか花でないものから

花へ浮かびあがってくるきわが美しいのだ

 

あるいは花の夜の闇からとも云える

あるいは花の淵からとも云える

あるいは花の蕾そのものであるかもしれぬ

蝉のようにぬけでてくるそのきわがふしぎだ

目に見えぬその移りや動き 劇 あらそい

おだまきや垂れそめた藤がかたちになりでるときの

急速な変化を私自身の身に考えられるだろうか

そのふしぎなしに花が牢固としてあるとしたら

それは花ではない 銅像がマネキンだ

花は咲きそして散る その痛みなしには花でありえない

 

こういう形態の詩は、思想(哲学)詩とでも呼ぶのが適当かも知れません。

ただ、思想を綴った文章と異なるのは、論文などが硬質な哲学的用語が使われているのに対して、永瀬の作品は自分の思想を語るのに、哲学や評論の言葉は使わず、すべてイメージで表現している所が、文学作品たり得ていると思います。

 

〈花へ浮かびあがってくるきわ〉〈花の夜の闇〉〈花の淵〉といった、詩的で華麗なイメージを駆使して、思想を組み立てているのです。

この詩を読みながら、思い出したことがあります。昨年、教室の方が、大切に育てている月下美人の花をわざわざ自宅に届けて下さいました。今夜咲くので、ぜひ見てほしいと。

予定では真夜中頃に満開になるということでしたが、実際には夜9時過ぎから蕾がふくらみ始め、まるでスローモーション撮影の映画でも見るように、眼前でゆっくりと大ぶりの花が開いていくのを体験しました。

まさに〈何ものか花でないものから/花へ浮かびあがってくるきわが美しい〉瞬間を目に収めることができました。

 

恩師高田敏子先生は、この詩のポイントを「“痛み”の美」であると定義しています。

この詩から私は花に対する新しい目を持たせていただきました。そしてここにも“痛み”に美の価値観がおかれていて、それは永瀬さんの日々の生活からも生み出された「美」への尊い思想なのだと思います。               高田敏子「私の中のノートの中に書かれた詩から」

 

〈花は咲きそして散る その痛みなしには花でありえない〉――ここで「花」と呼ばれているものは、この世のすべての儚く、美しいものの象徴でしょう。

どんなに楽しい時間の花も、やがては散り、集った人々の輪も散っていきます。

あれほど敬愛し、生きがいをもって師と共に歩んだ至福の時も、消えました。高田先生が今もお元気なら私は師を慕って、まだ東京にしがみついていたかも知れません。

 

しかし、先生が亡くなられたからこそ、未熟な私が、身の程知らずにもカルチャーで詩の教室を開けました。1996年のことでした。そこで、新たな人たちとの出合いがあり、今年で足掛け15年に及ぶ、詩の仲間との交流があります。

恩師の死という“痛み”は、今なお消えることはありませんが、先生と共に過ごした青春の日々は、この痛み故に、かけがえのないものとして私の中で輝きを放っています。

                      (この稿続く)


| 永瀬清子 | 12:51 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 5

  だまして下さい言葉やさしく

 

だまして下さい言葉やさしく

よろこばせて下さいあたたかい声で。

世慣れぬわたしの心いれも

受けて下さい ほめて下さい。

あああなたは誰よりもわたしがいると

感謝のほほえみでだまして下さい。

その時わたしは

思いあがって傲慢になるでしょうか

いえいえわたしは

やわらかい(つる)草のようにそれを捕えて

それを力に立ち上がりましょう。

もっともっとやさしくなりましょう。

もっともっと美しく

心ききたる女子(おなご)になりましょう。

 

ああわたしはあまりにも荒れ地にそだちました。

飢えた心にせめて一つほしいものは

わたしがあなたによろこばれると

そう考えるよろこびです。

あけがたの露やそよかぜほどにも

あなたにそれが判って下されば

わたしの瞳はいきいきと若くなりましょう。

うれしさに涙をいっぱいためながら

だまされだまされてゆたかになりましょう。

目かくしの鬼を導くように

ああわたしをやさしい拍手で導いて下さい。

                            詩集『焔について』1950

 

恩師高田敏子先生が「読み、くりかえし、空んじて、私の胸にしまい込まれています」と語る詩です。私が感じたのは、だます側に愛情があれば、だますことは偽りにならず、相手にとって励ましにも慰めにもなるということでした。

相手が自分を慰めるために、気休めのような暖かい言葉をかけてくれることがあります。

こちらも気休めにしかならないとわかっていても、相手の暖かい気持ちが伝わってくるから癒されることがあります。

愛情のない真実よりも、愛情に満ちた嘘がいい、と訴えかけているようにも思います。

悲しい人や傷のある人に対する思いやりの言葉とは、こんな作品なのかも知れません。

                      (この稿続く)


| 永瀬清子 | 18:09 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 4

  ある詩論

 

 詩を書く時は出し惜しみせず中心から、最も肝心な点から書くべきだ。最初の行がすべての尺度になる。

 まわりから説明して判らそうとすると詩はつまらなくなる。すべてはその親切程度に平板に散文化し、中心さえも「説明」の一部になる。

 つまり詩の行には大切な独立力があるので、本心をつかまぬ行に最初の一行を任すべきではない、又次の次の行も任すべきではない。

云いかえれば肝心な中心を捕らえれば第一行が次行を、そして又次行が第三行を指し示し、又生んでくれる、とも云える。そしてそこにリズムが生まれる。

 つまらぬ所から説きはじめればついに中心に行き合わぬ。

 そして読者の心にもついに行き合わぬ。

                            短章集『焔に薪を』

 

この短章も創作者の心理を知悉した者でなければ書けぬものです。作者の意図を、私自身の実作経験をもとに説明してみましょう。

 

私が詩を書く場合はおおまかに二通りあります。一つは、詩を書き綴っていく内に、思いがけない詩的な言葉が浮かんで来ることがあります。それを土台にして、また新たな詩想が生まれ、それが中心となって詩全体のボルテージが高揚していきます。これは極めて理想的な詩作のプロセスです。

 

もう一つは、書く以前に頭の中で、あるいはメモに書き付けた半ば完成した詩句があり、その詩句の伝達効果をより高めるため、中心となる詩句を挟んで、あとから言葉を付け加えていきます。譬えはあまりよくないですが、カラオケの歌のように、サビを生かすため前奏と後奏を後から加えて演出するのです。

このような詩作の場合、後から加えた詩句がどんなに優れたものであっても、最初の中心となる詩句以上のものは望めません。後から加えられた詩句は、すべて中心部分を説明するための小道具となり、新たな詩句が詩作の途中で生まれる可能性は低いのです。

 

永瀬清子が、「わが詩論」で戒めているのは、この後者の場合です。

〈まわりから説明して判らそうとする詩はつまらなくなる〉〈つまらぬ所から説きはじめればついに中心に行き合わぬ〉という章句が、中心から詩を書かぬ弊害を訴えています。

中心となる詩句を、ディナーコースのメインデッシュのように後ろに据えるのではなく、最も優れた詩句から出発し、さらに高次の詩句を求めて詩を書き綴っていくのです。

でもこれは、今の詩句より高い詩句を、さらに高次元の詩句をと、常に飛躍を求められるやり方です。ある意味で、大変な時間と根気のいる作業でもあります。その困難さに負けて、出し惜しみをしたような印象の作品を書いてしまうのかも知れません。

 

厳しい短章です。凡夫(ぼんぷ)の私には実行は難しいでしょうが、座右の銘として肝に刻んでおきたいと思います。

                       (この稿続く)


| 永瀬清子 | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 3
 

  悲しめる友よ

 

 悲しめる友よ

 女性は男性よりさきに死んではいけない。

 男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを(おお)わなければならない。

 男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。

 聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。

 だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。

 これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ。

                               短章集『流れる髪』

 

ご存知のように、イエス・キリストが十字架につけられた時、弟子達は我が身の可愛いさに、みな逃げ帰りました。

後に残った女性達が、イエスを葬りました。だからこそ、〈女性は男性よりさきに死んではいけない。/男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない。〉のです。

女性の人権と存在意義を生涯訴え続けた作者にふさわしい、同性への力強いメッセージです。

 

  夏草が

 

 私たちは意味のすでに判っている事を書くのではなく、いずことも知れない夏草のみだれの中を通っていく。すると足のふみしだいた所から意味がみえてくる。

 つまり判らないから書く。そして新しい道にやっと出逢う。

 かくしていた夏草がやがてそれを結局は教えてくれる。

                            短章集『彩りの雲』


  書かなければ

 

 書かなければわからない、自分の言葉は。

 それが書く値打があるかどうか。

 書いてみてはじめて自分の背中に気がつき、(あなうら)に気がつく。

 自分という(くさむら)をはなれてはじめて、走り出たのが(きじ)であったか蛇であったか、その本当の姿が見える。

                                 短章集『流れる髪』

 

詩は書いてみなければわかりません。それなのに私達は頭の中である程度、詩想が整わないと、中々ペンは持たないものです。それでますます遅筆になってしまいます。

永瀬の言葉は、そんな創作態度を戒めています。私も耳の痛い言葉です。とにかく、一字でもいいから書きつけてみる。その一字が次の一字を生み、一行を生み、数行を生む。

「夏草が」「書かなければ」の各短章はそのことを訴えています。

                       (この稿続く)


| 永瀬清子 | 09:47 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 2
 

永瀬の大切な仕事の中に、『短章集』と題した作品群があります。

短詩の形をとっていますが、これらは詩というよりも、格言・箴言に近いものです。格言の中でも、特に文学的・詩的な表現で綴られているものを、「アフォリズム」と呼んでいます。

アフォリズムの先人としては、詩人の萩原朔太郎が多くの書物を残しています。


1974年発行の『短章集』第一章の2頁目にある次の言葉を目にした時、恩師高田敏子先生は身を銃弾で射たれるような驚きで、ノートに書き写しました。

 

  トラックが来て私を()いた時

 

 トラックが来て私を轢いた時、私の口からは「飢えたる魂」がとび出す。私の肋骨からははめられていた格子が解かれて「自由」が流れだす。

 トラックが轢かないうちは、それはただの他人とみわけがつかない。

 だから詩を書くことはトラックに轢かれる位いの重さだと知ってもらいたい。あんまり手軽には考えてほしうない。

                              短章集『蝶のめいてい』

 

これは勿論、交通事故に遭ったわけではなく、言葉の(たと)えです。

普段、当たり前に過ごしている時は、詩人とそうでない人との区別はつきません。でも、万が一、身体が引き裂かれたら、詩人の魂が飛び出してくるに違いない。

実に大胆で、意表をつく比喩表現です。作者は、読者に精神的ショックを与えることで、少数派である詩人の価値を再評価してほしいと願っているのでしょう。

高田先生は、この詩について、「私が筆を持つ時間をのばしのばし、家事に時を過ごしてしまうのは、臆病だからなのです。自分を見る勇気がない。トラックに轢かれる覚悟がない、逃げ腰の自分をはっきりと知るのでした」と評しています。

                       (この稿続く)



| 永瀬清子 | 14:36 | comments(0) | trackbacks(0)
永瀬清子 1

恩師高田敏子先生のエッセイに永瀬清子と初めて会った時の様子が描かれています。

新幹線がまだ岡山まで伸びていない時代、高田先生は飛行機で行かれたのですが、永瀬清子はわざわざ空港まで出迎えに来たそうです。

車で岡山市内に入るまでに、永瀬はバッグからノートとペンを出して、高田先生との話の合間に書いたものを渡しました。それは、沿道の両側に咲くコスモスの美しさに高田先生が何度も声をあげたことを書き入れた詩――高田先生を歓迎する詩でした。

この時以来、上京した永瀬に会う度に、高田先生はバッグに目が行きました。

バッグのふくらみは、ぎっしりとしていて、化粧用品などのためでない、密度の濃いふくらみ、たくさんの言葉のメモ、草稿が中に込められていることが想像されました。

永瀬は高田先生の目がバッグに行くのに気づいて、「新幹線の中でも手紙のご返事が書けるようにハガキも入っていますのよ」と、バッグのふくらみを撫でながら言ったそうです。

これらのエピソードから少しの間も惜しんでペンを持つ詩人の姿が彷彿として来ます。

 

高田先生は永瀬清子について、その人柄、詩業には次の言葉が思われると語ります。

「辛抱強くあれ! 霊感に期待するなかれ。そのようなものは存在しない。もっぱら芸術家の資格とは、慧知(けいち)(優れた知恵)であり、注意力であり、誠実であり、意力である。あなたがたの仕事を、あたかも実直な職人のように果したまえ」(角川文庫『ロダンの言葉』ポール・グセル、吉川達雄訳)

「慧知」「注意力」「誠実」「意力」「実直」、このどれもが永瀬にぴったり重なり、殊に「慧知」「注意力」という凡人には持てないものが、絶えず磨かれ続けているというのが、高田先生の永瀬に対する人物評となっています。

 

永瀬からは詩集の出る度に高田先生に寄贈され、時には今届いたばかりの詩誌に載った永瀬の詩「月と二つの星の擦過(さっか)」(後述)に高田先生が感激し、私達門下生に披露したことがあります。

先生は、感動の興奮いまだ覚めやらぬという面持(おもも)ちで、立ち上がって両手で詩誌を開き、朗々と声高らかに朗読しました。その頃の私は、まだ詩の読解力が貧しく、先生が読み上げる永瀬の詩句の意味もよくわかりませんでしたが、高田先生の身を震わせるような熱い思いは伝わって来ました。そして、詩を生涯の仕事として生きる人の、輝く、なまの姿が今も目に浮かび、私が前に進むための源泉になっているように思います。

                        (この稿続く)


| 永瀬清子 | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0)
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