原爆関連自作詩 3


 

      (きし)

 

    広島市内を走る路面電車の歴史は明治四三年(一九一○)

    に遡る。先の戦時下は出征による男子労働者不足を補う

    ため、車掌勤務と勉学が両立できる広島電鉄家政女学校

    (一九四三年開校)が創設された。が、戦局が厳しくな

    ると彼女達は車掌からさらに運転士への乗務に就いた。

 

    戦後生まれの私は中学校へは路面電車を使って通学した。

    最寄り駅は広島市北西の横川という駅である。途中、十

    日市という乗換駅が分岐点になっており、ここを直進す

    ると海沿いの江波(えば)方面へ通じる。左折すると市内

    の中心部に向かう。

 

    炎暑のとある日、冷房のよく効いた電車に揺られながら

    心地良くまどろんだ。十日市で電車が都心へ向け大きく

    曲がる時、レールと動輪がこすれ、悲鳴のような音を立

    てて軋る。〈鉄の歯ぎしり〉といった凄まじい金属音で

    ある。

 

    車輪が軋る音で目が覚めた。不意に、昭和二○年八月六

    日午前八時過ぎ、この日、同じように左折した電車の軋

    る音を耳にしたように思った。運転席には、制帽の代わ

    りに白鉢巻(しろはちまき)きを締めた、お下げ髪の少女

    の背中が見えたはずである。

 

    電車はカーブを曲がり切ると、急に速力が上がる。刻一

    刻、加速度を増しながら、やがて数十分後の爆心地を目

    指して進んでいく。車内には昔の私のような中学生も乗

    っている。少年は乗換駅で誤って海辺へと直進してもよ

    かったのだ。そうすれば直撃を免れたかも知れない。

 

    白亜に輝く広島県産業奨励館の手前で、運転士の少女も

    乗客の少年も共に消え去る。それから六七年後、「原爆

    ドーム前」と名を変えた同じ電停を、私は――老いた中

    学生は何事もなく通り過ぎる。若い生命が蒸発した朝を

    思わせる、厳しい熱波の中を、まどろみながら揺られて

    いる。

 


父方の祖父は67年前、原爆の直撃を受け75歳で亡くなりました。昭和2086日の朝、強制家屋取り壊し作業(空襲による火災の類焼を防ぐため、人家を強制撤去する)のため、広瀬町付近に出かけていて災厄に遭ったのです。

 

至近距離での被爆により、現在も遺骨は行方不明です。原爆投下時、両親は満州(戦時中の日本の植民地。現在の中国東北部)で暮らしており、私は戦後生まれですから祖父の顔は知りません。遺影を通じて面影を追うことしかできません。

 

ですから、祖父を亡くしたという直接的な悲しみの感情は湧きません。ただ、あのようなむごいものを、何も知らずに油断していた善良な人達の上に落としたことは、私個人のというよりは、人間の癒し難い(トラウマ)として、心に残るのです。あのような事実があったということだけで、私達は重いトラウマを背負わされていると思います。

 

原爆というテーマを詩にする場合、相手が大きすぎて、どんな切り口で描いたらいいのか、迷いは尽きません。そんな折、市内電車の車中で車輪が軋る音を聞いたら、この音は原爆投下の日も同じ響きを立てていたに違いないと思いました。それを接点として、過去と自分が生きている現代がつながり、作品の糸口となりました。また、私はたまたま中学生の頃、市内電車で通学していたので、もし当時、自分が中学生として原爆投下時に電車に乗り合わせていたら、どうなっただろうかと想像してみました。


戦後生まれの傍観者である自分には、どうやって原爆の体験を自分のこととして追体験できるのか、それが私の課題だと思います。原爆を大きく捉えるのでなく、日常の些事から入った方がリアリティを持って描けることを、私はこの作品で教えられたように思います。

原爆、原発問題のような避けて通れない大きなテーマと、対局的な「詩のある花々」シリーズの優しく華やかな世界のふた通りの詩を書き分けることが、私には精神によいバランスをもたらしています。どちらも大切な仕事と思って充実させていきたいですね。

| 原爆関連自作詩 | 09:26 | comments(2) | trackbacks(0)
原爆関連自作詩 2

         紙の棺

 

     二○一二年五月中旬、広島市平和記念公園で原爆慰霊碑

     に納められた原爆死没者名簿を風に当て、劣化を防ぐ、

     〈風通し〉の作業があった。

     市職員達は原爆投下の午前八時一五分に黙祷。石室のふ

     たを鎖で引き上げ、名簿を取り出した。取り出された名

     簿百冊は慰霊碑前に敷いた白布の上に並べられた。

     係員は傷みの有無を調べながら、労るように一枚ずつ名

     簿の頁を(めく)った。名簿には昨年、五七八五人が新

     たに加筆され、計二七万五二三○人の名が記されている。

     作業後は最後の一冊を残して、清掃した石室に戻された。

     この一冊は昨年の原爆の日以降の死者の名を記帳し、今

     年の平和記念式典で碑に納められるという。

 

     長い歳月の間に、紙は朽ちていく。だが、不意に奪われ

     た生命の名は、昨日受けた傷のようにいつも鮮やかだ。

     言霊という言葉が真実ならば、人の名前にも生前の魂の

     幾許(いくばく)かが宿っていよう。

     名簿の頁が翻り、薫風に洗われた死者の名前は湯灌(ゆか

     ん)を施したように清められ、その名の持ち主が負った悲

     しみが、紙の上から剥離(はくり)していく。核を浴びた

     二七万五二三○柱の名は風に葬られ、一年で最も美しい季

     節の空の奥に還っていく――そんな儚い夢を見ているので

     はないだろうか、人としての弔いもないまま野焼きにされ

     た(むくろ)は。遺骨のない死者達は、今日も名簿という

     紙の棺の中で眠り続けている。



広島市では毎年新緑の鮮やかな季節に、原爆慰霊碑に蔵(おさ)められた原爆死没者の名簿を劣化を防ぐため〈虫干し〉します。当初は被爆した人達の遺骨を蔵める計画だったのですが、公園は墓地ではないという法律の定めにより、それは認められませんでした。やむなく、名簿を御霊の代わりに収蔵したのです。


私のような広島に住む者にとっては、毎年の風物詩のような感覚で見ていたのですが、今年の〈風通し〉に限っては何故か、思いが留まりました。風に晒される名簿の頁の間から、死者達の魂のようなものが揮発していくような感覚に囚われたのです。


ニュースの映像で何十回と繰り返し見て来たのに、これまで詩にしようとは思ったことはありませんでした。今年になってやっと、私の中で時が満ちたということでしょうか。このように体験というものが言葉になるには、長い長い時間がかかることを改めて思うのでした。



| 原爆関連自作詩 | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0)
原爆関連自作詩 1

      雨の履歴書


     一九五一年 夏

     一歳の誕生日

     私は生まれて初めて雨を見たという

     目を大きくあけたまま雨脚に見入っていたと

     今年八十六を迎える母は今も笑って懐かしむ

 

        昭和二○年 八月六日

        朝陽を受けてきらめく小さな光が

        広島の空の奥からゆるやかに落ちてきた

        祖父は空襲火災を防ぐ家屋取壊し作業の手を休め

        物珍しげに眺めている

 

     一九六一年 夏

     小学六年生の私は頬をゆるめて雨を見ていた

     体育の授業が休講となったからだ

     病弱な私には鉄棒 跳び箱 すべての運動が

     級友たちから嘲笑を浴びる苦痛の時間だった

     私は雨の日を喜ぶ心さびしい少年に育った

 

        昭和二十一年 九月

        シベリア極北の捕虜収容所で

        父は激しく屋根を打つ雨音を聞いていた

        豪雨で屋外作業が中止になった

        衣服の網の目までびっしりと巣くうシラミを

        父は一つ一つ心ゆくまでつぶした

 

     一九七四年 夏

     東京で学生生活を送って二年目

     祖母を九十七年支えた背骨を私は慣れない箸で拾った

     焼場を出た頃 夕立が土をはじき始めた

 

        一九四七年 五月

        復員した父には被爆死した父親の

        骨のかけらひとつなかった

        残っていたのは どす黒い夕立に濡れて以来

        髪の薄くなった母親一人だった

 

     一九八九年 冬

     元号は平成と改まった

     祖母の十五回忌の読経が流れる中

     氷雨に降り込められた幼い日に

     膝の上で聞いた祖母の昔語りがよみがえる

     おじいさんは山へ柴刈りに

     おばあさんは川へ洗濯に

     ――のう、トシオ。

     じいさんはの、軍の仕事を手伝わされて、

     ピカ(原爆)の真下に立っとりんさったけえ、

     つまらん(影も形もない)ことになってしもうた。

     ほいでからに(それなのに)、

     わしゃの、そん時、

     裏の太田川(おおたがわ)へ洗濯に行っとったんじゃ。

     土手の影におったけえ、爆風(かぜ)閃光(ひかり)もあたらんで、

     うち(自分)だけ助かったんよ。

 

        平成十年 八月

        祖父の死から五十三年

        一千数百柱の名前が判明しただけの

        原爆遺骨者名簿が例年通り一般公開された

        「イシカワ リュウゾウ」の文字を確かめるため

        かつて区役所に赴いた父は 八十六歳の衰えた足を

        もう運ぼうとはしなくなった

 

     二○○四年 夏

     盆の墓参りに裏山に登った

     祖父 祖母 父の名が刻まれた墓石に

     明治 大正 昭和 平成の

     四代の雨のあとがにじんでいる

     私は祖父が亡くなった時の父の年齢を越えた

     私は父が濡れた歴史の雨の冷たさを知らない

     私が知ることができるのは

     父亡き後 老いた母との残された短い時間である


祖父は広島への原爆投下の朝、都心近くで家屋の強制取り壊し作業に従事していました。これは空襲の折、火災が広がるのを防ぐために行われました。当時、祖父は75歳でした。このような高齢者を駆り出さねばならないほど、出征のため国内の男子労働者の不足は深刻であったことがわかります。

爆心地近辺での被爆であったため、未だに遺骨は行方不明のままです。広島では祖父と同じ被災状況の方達があまたおられます。


祖母は家の裏の川で洗濯をして土手の陰にいたため、直接の熱線も爆風も受けず、奇跡的に助かりました。ただ、脱毛などの放射能の二次被害があったそうです。祖母はその後、大病もせず97歳で天寿を全うしました。被爆後67年、今なお原爆の後遺症で苦しむ多くの方達がいる一方で、祖母のような例を比較すると、個人差のはなはだしさに割り切れぬ思いがします。


原爆投下時、父母は旧満州にいました。終戦で父はシベリアへ抑留され、戦後2年を経て復員しました。私はその後、生まれたのです。父はシベリアでの収容所生活については、生前、一度だけ言葉少なに語ってくれたことがあります。その話を基に、作品の肉付けを行いました。


明治生まれの父は、この時代の男性らしく自己の人生について多くを語りませんでした。また、生来、寡黙な人柄でした。ですから、私は父の半生についてほとんど知る機会はありませんでした。そんな父の生涯を知るきっかけとなったのは、私の就職活動でした。ある志望会社に応募書類を送る際、保証人のかなり詳細な履歴書を提出するよう求められました。

几帳面な父は、紙幅を費やして細かい経歴を綴ってくれました。そこには、私のうかがい知ることのなかった昭和史が刻まれていました。戦前は旧満鉄での勤務、終戦前の現地召集、戦後のシベリア抑留、帰国後は郷里広島での家族の原爆死。一人の平凡な市民の人生を、苛烈な歴史が縦断した痕跡が鮮やかに残っていました。履歴書には、それらの事柄が箇条書きにされているだけです。

私はその行間を、自分の乏しい想像力と参考文献で調べた知識によって、ひとこまずつ埋めてみようと試みました。そして、私の生い立ちと自分のひ弱さを象徴するような〈雨〉というキーワードで、私と父の時代の流れを対比してみたのです。

様々な歴史的事件を背景にした父の長い物語を、ただ羅列するだけでは、緊張感がなくなってしまいます。また、それでは単なる散文です。それで、長漫にならないよう構成に配慮しました。父の歴史の流れを和暦(昭和などの元号)で記述し、私の
歴史の流れを西暦で記述することで、過去現在をきわ立たせました。こうすることで、私の個人史と父の個人史を対照させようと工夫したのです。

そして、各連の父のエピソードの内容を基に、私のエピソードを配置しました。
その際、雨をキーワードにして、父の体験と私の個人的な出来事を関連づけるように心がけました。これが成功したかどうかは、わかりませんが、2005年の国民文化祭に応募した所、現代詩部門で入賞しました。ある意味で父の供養になったような思いでした。


私に被爆の体験はありません。肉親の一人が亡くなっているとしても、言わば、部外者――傍観者に過ぎませんが、広島に生まれた以上、この問題を避けて過ごすことはできません。今後も折々書き続けていきたいと思っています。



| 原爆関連自作詩 | 09:03 | comments(0) | trackbacks(0)
SEARCH THIS SITE.
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
CATEGORY
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE