高田敏子の人と詩業 53
 最終話 手渡せなかった薔薇

来客のない日、先生の自宅二階にある「野火の会」編集部で
の用事が済み、先生に別れの挨拶を告げると、手のあいた先生はよく玄関先まで出向いて来た。そして、ドアの前に立って見送ってくれるのだった。

それも、高田宅前の小道の突き当たりの角まで、つまり私の姿がすっかり見えなくなるまで見送っている。私はありがたいような、面映(おもはゆ)いような気持で歩を進めた。振り返る度に、先生は微笑を浮かべて玄関に佇み、私は下宿に帰るまで背に温もりを感じた。

上京以来、大学の学期休みに郷里の広島に帰る習いとなり、限られた日数の一家団欒の中で、両親は以前にもまして私を慈しんでくれた。東京に戻る日の朝、父はよく家の門前まで出て、去っていく私を見送っていた。私を見守る先生の眼差しは、遠い日の父の眼差しにも重なるものがあるようだった。
(写真は若き日の筆者が会った頃の自宅玄関前での60代の先生。左上に「野火の会」のプレートが見える。「諏訪の森の詩ー高田敏子の世界」(新宿区立歴史博物館刊)より転載)




       野ばらの花

     海の見える丘の草むらで
     野ばらを摘んでいる
     髪は二つに分けて三つ編みに
     摘んだ花は 二輪
     掌(てのひら)の中に包まれている

     「足が弱くなって駅の階段も
     手すりにつかまるようになった」
     電話の声が言っている
     掌の中の花の一輪は
     あなたにあげるつもりだったのだ
     あなたに まだ会わない前の
     ずっと前の私だったのに――

     少女の日の私の傍には
     スケッチ帖をひろげている少年がいて
     少年の描く海を私も見つめていた

     空に爆音がしている
     「サヨーナラ」
     少年は挙手の礼をして空に消えていってしまった

     電話線と伝わって来るあなたの声に
     爆音が重なる
     「私も階段の手すりにつかまるようになりました」
     あなたの声に答えながら
     私は 野ばらの花を思っている
     あなたにも
     少年にも
     あげそびれてしまった花二輪
     私の掌の中にいまも包まれている
                          遺稿詩集『その木について』

「野ばらの花」の詩の中に登場する〈少年〉には私にも心当たりがある。作中の少年は、〈少年は挙手の礼をして空に消えていってしまった〉という章句から、先の太平洋戦争で亡くなったことが暗示されている。だが、先生から直接聞き知った〈少年〉がいた。

いつものように高田宅を訪れた日、私は先生から一枚の古い写真を見せられた。そこに写っていたのは、白絣(しろがすり)に袴をはいた凛々しい少年であった。私が「すごいハンサムですね」(当時は、まだイケメンという言葉は流行っていなかったから)と言うと、彼は遠縁にあたる者で、先生は将来この少年と結婚することを夢見ていたと言う。

先生が少女の頃、居間で少年と向き合って坐ると、お互いがお互いを意識して緊張し、手が震えて卓袱台(ちゃぶだい)がカタカタと小刻みに音を立てるほどだっという。それほどに思いを寄せ合った二人だったが、少年は肺結核で夭折してしまったそうだ。

戦争がなければ、結核という現在では治癒可能な疾病がなければ、先生は〈花〉に象徴される至純の愛を手渡すことができたはずである。この作品は少女の頃の回想シーンと初老の現在とを一連ごとに交互に組み合わせた構成になっている。だから、読む進んでいくと足の弱った初老の〈あなた〉は、早世した少年の生まれ変わりだとわかって来る。

しかし、〈あなた〉に花を渡すには、もうお互いに時が遅すぎたようだ。もっともっと若い頃の、〈あなたに まだ会わない前の/ずっと前の私〉だったらよかったのだろうが。

人は誰でも、人生で渡しそびれた花がある。その無念の思いを抱(いだ)いて年老いていくのだろう。
私にも先生に手渡せなかった薔薇がある。それは私の処女詩集である。先生が元気な内から私は詩集上梓を思い立ち、先生に相談した。私は男性会員なので、もう一人の恩師である安西均先生に跋文を書いてもらうのがよいだろうと奨められた。

ところが、先生が亡くなられるまで私はとうとう詩集をまとめなかった。私はまだ若輩で、自分自身にも生き方にも自信が持てず、こんな情けない自分が詩集を出すことに意義を見出すことができなかったのだ。今、顧(かえり)みても恥ずかしいことである。

長寿を信じていた先生が思いもかけず急逝されてから、私は取り返しのつかない思いで師恩に報いるために詩集を刊行した。先生没後、2年目に私は恩師の霊前にやっと処女詩集を供えることができた。

2000(平成13)年に父の介護のために私は東京での生活を引き払った。帰郷した翌年に父が逝去した後、私は東京で勤めの傍(かたわ)ら開講していた詩の教室を、専業として郷里で再開した。
爾来、投稿原稿に目を通す明け暮れの中で、気がつけば、自分も師と同じ道を辿ろうとしている。

選評の言葉に迷う夜々、考えあぐねて手を休めると、遥か背後から届く先生の眼差しを感じるような思いがすることがある。
重力のように降り注ぐ、豊かな情愛の雨に、私は今も浴しているのだろう。
                                      (完)


※連載53回にわたり、高田敏子先生に学んだ拙い回顧録を愛読して下さいまして、ありがとうございました。
次回からは先生の周囲に集った忘れ難い群像についてペンを走らせたいと思います。
こちらもよろしくお願いします。


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高田敏子の人と詩業 52
 第52話 死の予知夢

       夢の手

     夢の中で手を握られていた
     私の手のひら
     ぴたりとその手のひらに重なり 握られて
     歩いていた
     風景もなく 人の姿もなく
     ただ 握られる手の 安堵の中で歩みつづけていた

     目覚めると 私の手
     胸の上にのっていた

     このごろの私 夢の中でいたわられているらしい
     眠りの中で胸に手を置く癖はつづいていても
     そのために おそろしい夢を見ることもなく
     いまも私の手 胸の上にあって
     握られた手のあたたかみを追っている

     身を起こし 朝の身じまいをする間も私 手のあたたかみを思い
     夢の中に身を置いている

     このごろ見たいくつかの夢の切れ切れ
     姿のない人の手に包まれ 抱きしめられていたこともあった

     姿のない手に抱きしめられるのも
     姿のない手に握られ どこへともなく歩きつづけるのも
     ほんとうは
     おそろしい夢なのではなかったか?
                            詩集『夢の手』1985年

先生が71歳で上梓した詩集『夢の手』の標題作は、自己凝視の厳しさが夢の中にまで浸透した希有な詩である。

夢の中で何者かに手を握られ、抱きしめられたという。そのことを作者は、〈夢の中でいたわられているらしい〉と受け取っている。夢で握られた手の温もりの余韻は、日中も続いていて、それが不思議な安らぎをもたらすのだ。

作者を夢の中で抱きしめるのは、亡くなった家族なのか。それとも、かつて想いを寄せた者なのか。そのいずれかはわからないが、作者はひとつの冷厳な事実を知る。それは、〈姿のない手に抱きしめられるのも/姿のない手に握られ どこへともなく歩きつづけるのも/ほんとうは/おそろしい夢なのではなかったか〉と思い至る。なぜなら、姿のない者に抱かれるとは、死霊に抱かれるのにも等しいことなのだから。

この作品に描かれた内容が事実か、作者の創作なのかは別にしても、先生はこの頃から自身の死について思索を巡らせていたことがわかる。これから3年後、先生は不治の病に倒れるのだが、詩的な直感が知らせたに違いない。

先生の没後、十年余を経て父が亡くなった。その折、異夢を見た。その内容は「夢の手」と重なるものがあった。私は先生の作品から着想を得て、恩師の足許にも及ばぬ作品ではあったが、次のような詩を書いた。
 

     

 

     さ緑に澄んださざ波が寄せる渚に腰を下ろし、私は海

     を眺めている。沖から吹いてくる柔らかな風が身体を包

     んでいる。暖かくやさしいものに包まれて、私がまどろ

     んでいると、波間から上った父が砂浜に立ち、私に向っ

     て駆けてくる。

     点滴と酸素マスクに繋がれていた末期の父ではなく、

     額が白く輝き、アロハシャツを着、ショートパンツをは

     いた若い日の父だ。

     父は私に一緒に泳ごうと誘っているようだ。父と手を

     つなぎ、波間に向うと、私はいつしか遠い日の幼い心に

     戻っている。それでいながら、水に入る前は準備運動を

     しないと身体に悪いと、大人の分別で心配している。

     波打ち際まで()を進めた時、目が醒めた。目が醒めて

     もなお潮風に吹かれているように、胸の内は懐かしい父

     の温もりが宿っていた。

     今頃、夢の中の私は、父に連れられ海に入っているに

     違いない。死んだ父に手を曳かれ、引き返せない深みへ

     と降りているのだろう。


                         (この稿続く)



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高田敏子の人と詩業 51
 第51話 死をおそれぬ生き方

       雪の下

     いろりの火が とぼしくなりました
     寒さに身を小さく 小さくかがめ
     残り少なくなる火を見つめていた おばあさんは
     思わず いいました
     「あなた 抱いて!」
     おじいさんは 一瞬 不思議な声を聴くような
     遠い目をし その遠い目のまま
     おばあさんの肩を抱きました
     おじいさんの胸は薄くなっていました
     こうして抱かれることを
     どれほどの月日
     忘れて過ぎて来たことでしょう
     おばあさんは おじんさんの胸の薄さがいとおしく
     しっかり身をよせました

     いろりの火は消えかかり
     いのちの火も細まりながら
     おばあさんは
     花嫁のように 頬の熱くなるのを覚えました

     雪は いままでにないほどに
     降りつづき 降り積もっています

     おじいさんと おばあさんは
     抱き合っていました
     いろりの火の消えつきた 闇の中
     おばあさんは 桃の花咲く中に身を沈めてゆきました

     雪は その下深く 家を埋めて なお降りつづいています

                           詩集『夢の手』1985年


詩集『夢の手』は先生が71歳で上梓した。詩人高田敏子の詩業の頂点を示すものとして高く評価され、翌年、第10回現代詩女流賞を受賞している。
作品「雪の下」は先生の全作品の中でも非常にユニークな性格を持つ。普通、詩は心の告白という形を取るので、作者自身が一人称で語るものである。同義に語ることはできないかも知れないが、譬えて言えば小説における「私小説」ということになるだろうか。

ところが、この作品では作者は表に出ず、物語を語るナレーターとしての位置にある。
舞台は東北の豪雪地帯を思わせるような雪深い情景で、おじいさんとおばあさんが二人で暮らす民話風の構成である。

形式は民話風だが、内容はおとぎ話のような長閑(のどか)なものではない。ここで語られているのは、いわゆる「心中もの」である。雪の降り続く夜、いろりの火が消えかかり、室内は凍りつき、おじいさんとおばあさんの生命の火も消えようとしている。

二人はお互いの身体を温め合うように、しばらくぶりに抱き合った。おばあさんの身体は年老いているのに、心はまるで花嫁のように高揚している。おばあさんはおじいさんに抱かれながら、薄れ行く意識の中で桃の花園の幻想を見ながら、至福の中で絶えようとしている。

私は最初この詩を目にした時、演出家・蜷川幸雄で名高い「近松心中物語」のワンシーンが浮かんだ。舞い狂う吹雪の中で、男が女を手にかけるクライマックス の場面である。先生の「雪の下」は「近松心中物語」のような激しいものではないけれど、相思相愛の男女が雪の下に消えて行くドラマは同じである。

このような悲劇的な民話に託して先生が伝えたかったメッセージは何であったのだろう。
私はそのヒントを、先生の没後5カ月目に刊行された遺稿エッセイ集『娘におくる言葉』に見たように思った。「星空」と題するエッセイの中で、
「年を重ねるほどに、心はさびしくなってゆきますけれど、そのさびしさを知りながら、生き生きとしたあり方を持たねばならないと、私は、たえず、自分に言いきかせているのです。
そして、私の場合、その生き生きとさせてゆくためには、死をおそれない、と言っては言葉が強すぎるかもしれませんけれど、それに近い思いを自分の中に育ててゆくことのように思います」と綴っている。

作品「雪の下」からは、死のこわさやさびしさは伝わって来ない。愛する者と共に生命を終える喜びがある。先生は、このように雪という清浄なイメージに包まれた老いの終曲を描くことで、死を超えた生き生きとした人生の処し方を願っていたように思われる。
                                 (この稿続く)

追記:今日、5月28日は奇しくも高田先生の命日でした。先生没後23年、今も恩師の遺徳に守られていることを思います。


| 高田敏子の人と詩業 | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0)
高田敏子の人と詩業 50
 第50話 詩的直感・霊感

優れた詩人の作品には、考えて考え抜いて詩的な発想が浮かんだというより、直感が働いた” 詩的霊感 ”とでもいった方がふさわしいようなモチベーションによって成った不思議な作品がある。

     雀 窓に来て

     ねそびれてしまった雀
     ひさしの間から 深夜の町を見ている
     肩をよせ合って行く 若い男女
     恋は人を眠らせないのかしら?

     ねそびれてしまった雀
     まだ恋を知らない
     梅の蕾もまだ固い
     なぜ眠れないの?
     雀は恋を知らない

     きのう公園のベンチで見た二人
     ベンチの両端に坐っていた
     おじいさんと おばあさん
     両端に坐っていながら
     二人は ほほえんでいた
     話をしなくても 身をよせ合わなくても
     二人は ほほえんでいた
     ーー二人の視線は一羽の雀に結ばれていてーー

     雀は うっとりと眠くなっていった
     二人の間のベンチの背に止ったときの
     陽のあたたかさが思われて

     今朝 窓に訪れた雀
     ゆんべねそびれた雀でしょうか
     私たちのベンチに来て止った雀でしょうか

     私の一生を一夜で見てしまったような雀


この詩は1989(平成元)年発行の詩誌『野火』141号に掲載された。終巻号となった同誌には奥付に高田先生からの近況報告が載っている。
「明日5月1日から、草津の温泉に行って来ます。足の方はよくなったのですかれど、背中の痛みがとれないので、草津にある病院に入院してリハビリを受けようと思っています。元気になって帰って来る予定です。
四月の例会も盛会でした。私を皆さん歓迎して下さって、本当に嬉しく感謝の思いいっぱいです。六月も、必ず例会に出席いたします。私は気が早いので、130号記念のお祝いをしようかと、考えはじめています。病気のことを思うより、野火のことを思って元気をつけてまいります」

「例会」とあるのは、東京で行われる関東地区合同の合評会のことである。4月の例会には療養中の先生が久々に出席して会員達から温かい声援を受けている。また、同時期、先生は「ダイヤモンドレディ賞」を受賞するという喜びが重なった。この賞は日本の生活文化を支える優れた女性に与えられるもので、先生の受賞理由は、詩誌『野火』を創刊し20年以上も全国に会員を擁し発展してきたことであった。

誰もが先生の復活を祝い、その後の病の急変など予想だにしなかった。先生自身も、「4月から講座も二つ再開します。家に来ていただくクラスもございます」と再起にかける抱負を述べている。

作品「雀 窓に来て」はこの時期、サンケイ新聞に発表された詩で、作者のコメントがある。
「ちょっとした恋よ。病院で点滴をしていた時、雀が窓に来て首をかしげて私を見ていたの。その雀と、散歩の時公園のベンチに、いつも誰か坐っているのを思い出したのよ。終りの一行は、いろいろ考えたのだれど」

作中で、窓に来た雀は、作者の分身であろう。作者は雀の視点を借りて、療養中の我が身を冷徹に眺めている。病床から抜け出せない代わりに、雀となって自由に周りを飛び交い、思いを馳せる。

恋の詩として書かれた作品であるが、若い世代の華やぎのある恋ではない。人生の後半に至った者同士の、〈話をしなくても 身をよせ合わなくても/二人は ほほえんでいた〉ような、老いの安らぎに身を浸す、静かで成熟した恋が描かれている。
〈おじいさんと おばあさん〉二人の視線が一羽の雀に結ばれる、穏やかな至福の時間を、先生は生涯願っていたのだろう。

最終行は、先生の自己凝視の厳しさと寂しさを象徴する詩的結晶だ。
〈ねそびれた雀〉=眠れぬまま夜を明かした作者は、一夜にして一生を見てしまったという。その実感は理屈ではなく、詩的霊力から生まれたといってもいい。表現はこれほど平明でありながら、晩年の死生観を物語る怖い一行だと思う。
                                  (この稿続く)

| 高田敏子の人と詩業 | 12:42 | comments(0) | trackbacks(0)
高田敏子の人と詩業 49
 第49話 人生の恩師

37年前、高田先生に巡り逢って私は絶望の淵から救われた。郷里を離れ、東京の大学を起点に文学の大海に漕ぎ出したのはいいが、どこに進んでよいかわからぬ迷いの苦しさの中で、たちまち自分を見失った。多くの時間と費用を犠牲にして、せっかく入学した大学を退学しようかと思うまでに追いつめられていた。

私が上京した時、誰一人、東京に知り合いはいなかった。大学でも友人は一人もできなかった。授業が終れば、そそくさと一人ぼっちで東京郊外の下宿に戻り、引きこもりのような日々を過ごしていた。唯一、知人と言えるのが、同じ下宿に住んでいたI君だった。彼は面倒見がよく、美味い手料理を作り、おいしいコーヒーを淹れられる器用で貴重な友人だった。

沙漠のような心を抱えて、沙漠のような大都会を歩き疲れて下宿に帰ると、彼は憔悴(しょうすい)した私のために心地よい音楽をかけたり、おいしいコーヒーを作ってくれた。孤独な私にとって、それがどんなにありがたかったことか。ところが、I君は下宿の大家さんとトラブルを起こし、他のアパートに引っ越してしまった。私は再び、孤立無縁の中に突き落とされた。

彼の新しい下宿は、都心を挟んで全く反対方向の郊外にあった。訪れるには2時間近くかかった。最寄り駅からも遠く、20分近く歩かねばならなかった。私は夜、下宿に一人居るのが耐えきれなくなると、I君の引越先をよく訪ねた。深夜近くに彼の住まいを訪れたことも度々あった。私には彼の所しか居場所がなかったからだ。

今と違って、当時、大学生で家に電話を持っている者はいなかった。ましてや携帯などない時代だったので、まったく行き当たりばったりに訪ねて行くのだから、当然、I君が留守をしている方が多かった。最寄り駅から遠い道を、もう一度引き返し、また2時間近くかかって、深夜下宿に戻るのは心底、身も心も疲れた。

途中、両側に民家の並ぶ一本道の路地があった。遠い郊外のため、街路灯も少なく、真っ暗な道が延々と続く。行き交う人影も皆無で、まさに、闇の中を歩くとはこのことだった。それは当時の私の心象風景を象徴する映像として深く心に刻まれた。

そんな実りのない明け暮れが、大学に入学してから1年半近く続いていた。今でもよく覚えている光景がある。どこにも行き場のない私がよく立ち寄ったは、古書街だった。神田以外に大学の近くにもかなりの店舗が連なる古書街があった。その日も古書店をひやかしている内に日が落ち、おまけに雨が降り出した。ぬれそぼった身体で場末(ばすえい)の大衆食堂の暖簾(のれん)をくぐった。

出て来た定食は粗末なしろもので、「こんなもの、ブタのえさじゃないか」と心の中で呟くと、自分のみじめさがつくづく身に沁みて来て、進むべき道を見つけられない絶望感に泣きそうになった。その頃が不遇の最低辺だったように思う。
ところが、光明は意外な所から射して来た。たまたま入った古本屋の棚に、後の恩師となる伊藤桂一先生の詩作入門書があった。

以前、誰かに紹介されてその本に手を伸ばしたわけではない。伊藤桂一という名は未知のものだったし、恥ずかしながら、私はその時、詩人・高田敏子の存在さえ知らなかったのだ。
だから、伊藤先生の書に出会ったのは全くの偶然だった。

その入門ガイドは、これまで読んだどの本よりも実践的で、革新的だった。私は目から鱗(うろこ)の思いで読みふけった。巻末に記してあった、伊藤先生が補佐する詩作グループに、とても感動した旨の感謝の手紙を書いた。それが、高田先生の同人詩誌「野火の会」であったのだ。

その日から、先生の逝去まで15年続く、師弟の日々がスタートした。もう、I君のアパートを訪ねることはなくなった。私には進むべき道が与えられ、恩師にも多くの詩友にも恵まれた。
人との出会いが人生の転機になることは度々言われることである。しかし、私にとっては人生が一変するほどのドラマだった。

あのまま高田先生に会わなかったら、詩作入門書を手に取らなかったら、私はどうなっていたのか。それを考えると、ぞっとする思いだ。大学さえ退学しようとまで突き詰めた自分は、その後、どんな空しい人生を送ったのかと暗澹(あんたん)たる気持になる。


私が大学卒業後、郷里に帰らず、東京での就職を希望したのは、ただただ、人生の恩人の高田先生のそばにいたかったからである。
だからこそ、1989(平成元)年に高田先生が亡くなられて以来、私が東京に留まる理由はなくなった。2000年に父が病に倒れ、介護のために帰京しなければならなくなった時、先生のいなくなった東京にさほど未練は覚えなかったのである。
                                (この稿続く)

| 高田敏子の人と詩業 | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0)
高田敏子の人と詩業 48
 第48話 雷雨の別れ

「思ったより悪いらしいよ。明日の朝、小林さんが東京に連れて帰るそうだ」
「野火の会」ブレインの伊藤桂一先生から近親者へ電話があったのは、1989(平成元)年5月7日の夜遅くだった。先生はその一週間前から秘書の小林さんに付き添われて、草津の国立温泉病院に療養に行っていた。

周囲の者は温泉でのんびり湯治をすれば、足腰の痛みにもいいだろうと楽観的に考えていた。
ところが、温泉病院の医師は一日も早く東京の病院へ入院するようにという指示だった。翌8日、急遽草津から帰京した先生は、親しい詩人の骨折りで東京医科大病院の特別室へ移った。
担当医師からは、「一週間か十日の覚悟を」という厳しい所見が伝えられた。

12日夜、伊藤先生を中心に、野火関係者とブレインの先生方で、重篤の先生に心を痛めながら、緊急時の手配や事後の役割、野火の会処理の問題まで相談が重ねられた。
先生が草津から帰還して、28日に終焉を迎えるまでの二十日余。私の15年に亘る師弟の日々の中で、これほど辛い時間はなかった。

当時、私は新宿近郊に住まいしていたので、先生が入院している西新宿の東京医科大病院は毎日の通勤経路の途中にあった。しかし、先生の身体の負担を案じて門下生の見舞いは固く禁じられていたから、病院のすぐそばを歩いても、先生は遥かに遠い存在だった。朝夕、病院の窓を仰ぐ度に、この中で先生は今も病と闘っているのだと思うと、胃の腑をえぐられるように苦しかった。

ついに、28日の日曜日の午後2時過ぎ、詩友から先生逝去の報が入った。十日、生命がもつか時間の問題だと宣告された先生の身体は、二十日間も闘い抜いた。その間に、詩誌『野火』最終号を手に取り、会員の詩集上梓に祝いの電話までかけたのだ。まことに、全力投球の人にふさわしい生涯だった。

5月は一年で一番おだやかな季節である。ところが、今年は関東で突風、竜巻が荒れ狂い、多大な被害を与えた異常気象の年となった。実は先生が亡くなった平成元年の5月も、異様なほど嵐が襲来した。東京は普段でも雷の多い土地柄だが、この年の五月は絨毯爆撃でも始まったかというような、すさまじい雷雨に見舞われた。

先生の通夜が行われた夕刻も雷雨だった。参列者は滝のように流れる雨のしぶきに打たれながら焼香をした。その烈しい五月の模様を交えて安西均先生が追悼詩を高田先生に捧げている。


       置き忘れたステッキ     安西 均
         ーー高田敏子の霊に

     いまにも降り出しそうな空模様だ。
     《空! 泣くな。
      泣きたいのは、こっちのはうだ》
     わたしも病院にこもって、すっかり両脚が
     弱くなってゐる。用心のためステッキ代わりに、
     太い柄の雨傘を突いて出かけた。

     霊安室では、しづかな寝息でも立てさうに、
     仰向いてゐた。笑ってゐるやうにも見えた。
     「あなたが下さったステッキも、
      持たせてやりました」
     長女のSさんがさう言ひ、覆ひ布の右側を
     そっと捲(めく)って見せた。なるほど、
     プレゼントしてをいた、細身の
     婦人用ステッキが、添ひ寝してゐた。

     子供のころ盗み聞きしたことがあるが、本当に
     〈たましひ〉は空に昇っていくのだらうか。
     さうだとすると、つい先刻(さっき)、音も立てず
     居なくなったばかりのたましひは、
     いま、どのへんにゐるのだらう。
     雨雲が塞(ふさ)いでゐるあたりで、まだ
     うろうろしてをるのではあるまいか。
     この部屋にステッキを置き忘れたままで、
     不自由してゐないかしら。

     夜更けてひとしきり、霊安室の厚いドア越しに、
     激しい雨の音が聞こえてきた。
     《空! 大声で泣くな。
      泣きたいのは、こっちもさうだ》

                                (この稿続く)

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高田敏子の人と詩業 47
 第47話 微笑の花

リルケが描いた身体から降る重力の雨は、作者を通して微笑の雨に姿を変え、やがて最愛の者を慈しむ喜びの雨へと、美しい意味を与えられている。〈遠い過去の年月から 立ちもどって来た私の微笑〉とは、人を慈しんだ遠い日の幸せが蘇った微笑なのだろう。

その喜びの思い出に浸りながら、作者は自分自身を慰め労る。しかし、老境にさしかかった時、子供は自立して離れ、慈愛の雨を降り注ぐ対象は失われていた。自分で自分を愛(いと)おしむように、〈私が私自身にむける微笑〉を闇の中に浮かべるだけなのだ。

愛を注ぐ対象がない悲しみーー詩人・安西均先生は「遣り場のないやさしさ」と呼んだ。
その悲しみさえも、老い故に〈闇に目を見開いたまま悲しみを見つめつづける力も消え去っている〉淋しさがある。

遣り場のない、行き場のない愛の淋しさ。が、対象が失われても、なおも、わが身から豊かにあふれ落ちる、情愛の雨。やさしさを注ぐ雨は降りやむことはない。今は、その慈愛の雨を自分の身に受け止めるほか術(すべ)はなく、〈私が私自身にむける微笑の花を闇に咲かせて〉安らかな眠りにつく夜を迎えている。

〈いまは雀を追うこともなく/庭の柿の木の幹で爪を研ぐこともなくなっていた〉老猫は、老境に生きる作者の分身であろう。猫も老いを迎え〈白い花〉のように存在感が薄らいでいる。それはまるで老いの淋しさ・哀しさを負う作者の魂の化身に見える。
ほの白く闇に溶け入る描写は、寂莫たる悲哀を暗示する、象徴表現の粋というべきだろう。

重力の雨から、微笑の雨への自然な転換。リルケの詩の本質を捉え、わが物として初めて結晶したこの一篇こそ、高田敏子の詩境深度を示している。

この作品が70歳を越えて結実したことを思う時、先生が生涯をかけた詩業の完成度を私はあらためて俯瞰する思いだ。
                                 (この稿続く)

| 高田敏子の人と詩業 | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0)
高田敏子の人と詩業 46
 第46話 リルケの影響

       白い花

     灯を消して
     床に体を横たえると
     ノートに書き写したことのある
     詩の一節が思われて来る
      眠っているものからは降るのだ
      棚引いている雲からのように
      重力の豊かな雨が
     リルケの「重力」と題された詩の終連なのだが
     私 このとき 微笑を浮かばせている
     わが身を横たえて識る
     わが身から降るゆたかな雨に
     私は微笑をむけている

     その微笑は 私がはじめて生んだ子に
     乳房をふくませていたときの微笑に結ばれているように思う
     私が看護した兵士の
     高熱の中で呼びつづけていたかすかな声の女名前に
     私が答えていたときの
     兵士の微笑 私の微笑にも似ているように思う

     遠い過去の年月から 立ちもどって来た私の微笑よ

     闇に白い花が開いてゆく
     白いむくげの花のような
     私が私自身にむける微笑の花を闇に咲かせて
     私は眠りに入ってゆく

     私はもういまは 悲しみに眠れない夜を持ちたいとは思わない
     闇に目を開いたまま悲しみを見つめつづける力も消え去っている
     私の心はもうどこへ行くこともなく私の中にあって
     私を眠りに引き入れてゆく

     毎夜 私はそうして眠る
     私一人を包む闇の 眠りの平和を思って……

     窓の外の軒下には 白猫が眠っている
     昼間何度かこの家の庭に来て縁の敷居に前足をかけ
     家の中をのぞき見している猫
     宿のない猫が この家の軒下に来て眠っている
     猫もいまは雀を追うこともなく
     庭の柿の木の幹で爪を研ぐこともなくなっていた
     猫も白い花になっている
                       詩集『夢の手』1986年

1986(昭和61)年、詩集『夢の手』で第10回現代詩女流賞を受賞した時、先生は71歳。亡くなる3年前だった。作品「白い花」は生涯を貫いたリルケの深い影響を物語る作品である。

19世紀末に生まれたドイツ詩人・リルケは直喩に卓抜なことで知られている。
目に見えない重力を、雨雲から落ちる雨に比喩することで、目に見える鮮やかなイメージに転換した。

       重力    リルケ/秋山英夫訳

     中心、あらゆるものから自分を引きよせ、
     飛んでいるものからさえも自分を取りもどすものよ、
     中心、なんじ最強のものよ。

     飲み物が渇きのなかを還流するように、
     重力は立っている者をつらぬいて落下する。

     しかし眠っている者からは降るのだ、
     棚引いている雲からのように
     重力のゆたかな雨が。


作者はリルケの一節のようにわが身からも重力の雨が豊かに降っていることを想像して、微笑を浮かべている。〈わが身から降るゆたかな雨〉は、若き日に先生の胸から豊かに溢れ出た情愛の象徴だろう。人にやさしい思いをかけた、温かな記憶が〈微笑を浮かばせている〉のだ。

その微笑は、初めて授かった乳飲み子に、かつて看護した傷病兵にむけた微笑に重なっていく。作者の微笑は、わが子という最愛の者を得た微笑。傷ついた兵士の呼びかけに、恋人の身代わりとなって、作者が答えてやった時、兵士が浮かべた微笑。

ふたつの微笑は、最愛の者と共にいる至福の微笑なのだ。
                                 (この稿続く)

| 高田敏子の人と詩業 | 19:53 | comments(0) | trackbacks(0)
高田敏子の人と詩業 45
 第45話 布良(めら)の詩碑

(先生の詩碑については、以前に綴っているのですが、この度の連載の流れの中では外すことのできないものなので、あえて再掲します)

1990(平成2)年、先生の一周忌に会員の尽力により二基の詩碑が建てられた。
一基は、先生宅近くの高田馬場・諏訪公園内。子供の遊び場にちなむ「かくれんぼ」の詩が、自然石にはめ込まれた銅板に刻まれている。

他の一基は、房総半島・館山(たてやま)近郊の安房(あわ)自然村の丘陵。詩碑の建つ高台は眼下に太平洋の海原が広がり、快晴の日には遠く富士山が望まれる、景勝に恵まれた地である。
詩碑の設計は「野火の会」ブレインの一翼、鈴木亨先生。
素材は黒御影石。台座は白御影石で、故人が好んだ藤色のタイルが巡らされている。鈴木先生の発案の「紫の海に浮かぶ詩碑」という詩想漂う瀟洒なデザインだ。詩碑には、建立の地「布良海岸」の詩が刻まれている。

       布良海岸

     この夏の一日
     房総半島の突端 布良の海に泳いだ
     それは人影のない岩鼻
     沐浴のようなひとり泳ぎであったが
     よせる波は

     私の体を滑らかに洗い ほてらせていった

     岩かげで 水着をぬぎ 体をふくと

     私の夏は終わっていた

     切り通しの道を帰りながら

     ふとふりむいた岩鼻のあたりには

     海女が四五人 波しぶきをあびて立ち

     私がひそかにぬけてきた夏の日が

     その上にだけかがやいていた。

この作品は、1967(昭和42)年刊行の詩集『藤』(第7回室生犀星賞)に発表、先生の代表作として幾多の鑑賞の書で紹介されている。最初に作品の真価を発掘したのは、当時、現代詩人会会長の村野四郎氏だった。


朝日新聞連載の詩でブレイクした『月曜日の詩集』(1967年)の序文で村野氏は、「いわゆ生活詩として好評を博した、日常的で平明な作品群が、高度な詩性を土台にして書かれたものである」と高く評価し、それを証明するものとして「布良海岸」を引用している。


村野氏は、新聞の連載で百万人の読者に〈詩〉を感じさせ得るような作品は簡便に生まれるものではないと断言する。それを踏まえた上で、「布良海岸」は「非常に高度な詩的元素と技術が用意されていなければ、決して生まれて来なかった」と、讃辞を贈っている。


「布良海岸」創作時、先生は五十代と思われる。熟年を迎えた境涯が、この詩を読み解く重要な鍵である。熟年と言えば聞こえはいいが、人生の老いの入り口にさしかかった年齢といってよいだろう。老いには個人差があり、トライアスロンに出場するほどの体力の持ち主もいる。ただ、若者のファッションや流行について行くには、もう気後れのする年代であるのも確かだろう。


作者が久しぶりに訪れた布良海岸での夏の一日も、若者のように華やかな水着を着けた、生を謳歌するような海水浴ではなかった。〈人影のない岩鼻〉で人目を避けるような、「沐浴」にも等しい淋しい一人泳ぎなのある。ここには、女性の盛りを過ぎた素肌をもう衆目にさらしたくないという含羞が、暗黙の内に込められている。


それでも〈よせる波は/私の体を滑らかに洗い ほてらせていった〉ような、官能的な陶酔感と(おのの)きを、まだ身内に覚えるのだ。それは老境に向かう心身の最後の輝きなのだろう。


〈私の夏は終わっていた〉とは、単に季節としての夏が終わったのではなく、人生の夏の終わりを暗示している。それは夏に象徴される〈青春〉の終わりに他ならない。〈ふとふりむいた岩鼻のあたりには/海女が四五人 波しぶきをあびて立ち〉という章句にには、海女の野性的な肢体に若き日の自分を重ね見る、作者の青春への郷愁が伺える。だからこそ、〈私がひそかにぬけてきた夏の日が/その上にだけかがやいていた〉海女たちの光景には、人生の盛りを過ぎ、青春の輝きをまぶしく見つめる女性のさびしさが漂っている。

 

「布良海岸」は、あまりにもさりげない言葉の裏に、深い内容が秘められていて、平明な語り口のために、よほど目をこらさないと詩の核心を読み過ごしてしまう。私はこの詩を自分なりに読み解くのに、作者と同じ年代になるまで歳月を要した。


先生の詩業の中で「布良海岸」は、老いと若さの狭間に揺れる微妙な年代の女性心理をうたった、中期の代表作である。
高田敏子の詩の特徴は、素材は日常的、言葉は平明。散文と見まがうまでに透明化されているために、詩句を注意深く見つめていないと大切な意味を見逃してしまう。それだけに、時間をかけて作者の暗示したメッセージを探り当てた時、魂に響くような感銘を受けるのだ。


2000年、東京の生活を引き払い郷里の広島に帰る前、記念旅行として教室の人達と布良の地を再訪したが、詩碑を飾る薄紫は除幕式以来、十年の風雪を耐えてなお鮮やかだった。

                               (この稿続く)


| 高田敏子の人と詩業 | 11:41 | comments(0) | trackbacks(0)
高田敏子の人と詩業 44
 第44話 晩年の死生観

遺稿詩集『その木について』には、高田先生の死生観を伝える多くの秀作がある。
同詩集の「あとがき」で、編者新川和江氏は「最晩年の、人生についてーーわけても死についての哲学的思索の影が、いちだんと深まりを見せている」と称揚し、「高田さんのこれまでのどの詩集にも、まさるとも劣らない内容の詩集であると、わたくしは固く信じている」と結んでいる。

以下に紹介する作品「なわとび」は、高田先生が自ら編集した最期の単行詩集『夢の手』以降の詩稿をご長女が時間をかけ丹念に整理された130余篇の中のひとつである。これまでの単行詩集、先生没後の1989年出版の全詩集にも収録されていない。


       なわとび

     湯船から手をのばして
     窓ガラスの湯気の曇りをぬぐった
     ぬぐった円の中に
     いくつかの星が光った
     そのとき不意に声がした
     「隣りの部屋のドアが開いて すうっと入ってゆく
     死とは そのようなものなのです」
     それは この山の湯に来るときの車中で隣に坐った老人の言葉だった
     いく日か意識を失ってもどって来たのだとその人は体験を語り
     「ドア一枚の違いです 死を恐れることはありません」

     湯気の曇りをぬぐって 窓に見る星空
      こちらから あちらに
      すうっとぬけてーー
     そこには なわとび遊びの好きな少女がいて
     歌っている
      くまさん くまさん おはいんなさい
     少女は 小熊座も大小熊座も輪の中に呼び入れて
     なわとび遊びをつづけている
     あれはとうの昔に死んだ少女の日の私
     昼も夜も なわとびをたのしんでいた私

      くまさん くまさん おはいんなさい
     ある日少女は知った
     胸にある二つのもののふくらみ
     跳躍の度に伝わってくる存在の痛み
     少女のなわとび遊びは その日で終った
     少女のなわを束ねて部屋隅に置いて
     開かれたドアをくぐり 隣の部屋に入っていったのだった

     一つの部屋から隣りの部屋にーー
     人はそうして いくつもの部屋を通り
     最後の部屋が はじめの部屋につづいていると
     あの老人は そのことを教えに 姿を見せたのではないだろうか
     湯船に身を浮かせ 目を閉じて
     過ぎてきた部屋の一つ一つを思う

      どうぞ おはいんなさい
     耳近くその声をききながら

全国に800人余の会員を有する先生主宰の同人グループ「野火の会」のモットーは、「生活と詩をつなぐ」だった。「野火の会」創設のきっかけとなった、朝日新聞家庭欄の「月曜日の詩」の連載では、日々の暮らしの中での喜びや様々な発見などを、わかりやすい言葉で表現した。

それまで一般に、詩は難解な言葉で書かれると思われていたが、やさしい言葉でも精神の深みに届くような、人の心に響く詩が作れることを教えたのが、先生の大きな功績であった。
それは先生自身の詩業にも活かされている。「なわとび」はその証(あかし)となるものだろう。

この作品に難解な言葉は何一つない。それでいて、内容を読み解くのは至難の業(わざ)に近い。その理由は、「なわとび遊び」「隣りの部屋」「最後の部屋」といった平明な言葉の一つ一つが、生と死に関わる象徴的な深い意味を持っているからだ。
     
車中で偶然出会った老人の〈隣りの部屋のドアが開いて すうっと入ってゆく/死とは そのようなものなのです〉という言葉が作者の心に残る。死ぬことは大げさなものではなく、さりげなく別の世界に入っていくものだと言っているように私には思える。〈ドア一枚の違いです 死を恐れることはありません〉ーー大変な関所をくぐり抜けるようなものでなく、すぐ隣りの部屋に移るようなたやすいものだと。

浴室の窓ガラスを透かして見える夜空の、小熊座、大熊座の星座を眺めながら、作者は少女時代を回想している。なわとび遊びに夢中だった少女の頃の幻を、星空の中に重ね見ている。
この描写は非現実のイメージでありながら、永劫(えいごう)の時間が流れる宇宙の中で、なわとびに興じる少女の肢体が、新たな星座に変化(へんげ)したような詩的な美しさに満ちている。

3連で、少女から大人の女性への成長が描かれる。〈胸にある二つのもののふくらみ/跳躍の度に伝わってくる存在の痛み/少女のなわとび遊びは その日で終った〉と。そして思春期を迎えた機微を、〈開かれたドアをくぐり 隣の部屋に入っていった〉という修辞で巧みに表現している。

人生とは、年齢を重ねるとは、〈一つの部屋から隣りの部屋にーー/人はそうして いくつもの部屋を通り〉抜けることだという。ところが、〈最後の部屋が はじめの部屋につづいている〉という意外な言葉が語られる。

これは何を意味しているのだろうか。字義通りに受け取れば、生と死が循環しているということで、いわゆる「輪廻転生(りんねてんしょう)」の詩的イメージ化と解釈できよう。
だが、私はこの章句から、生と死が根幹の所で結び合っている、というメッセージを読み取った。つまり、生と死は別々に断ち切られているのでなく、隣りの部屋のドアを開けて行き来するような、根源的にひと続きであるという、作者の死生観を感得したのである。

卑近な言い方をすれば、この世に生まれ出ることは、死の始まりであり、死ぬことは新たな生の始まりであるのだと。
その摂理を先生は、このような平明な言葉で語ってみせたのだ。練達の詩人でなければ到底叶わぬ技(わざ)という他はない。

折々、挿入される〈くまさん くまさん おはいんなさい〉というリフレインにも着目したい。これは、なわとびで相手を輪の中に誘い込むはやし言葉だが、この作中で使われている意味あいは非常に重い。子供の遊びでは、やさしくたわいない歌い文句である。しかし、ここで〈おはいんなさい〉と誘っているのは、最後の部屋=死の世界へ誘っているのである。

最後の部屋、つまり死の部屋へと誘(いざな)う声が作者に空耳(そらみみ)として聞こえているのだ。
やさしげな語り口でありながら、これほど戦慄的な響きはないように思う。先生が長い詩業を経て到達した詩語の凄(すご)みを感じさせずにはおかない。同時に、高田敏子の詩の神髄を見たように思う。
                                  (この稿続く)



| 高田敏子の人と詩業 | 11:09 | comments(0) | trackbacks(0)
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