暗喩の夏 3

最終連で作者は、現代詩で重要な技法である「暗喩」というものに深く立ち入っています。

「われらが〈生〉にとつて/つねに〈暗喩〉といふものは/一瞬だけずれる閃光に似てゐる」の章句で、いきなり「暗喩」という言葉が登場するので、読者は戸惑うかも知れません。

作者が訴えようとしたのは何でしょうか。ここは少々理屈っぽい表現で描かれているのでわかりにくさもあるでしょう。

 

「暗喩」に対して「直喩」があります。直喩とは、例えば、〈幼子が花のように笑う〉といった言い方で、〈〜のように〉という言葉を使った比喩表現の一種です。これに対して暗喩は、直喩から〈〜のように〉という言葉を省いた比喩表現です。今の例文なら、〈花の笑い〉、他の例では〈天上の花〉〈死の灰〉などが該当します。

 

暗喩は、〈〜のように〉という説明の言葉が省略されているので、直喩に比べてわかりにくくなります。現代詩がわかりづらいという不評も、現代詩が暗喩をふんだんに使っていることに一因があるかも知れません。

元に戻りましょう。安西先生が最終連で暗喩について何を語りたかったか、です。

ここには、現代詩に対する作者の批評が込められていると私は思います。

〈われらが〈生〉にとって〉というのは、世間一般の私達、という意味ではなく、「詩を書く者の人生にとって」という意味だと解釈しています。

 

ですから、文意は「詩を書く者の人生にとって暗喩とは、一瞬だけずれる閃光に似ている」となるでしょう。そして、この文章の主眼は、「暗喩はずれる」ということです。

つまり、暗喩という表現は、物の真実を正確に表すものではない。あるいは、詩人がどんなに優れた暗喩を用いても、物の実相を表現するのは難しい、というメッセージです。

現代詩の世界で、暗喩が万能であるかのように難解さの上にあぐらをかいて、公然とまかり通っている状況に、安西先生は喝を入れたのだと思います。また、現代詩の世界の一翼を(にな)う先生自身への、自戒も込めているのかも知れません。

 

最終行の、〈もし地獄とやらにも/微笑があるとするならば/このやうなをかしさに違いない〉も戦慄的な表現です。

うっかり豆を落とした偶然で、九死に一生を得た事実を、人間は笑うことはできません。

落とした豆を拾おうとしたら目の前にお金が落ちていた、ということなら笑い話としてすまされるでしょう。

しかし、自分たちが生き残った代償に、何十万人の命が一瞬に奪われたのですから、笑いとは無縁のものなのです。

 

でも、もし地獄に悪魔がいたら、豆粒を落としたことで命拾いをしたら、悪魔はこんな時にうすら笑いを浮かべるのだろうと、作者は語っているのです。

どんな悲惨な事実でも冷徹に見つめる眼がなければ、こんな表現は生まれないでしょう。

安西均という詩人が持つ、峻厳(しゅんげん)な詩精神の一断面をかいま見る思いがする作品です。


なお、「暗喩の夏」がすべて旧かなづかいで表記されているのは、もちろん、安西先生が昔の人だからではありません。現代かなづかいより、旧かなの方を良しとする独自の美学のためです。

                          (完)


| 安西均 | 10:01 | comments(0) | trackbacks(0)
暗喩の夏 2

194586815分、原爆が炸裂した際の閃光によって爆心地付近の地表温度は3,000〜6,000℃に達したと言われています。

同時刻、市内電車に乗り合わせていた2人の女子学生は、床に落ちた煎り豆を拾うために腰をかがめました。その瞬間、彼女達の頭上を熱線が通り過ぎていったのです。

 

奇跡的な偶然により2人は被爆を免れました。この希有な体験を詩に書いたのが佐藤祝子(のりこ)さんという方です。佐藤さんはこの詩「夏の陽は」を、詩集『過ぎてゆく』に収め、私の恩師である安西均先生に寄贈しました。安西先生は数奇な運命の物語に心を打たれたようで、佐藤さんの詩の一節を引用して「暗喩の夏」を作品化しました。

 

過日、「暗喩の夏」を詩の教室で紹介した所、受講生のNさんが佐藤さんと同窓生であることがわかりました。Nさんと佐藤さんは広島女子高等師範学校の卒業生でした。

その後、Nさんの計らいで詩集『過ぎてゆく』を私は手に取ることができました。

これも詩に結ばれた不思議な(えにし)といえるでしょう。

 

「暗喩の夏」は上記に紹介した原爆秘話を扱った作品ですが、原爆という重いモチーフを新たな視点から描いています。原爆の悲惨さに重きをおくのではなく、偶然によって原爆死を逃れたことに焦点を当てています。一瞬だけずれる閃光という詩句が、運命がずれる=偶然に死を免れるという意味の暗喩となっています。

                       (この稿続く)


| 安西均 | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0)
暗喩の夏 1

    暗喩の夏         安西  均

 

   うつむいて煎豆(いりまめ)をひろつてゐるすきに

   世界が一瞬にして變わることがあるのだ

 

   わかい娘ふたりが

   満員電車で工場に向かつてゐた

   戦争の最後の夏だつた

   雑嚢(ざつのう)に入れておいた(かん)から

   煎豆が床にこぼれてしまつた

   その日の辨當(べんとう)代りだつたのだらうか

   娘たちは腰をかがめて

   豆を探しつづけたさうだが

   やがて頭をもたげたとき見たのは

  《乗客も電車も窓外の風景も》焼けただれ

  《無傷なのは二人だけだつた》といふのだ

   廣島で女學生だつたひとが書いてゐる

 

   われらが〈生〉にとつて

   つねに〈暗喩〉といふものは

   一瞬だけずれる閃光に似てゐるが

   もし地獄とやらにも

   微笑があるとするならば

   このやうなをかしさに違いない

 

                    *引用は佐藤祝子『過ぎてゆく』から。

                    (この稿続く)


 
| 安西均 | 11:08 | comments(0) | trackbacks(0)
SEARCH THIS SITE.
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
CATEGORY
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE