新聞コラム「でるた」の紹介
 1月23日(金)、中国新聞夕刊のコラム欄「でるた」に私の記事が掲載されましたのでご紹介します。新聞記事をスキャナーにかけたもので不鮮明な部分はご寛恕下さい。
 
   

   

 



| 日々の想い | 14:09 | comments(2) | trackbacks(0)
広島県立図書館で高田敏子を語る講演会
 9月13日、広島市内の広島県立図書館で高田敏子を語る講演会「人生の詩を読むーー高田敏子の世界」が開かれました。聞き手の広島大学大学院の西原大輔教授が同図書館の広報紙に当日の様子を掲載されたのでご紹介します。

 平成26年度第2回の広島県立図書館友の会ブックサロンは、9月13日土曜日の午後1時半より午後3時まで、図書館会議室で開催されました。講師は、日本詩人クラブ会員の石川敏夫さん、聞き手はわたくし広島大学の西原大輔、そして朗読は、朗読文学研究会「鈴音の会」主宰阿部律子さんです。参加者約40名の盛会となりました。

(左より西原教授、筆者、阿部律子さん)




 講師の石川敏夫さんは、早稲田大学の学生だった頃、高田馬場に住んでいた詩人高田敏子(19141989)に師事されました。台所詩人、家庭詩人として知られた高田敏子は、昭和35年から『朝日新聞』の家庭欄に、写真つきの詩の連載を行い、大反響を呼びます。誰もが理解できるやさしい言葉で書かれた、詩情あふれる作品が、多くの読者に支持されたのです。それらの詩は、のちに『月曜日の詩集』(昭和37)にまとめられました。


 ブックサロンでは、高田敏子の4篇の詩が、阿部律子さんの美しい朗読で紹介されるとともに、詩人の人生について、様々な側面から語られました。



        雪花石膏(アラバスタ)

     雨雲のたらすにぶい圧力
     体臭に染まつた空気
     風は皮膚に止まって動かない

     一瞬 閃光に光る森
     その果てに
     私の視線は吸われる

     熟れた花弁にゆれる静脈
     ほてった指を組んでも流星は落ちない

     夜の爪に 体を裂き
     私のさぐる骨片
     わずかに
     青い霧をふく私の雪花石膏

     私はそれにすがる
     血管をからませ
     雄蘂(おしべ)
のように乳房を咲かせる
     ざわめく髪をまとめて
     余分の風景を焼こう

                  
処女詩集『雪花石膏』1954年


 最初の詩「雪花石膏(アラバスタ)」は、高田敏子が脊髄腫瘍を患った辛い体験を描いた作品です。モダニズムの影響を受けたこの詩は、表現が極めて難解です。後に、わかりやすい詩で知られるようになった高田敏子にも、このような難渋な現代詩を書いていた時期がありました。



 

       海

 

 

       少年が沖にむかって呼んだ

       「おーい」

       まわりの子どもたちも

       つぎつぎに呼んだ

       「おーい」「おーい」

       そして

       おとなも「おーい」と呼んだ

 

       子どもたちは それだけで

       とてもたのしそうだった

       けれど おとなは

       いつまでもじっと待っていた

       海が

       何かをこたえてくれるかのように

 

                   詩集『月曜日の詩集』1962年



次いで紹介された詩「海」は、一転して非常に理解しやすい作品です。

新聞連載で一躍有名になった高田敏子の詩は、多くが生活や子どもを主題としたものでした。そのため、現代詩の詩壇からは、やっかみ半分で「家庭詩人」「台所詩人」と呼ばれ、低くみられがちな傾向もありました。しかし、このようなわかりやすい詩こそ、多くの読者が本来求めていたものだったのでしょう。


 

       寒夜

  

     テレビを見ていて
     声を立てて笑った
     私の笑い声
     消えないままに止まって
     私をこわがらせている

     笑いは 人と分け合うものではなかったかしら?
     ああ おかしい と笑い合って
     笑い声は お互いの心の中に吸いとられてゆく

     私のほかに誰もいない
     この家で立ててしまった私の笑い声
     ゆき場もなく
     私の上に落ちて来て
     私をこわがらせている
     狂女の笑い 鬼女の笑い
     荒野の中の一つ家に住む老婆の笑い
     そのどれかの笑いに似ているよう

     家の戸をゆする風音におびえることもなくなった私が
     私の立ててしまった笑い声におびえている
     窓の外の深い闇

     寒夜
                       詩集『夢の手』1985年




 ブックサロンでは、第三に「寒夜」という詩について語られました。「老婆」の一人暮らしの寂しさが感じられるこの詩で、高田敏子は晩年の人生と向きあっています。

 お母さん詩人と言われながら、一方で高田敏子は夫との不和をかかえていました。講師の石川敏夫さんは、高田邸に出入りした体験から、夫婦の冷え切った関係についても具体的に証言されました。そのような負の一面が、詩に深みを与えていることも事実です。



 

       なわとび


     湯船から手をのばして
     窓ガラスの湯気の曇りをぬぐった
     ぬぐった円の中に
     いくつかの星が光った
     そのとき不意に声がした
     「隣りの部屋のドアが開いて すうっと入ってゆく
     死とは そのようなものなのです」
     それは この山の湯に来るときの車中で隣に坐った老人の言葉だった
     いく日か意識を失ってもどって来たのだとその人は体験を語り
     「ドア一枚の違いです 死を恐れることはありません」

     湯気の曇りをぬぐって 窓に見る星空
     こちらから あちらに
     すうっとぬけて――
     そこには なわとび遊びの好きな少女がいて
     歌っている
      くまさん くまさん おはいんなさい
     少女は 小熊座も大熊座も輪の中に呼び入れて
     なわとび遊びをつづけている
     あれはとうの昔に死んだ少女の日の私
     昼も夜も なわとびをたのしんでいた私

      くまさん くまさん おはいんなさい
     ある日少女は知った
     胸にある二つのもののふくらみ
     跳躍の度に伝わってくる存在の痛み
     少女のなわとび遊びは その日で終った
     少女のなわを束ねて部屋隅に置いて
     開かれたドアをくぐり 隣の部屋に入っていったのだった

     一つの部屋から隣りの部屋に――
     人はそうして いくつもの部屋を通り
     最後の部屋が はじめの部屋につづいていると
     あの老人は そのことを教えに 姿を見せたのではないだろうか
     湯船に身を浮かせ 目を閉じて
     過ぎてきた部屋の一つ一つを思う

     どうぞ おはいんなさい
     耳近くその声をききながら

 

                   遺稿詩集『その木について』1991年



 最後に取り上げられたのは、「なわとび」というやや長めの詩でした。詩人は、人生を次々とドアを開けて次の部屋に移ってゆくイメージでとらえています。そして最後の部屋の扉を開けると、その先には死が待ち構えています。難解な現代詩からスタートし、家庭詩人として著名になった高田敏子は、最晩年には人生の深みをうたう詩人となっていました。

 ブックサロンは最後に、広島県立図書館友の会会長大井健地さんの挨拶で終了しました。その後、有志8名ほどが、場所をそごう広島店の喫茶店に移し、午後5時頃まで高田敏子や詩について語り合いました。

                       西原大輔(友の会運営委員)



【参考】当日紹介した詩についての詳しい解説は当ブログの

    「高田敏子の人と詩業」の第5話、第38話、第44話に記しています。





| 日々の想い | 08:31 | comments(0) | trackbacks(0)
新聞コラム 第7回&第8回
 地元広島の中国新聞文化面の「緑地帯」というコラム欄に、4月17日から26日まで(20、21日除く)8回に亘り連載しましたので、順次、紹介して来ましたが今回が最終回になります。
新聞記事からスキャンして取り込んでいますので、画像が不鮮明な箇所はご容赦下さい。




            




            

                                 (この稿 完)


| 日々の想い | 11:58 | comments(0) | trackbacks(0)
新聞コラム 第5回&第6回
  地元広島の中国新聞文化面の「緑地帯」というコラム欄に、4月17日から26日まで(20、21日除く)8回に亘り連載しましたので、順次、紹介していきます。新聞記事からスキャンして取り込んでいますので、画像が不鮮明な箇所はご容赦下さい。




          




          

          



                                  (この稿続く)


| 日々の想い | 10:24 | comments(0) | trackbacks(0)
新聞コラム 第1回&第2回
 地元広島の中国新聞文化面の「緑地帯」というコラム欄に、4月17日から26日まで(20、21日除く)8回に亘り連載しましたので、順次、紹介していきます。新聞記事からスキャンして取り込んでいますので、画像が不鮮明な箇所はご容赦下さい。




             




             



                                 (この稿続く)



| 日々の想い | 11:08 | comments(0) | trackbacks(0)
日々の想い 4
第4信 詩人への質問

先日、地元の大学主催の生涯学習セミナーに参加しました。広島在住の詩人達による公開講座で、中でも松尾静明先生のお話が心に残りました。(「先生」と呼ばせてもらうのは、日頃懇意にさせていただいているからです)松尾先生はこれまで9冊の詩集を出され、数々の詩人賞を受けられている、広島を代表する詩人です。

話の力点は、詩または詩人のあり方へ対する質問でした。松尾先生が講演などでこれまで聴衆から受けた様々な質問が紹介されました。
例えば高齢の方からは、○詩は人生に役立つのですか? ○詩を書くと良い人になれますか? ○詩は自分のために書くのですか? ○どうして詩と作文は違うのですか? といった質問。

高校生からは、○りんごを見た時、なぜりんごという言葉が浮かぶのですか? ○わからない詩は、芸術という隠れ蓑(みの)で現実から逃げているのではないのですか? ○なぜ詩集を出すのですか?
他には、○詩人はどんな社会的活動をしているのですか? ○どんな所が自分は詩人だと思いますか? ○詩人になりたいが、どうすればいいのですか?

これら様々な質問は、一つひとつが詩人に向けられた根源的な問いかけです。真剣に答えようとすれば、簡単には答えられない難問でもあるでしょう。松尾先生は、このような誠実な問いを自分に向けるのが、あるべき詩人の姿だとおっしゃいました。

さらに次のような現代の問題に関わる質問も披瀝(ひれき)されました。
○詩人は状況(例えば、「原発」「原爆」問題)を越えることができますか? ○自分の言葉はどこから生まれて来るのですか?
松尾先生の答はーー現実に自分の批評を加えなければ自分の言葉にはならない。自分の内面を通過させることが批評となる。自分の言葉(思想)を持つことが状況を越えることになる。
原爆よりも威力のある言葉を使うのが、原爆詩ではない、と。

そして最後に、詩人にとって一番本質的な質問を出されました。
○自分の全存在から見て、何が自分に詩を書かせているのですか?ーーこの問いに対して、松尾先生がご自身の答を述べられました。それは驚くべきものでした。先生にとって、自分が詩を書くのは、自己の出生に源(みなもと)があるとおっしゃったのです。

先生は聴衆の前で、自分は「八ヶ月児(やつきご)」であったと告白されました。
八ヶ月児とは早産の子供のことです。そのコンプレックスがなければ、芸術に出会うことはなかったと語られました。

私は松尾先生の言葉が胸に沁みました。自分のハンディを公(おおやけ)にされた、詩人としての覚悟に打たれて感銘を受けました。なぜ詩を書くかという問いに、もっと気取った芸術論的な理由を述べることもできたのに、赤裸々な心情を吐露された真摯な人柄を感じました。

私が松尾先生の言葉に感動したのには、もうひとつ理由があります。実は私も出生時にトラブルがあったからです。
私は早産ではありませんでしたが、かなりの難産でした。片足を骨折した状態で産まれ、しばらくギブスを着けたままでいたと、大学生になった折に母から聞きました。母はこのことを話すと私が傷付くだろうと思い遣って、ずっと黙っていたそうです。

それで合点したことがありました。子供の頃、病弱で学校を度々休みがちだったこと、他の児童に比べ身体の発育に遅れがあったこと。それらの要因が一度に氷解しました。
私は学校の体育の評価点は最低に近いものでした。運動能力がないことは、子供にとって致命的に不名誉なことであり、青少年時代に私を深く悩ましたコンプレックスを形づくりました。

しかし、このことが逆に強いモチベーションとなって勉学に打ち込みました。自分を活かせる処はここしかないと、身体の劣等感をバネにして頑張ったのです。そのおかげでしょうか、志望大学へ進学でき、そこで私を文学の道に方向転換させた親友との再会があり、それが恩師高田敏子先生との出会いへと導いてくれました。

ですから、松尾先生の言い方にならえば、私もコンプレックスがなければ詩に出会うことはなかったと言い切ってもよいのかも知れません。



| 日々の想い | 11:10 | comments(0) | trackbacks(0)
日々の想い 3
 第3信 意味づけられた経験

私には小学生の頃から半世紀を越えて交遊のある親友がいます。彼の絵に私の詩を添えたポストカードを作っている相方のTom君です。ですが、もう一人、Tom君以上の絆で結ばれた親友がいました。彼の名を、M君としておきましょう。M君とは中学校からの付合いで、高校は別でしたが、私が地元の大学に入ってから再会しました。彼は英文科に籍を置いていました。中学時代はおとなしく目立たない生徒でしたが、大学生になった彼は別人のように変貌していました。

 

滑舌(かつぜつ)に優れ、落語研究会の会長になり、各種のコンサート、イベントの司会もプロ並みで、TV局のレポーターをアルバイトで務めていました。また、劇団にも所属していました。落語の芸に磨きをかけ、市主催の国際交流事業から声がかかり、ハワイの日本人会の人達の前で落語を一席披露して、大きく新聞に載ったこともあります。

 

エンジニア志望だった私は彼の感化を受けて文学に目覚め、一週間の大半を彼の下宿で寝泊まりするようになりました。徹夜で文学論を語ったり、太宰や三島を読むように奨めてくれたのも彼でした。大学の二年次、とうとう私は理系から文系を志望するようになりました。

そして、本来なら大学卒業に当たる年に上京して、新たな大学の文学部へ再入学しました。私はもう23歳になっていました。

 

彼がいなかったら、東京へ行くことはなかったでしょう。恩師高田敏子先生との邂逅もなく、詩の教室を開くこともなく、このブログを綴ることもあり得なかったでしょう。

M君は私にとって無二の親友であると同時に、文学の師匠であり、私が詩人として生きてこれた人生の恩人でもあるのです。

 

彼は大学卒業後、アメリカへ留学して勉学に奮闘し、英文学の修士課程の学位を取得しました。留学中にアメリカ人女性と結婚、日本に帰ってからは、公立高校に勤務していました。が、通常の学校は彼の器には収まり切らなかったのでしょう、後に予備校講師の道を選びました。声がよく通り、歌がうまく、落語で鍛えたユーモアもあり、また教室で自作の歌をギターで弾き語りなどして、生徒からの人気はバツグンだったようです。今流のカリスマ教師というのでしょうか。英語の実力もネイティブと同等で、予備校では彼専用の個室が与えられ、秘書までついていました。

 

この先、彼はどんな大物になるのだろうと、共通の友人であるTom君と私はいつも囁いていました。M君が冗談まじりに、自分は30歳を過ぎたら政界に打って出ると言ったことがありましたが、私は本気でそれを信じていました。彼がもし生きていたら、きっとTVに出るようなコメンテイターか、タレントか、大学教授になっていたことでしょう。

 

日本の生活になじめなかった、米国の奥さんと別れた後、彼は職場で知り合った同僚と再婚しました。前妻との間に設けた二人の子と、新しい伴侶との4人の共同生活が始まりました。子供達も新たな母親によくなつき、彼は幸福感に満ちて仕事に打ち込んでいました。結婚式は市内のライブハウスを借り切って行われ、M君は自筆の結婚宣誓文を奥さんの前に掲げて、「僕は必ず君を幸せにする」と涙を流しながら読み上げました。そして親子四人が駆け寄って抱き合い、出席者はずいぶん泣かされました。

 

最後に彼に会ったのは亡くなる半年前でした。私はまだ東京で暮していました。

彼は会議があって上京し、久しぶりに二人で都内を散策しました。都電に乗り、雑司ヶ谷(ぞうしがや)墓地に眠っている夏目漱石の墓に詣でたりしました。彼は仕事も家庭も今が絶好調で、新しいマンションも購入し、喜色満面といった様子でした。


私の人生観を大きく揺るがすような事件が起こったのは、新宿駅で彼と別れてから半年後でした。東京の私に彼の自死の訃報が届き、 私は驚いて広島に帰りました。真相は今もはっきりしません。私宛の遺書も読みましたが、判読できないほどの殴り書きで、徹底的に自分自身を罵倒する言葉が連ねてありました。俺は世界一の馬鹿者だという言葉もありました。半年前に東京で会った時を思うと、想像も及ばないことでした。享年、43歳。あまりに若すぎる死でした。


彼と東京で別れてから半年の間、私の知らない所で家族関係は危機に瀕していたようです。

結婚式の時には本当の親子のように仲睦まじかったのに、彼の子供達が新しい母親とうまくいかなくなったようです。それが原因で、夫婦間でもいさかいが起こり、彼は仕事の過労と家庭内のストレスの解消に、アルコールにのがれていったようです。〈〜ようです〉と私が書かざるを得ないのは、M君の葬儀後に初めて奥さんや彼の知人から話を聞いたからです。

 

M君は、自死とは最も遠い存在でした。最初、知らせがあった時、事故で亡くなったという旨の連絡でした。私は事故死を疑いませんでした。しかし、想像を越えた彼の死によって、私は人間の複雑性と、心の闇の深さを教えられました。

彼の葬儀の折、100人近い中学生や高校生の教え子が集まりました。彼がいかに人望の厚かった教師であったかを物語っていました。彼の命は、100人の青少年の命でもあったのです。


                     *


M君が他界してから来年で20年になります。でも、この悲痛な経験を基にした詩を私はまだ一篇も書けずにいます。6月19日のブログ記事で、「詩は経験である」と題したリルケの言葉を紹介しました。リルケは、「思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなくてはならない。再び思い出がよみがえるまでに気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちのなかで血となり、眼差(まなざし)となり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなったときに、恵まれたまれな瞬間に、一行の最初の言葉が思い出のなかに燦然(さんぜん)と現われ浮かび上がるのである。」と力強く語っています。


思い出が胸底から再び浮かび上がる時は、もうナマの経験ではなく、何らかの思想的・哲学的な発見を伴っていると思います。言わば、「意味づけられた経験」と呼べるものでしょう。

経験というものが、個人の人格を通して意味づけられ、価値を与えられ、長い時間をかけて詩の言葉を生み出す、そのすばらしさをリルケは説いています。


しかし、M君の死は20年を経ても、私の中で一行の詩の言葉にもなってはいません。

それほどまでに彼の死は重く、その不条理な悲しみは私の中で新たに蘇ることなく、どんな意味も与えられないまま凍結しているのです。



| 日々の想い | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0)
日々の想い 2
 第2信 もやしのヒゲ根

最近、料理を作るようになりました。一生、料理など作ることはあるまいと思っていた私としては、大げさですが、革命的な出来事でした。動機は、革命的なものでも何でもなく、パートの家内の帰りが遅く、家人を待っていたら飢え死にしそうで、空腹が堪え難く、やむを得ず作り始めたという情けない次第です。

最初に作ったのは、鮭のムニエル。ネットから作り方の動画をダウンロードして、見ようみまねで作ったら、思いのほか美味く出来ました。それ以来、人が変わったように、ホイコーロ、煮鯖、筑前煮などとレパートリーを増やしています。

料理を作り始めて初めて知ったことがありました。冷蔵庫に残った野菜で、ピーマンともやしがあったので、豚肉と一緒に味噌炒めを作った時のことです。専門家によると、もやしはヒゲ根の部分を取っておくと、一段と味がよくなると言っていました。
ただ、ひとつかみのもやしでも、最低100本くらいはあるので、一本ずつヒゲ根を取るのは大変です。やってみましたが、気が遠くなるような作業でした。

それでも頑張って、すべてのもやしのヒゲ根を取り除いて調理したら、やっぱり味がよかったです。その時、ふっと思い浮かんだことがありました。一流と二流の違いはこんな処にあるのではないかと。

もし自分の店を有名ラーメン店にしたければ、プロならもやしのヒゲ根を取るのは必須だろうと思います。ただ、一日に使うもやしの量ははんぱではありません。仮に一日に100杯のラーメンが売れるとしたら、一杯あたりのもやしの数を100本とすると、100杯×100本=10,000本となります。膨大な時間と手間ひまがかかります。でも、それを行うのが一流店でしょう。

詩を書く者にとってはどうでしょう。一流の詩人になりたければ、一流の詩を書きたければ、もやしのヒゲ根を取るに等しいような、手間がかかって気が遠くなるような事をしなければならないのかも知れません。
それは例えば、辞書を開いて「あ」の項目から読み始めること。詩人全集の一頁目から読み始めること。「夢」「傷」とか、自分が大切にしているキーワードを含む詩を、残らず調べ上げること。愛好する詩人の作品を、全編、手書きで書き写すこと。

色々、思いつきで列挙しましたが、そんなことが詩の世界での「もやしのヒゲ根」取りに相当するものだと思うのです。自慢話めいて気が引けるのですが、学生時代、少し「もやしのヒゲ根」取りに似たことをした経験があります。その頃、私は本格的に詩作を始める前で、短歌や俳句にも興味を持っていました。

それで学部の図書館にあった「現代短歌大系 全12巻」という、一冊が弁当箱のようにぶ厚い本を、授業の合間などに開いて、気に入った歌をノートに写しました。とても膨大な分量なので、全巻を読了するには大学卒業までかかりました。私は歌人にはなれませんでしたが、こんな「もやしのヒゲ根」取りは、詩作においても、どこかで役に立っているのかも知れません。

図書館で短歌を書き写しながら、誰もこんな気の遠くなるような馬鹿なまねはしないだろうな、といつも心に呟いていました。ところが、ある日、新聞のコラム欄を眺めていると、私と同じことをした人がいたのです。それは、歌集『サラダ記念日』で短歌界に新風を巻き起こした、俵万智さんでした。しかも、俵さんは私と同じ大学の後輩に当たり、なんと同じ図書館で例の本から短歌を書き写していたのです。
御蔭で私はどんなに慰められたことか。



| 日々の想い | 10:24 | comments(0) | trackbacks(0)
日々の想い 1
 第1信 感動の共有

ここ10日ほどブログから離れていました。さぞかしアクセス数が激減しているだろうと調べてみると、逆に増えていたのには驚きました。私のブログを読むのは、主に詩の教室の方達と思うのですが、そうとばかりは言えないような数字でした。ありがたいことだと思っています。

5年ほど前から、「詩人を読む会」という勉強会を開いています。2007年、この年は中原中也生誕100年にあたり、私が教室を開いている地元のカルチャーセンターの依頼で、中原中也の特別講座を開かせてもらいました。月1回の3回シリーズでしたが、あの多才な中也をわずか3回の限られた時間で話し切れるはずもありません。

それで講座が終った後も、引き続き私個人の主宰で勉強会を開きました。5年の間に勉強会の名称も、「中原中也を読む会」→「高見順を読む会」→「詩人を読む会」と変わっていきました。ここで取り上げた詩人も20人近くになりました。

しかし、最近は詩の分野に留まらず、絵本や童話にも触手を伸ばしています。話のネタがなくなったから、というのではなく(もちろん、そういうことは度々ですが)、私の考えが柔軟になったからだと思っています。
詩的な感動を与えてくれるものなら、ジャンルを問う必要はないと悟ったのです。

詩の勉強会ですから、もちろん参加者に詩的感動を届けなくてはなりません。講師の責任として事前に十分下調べをしますが、感動を与えなくてはならないという意識が強すぎて、かえって弊害もあったことに気づきました。それは、講師から受講者へ教授するという、いわゆる”上から目線”でものを言うことでした。

肩に力が入り過ぎて、私だけが一方的にしゃべり続けるという、一番いけないパターンに陥りやすくなるのです。そのことにある日気づいて、自省しました。そして一番大切なのは、私が感動したものを皆さんに一生懸命伝えるが、それは”教える”ためではなく、”感動を共にする”ためだと納得したのです。

それ以来、私はこれまで自分を感動させたものなら、なんでも皆さんに紹介しようと思うようになりました。おかげで、話のネタ探しには困らなくなりましたが。
ということで、次回の「詩人を読む会」では、私が高校生の頃読んで大いに感動した、評論家・亀井勝一郎の代表作『大和古寺風物詩』を通して、〈微笑〉について皆さんと詩的な思いを深めたいと思っています。
                                  (この稿続く)





| 日々の想い | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0)
異夢
 父の死の前後に不思議な夢を見ることが度々ありました。皆さんも経験されるでしょうが、普通、夢というのは目覚めると霧のように立ち消えてしまうものが大 半です。ところが、消えることなく残る夢を、年に数回見ます。それは日を経ても鮮明に夢の映像を思い出せます。最初の頃は奇異な思いがして、深く考えるこ ともなかったのですが、たび重なると放っておけなくなって、日記に書き留めるようになりました。

この種の夢は荒唐無稽なものというより、ひとつの物語の形をとっているのが特徴です。
例えば、こんな夢がありました。場所は、朝鮮(現代の韓国と思われます)、時代は戦時中で、日本の植民地下にあった頃と推測されます。私は現地の学生達に日本語を教える教師として、夢の中に現れました。当時は、植民地統治の一環として日本語化政策というものを軍部が押し進めていましたから。

生徒の中の真面目そうなまなざしをした男子学生が、私が日本語のテキストを読むように言っても、いうことをききません。わけを尋ねると、彼の母が東京で日本人にひどくいじめられたので、そんな国の言葉は読めないと、身体をふるわせ涙ながらに訴えるのです。私は彼のことが気になって、家庭訪問をすることにしました。

彼の家のたたずまいは、最低の貧困層のものでした。壁は土壁で、板きれ一枚の戸をあけて中に入ると、そばのトイレ(便所と呼ぶにふさわしい)から、強烈なアンモニア臭が襲ってきました。そうです、夢の中にも匂いの感覚があるのでした。

室内は薄暗く、小さな窓がひとつしかありません。その窓から差し込む淡い光線の中に幻のように浮かび上がったのは、粗末なベッドに横たわる彼の母でした。私が来意を告げると、母親はゆっくりと身を起こして、自分は重度の結核だと言いました。ひと時でも中にいるのが苦しいような重い空気に耐え難くなって、早々に外に出ま した。

彼は自宅を訪ねてくれた日本人は、私が初めてだと言って喜んでくれました。お礼に、これをあげると、小さなものを手渡しました。それは、裁縫の時に使う指ぬきでした。表に、緑色の蝶の羽をあしらった、こった細工でした。

私は今、この文章を綴っていても、まるで現実に体験したかのように、情景が生々しくよみがえってきます。
これは私の無意識が紡ぎ出した妄想なのでしょう。東京在住の頃、一時期、アジアの留学生に日本語を教える日本語教師の仕事についていました。また、映画やド ラマで戦時中の朝鮮を見ていますから、自分では覚えていなくても、土壁の家が脳裏の奥底に残っていたのかも知れません。トイレにしても、昔のトイレの醜悪さが感覚的に残っていたのでしょう。

ですから、過去の断片を思い起こせば、つじつまは合うのです。ただ、私が面白いと思ったのは、これらのバラバラの過去の切れ端が、一篇の物語として構成され、夢の中に立ち上がってきたことです。

私は人の気を惹くために、不可解な夢想を語ったわけではありません。ましてや、私に霊感などあるはずもありません。そのようなたぐいの話なら、テレビでもショー化されて放映されていますからね。私はただ、人間の無意識が織りなす夢というものを、子供のように無邪気に楽しんでいるだけなのです。

父の死後、このような夢を何度か見ました。私はそれを詩の題材に使い、『白夢(びゃくむ)』という詩集を編みました。残念なことに、最近はこの種の異夢をほとんど見ることはなく、少しさびしい思いがします。加齢と何か関係があるのでしょうか。

| 日々の想い | 10:13 | comments(2) | trackbacks(0)
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