文豪の恋文 1

第1話 芥川龍之介編

 

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

 

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。
何時頃(いつごろ)うちへかへるかそれはまだはっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは文ちゃんにかう云う手紙を書く機会が
なくなると思ひますから奮発して一つ長いのを書きます 
ひるまは仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが
夕方や夜は東京がこひしくなります。
さうして早く又あのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思ひます。
しかし、東京がこひしくなると云ふのは、
東京の町がこひしくなるばかりではありません。
東京にゐる人もこひしくなるのです。
さう云う時に僕は時々文ちゃんの事を思ひ出します。
文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから何年になるでせう。
(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由はたった一つあるきりです。
さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。
勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。
僕は世間の人のやうに結婚と云ふ事と 
いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。
ですからこれだけの理由で兄さんに文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。
さうしてそれは頂くとも頂かないとも 
文ちゃんの考へ一つできまらなければならないと云ひました。

僕は今でも兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。
世間では僕の考へ方を何と笑つてもかまひません。
世間の人間はいい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで 
造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。
その出来ない点で世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は
全く文ちゃん次第できまる事なのです。
僕から云へば勿論承知して頂きたいのには違ひありません。
しかし一分一厘でも文ちゃんの考へを無理に(おびやか)かすやうな事があっては 
文ちゃん自身にも文ちゃんのお母さまやお兄さんにも僕がすまない事になります。
ですから文ちゃんは完く自由に自分でどっちともきめなければいけません。
万一後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。
その上僕自身も(ろく)に金はありません。
ですから生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。
それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)
うちには父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
僕には文ちゃん自身の口からかざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は人に見せても見せなくても文ちゃんの自由です。
一の宮はもう秋らしくなりました。
木槿(むくげ)の葉がしぼみかかったり弘法麦(こうぼうむぎ)の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると心細い気がします。
僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったらもう一度手紙を書いて下さい。
「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。

が書いて頂ければこれでやめます皆さまによろしく

                              

コウボウムギ 砂浜に生育する代表的な海浜植物

 

 

 

「赤ん坊のやうでお( ) でなさい」(1917〈大正6〉年)、これは芥川龍之介が後の妻、塚本文(つかもとふみ)に宛てたプロポーズの手紙の一節です。当時、龍之介満24歳、文は16歳の跡見女学校の学生でした。

 

「赤ん坊」とは、エゴイズムを知らない純粋で無垢な状態を指します。龍之介は文にそれを見ました。翌年、龍之介は文と結婚。まもなく新進作家として脚光を浴び、家庭を顧みられないほど多忙になります。幾人かの女性との交渉も始まります。芸者に好かれたり、人妻に思いを寄せたりしました。しかし、遺稿「歯車」の中で、不安な状態から抜け出す手段として、「家に対する郷愁」を強く抱くように、彼にとって妻子のいる家庭は何よりの安らぎの場であったようです。

 

16歳の塚本文宛のこの恋文が書かれたのは、1916(大正5)年8月25日、龍之介24歳の時です。文は龍之介の幼なじみでした。芥川は大学卒業後、進路が決まらないまま、創作活動の生活に入り、小説「ひまわり」を書き終えて千葉へ旅行に出かけます。滞在先の九十九里浜の旅館・一宮館(いちのみやかん)で初めてのラブレターを書きました。手紙の冒頭の「奮発して一つ長いのを書きます」という一節は、師である夏目漱石の手紙を真似した言い回しでした。(写真左は、跡見女学校時代の塚本文(芥川文))

 

 

塚本文へ恋文を書く2年前、芥川は辛い失恋をしていました。原因は相手の家柄などを含む、家族の猛反対でした。そこで今回は家族の了承を得た上で手紙を書きました。隠し事はせず、すべてを正直にありたいと思ったのです。

 

〈文ちゃん。〉:相手が好きな時、つき合う前は好きな人の名前を呼べるだけですごく幸せな気分になれます。文章で、「文ちゃん」と呼びかけているのは、最高の気持ちの表れということです。

 

〈貰ひたい理由はたった一つあるきりです。/さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。/勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。〉:「好き」というストレートな言い方が心を打ちます。率直に述べているから、素直な気持ちが、そのいちずさが本当に届く。「今でも」という言葉が、愛情が変わっていないことを伝えています。
私が初めて芥川龍之介の恋文を読んだ時、その意外さに驚きました。かの文豪がどんなに捻った筆致で、想い人を口説いたのかと思いきや、ストレートで飾り気のない言葉で手紙を書いていました。文壇では、シニカルな事を言っていた気難しそうな顔のあの芥川も、自分の恋愛に関してはウブな青年だったのです。(写真右は、龍之介が文に手紙を書いた千葉県九十九里浜一宮館の文学碑。左奥の芥川滞在の離れは芥川荘と呼ばれる)

 

現代の男性は素直に気持ちを伝えられないと言われています。では、相手に素直に気持ちを伝えるためには、どうすればよいのでしょうか。その答えは、駆け引きをしないことです。駆け引きとは、まだ相手に好きと言っていないのに、もし好きと言ったらどうする? と考えることです。また、はっきり好きと言わず、「好きかもしれない」と自分の気持ちごまかすのは、振られた時の保険ということでしょうか。

 

〈世間の人間はいい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで/造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。/その出来ない点で世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます〉:世間の風潮よりも自分の思いが一番大切であり、自分の結婚相手は自分で選びたい、という考えは時代背景を考えると革新的なことでした。1916年当時、結婚前の二人が会って話したり、デートをしたりする機会はあまりありませんでした。

 

僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。/その上僕自身も(ろく)に金はありません。/ですから生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。/それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。/(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)うちには父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。:身体も弱いし、お金も碌にないから他の男性に負けるかもしれないが、好きという気持ちだけは誰にも負けないとストレートに言っている所がよいと思います。また、それでもよければお嫁に来てほしいと、文のことを思い遣っている所がすばらしい。見栄を張って、お金があると言ってもいいのに、ありのままの自分を語るのが男らしく謙虚な人柄です。

この手紙を書いた1011か月後、芥川は「ただぼんやりとした不安」と書き遺し、自ら生命を絶ちました。享年、35歳。芥川が文と暮らしたのは9年間。その間に「蜘蛛の糸」「鼻」「杜子春」などを発表。それは作家として確固たる地位を築いた時代でした。

(写真上は、 大正7(1918)年、田端の自宅書斎 新婚時代の龍之介(26歳)と文(18歳)

 

(参考文献・資料)

・日本近代文学館編「愛の手紙――文豪の恋文

NHK教育テレビ「Rの法則 文豪の手紙〜芥川龍之介の恋文〜」

・「九十九里浜 一宮館」ホームページ

 

(メモ)芥川龍之介1892(明治25)年31 - 1927(昭和2)年724日) 本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。東京生まれ。東大英文科卒。高等学校在学中に久米正雄、菊池寛、山本有三を知り、文学書を乱読した。

1914(大正3)年、第三次『新思潮』の発刊に参加して、処女作『老年』を発表。『羅生門』などを書き、漱石門下

の一人となる。『鼻』が漱石の激賞を受け、以後、『地獄変』『虱』『芋粥』を発表。いわゆる新理知派の代表作家として、隙のない技巧と古典的な均整美とを備えた短編を書き続け、才人の名をうたわれた。『蜘蛛の糸』『奉教人の死』『枯野抄』『秋』『或阿呆の一生』『河童』など多くの短編の他に、評論・随筆『文芸的な余りに文芸的な』などがある。1927(昭和2)年、服毒自殺。三人の息子がおり、芥川比呂志(長男)、多加志(次男)ビルマで戦死、也寸志(三男)作曲家。(右の近影は、第一高等学校入学当時18歳

 

(メモ)芥川(ふみ)1900(明治33)年78 - 1968(昭和43)年911

東京府生まれ。海軍少佐塚本善五郎の娘。190455日、旅順港近海で戦艦初瀬」に第一艦隊第一戦隊先任参謀として乗艦していた父が「初瀬」沈没時に戦死。葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う。芥川が彼女へ送った恋文は有名。

191612月、龍之介と縁談契約書を交わす。19182月、跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活。

龍之介の作品には『子供の病気』(『局外』19238月)、『死後』(『改造19259月)、『年末の一日』(『新潮19261月)、『身のまはり』(『サンデー毎日19261月)、『本所両国』(『東京日日新聞夕刊192756 - 522)、『蜃気楼』(『婦人公論19273月)、『或阿呆の一生』(『改造』192710月)、『歯車』(『文藝春秋192710月)、『鵠沼雑記』(遺稿)に登場している。

1927724、龍之介が服毒自殺。

1941、三男・也寸志が東京音楽学校予科作曲部を目指して音楽の勉強を始めた時は、也寸志のために自らのダイヤの指環を売り払いピアノの購入費に充てた。

1945413、学徒兵として出征していた次男・多加志がビルマのヤメセン地区で戦死。1968911日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため死去。死後の1975筑摩書房から『追想芥川龍之介』(中野妙子筆録)を刊行。

                 (ウェブ百科事典「ウィキペディア」を基に構成)

 

                                                (この稿続く)

 

 

 

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室生犀星 4


第4話 時の向こうに消え去った思い

 

 

 

       永遠にやつて来ない女性

 

 

       秋らしい風の吹く日

       柿の木のかげのする庭にむかひ

       水のやうに澄んだそらを眺め

       わたしは机にむかふ

       そして時時たのしく庭を眺め

       しをれたあさがほを眺め

       立派な芙蓉の花を()めたたへ

       しづかに君を待つ気がする

       うつくしい微笑をたたへて

       鳩のやうな君を待つのだ

       柿の木のかげは移つて

       しつとりした日ぐれになる

       自分は灯をつけて また机に向ふ

       夜はいく晩となく

       まことにかうかうたる月夜である

       おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ

       玉のやうな花を愛し

       ちひさな笛のやうなむしをたたへ

       歩いては考へ

       考へてはそらを眺め

       そしてまた一つの(ちり)をも残さず

       おお 掃ききよめ

       きよい孤独の中に住んで

       永遠にやつて来ない君を待つ

       うれしさうに

       姿は寂しく

       身と心とにしみこんで

       けふも君をまちまうけてゐるのだ

       ああ それをくりかへす終生に

       いつかはしらず祝福あれ

       いつかはしらずまことの恵あれ

       まことの人のおとづれあれ

                           詩集『愛の詩集』1918(大正7)年

 

 

犀星の代表作のひとつです。身体の中に一匹の山犬のような猛り狂うものを住まわせ、泥酔して深夜の街に悲しく吠えることもあった犀星ですが、他方、純情無垢の子供の魂の持ち主でもありました。

 

常に清らかな正しい生活に憧れていて、それが善良な女性への思慕と結びつき、この作品のような感傷的な詩を書かせたのです。庭を掃き清め、花を愛し、静かに机に坐って、いつ現われるかも知れない女性を待つ。余りにも非現実的で、そんな自分に憧れの女性は永遠にやって来ないかも知れないが、いつまでも待ち続けよう。そんな清廉な生活にもいつかは祝福があり、まことの女性の訪れがあれ、という犀星の理想の愛を詠っています。

(妻 浅川とみ子)

 

 

 

 

         昨日 いらつしつてください

 

 

       きのふ いらつしつてください

       きのふの今ごろいらつしつてください

       そして昨日の顔にお逢ひください

       わたくしは何時も昨日の中にゐますから

       きのふのいまごろなら

       あなたは何でもお出来になつた筈です

       けれども行停( いきどま ) りになったけふも

       あすもあさつても

       あなたにはもう何も用意してはございません

       どうぞ きのふに逆戻りしてください

       きのふいらつしつてください

       昨日へのみちはご存じの筈です

       昨日の中でどうどう廻りなさいませ

       その突き当りに立つていらつしゃい

       突き当りが開くまで立つていてください

       威張れるものなら威張つて立つてください

 

                   『昨日 いらつしつてください』1959(昭和34)年

 

 

詩集『昨日いらつしつてください』が刊行されたのは、1959(昭和34)年、犀星70歳の時でした。まず、年齢を感じさせないリリシズム(抒情性)とユニークな発想に驚かされます。

 

この女性はいつも昨日――過去の中に生きていて、昨日の今頃来てくれたら、何でも自由にお出来になったはずだけれど、明日も明後日も、もうあなたに逢う何の用意もしていない。だから、昨日に逆戻りして下さい、というのです。

 

高齢になって、すべてが時の向こうに消え去った無常の思い、過去への愛惜を詠った詩はあまたありますが、独特の言い回しが新鮮な味わいを与えています。犀星が若き日に失ったかけがえのない女性たちも影を落としているのかも知れません。

 

 

(メモ)室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)石川県金沢市生。詩人・小説家。別号に「魚眠洞

( ぎょみんどう ) 」。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種( こばたけやざえもんよしたね ) とその女中であるハルという名の女性の間に生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗( しんじょう ) の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の婚外子として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳、室生照道を名乗ることになった。

 

婚外子として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生母、養母との関係が共に私生児とされ、二重に精神的苦痛を背負っていた。『犀星発句集』(1943年)に収められた「夏の日の匹婦(ひっぷ)(身分の卑しい女)の腹に生まれけり」との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このトラウマを引きずっていたことを提示している。

 

1902年(明治35年)金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に俳人がおり手ほどきを受ける。新聞へ投句を始め1904年(明治37年)10月8日付け『北國新聞』に初掲載。この時の号は照文。その後詩、短歌などにも手を染める。犀星を名乗ったのは1906年(明治39年)からである。犀星という筆名は、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。

 

1910年(明治43年)上京。その後は、帰郷・上京をくりかえす。1913年(大正2年)北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ザンボア)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。1916年(大正5年) 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年(大正8年)までに32号まで刊行した。この年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。1929年(昭和4年)初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。

 

1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。 旧・芥川賞選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。

 

戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。娘朝子をモデルとした1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞を、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))で野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を創設。

1962年(昭和37年)、 肺癌の為に死去。金沢郊外の野田山墓地に埋葬されている。「犀星忌」は3月26日。犀川大橋から桜橋までの両岸の道路は「犀星のみち」と呼ばれる。

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の句の通り、文壇に盛名を得た以後も金沢にはほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていた。(インタネット百科事典「ウィキペデイア」を基に記す)

                                (この稿 完)

 

 

 

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室生犀星 3

第3話  女ひと

 

不幸な出自、複雑な家庭環境、失意の青春放浪時代を乗り越えて、家庭を設けるまで、犀星が名を挙げて愛の詩を献じた二人の女性との出会いと別れがありました。

一人は、1913(大正3) 年「詩歌」に「愛人野菊に贈る詩」を発表した石尾春子です。

犀星が激しい愛の言葉をぶつけた石尾春子とは、犀星が金沢の登記所に勤めていた頃に知り合い、当時犀星20歳、春子は13歳でした。登記所の所長の家でかるたを取ったことのある仲で、6年振りに巡り会った犀星と春子は、以前から知り合いであったことから急速に親密となり、愛が芽生えました。しかし、この恋は、春子の母の反対にあって実らずに終わりました。定収入のない詩人の求婚に反対するのは、人の子の親として当時は当然の理由でした。

 

失恋のショックを受けた犀星は、常軌を逸した行動に出ます。激情にかられ、なんと春子を殺すことを親友の朔太郎に書き送ったのです。

 

まさかと思ったこといよいよ事実になるらしい。大変な事件です。室生が春子を殺すのです。拒絶したんで凶悪少年の部下をシソオして暗殺する計画なんです。勿論しばしば僕は忠告しましたが今頃「汝の忠告何するものぞ余は必らず遂行すべし云々」といふ急報が来たんですっかり気を失ってしまった。彼をして殺人罪より救ふために力を尽して御援助願ひます。大至急ねがひます。たのむ。(大正3・11・5)

 

これは朔太郎が白秋にあてた葉書です。朔太郎は興奮し、白秋に助けを求めたのでした。現実に犀星が春子を殺そうと考えたかどうかは疑わしいですが、友の心情を汲み取った朔太郎の狼狽振りが伺えます。

 

春子との失恋の影が消えていくに従い、お(えん)なる女性が犀星の心を捉え始めていました。「お艶。十九歳。お春同様しんせきです。お春よりたけ高くもの言ひ芸術的。このごろ詩もかきます。」と記しています。お艶は本名、村田ツヤ。犀星同様養女に出され、鬼婆のトメと呼ばれた女に育てられました。ツヤは犀星より7歳年下、犀星の育った雨宝院の境内で鬼ごっこをして遊んだ幼なじみでした。

 

私はこの娘のもとにしげしげ用もないのに遊びに行ってゐるまに、この娘が詩をかいて見せたのにも、ちょつと意外な気がした。詩はまづいがご苦労さまにも、私は彼女の詩の原稿を見てやり、勝手に改作をしてみると読めそうな詩になり、殆ど私自身の詩である程度までに改作してやると、いつぱしの女流詩人の風貌をあらはしはじめたので、私は益々いい気になり彼女の原稿を自作同様に添削しては、彼女をよろこばして自分も気色好くしてゐた。              「詩人・萩原朔太郎」

 

朔太郎は「君の詩に似てゐて君よりもうまいかもしれないこの女流詩人は驚嘆に値すべき作者である」と犀星に手紙を送りほめちぎっています。そして、朔太郎とツヤとの手紙のやりとりが始まり、朔太郎もツヤに好意を持つようになりました。ツヤと再会した日、犀星はツヤへの愛の詩「お艶の首」を「詩歌」に寄せています。

 

しかし、ツヤは犀星の愛を受け入れずに1914(大正4)5月、人の妻となりました。「せめて月三十円儲けてくればツヤをやっても良いのだが」という母親の反対にあったのですが、それは春子の場合と全く同じ、経済上の理由でした。

犀星が村田艶(戸籍名ツヤ)と知り合ったのは、放浪時代に終止符を打ち、新たな生活、文学へスタートを切った頃でした。

村田艶との失恋後、艶は「お艶」「おゑん」「和子」「お愛」「お縫」という名で、犀星作品の中に生き続けることになります。孤独と寂しさを抱いて、「その寺(養父が住職である雨宝院)と永久に別れるやうな心」(「父の死の前後」)で金沢を去ったのは大正4年十月下旬でした。この年から、後に『愛の詩集』に収められる口語詩が書かれ始めます。

 

1916(大正6)年、養父が亡くなり、僅かの遺産で詩集を出すことを考えます。帰郷中に市内の小学校に勤めていた浅川とみ子と婚約。浅川とみ子は、1895(明治28)年、金沢市に生まれました。犀星とは6歳年下です。とみ子は金城女学校在学中に教員免状を取得し、小学校の教師となりました。在学中の成績は抜群でした。この点は学校嫌いで13歳で小学校を中退した、成績の悪かった犀星とは正反対です。

とみ子は文学少女で、女学校時代から「北国新聞」「北陸新聞」などの新聞・雑誌に和歌などを盛んに投稿していました。俳句欄に投稿していた作品を犀星が見初めたのをきっかけに二人は文通を開始。互いを深く知るようになった1年後、犀川のほとりで結婚を決めたといいます。

 

大正7年、犀星は念願の第一詩集『愛の詩集』を感情詩社から自費出版、すでに『月に吠える』を出していた萩原朔太郎と共に大正詩壇における確固たる地位を築きました。また同年2月には浅川とみ子と結婚、これまでの文学、生活に一つの到達点を極めた年となりました。泥濘の街を徘徊し、酒を飲み暮らしていた犀星は、家庭を持って安堵を覚えました。貧しくても家庭がありました。

 

 

 

       愛人野菊に贈る詩

 

     (前略)

     はる子よ はる子よ

     君はその母のために疲れ

     勤めつつ若くして疲れ

     ひたひ蒼ざめし室生犀星の愛人よ

     われは君のために盗み

     君のために殺し

     君のためにピストルを懐中す

     君のかなたへ寄るもの

     犬のごとくに(むらが)るるもの

     やがて我がピストルをして舞はしめんのみ

     はる子よ

     又の名の野菊よ

     ああ世界の群衆より選択したる春子よ(後略)

 

 

      ( えん ) の首

 

     お艶は貴族の娘

     首はこれお染の首

     白い日 白い日

     白い日の首

     足は女人の密法の足

     白い足

     水に泳がせらるる足

     お艶はほつそりと立ちあがり

     お艶はひつそりと深い息をつく(後略)

 

   

   村田艶

 

 

 

     お染=歌舞伎浄瑠璃( じょうるり ) の登場人物。豪商油屋の娘お染は丁稚の久松と道

        ならぬ恋のはてに心中。宝永7年(1710)大坂でおきた心中事件を題材に

        歌舞伎では「お染久松色読販 ( うきなのよみうり )」などの外題で人気を博し

        た。

 

 

「愛人野菊に贈る詩」は全92行の長詩。それだけで犀星の春子に対する思いの激しさが伺われます。〈君のかなたへ寄るもの/犬のごとくに群るるもの/やがて我がピストルをして舞はしめんのみ〉とは、春子に近寄る不埒(ふらち)者は私の拳銃でなぎ倒してやる、といったほどの青年客気の熱情を表わしています。

 

「お艶の首」は官能的な色彩に富んだ詩です。〈白い日の首〉は( うなじ ) の美しさを、〈水に泳がせらるる足〉は足のスタイルの良さを詠ってエロチックでもあります。写真でも見ても立ち姿の映える色白の美形で、朔太郎までもが興味を持ったのもうなずけます。

                                                 (この稿続く)

 

 

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室生犀星 2

第2話 新たな決意

 

 

       切なき思ひぞ知る

                      室生 犀星

 

 

     我は張り詰めたる氷を愛す。

     斯る切なき思ひを愛す。

     我はその虹のごとく輝けるを見たり。

     斯る花にあらざる花を愛す。

     我は氷の奥にあるものに同感す、

     その剣のごときものの中にある熱情を感ず、

     我はつねに狭小なる人生に住めり、

     その人生の荒涼の中に呻吟せり、

     さればこそ張り詰めたる氷を愛す。

     斯る切なき思ひを愛す。

 

                     詩集『鶴』1928(昭和3)年

 

 

 

若き日の犀星は、生活苦のため東京と金沢との間をめまぐるしく行き来する放浪生活を送りましたが、その間も創作活動は絶えることなく続けられました。また、生涯の友、萩原朔太郎と師である北原白秋との交友を深め、次第に新進詩人としての名を高めていきました。

処女詩集『愛の詩集』が刊行されたのは、大正71月、作者30歳の時です。作風は人道的感情に溢れ、貧しく、虐げられた人々に寄せる人間愛を特徴としています。それから8カ月後、第二詩集『抒情小曲集』が世に出て、その自然への愛と繊細な抒情的感覚により犀星は詩人としての地位が確立しました。

犀星はその後、佐藤春夫、芥川龍之介らと親交を深め、「幼年時代」「性に目ざめる頃」などを発表して小説家としても知られるようになりました。今回紹介する詩「せつなき思ひぞ知る」は、犀星代表作のひとつです。家庭を設けて生活も安定し、詩・小説の両ジャンルで多彩な創作活動をしていた頃の作品です。(写真は犀星30歳頃の近影)

 

この詩は第13番目の詩集『鶴』の巻頭に置かれました。詩集『鶴』は、人生への積極的な意欲を詠った作品が多く、「せつなき思ひぞ知る」は詩集を象徴する一篇で、作者39歳の時に作られました。

この詩は、若い時分から馴れ親しんで来ましたが、私にとって長い間、謎でした。謎というのは、集中の〈せつなき思ひ〉がどんな切実さを持った感情なのか、よくわからなかったからです。

では、詩を読み解く前に各行ごとに語釈を列記してみましょう。

 

語註

せつなき思ひぞ知る:切なさは、普通、悲しさ・寂しさなどで胸がしめつけられるような心持ち。だが、この詩では、切実な感動、痛切な思いを表わす。

○われは張りつめたる氷を愛す:氷のように張りつめた、鋭い美しさに共感する気持。

こうした気持は、当然作者自身の中に、同様に緊張した精神状態があることを示す。

○かかるせつなき思ひ:氷の冷たい結晶美によって呼び覚まされた切実な感銘をいう。

〈かかる〉=このような

○その虹のごとく輝けるを見たり:その=張りつめたる氷。それが虹のように輝いているのを見た。

○かかる花にあらざる花を愛す:このような花でない花を愛する。かかる=虹のごとく美しく輝くような。花にあらざる花=張りつめた氷が放射する透明な光をいったもの。

実際は花ではないのだが、花のように美しいので、こう表わした。

○氷の奥にあるもの:氷の奥に感じられるきびしく緊張した精神的、意思的な情熱を指す。

○その剣のごときものの中にある熱情:その=張りつめたる氷。剣のごときもの=氷の固く鋭い輝きを比喩的にいった。作者は張りつめた氷の鋭く美しい輝きの中に、激しく冷たい熱情を感じたのである。

○われはつねに矮小なる人生に住めり:自分はいつも狭苦しく卑小な人生の中に生きている。矮小なる人生=人生がそのものが矮小というより、自分が狭苦しい日常の枠の中にいて、卑俗な毎日を送っていることへの反省から出た言葉。

○その人生の荒涼の中に呻吟せり:その=矮小なる人生。日々の生活が味気なく、低俗空虚なことをいう。荒涼寂寞とした空虚な毎日の生活に、自分は苦しみ悩んでいる。

○さればこそ:そうであるから。〈われはつねに矮小なる人生に住めり/その人生の荒涼の中に呻吟せり〉の2行の内容を受けている。

                      参考文献:小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

詩人伊藤信吉は、以下のような詳しい鑑賞文を寄せています。

 

それは密度の極点である。その奥から放射するもの! 花、虹、剣の光彩! そこに張りつめた氷がある。作者の精神の世界にびっしりと張りつめた氷がある。その緊迫感がびしびし刺しこんでくる。人生的な決意と美の意識とがせまってくる。

この詩をつくったとき、作者は自分の生活について、なんらかの新しい決意をうながされていた。氷を踏みやぶってどこかへ切りこむような、そういう激しい決意をせまられていた。

だが、体内から突きあげてくるその情熱は、外部のなにものかをはっきりと対象にしているわけではない。対象はむしろ自分である。「われはつねに狭小なる人生に住めり」という、そういう自分自身に向かっての対決である。日常のささいなことにひっかかったり、古くさい慣習にしばられたり、抵抗のない平板な環境にくずれこんだり、安易な妥協で日を過ごすような、自分の中にあるいっさいの卑俗なものをたたき割ること――そういう自分自身への対決である。私どもの生活の途上にはさまざまな起状や苦渋や動揺があるが、それとは逆に安易な気持ちに落ち込むことがある。危機はそこにある。作者はそれをねらった。自分の中にあるいっさいの卑俗なものをあばき、自分の手で荒々しい抵抗感を( )きたてる。そういう燃えるような情熱を、張りつめた氷によって触発された。

 

私にとって「せつなき思ひぞ知る」は、若き日の長く辛かった受験勉強の日々を思い起こさせます。それはどんな〈せつなき思ひ〉であったか。私の浪人生活は少し特殊でした。

コンピューター技師を目指していた地元国立大時代、文学青年の友人に感化されて二年次で休学。通算2年間、受験のため予備校に入り直し、25歳で東京の私立大学文学部に入学するまで、父母との長い葛藤がありました。文系から理系へ進路変更する学生は珍しくありませんが、私のように常識を覆すような行動は両親には理解不能だったでしょう。私の決心は地元の国立大学への入学を私より喜んだ父の期待を完全に裏切る行為でした。

 

志望校に不合格となった時は、即、大学へ復学すると私が念書を書くことで、両親は精一杯の妥協をしてくれました。休学後、昼は予備校に通い、夜はなおも反対する両親と口論を重ねることが私の日課となりました。志望校に合格した1974年(昭和49)春、父は「あの子は本当に勉強が好きなのだろう」と、無理に自分を得心させた、諦めの言葉を母に呟いて私のわがままを許してくれたと言います。

 

二年の間、堪えに堪え、こらえにこらえた思いは、まさにこの詩のように胸中で凍結していました。しかし、その氷の中には、志望校合格の暁には、文学の道に邁進しようとする情熱が、開花を待ち望んで熱く(たぎ)っていました。〈その剣のごときものの中にある熱情を感ず〉とは、私にとってその時分の感情に酷似しているように思われます。

外に出ようとして出られなかった思い、封印されて凍結した意欲。それが今しも開花しようとして胸の内でもがいているのです。その心理を、犀星は張りつめた氷の緊迫感というイメージを使って表現しました。

 

一気に燃え上がるような情熱ではなく、静かに堪えて揺るぎない強さにまで洗練された情熱。氷りつくような厳しい環境の元で、時節を待ちながら、おのれの意志と意欲を磨きながら、じっと開花の時を待っている人。そんな〈せつなき思ひ〉を抱いている人にこそ、犀星のこの詩はふさわしいと思います。

 

詩作品というものは、自分の体験を通さなければ、あるいは追体験しなければ決して自分のものにはならない。――これは私がいつも掲げている持論ですが、自分の経験に照らし合わせて詩を読み解くということは、自分の過去の出来事の意味をもう一度問い直すことです。それは過去を懐かしむためではなく、過去の過ちや悔いを分析し、その時の感情を詩の力を借りて再体験することで、未来へ活かすためです。

ただ、感動するだけで、その場限りで忘れてしまったら、詩を学ぶ意味は薄れてしまうのではないでしょうか。目の前にある詩のテーマが、もし不条理な出来事であれば、私は過去と向き合い、自分が身の( まわ ) りで体験した不条理な体験を思い起こさなければなりません。自分が安全地帯にいて――無傷で、頭でどんなに分析した所で、真の鑑賞に耐えるものではありません。

 

過去を掘り起こすのが辛い作業であっても、私は作者と同じ情感を共有しなければ、作品を自分のものにすることはできないのです。言葉に責任が持てないのです。

詩の読み解きとは、自分の全存在を賭けてぶつかるものだと思います。思い出したくない過去もトラウマもすべてを総動員して。

こんな私の信念を突き詰めれば、鑑賞文にプライベートな話題が増えるのは当然の結果と言えるかも知れません。でも、それが自分の大切な仕事なんだと、この頃はそう思えるようになりました。

                                                    (この稿続く)

 

 

 

| 室生犀星 | 10:51 | comments(1) | trackbacks(0)
室生犀星 1

第1話 青春放浪

 

 

  小景異情

       

その一

白魚はさびしや

そのくろき()はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる()をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと      

ききともなやな雀しば啼けり

 

                                      金沢市犀川の畔り。犀星という筆名は、犀川の西に生まれ

                                                                 育ったことからという

その二                

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土(いど)乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

              『抒情小曲集』1918(大正7)年

 

 

室生犀星は旧加賀藩士の婚外子として生まれ、7歳の時、犀川(さいかわ)(ほと)りにある室生寺の養嗣子(ようしし)となりました。出生の不幸が自分を文学へ向かわせたと自伝で語っています。(写真右 養家の肖像。左からチヱ、さん、養母ハツ、後列・真道 円内・犀星 明治36年頃  出典:「室生犀星文学アルバム 切なき思ひを愛す」)

処女詩集『愛の詩集』が出たのが大正7年1月、作者30歳の時です。人道的感情にあふれ、(しいた)げられた貧しい人々に寄せる人間愛に満ちた独自の作風です。

第二詩集『抒情小曲集』は、自然への愛と繊細でみずみずしい抒情的感覚を特徴とし、『愛の詩集』と共に、詩人としての地位を確立させました。

犀星文学は多彩で詩にとどまらず、小説・随筆など多くの作品を世に問い、「幼年時代」(大8)、「性に目ざめる頃」(大8)、「ある少女の死まで」(大8)を発表して小説家としても知られるようになりました。詩人としては萩原朔太郎と並ぶ大正期の代表的詩人として著名です。

 

【鑑賞】「小景異情」

詩集『抒情小曲集』冒頭の作品で、「小景異情(しょうけいいじょう)」と題された組詩6篇の内の2篇です。

作者20歳頃の作、犀星の詩の中で最も知られています。大正2年に北原白秋主宰の文芸誌『朱欒(ザンボア)』に発表。タイトルの「小景異情」とは、犀星の造語で小さな風景についての風変わりな詩情というニュアンスです。

 

語註「その一」

〈くろき瞳〉:小さく白い白魚の、さらに小さい黒点のつぶらさ、を鮮明に描く。

〈しほらしさ〉:控え目で愛すべきこと。

〈ひる餉〉:郷里の金沢の食堂の片隅で、一人淋しく食事をしている。養母に疎外感を感じ、家があるのに外食をする悲しい境遇だった。

〈わがよそよそしさと/かなしさと〉:自分の心にしっくり来ない、どこにも身の置き所がない悲哀感や孤独感が根底にある。

〈雀しば啼けり〉:雀の声がむやみに鳴き、聞きたくもないなあ。雀に嘲笑されているかのようで、焦立ちを感じさせる。

          参考文献:西原大輔『日本名詩選機戞⊂海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

「小景異情 その一」を読むと、我が身の青春彷徨のひとコマを思い出します。

40年前、文学の志に燃え親の反対を押し切って上京したものの、最初の一年間は自分の進路が見つけられず悶々とした日々を送っていました。学内サークルや様々な文芸の集まりに手当たり次第に顔を出すのですが、どれも長続きしません。知人も友人もほとんどいない東京砂漠の中で、行き場もなく、神田や早稲田の古本屋街をあてもなくさまよっていました。念願の上京で気持が(たかぶ)っていたからこそ、自分の目的が叶わないと余計に落胆の思いが強かったのです。

 

上京二年目の秋、いつものように終日都内を歩き続けて疲れ果て、夕刻、下宿近くの場末の食堂に腰を下ろしました。腹を満たすだけの安手なメニューを選んだのですが、ハムエッグの出来損ないのようなお粗末な料理で、「これじゃ、豚のエサじゃないか」と内心つぶやきました。すると、自分のみじめさが一層こみあげてきました。表に出ると、氷雨が降り始め、半身を濡らしながら力なく帰途につきました。

あの夕べが心の限界だったと思います。あれから、なおも自分の道が見つけられなかったら、私は大学をやめて郷里に帰ろうかなどと愚かなことを考えていたのですから。

それからわずか数ヶ月後、古本屋で偶然手にした一冊の詩作入門書が機縁で、私は生涯の師・高田敏子を知り、恩師が亡くなるまで15年間私淑することなったのです。

 

犀星が「小景異情 その一」でうたった食堂での侘しさは、自分のみすぼらしかった日々を重ねると、我が事のように、そのさびしさと哀しさがわかるのです。犀星が白魚の目に見たのは、自分の分身だったでしょう。いじらしいほどの、つぶらな黒目は、犀星の孤独と悲哀を象徴しています。失意の日に、侘しい思いで食事をした人なら誰でも共感できる情感に違いありません。

 

明治435月、21歳の犀星は長年憧れ続けた上京を果たします。しかし、上京して2年目の夏、生活の窮乏と炎暑に耐えかねて郷里金沢に帰りました。その後、幾度も東京と金沢との間をめまぐるしく行き来する放浪生活をします。東京で食い詰めては金沢に逃げ帰り、故郷にいられなくなれば上京するという生活が繰り返されました。

「母親と争ひ、郷党に指弾され、単身上京して来た若い作者は、空しく衣食の道を求めて、乞食の如く日々に街上を放浪して居た」(萩原朔太郎)窮乏に苦しみ、まさに行くも地獄、帰るも地獄という境遇でした。

 

「石の上に移ってはまた石の上にもどる秋の日の蜻蛉(とんぼ)のように、私は東京と金沢とのあいだを往復するごとに、綺緻(きりょう)が悪くなり、顔色は妙な日に焼けたような地肌になって(しま)った。金沢にいると天気が悪いから色は白くなるが、東京は毎日天気がいいから日にやけたような色になる、――それに何時も街に出てはぶらつくからである。きょうも昨日もぶらつき、明日も明後日も果てしなくぶらつく、このぶらつく間に何が頭にはいっているのか、どういう目標がぶらつく間にあるのか、それはまるで分からない。ただ、ぶらつくだけであった。用もないのに通りまで出て、電車を見て往来の人を見て、さて胡散( うさん ) くさそうに立ち停まって何を見るともなく街の遠くを見遣って、そしてまた下宿にある机の前にもどるのである。そういう物悲しい三十分くらいの時間はなかなか過ぎ去ろうとしないで、時間の方でもしんねりとぶらつくのである。」(「泥雀の歌」)

 

ここに描かれた放浪の姿は、若き日の私の姿をそのまま見るようです。下宿にいてもいたたまれず、何かを見つけようと焦って街中を歩き続けました。苦しかったけれど、じっとしているのはもっと辛かった。さ迷い続けるのが青春の本質なのでしょう。

 

左上の写真は、 大正14(1925)年、田端の自宅での朔太郎(36)と犀星36歳。(出典:「室生犀星文学アルバム 切なき思ひを愛す」)

大正3年2月、25歳の室生犀星は早春寒い前橋駅頭で初めて朔太郎に会います。

「萩原はトルコ帽をかぶり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口にくわえていた。・・なんて気障な虫ずの走る男だろうと私は身震いを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石けんをつつんだ風呂敷包みを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい痩せ犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。」、「萩原は詩から想像する私をあおじろい美少年のように、その初対面の日まで恋の如く思いを抱いていた」。初対面の幻滅。朔太郎は犀星の詩から、青白い美少年のような空想を懐いていたといいます。

 

語註「その二」

〈よしや/うらぶれて〉:たとえ。/本来は心が弱っているという意味。ここでは落ちぶれての意で使われている。〈異土〉:異郷。ここでは「都」東京を指す。

        参考文献:西原大輔『日本名詩選機戞⊂海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

「小景異情 その二」について、終生の友、萩原朔太郎は以下のように述べています。

 

単身東京に漂泊して来た若い作者は(中略)見知らぬ人々の群衆する浪にもまれて、ひとり都の夕暮れにさまよふ時、天涯孤独の悲愁の思ひは、遠き故郷への切ない思慕を禁じ得ないことであらう。しかもその故郷には、我をにくみ、(あなど)り、鞭打ち、人々が嘲笑(あざけ)って居る。よしや零落して、乞食の如く餓死するとも、決して帰る所ではない。故郷はただ夢の中にのみ存在する。ひとり都の夕暮れに、天涯孤独の身を嘆いて、悲しい故郷の空を眺めて居る。ただその心もて、遠き都に帰らばや、遠き都に帰らばや。(注。此所で故郷のことを「都」といってゐるのは、作者の郷里が農村ではなく、金沢市であるからである。)(「室生犀星の詩」)

 

犀星は東京在住時代に望郷の念にかられてこの詩を書き、作中の〈遠きみやこにかへらばや〉の〈遠きみやこ〉とは金沢であるという朔太郎の説は、実は誤読でした。

 

これは東京の作ではなく、故郷金沢での作品と見る方が妥当だろう。東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば「帰るところにあるまじ」き感情に苦しむ。東京にいるとき「ふるさとおもひ涙ぐむ」その心をせめて(いだ)いて、再たび遠き東京にかえろう。と見る方が、詞句の上で無理が少ない。更に「小景異情」がすべて金沢をうたっていることも注意せねばならぬ。

                            関良一『日本近代詩鑑賞・大正篇』

 

私の解釈は、実際に作られた場所が東京であれ金沢であれ、作品上では作者が故郷の金沢にいて東京を想い、住むべき所ではないという自責の念にかられている、というのが故郷に幾度も逃げ帰った失意の犀星にふさわしいと思います。

 

このような放浪時代の中でも犀星は絶えることなく詩作を続け、文芸誌「スバル」「朱欒」に次々と作品を発表しました。大正元年12月、金沢で創刊された「樹蔭」に発表された「滞郷異信」という詩は、当時の新進歌人斎藤茂吉をして「昨夜涙を落とさしめ、同時にをののかしめたのは此の長詩である。ざんげの心と感謝の心とを棒持してしばしば無言でゐなければならなかった」と激賞させました。また、同年、「朱欒」に発表した14篇の詩に感激した萩原朔太郎から手紙を受け取り、以後、恋人とまで称する交友が生まれました。朔太郎はその時の様子を犀星の詩集『青き魚を釣る人』に寄せた序文の中で以下のように綴っています。

 

はじめて犀星の詩が見出(みい)だされたとき、その悦びのきはまり、熱にうるむうたごゑ、涙はしづくのやうに青い洋紙をうるほした。かくもわが身にしたしく触れ、身ぶるひをさせ、耐えやうもなく心に喰ひ入る。かくもふしぎなる情緒の苗はどこにあるのか。このふかい感情は、世の常の言葉につくすべくもなかった。その愛慕と渇仰(かつごう)のありたけを手紙につづって、当時尚詩壇に知る人もない田舎の無名詩人犀星に送ったのである。かくして二人の交情は始まり、その後互に上京して感情詩社を結ぶまでの径路となった。

 

(註)詩誌「感情」:大正5年、萩原朔太郎と創刊。題名は朔太郎が命名。大正8年までに通刊32冊を出し、新鮮な編集感覚によって詩壇に刺激を与えた。同詩誌に掲載された「抒情小曲集」に感動した作家谷崎潤一郎が金沢まで訪れたことがあった。

                                    (この稿続く)

 

 

 

| 室生犀星 | 11:17 | comments(2) | trackbacks(0)
三島由紀夫 1

第1話 金閣寺に殉じた作家

 

    金閣寺(抄)

 

 

夜空のように、金閣は暗黒時代の象徴として作られたのだった。そこで私の夢想の金閣は、その周囲に押し寄せている闇の背景を必要とした。闇のなかに、美しい細身の柱の構造が、内から微光を放ってじっと物静かに坐っていた。人がこの建築にどんな言葉で語りかけても、美しい金閣は無言で、繊細な構造をあらわして、周囲の闇に耐えていなければならぬ。私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅(こんどう)鳳凰(ほうおう)を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることも忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの(そう)の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。そうして考えると、私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその「壁の少ない、吹きぬきの建築」は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船(やかたぶね)が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい夜を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして昼の間というもの、このふしぎな船はそしらぬ顔で(いかり)を下ろし、大ぜいの人が見物するのに任せ、夜が来ると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出航したのである。

                        三島由紀夫『金閣寺』1956(昭和31)年

 

鳳凰(ほうおう)=中国神話の伝説の鳥、霊鳥。容姿は、前部が(りん)、後部が鹿、(くび)は蛇、背は亀、(あご)は燕、(くちばし)は鶏、尾は魚であるとされる。また五色絢爛な色彩で、羽には孔雀に似て五色の紋があり、声は五音を発するとされる。

 

京都鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣。創建は1397(応永4)年、今から約600年前に舎利殿(仏の遺骨を安置する堂)として建てられましたが、終戦後心ない者の放火により焼失してしまいました。そこから着想を得て、宿命の主人公が金閣に対する異常な愛着を描いたのが、三島由紀夫の代表作『金閣寺』の一節です。

 

■「金閣寺」のあらすじ

金閣寺の美に( ) りつかれた学僧が、寺を放火するまでの経緯を一人称告白体の形で綴ってゆく物語。戦中戦後の時代を背景に、主人公は重度の吃音症(きつおんしょう)の宿命を背負い、人生に立ちはだかる金閣の美への呪詛(じゅそ)と執着という、相反(あいはん)する心理や観念が綴られています。

 

『銀閣寺』の主人公は、貧しい寺の子として生まれ、吃音( きつおん ) のため自分をうまく表現できず、生来疎外感に悩まされていました。身体が弱く、引っ込み思案な性格のために夢想好きな少年に育ちました。幼い頃から父親に金閣寺の美しさを聞かされ、見たこともない金閣寺を誇大妄想的に偉大で美しいものと考えました。ところが、現実の金閣寺は全く異なり、金閣がその美を偽り、何か別の物に化けているのではないかと疑うほどでした。

 

父親の死後、金閣寺の徒弟となった主人公の前に、金閣寺は別の美しさをもって迫るようになります。戦時下、金閣が空襲の火に焼け滅ぼされるだろうという幻想です。( もろ ) い肉体の自分と同様、金閣の美も滅びる運命にあるという感覚は、金閣と自分を一体化させ主人公を狂喜させます。ところが、京都は空襲はなく戦争は終わります。金閣は儚い悲壮美から、再び堅固な美へ変貌していきます。

 

金閣との関係を絶たれたと考えた主人公は絶望します。寺の老師との葛藤も深まり、自分が寺の後継者となる道が絶たれ、金閣の支配者となる可能性が完全に失われました。ここに至って主人公は、不滅と思われている金閣を消滅できればこの世界は確実に変わると考え、金閣への放火を決意します。

 

燃え上がった炎の中で、金閣の美に包まれて三階の部屋で死のうと思いつきましたが、鍵がかかっていました。金閣寺に拒まれていると感じた主人公は、、逃走の途中まで自殺を決意していながら、最後には「生きよう」と思います。主人公が生きようとした決意には様々な解釈が可能ですが、この作品が単に美を破壊するだけの物語には終わらない、大きな広がりと意味を持っていることは確かなようです。

 

■『金閣寺』の美意識

この作品の登場まで、当時の文壇は三島に対し懐疑的否定的な評価をしていましたが、左翼系の作家までも高評価をし、名実ともに三島由紀夫が日本文学の代表的作家の地位を築いた作品です。

 

1956(昭和31)年、文芸雑誌『新潮』1月号から10月号に連載されました。単行本は同年10月30日に新潮社より刊行され、15万部のベストセラーとなりました。読売新聞アンケートで、昭和31年度ベストワンに選ばれ、第8回(1956年度)読売文学賞(小説部門)を受賞しています。文庫版は新潮文庫で刊行され、今日まで累計売上330万部を超えているロングセラー小説です。

 

『金閣寺』は、長い歴史を経て来た建築美術への幻想的な讃美が語られています。しかし、その美を完全に自分のものにするためには、焼くこと以外にありえないと考え詰めるところに、戦後の異常な人間心理が見られます。

 

この異常心理に似通ったものがあります。ストーカー行為です。恋愛関係が壊れた時、思いが断ち切れず、相手を殺害してしまう事例があります。究極のエゴイズムであり、追いつめられた人間の身勝手な行動ですが、作中の放火犯の心理に通じる所があるかも知れません。

 

金閣寺の美しさに魅入られ、犯罪者となる以外に道を見つけられなかった若者の苦悩。それを描き切ったこの作品は、「戦後文学の金字塔」とも(たた)えられました。こうした三島文学の魅力は一体どこにあるのか、という問いに対して、三島と古くからの友人であった美輪明宏が以下のように語っています。


日本の美意識でしょうね。日本の美意識のレベルの高さ。三島さんがおっしゃってたことは、あらゆる芸術作品は霊格(れいかく)が高くなければならないとおっしゃってたんですよ。スピリチュアルのね、霊格が高いものでないと本物の芸術とはいえない、と。しかもオリジナリティーですね。たとえばアメリカにも、英国にも、フランスにもイタリアにもドイツにもない、日本だけの文学、そういう美意識。よそとは違う格調の高さとか、ものの見方、表現の仕方。三島さんは古典から出発してますから、歌舞伎や能とかね、そういった、純日本的な美学の基本ができてらしての表現だから…。

     ウェブサイト「トクベツキカク」――美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫

 

取り上げた一節は、金閣の不滅の美を描いた部分です。三島の文学作品は、独自の美意識から生まれた高度に知的で精緻(せいち)な文体で書かれています。ただ、それだけに難解な箇所もありますので、いくつかのキーワードに絞って、下記のように文脈の流れをまとめてみました。

 

^店時代の象徴=闇の背景――繊細な構造――無言で耐える

金銅の鳳凰=鳥であることを忘れる――永遠に時間のなかを飛ぶ――不動の姿

3い鬚錣燭詒しい船=永遠の航海――昼は停泊し、夜に出航する

 

美輪明宏が語るように、金閣の美は霊格の(こも)った(あや)しげなものですから、その美学を支える背景には深い〈闇〉がなければなりません。また、その構造も〈繊細〉なものでなければならないのです。しかも、そのデリケートな姿が〈時間〉を超越して永遠に存在することが必要になります。そのために作者は〈金銅の鳳凰〉をじっと〈不動の姿〉のまま静止させ、時間の方がその翼を打ちながら後方へ流れ去ると、詩的な想念を描きました。

 

さて、金閣が不動であるということは、金閣を取り巻く外界は激しく移ろうことでもあります。四季が変わり、歴史が変転し、金閣の所有者も代が替わります。実は現実的に考えると、金閣の美も不動のものではなく、時間の流れの中で風雨に打たれて劣化し、金箔が無惨に(は)げ落ちてゆきます。

しかし、主人公の抱く金閣の美学を成立させるためには、このようなリアリズムの側面には目を(つむ)らなくてなりません。ですから、『金閣寺』は小説というより、極めて観念的で詩的な文学作品であると私は解釈しています。

 

不動の金閣は永遠の航海へ(い)で立つ船にも似ています。しかし、俗人の目にはこの〈ふしぎな船〉はいつも静止しているとしか見えません。金閣という船は、自分の美は、一般の見物人には絶対にわからないと、澄ましかえっているというのです。この船が活動を始めるのは、そんな下賤(げせん)な人々が帰ってしまった闇の夜です。このような金閣の美が、主人公の心を強く魅惑します。

 

なお、作中の〈暗黒時代〉とは、室町幕府内の政争と深く関わっています。金閣寺を建てた室町幕府三代将軍・足利義満が幼少の頃は、日本史でいう所の南北朝時代でした。北朝を支援する室町幕府は南朝との抗争が続いていました。さらに足利家の内紛である観応(かんのう)擾乱(じょうらん)(南北朝時代、対立する南朝と北朝との抗争)以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していました。

暗殺、毒殺、謀殺(ぼうさつ)が日常茶飯事に行われていた殺伐たる世の中でした。このような歴史的な〈闇〉のイメージも重ねて味わうべきでしょう。

 

終りに余談ですが、三島由紀夫の邸宅について触れておきます。1959年5月、都内南馬込4丁目にビクトリア朝風コロニアル様式の白亜の邸宅が建造されました。建設費用は、次回作「鏡子の家」の印税を前借して充てたといわれています。

この邸宅では、頻繁にパーティーが催され、「大森鹿鳴館」とも呼ばれました。スペイン植民地風の外観、室内はスペイン骨董やフランス骨董で飾り立てました。家具類は三島婦人と二人で足を棒にしてマドリッドの骨董屋あさって歩き、スパニッシュ・バロックの装飾美に熱中したといいます。(上の左側の写真で右奥に三島由紀夫夫妻)

 

私はこの豪華絢爛な建築を見ながら、この邸宅こそ三島が目指したこの世の「金閣寺」ではなかったかと思いました。それほどまでに、三島は文学のみならず、自分の美意識に殉じた作家だったに違いありません。

 

(メモ)コロニアル様式:建築・工芸様式の一つ。17〜18世紀のイギリス・スペイン・オランダの植民地に見られ、特に植民地時代のアメリカで発達した。建物は正面にポーチがつき、大きな窓やベランダがある。明治期以降、長崎や神戸などの外国人居留地の住宅で用いられた。神戸の異人館で見られる。「コロニアル」とは「植民地の」という意。右の写真は、同様式の神戸・北野異人館。

 

 

 

 

 

【メモ】三島 由紀夫 1925年(大正14)年114 - 1970(昭和45)年1125日) 本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)は小説家・劇作家・評論家・政治活動家・民族主義者。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人。

代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。

人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「(たて)の会」を結成。19701125日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。享年、45歳。

この一件は世間に大きな衝撃を与え、新右翼が生れるなど、国内の政治運動に大きな影響を及ぼした。

筆名の「三島」は、静岡県三島の地名に由来する。「三島」の命名を想起した清水文雄が修善寺での同人誌の編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという。著作権は、酒井著作権事務所が一括管理。201011月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上。

                    (インターネット百科事典「ウィキペディア」)

                                                                             (この稿完)

 

 

| 三島由紀夫 | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0)
野田宇太郎 4

第4話 北の美学

 

         オホーツクの花嫁

 

 

        記憶の中に今日もひろがる

        晩夏(                 おそなつ)の旅の(はて)知らぬオホーツク海

        その岸辺の小さな漁村の無人駅から

        華麗な若い女が一人

        やさしい横顔だけを見せて

        線路伝いの小径を北へ真直(まっすぐ)に歩いて行った

        どこから来てどこへ行くのか

        その向こうには人影もなく家もなく

        ただオホーツク海の水平線が一筋

        涯しない非情の胸をひろげているばかり

        無人駅から南へ発った列車の窓から

        しだいに小さくなるその人影を見送った

        そして今もはっきりと見つづけている

        海の花嫁のように波音の中を北へ遠隔(とおざか)

        その華麗な孤独が

        荒磯 ( ありそ ) に吹く浜薔薇 ( はまなす )

           の一輪の花になるまで。

 

 

 

 

 

網走方面のオホーツク海 釧網本線北浜駅にて

 

(メモ)ハマナス(浜茄子)。薔薇の一種。夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。晩夏の季語。皇太子徳仁親王妃雅子のお印。

 

文学散歩というライフワークのため、全国を津々浦々、駆け巡ったためでしょうか、野田には旅の詩もあまた数えられます。名も無い北限の漁村、車窓から見たほんの一瞬の光景が、詩人の目によって鮮やかに切り取られています。

 

野田の作品には、この世の中でひっそりと目立たぬもの、一瞬に消え去って跡形も留めぬものへのやさしい眼差しに満ちていると紹介しましたが、この詩もそれを証ししています。

 

(メモ)野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年10月28日 - 1984年7月20日)

福岡県出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学。病気により中退。1930年、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始。1933年、詩集『北の部屋』を出版。1936年、安西均や丸山豊らと「糧」創刊。1940年、上京。小山書店に入社。その後、『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。

1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」連載。「文学散歩」の名付け親となる。『新東京文学散歩』はベストセラー。1976年、『日本耽美派文学の誕生』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。博物館明治村の常務理事を務め、1977年、明治村賞を受賞。1978年、中西悟堂らと同人誌「連峰」を創刊。出身地の小郡市には、野田宇太郎文学資料館があり、近代文学の名著とされる作品の初版本や、明治・大正期の文芸雑誌、著名な作家の原稿など、各地の文学散歩によって収集された貴重な約3万点が寄贈・保管されている(小郡市立図書館内)。1985年(昭和60年)、小郡市に野田宇太郎詩碑が建立された。

                                                  (この稿 完)

 

 

| 野田宇太郎 | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0)
野田宇太郎 3

第3話 傷みの美学

 

              

 

 

             あなたをじっとみていると

             私は真実だけになりました

 

             あなたが濡れているときは

             私も濡れてゆれました

 

             あなたにふれると氷のように

             私はつめたく隔てられ

 

             あなたはいつか私になり

             私があなたになったとき

 

             あなたはひとりみまかって

             私は私を失いました

 

             いまは思い出のかけらばかり

          毀れたあなたのかけらばかり

 

 

恋の絶頂から急落への心理ドラマを、鏡の特性を使って巧みに比喩してみせた作品です。

〈あなたをじっとみていると/私は真実だけになりました〉とは、恋する人の前では本当の自分になる、愛する心に嘘いつわりはないというメッセージを伝えています。

〈あなたにふれると氷のように/私はつめたく隔てられ〉には、安易に相手に身を任せない強さが、〈あなたはひとりみまかって/私は私を失いました〉には、鏡が割れる→恋の対象の喪失→自身の喪失という図式があります。

作者の恋愛体験をうたったというよりは、恋情の推移を鏡のイメージに託して詩的に興じているといった所でしょうか。ここにも、「朝の鏡」「水へつづく階段」と同じように、鏡は物の真実の姿(美)を映すという理念が共通しています。

 

 

 

 

            塔

                      大和薬師寺にて   

 

              風と雨と雲だけがささやきかける   

              高い(あららぎ)の相輪の上で

              舞楽姿の天女たちは

              昼間は凍ったように動かなかったが

              夜になると何処かの空へ

              ひっそりと翔んでいった。

              (夜のなかにも昼があると

               誰も知らない)

              天女たちは思い想いに

              飛鳥の天で馴れた遊びに耽ったすえ        

              或る日一人だけが

              なぜか遅れてかえって来た。

              手と肩に傷を負って、それでも黙って

              また、笛を口に当てた。――

              薬師寺の天女たちは

              今日もその日のままだ。

              しかし、人々は相変わらず塔を仰いで

              たのしげな天の音楽を聴こうとする。

 

 

 

奈良・薬師寺東塔の水煙( すいえん ) がモデルになっています。水煙というのは、塔の九輪(くりん)の上にある火炎状の装飾金具。火炎のデザインですが、火事を避けるため水煙とされています。火事の連想を避け、同時に水難をおさえる意味もこめて名づけたともいわれます。

作中の〈舞楽姿の天女〉とは、水煙に透かし彫りにされている天人たちで、飛天や笛を吹く天人がデザインされています。

この著名な古刹を無工夫に扱えば、観光案内のような作品になりかねません。水煙に着目し、詩的なロマンを創出することで、作者の隠された心の傷みを伝えています。

 

(メモ)薬師寺法相宗(ほっそうしゅう)の大本山。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見た。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移された(718)。現在は平成10年よりユネスコ世界遺産に登録されている。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。再建にあたっては、「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する。」と主張する宮大工の西岡常一と、「台風や地震、火災からの文化財保護の観点からも鉄筋コンクリート補強が望ましい。」と主張する竹島卓一(元名古屋工業大学)の意見が衝突した。結果、金堂の内陣は鉄筋コンクリートとし、西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建された。

                                     (この稿続く)

 

 

| 野田宇太郎 | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0)
野田宇太郎 2

第2話 水の美学

 

 

         水へつづく階段

                        野田 宇太郎

 

          川沿いの家から

          少女(              おとめ)は水近く階段を降りる

          朝雲の浮く青い空の中に

          そのたちすがたが水に映る

          それから顔を洗う

          一瞬

          水は少女を粉々に溶かして

          澄みきったまま流してしまった

          水鏡に

          ふたたび少女のすがたが克明に映りだす

          あの家のある世界とはまるで違った

          美しい人が髪を()

          顔をかがやかしながら背伸びをする

          それから階段を登りはじめると

          水に映ったその人のうしろすがたが

          女神のように現実の方へ降りていった

 

                     (柳川にて)

 

 

 

水面(みなも)に写った、たまゆらの美の世界を讃美した詩です。鏡に写る影は虚像でありながら、作中で使われている〈水鏡〉は、物の真実の姿(美)を映す、あるいは真実の自分の姿を映すという意味が込められています。

 

この作品は、現実(地上)と非現実(水面)という異なる世界を、緻密に際立たせる構成をとっています。朝、川辺で顔を洗う少女の姿は日常的な光景ですが、それが水に写ると、少女は女神のように輝き始めます。

顔を洗い終え、階段を登る姿は、水に写ると上下が逆さになり、階段を登るのではなく、階段を降りていくように見えます。その様子を、最終行で〈女神のように現実の方へ降りていった〉という卓越した修辞で表現しました。(左図参照)

また、両手に水を掬うと水面が波立ち、水に写った顔が乱れますが、それを〈水は少女を粉々に溶かして/澄みきったまま流してしまった〉という描写は比類のないものでしょう。〈粉々に〉の修辞は、鏡が割れることから生まれた類想表現です。

この作品は末尾に、〈柳川にて〉と記されています。柳川は、福岡県筑紫地方の都市で、市内を掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれています。現代では、作中にあるような風景は見られず、観光名物の柳川の川下りにその名残りを留めています。

                      

                                      (この稿続く)

                          

             

 

 

| 野田宇太郎 | 16:16 | comments(0) | trackbacks(0)
特別講座「詩人、石垣りんを語る」を開催

先日の土曜日、詩人・石垣りんの人と詩業を語る特別講座を開きました。石垣りんは下積みの銀行員として定年まで全うし、生涯独身でした。働く女性の 本音を吐露し、家族、職場の人間関係と終生向き合った詩は、世の多くの共感を得ています。没後12年、本人に直に触れた体験を基に石垣りんの素顔と詩の本質を明らかにするものでした。
中国新聞文化センタークレドビル教室にて、広島大学大学院の西原大輔教授と対談形式で進め、朗読家の阿部律子さんに詩を朗読していただきました。
おかげさまで20名を越える参加者があり、石垣りんの代表作を語り合うひと時に、足を運んでいただいたことをありがたく思いました。

 

次回(全2回)は11月26日(土)を予定しています。関心をお持ちの方は同センターまでお問い合わせ下さい。

 

【メモ】石垣 りん 大正9・2・21〜平成16・12・24(1920〜2004)。詩集『表札など』(1968年刊・第19回H氏賞)、『略歴』(1979年刊・第四回地球賞)、散文集『ユーモアの鎖国』(1973年刊)『焔に手をかざして』(1980年刊)。
1920年(大正9)東京・赤坂生。生家は薪炭商と牛乳屋を営む。4歳の時、関東大震災で母を亡くす。後妻に迎えた母の妹も、30歳で逝去。3人目の母は 17歳の時、離婚。4人目の母は、定年前年の1974年死去。

昭和9年(1934)高等小学校卒後、日本興業銀行へ事務見習(給仕)として入行。少女時代 から、文芸誌の投稿、同人雑誌発行と、書くことと読むことに熱中。病弱の父のため石垣りんの定収入が一家の大黒柱となり、定年まで一銀行員として勤め上げる。

 

 

| 詩の教室 | 11:42 | comments(0) | trackbacks(0)
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