晩年のリルケ

今から7年前、とある新聞記事(2012年9月11日付 京都新聞)に釘付けになりました。染織家で人間国宝の志村ふくみさんが、リルケに関する研究書を出版したというものでした。志村ふくみさんは、マスコミでの露出も多く、最近ではNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演しています。私は染織家と詩人リルケの繋がりが余りにも予想外で、驚きもし、長年リルケに親しんでいる者として、おおいに励まされました。


 

紹介記事によれば、志村さんは十代からリルケの文章に魅了され、特に『時禱( じとう ) 詩集』は十数年も座右に置くほどだったといいます。ただ、表現が難解なため、途中何度も放棄しました。しかし、2010年、86歳の春、再開。考え抜かれた精緻な一行を繰り返し読み、リルケの考えを探りました。2012年、その仕事が結実したのが、全250頁に亘る労作『晩禱詩集――リルケを読む』です。この高齢で尊敬に値する功績といえるでしょう。

 

リルケの存在を最初に私に教えてくれたのは、詩人吉野弘です。インタビューや著書によって私も理解を深めていきました。詩作の上で、緊張感が乏しくなると、リルケの詩を紐解くと、吉野弘は語っていました。私も先達に習うように、テンションが下がったり、作品の発想が凡庸になると、リルケを読み返しています。かくまでに、リルケの詩は長い年月が経っても、常に人を鼓舞し続ける力を持っていると思います。

 

若きリルケがロダンから学んだのは、三つのことでした。

〃歃儔箸論験茲旅福を断念し、自分の道に生きる

霊感(インスピレーション)に頼ることなく、常に仕事しなければならない

仕事とは、見ること、創ること、絶え間なく職人のように手仕事を続け、技術を磨くこと

番の霊感に頼らず、常に仕事(詩作)をするという教えは、リルケの中で「詩は感情ではなく経験である」という言葉に生まれ変わりました。これはリルケの自伝的小説『マルテの手記』の中で綴られた言葉です。この言葉は彫刻におけるロダンの考えを、リルケが詩の世界で等価に言い換えたものといってよいでしょう。時と共に移ろう感情に対して、経験こそ、不動の事実として彫刻のようにゆるぎなく確固として存在するものだからです。

 

青年リルケは芸術家の生き方をロダンから学び、彼の思想を自分の詩作にも活かそうとしました。そして、視覚を通して受け取ったものを言葉を使って、彫刻作品のように完成させるという詩観を確立しました。その詩観とは、感情のように流れ去る不確かなものでなく、彫刻のようにゆるぎなく確固として存在する作品を目指すというものでした。リルケの詩を訳した高安国世氏の言葉を借りるなら、「物への愛情の告白ではなく、説明でなく、存在そのものをさし示す」ことです。

 

“屬痢峽歃儔箸論験茲旅福を断念し、自分の道に生きる」という教えは、晩年リルケが暮らしたスイスの「ミュゾットの館」の極限生活を見れば一目瞭然です。リルケは51歳で亡くなっているので、晩年といっても46歳ですが、リルケは支援者(パトロン)の家を渡り歩く長い放浪生活を打ち切り、スイス・アルプスの(ふもと)のミュゾットという辺境に落ち着きました。廃屋となっていた中世の石造りの家を借り、電気もガスも水道もない、家具といったら小さな机とわずかな調度品(本棚さえありません!)まるで太古のような生活レベルです。

 

「ミュゾットの館」と称された住まいは、土地の村人さえ近づかないお化け屋敷のような建物で、週に一度家政婦が掃除に来る以外はほとんど訪れる者はいませんでした。リルケは家族を捨て、友を捨て、まるで出家した修行僧のように極限の孤独に身を置きました。その理由はただ一つ、何者にもわずらわされず詩作に集中するためです。

 

孤独というと、一般的には、ひとりぼっちとか独居老人(ひと事ではありませんが)とかいう言葉のように、暗いマイナスイメージがつきまといます。しかし、リルケは自ら進んで孤独を求めました。それは通常の孤独という言葉では形容できないものです。リルケの孤独は、すばらしい芸術を生む、静かで自由で豊かな時間が流れる、ただ一人の至福です。私はこのような孤独を、“リルケ的孤独”と秘かに呼んで尊んでいます。

 

若き日の師であるロダンから受け継いだ、生活の幸福を断念するという信条を、リルケは一生をかけて実践しました。古今、偉大な詩人が名を連ねていますが、詩のためにここまで人生を捧げた詩人を私は他に知りません。51歳で亡くなるまでの7年間、リルケはミュゾットの館で過ごし、他所で書けずに中断していた代表作のすべてを完成させました。

(右の写真はミュゾットの館の外壁。左は同館室内)

 

 

 


【メモ】志村ふくみ 1924年(大正13年)9月30日 -滋賀県生まれ。染織家、随筆家。

31歳のとき母の指導で植物染料と紬糸による織物を始める。重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化功労者、第30回京都賞思想・芸術部門受賞、文化勲章受章。著書に『一色一生』(大佛次郎賞)、『語りかける花』(日本エッセイスト・クラブ賞)、『母なる色』など多数。作品集に『織と文』、『篝火』、『つむぎおり』など。2013年に芸術学院『アルスシムラ』を娘の洋子、孫の昌司とともに開校。(志村ふくみホームページより)

 

 

 

 

 

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風立ちぬ 3

第3話  同伴者イエス のイメージを重ねる

 

堀辰雄の『風立ちぬ』はサナトリウム(長期療養を要する患者の療養所)での末期患者を主人公にしたものです。モデルは結核で死去した婚約者で、薄倖の可憐な少女が死の影におびえながら生を養う、という自伝的物語です。

詩的感性の強かった堀は結核の末期患者の悲惨な症状の描写には重きを置かず、信州の美しい高原を背景とした静かな悲劇的イメージに徹しています。

 

前回の解説で、『風立ちぬ』は悲劇的な題材でありながら、悲愴・悲傷感は乏しく、文体は余りにも淡々( あわあわ ) とした筆致で、何か物足りないような感さえある。そこには作者の周到な叡慮があると述べました。それは病苦や死の迫る憂悶は主人公が無言で背負い、昇華された哀しみの上澄みの美しさだけを読者に伝えたいという、堀の願いであると。

 

2016(平成28)年10月に99歳で亡くなった恩師伊藤桂一(詩人・直木賞作家)は、末期の母親と娘との最後の別れを描いた或る詩について、こう語っています。

 

悲傷をきわめた状態でありながら、読んでいる私たちには、暗い、湿った、やりきれない重苦しさはかんじられないということです。むしろ透明で切実な(本質的には暗くはない)感動をおぼえます。

なぜ、私たちがそういう感動に( ひた ) れるのかというと、私たちに負わされる苦痛を、作者自身が背負ってしまっていて、私たちには、一場の劇から ( かも ) される、純粋な感動だけが伝達されてくるからです。そのかわり、作者自身の苦痛は倍加し、言語に絶します。それに耐え得る ( つよ ) さがもし作者になかったら、茫々と泣いているだけで、表現にはいたらないのです。

                     伊藤桂一「実作のための抒情詩入門」

 

伊藤桂一の指摘から判断すれば、作者堀辰雄は並々ならぬ強靭な精神の持ち主であったことがわかります。私たちは作者の叡慮によって、心静かにこの小説を鑑賞できるといってよいでしょう。

 

前回、私は『風立ちぬ』の持つ課題をご紹介しました。それは、不治の( やまい ) を宣告された婚約者と共に暮らすという、〈皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっている〉山の生活に、主人公は〈私たちの幸福そのものの完全な絵〉を見出そうとしたことです。あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、徒労ではないのか。そんな絶望的な物語に「風が立った、さあ生きなくては」と自らを(ふる)い立たせる精神とは、どこから来ているのか。

 

この課題に対して、私は自分の経験を基に答を出そうと試みました。

私は家内と共に、2000年から末期癌の父を一年間介護し、2007年から寝たきりとなった母を4年間介護し、夫々を看取りました。

逃げ出したいような介護の葛藤や煩悶はありましたが、家族が同じ時間を共に生き、苦痛を分け合ったということは、考え方を変えれば幸運なことだったかも知れないと、両親の死後、長い時間が経ってから私は思えるようになりました。

堀が婚約者矢野綾子と過ごした時間は、出会いからその死まで3 年。富士見高原療養所にと共に入院してからは、わずか5カ月。極めて短い時間にも関わらず、二人の幸福度は深かったと私は両親の介護経験を通じて信じています。

 

あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、どういうものなのか――という問い。堀辰雄は限られた時間内でお互いを幸福にしようと努めることで、より豊かに生きられるという答を見出しました。相手がどんな絶望的な状況に陥っても決して見捨てない。いつも傍にいて、淋しさ、傷み、哀しみを共に分かち合うのです。

大変なことです。本当に強い意志がなければ続くことではありません。

でも、『風立ちぬ』の主人公、すなわち堀辰雄自身は実際にそれをやり通した人間だと、私は作品から汲み取っています。

 

 

キリスト教に関心の薄い方には唐突な話ですが、死線をさまよう婚約者に寄り添う主人公の姿に、私は 同伴者イエス 瓩箸いΩ斥佞鮟鼎邑ました。 同伴者イエス 瓩魯トリック作家の遠藤周作が( とな ) えた言葉です。 同伴者イエス 瓩砲弔い董遠藤は自らの闘病体験を綴ったエッセイの中で解説しています。

 

入院した夜、遠藤は心細くてなかなか寝付けませんでした。消灯時間も過ぎた午前零時過ぎ、風に乗って( けもの ) の吠えるような声が聞こえて来ます。病院の実験動物が鳴いているのかなと思いました。

翌朝、体温を計りにきた看護師に聞くと、肺癌の患者のうめき声だといいます。当人は医師で自分の病気を知っている。しかも末期癌でモルヒネも痛みを抑えることができない。だから夜中になると、あのようにうめくのだそうです。「本当にお気の毒だけど、麻薬の効果もないし、どうすることもできない」と言いました。

 

医師も看護師も手の打ちようがありませんが、ただ、ひとつだけやっていることがありました。それは看護師が交代で患者の手を握ってあげる。すると、うめき声は少しずつ静かになっていくというのです。この話を聞いたとき遠藤は、そんなバカなことがあるものか、と思いました。モルヒネを打っても痛みに耐えかねるような患者が、手を握られただけでおさまっていくようなことはあるはずがないと。

 

それから1年半後、遠藤は手術を受けました。術後の痛みに耐えかねて、さかんに「痛み止めに麻酔薬を打ってほしい」と叫びましたが、中毒になるといって打ってくれません。その時、看護師が遠藤の手を握ってベッドの横に座ってくれました。すると、「信じられないかもしれないが、痛みが少しずつ鎮まってくるではないか」

 

これらの出来事を通じて遠藤はひとつの〈真理〉に気づきます。

人間の苦痛というものは、その半分は精神的な「孤独感」で構成されている。歯痛で眠れない夜を思い出してみましょう。全世界で歯の痛い人間はごまんといるが、歯痛に苦しむ夜は自分だけが歯が痛いと思って苦しむのでないでしょうか。これは精神的、肉体的を問わず、苦痛の原則です。

 

しかし、誰かがじっと手を握って、そばにいてくれれば苦しみの50%を占めている精神面の孤独感はなくなって、肉体的苦痛だけになり、痛みは半減します。だから手を握ってもらえば、痛みはだんだん鎮まっていくのです。

 

そのことを遠藤は自分の体験を通してわかったといい、「イエスは病いに苦しんだり、悲しみに打ち沈んだ人々の横にいて、つねに手を握った。人間の孤独感を分かち合おうとした。この行為こそ、イエスが病気を治したということ以上に、奇跡物語の本質的な問題」と書いています。

 

救いようのない苦痛を負っている者のそばにいて、じっと手を握っている姿が、 同伴者イエス 瓩離ぅ瓠璽犬任后それは、究極的に 母 瓩遼楴舛砲盞劼っていきます。なぜなら、普通の母親なら子供がどんな悲惨な状況に陥っても決して見放すことはありませんから。遠藤が抱いたイエス像はこのようなものでした。

 

調べてみると、堀辰雄は遠藤周作に大きな影響を与えた人でした。遠藤はまだ慶応義塾大学予科性だった頃、信濃追分に移った病床の堀を毎月のように訪ねました。遠藤はその頃の思いを、エッセイの中で「召集令状の赤紙がやがて来ることも予想していたし、毎夜の空襲でいつ死ぬかわからなかった。そんな切迫した生活の中で、私は月に一回は朝暗いうちから起きて駅の行列にならび、やっと手に入れた切符をもって、信濃追分に行くことをただ一つの救いのようにしていた。(中略)私にはたった二十四時間の滞在時間のあいだ、堀辰雄氏の話を少しでもうかがえるのが精神のよりどころだったからである」と語っています。

後年、遠藤は『堀辰雄覚書』という評論を書き上げています。また、堀辰雄の夫人多恵子さんはプロテスタントの信徒です。これらの事実は、堀辰雄の宗教的関心が本物であったことを( あかし ) するものに違いありません。

 

私は若き日に一度、『風立ちぬ』を読んだことがあります。でも、あまり深く印象には残っていません。高原を舞台にした、余命いくばくもない悲劇の主人公を描いたセンチメンタルな恋愛小説。そんな程度の認識しかありませんでした。

しかし、年を重ねてこの作品を再読して、私は堀辰雄から人が共に生きることの尊さと( すご ) みを教えられたように思います。

 

(参考文献等)

遠藤周作『堀辰雄覚書』(講談社文芸文庫)

ブログ『Hatena Diary

ホームページ「日本キリスト教団 土師教会 説教集」

 

【メモ】堀 達雄 1904年(明治)年1228 - 1953(昭和28)年528日) 東京・麹町(こうじまち)生。小説家。母西村志気(しげ)は辰雄2歳の折、彼を連れて堀家を去り向島(むこうじま)の彫金師上条松吉に嫁したが、関東大震災の際に死亡した。

一高理科乙類時代に終生の文学的僚友となる神西清(じんざいきよし)を知り、室生犀星、芥川龍之介に師事。やがて彼らと軽井沢で一夏を過ごす経験を得る。東京帝国大学国文科に進んだ1926(大正15)年に中野重治らと同人誌『驢馬(ろば)』を創刊。左傾する同人たちの中にあって、コクトー、アポリネールらの翻訳を軸に芸術の革新を志向。芥川の自殺に衝撃を受け宿痾(しゅくあ)ともなった肋膜(ろくまく)の発病に悩まされながらも、翻訳書『コクトオ抄』(1929)、処女短編集『不器用な天使』(1930)を刊行。さらに鮮やかな心理解剖の筆をふるった小説『聖家族』(1930)によって、この期の芸術派を代表する作家としての評価を受けた。

以後、小説の形式と方法との模索に飽くなき執着を示す作家として独自の展開を遂げ始め、1933(昭和8)年には『美しい村』を完成。1938年には婚約者の死に遭って生まれた『風立ちぬ』を刊行。散文芸術の一極致を示すに至った。またこの間、詩誌『四季』(第一次・1933、第二次・1934創刊)によって立原道造(たちはらみちぞう)、津村信夫ら後輩詩人の育成に努める。昭和10年代には王朝文学に親しみ、古代への関心も深めて『かげろふの日記』(1937)、『曠野(あらの)』(1941)、『大和路(やまとじ)・信濃路』(1943)などの作品を残す。念願であったロマン(本格的長編)完成への夢も、『菜穂子(なほこ)』(1941)刊行をもって一帰結をみた。第二次世界大戦末期に信州信濃追分に疎開、その地で病と闘いながら、戦後の『四季』復刊や文芸誌『高原』の創刊(ともに1946)に意を注いだ。享年48。墓は東京・多磨霊園にある。

                     (小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

                                (この稿 完)

 

 

| 堀達雄 | 10:31 | comments(0) | trackbacks(0)
風立ちぬ 2

第2話 同じ時を共に生き痛みを分かち合う

 

「風立ちぬ」は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成っています。あらすじは以下の通りです。

 

序曲

秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、二人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。

 

約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士見高原)のサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。

上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。

 

風立ちぬ

節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも二番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。

9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死(いし)した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。

節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか、病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。

 

 

 

1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。

 

死のかげの谷

1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。

 

『風立ちぬ』を読みながら、ふと父を介護した日々を思い出しました。2000年、父は末期癌を宣告され、一年間の闘病の後、89歳で世を去りました。高齢のため手術も抗癌剤も施療できず、家族は傍にいてただ見守る他はありませんでした。幸い、亡くなるまで苦痛を訴えなかったのが救いでした。それでも、はたから見れば手の施しようがない絶望的な状況でしたが、介護に当った家族の思いはまた別にあるようにも感じるのです。

 

父が亡くなって15年、改めてあの頃を追想してみると、末期の父の傍で()すすべもなく、黙ってベッドの傍で涙を流していた自分を、私は今、愛おしく思えるのです。一年という限られた時間ではありましたが、父子がこれほどまでに間近に濃密な時間を過ごしたことはかつてありませんでした。私は上京後、大学、就職と東京暮らしを30年続け、故郷に帰るのは盆暮れでしたので、普段は疎遠な関係であったのです。(写真右は、旧富士見高原療養所内の病室のベッドとサイドボード)

 

ですから、慣れない介護の葛藤や煩悶があったにしても、父子が短いながらも同じ時間を共に生き、苦痛を分け合ったということは、考えてみると幸運な状況だったかも知れません。堀が婚約者と過ごした時間は、出会いからその死まで3 年。富士見高原療養所に矢野綾子と共に入院してからは、わずか5カ月です。しかし、時間の短かさだけで二人の幸福度は浅かったと判断することはできないと、私は父の介護経験を通じて感じています。

 

『風立ちぬ』には美しい自然描写に多く筆が割かれています。散文で書かれた最も純粋な詩と評されるのは、そのためです。矢野綾子との出会いの場となった信州の高原の美しさに、作者が魅了されているからだと、当初、私は思っていました。しかし、父を看護していた頃の自分を振り返ると、他にも理由あったのではないかと思うようになりました。

 

私は当時、職がなく、介護に専念せざるを得ませんでした。毎日病院へ通い、病人の身の周りの世話を家内と交代で行っていました。時折、なんとも言えないやり切れなさに襲われました。仕事でもあれば一時的に気分転換できたでしょうが、ほぼ一日中、病室で余命少ない父と向き合っていると精神的に消耗して来るのです。それで、家内との介護のローテーションを工夫して時間を作り、遠くの美術館に足を伸ばしたり、景勝地を訪れたりしました。

 

『風立ちぬ』を( いろど ) るあまたの高原シーン。あれは、婚約者が日々衰えて行く姿を()の当たりに見るのが辛過ぎて、堀が気分転換のために、療養所の周りを幾度も散策したのではないでしょうか。その折の感興が、作品中の風景描写となって活かされているのだと思います。高原の爽やかな風光が唯一、堀の重い心を和らげるものであったのでしょう。

 

二人の出会いに遡ると、1933(昭和8)年、旧軽井沢駅近くにあった軽井沢ホテル(一説には、つるや旅館)で、堀は肺結核の療養に来ていた綾子と知り合います。翌夏にも、貸別荘に滞在中の綾子を訪ね、交際を重ねました。女子美術学校(現女子美術大学)に学んだ綾子は時折、油彩を描いていました。〈それらの夏の日々、一面に( すすき ) の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった〉の一節はそれを物語るものです。

 

堀は当時、『物語の女』の続編(のちの代表作『菜穂子』)を書こうとしていました。しかし、綾子に寄り添う内に別の構想が湧いて来ました。

〈二人の人間がそのあまりにも短い一生の間をどれだけお互いに幸福にさせ合えるか?……それを( ) いて、いまの私に何が描けるだろうか?〉(『風立ちぬ』)

恋人の死を声高に嘆くのではなく、透徹した視点で描き、それゆえに哀切さを増した愛と喪失をテーマにした物語がこうして生まれました。

あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、どういうものなのか――と、私は第1話で問いを投げかけました。その答こそ、限られた時間内でお互いを幸福にするということでした。そうやって、より豊かに生きようということではなかったか。相手がどんな絶望的な状況に陥っても決して見捨てない。いつも傍にいて、淋しさ、傷み、哀しみを共に分かち合うことなのでしょう。

(左上の写真は『風立ちぬ』の作品舞台となった富士見高原から見た冬の八ヶ岳)

 

 

終りに矢野綾子について触れておきます。彼女は1911(明治44年)年9月12日、愛媛県今治市の生まれ。1924(大正13)年4月、付属小学校を経て広島女学校(現広島女学院)高等女学部に入学。1929(昭和4)年3月、広島女学校卒業。同年4月、女子美術専門学校(現女子美術大学)へ進学しました。1932(昭和7)年3月、女子美術専門学校卒業。

広島時代の矢野綾子については、高女同級生から聞きとった回想談によると、身長は162僂らいの細身の体形、くりっと大きな眼、髪はナチュラルウエーブの美少女で、小学生の頃には「異人さんみたいな女の子」と噂されてたといいます。色白で腺病質の印象を与え、食は細かったが欠席はほとんどなく健康だったと思われます。成績は上位で、とくに図画は抜群。美校卒業の前後に東光会へ加入、会の展覧会にしばしば出品しました。重厚な画風の油彩画の数点は、書簡と共に今も軽井沢の堀辰雄文学記念館に所蔵されています。級友たちの目には矢野家における綾子は、義父母の溺愛もあって「箱入り娘」「女王様」と映じたようです。

 

【補足】

題名の「風立ちぬ」については誤訳だという説があります。

作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、作品冒頭に掲げられているポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節を堀が訳したものです。原詩では、「風が起こった。生きることを試みなければならぬ」の意味です。堀の訳では「風立ちぬ」の「ぬ」は過去・完了の助動詞で、「風が立った」の意。「いざ生きめやも」の「め・やも」は、未来推量・意志の助動詞の「む」の已然形「め」と、反語の「やも」を繋げた「生きようか、いやそんなことはない」の意となります。これでは生きることへの諦念になってしまいます。そこから誤訳説が生まれました。でも、「生きめやも」でも良いという解釈があります。

 

結核という死病に冒された生活を描いた、いわゆる爛汽淵肇螢Ε猜験忰瓩聾渋紊覆號期癌のようなものであり、これに( かか ) ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「生きよう」という意思が立ちあがるとは思えず、季節の流れとともにこのまま静かに命が消えても、という感慨が起きても不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。
 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「生きねばならない」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。

 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思を抱くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海の風のようにある意味精神を鞭打つような剛毅( ごうき ) なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。 (ブログ「晴れの日も 雨の日も」)

 

私もこの著者の意見を支持したいです。すると、「風立ちぬ、いざ生きめやも」は、さあ、風が吹いて私を生の世界へ誘っていますよ、でも生きてみてもいいのでしょうか、くらいのニュアンスになるように思います。

 

(参考文献等)

『新潮日本文学アルバム 堀辰雄』(新潮社)『愛の旅人』(朝日新聞be編集グループ編)

ブログ「ジブリのせかい」「八ヶ岳南麓小淵沢 ペンション あるびおん」

ホームページ「富士見高原医療福祉センター 富士見高原病院」

 

【堀辰雄の生涯】

堀辰雄は日露戦争が始まった明治37年に東京麹町の平河町に生まれました。

父は広島藩の士族で東京地方裁判所の監督書記をつとめていました。明治411908)年、母志気は4歳の辰雄を連れて彫金師上条松吉と再婚、辰雄は東京府立第三中学校(現:都立両国高校)から第一高等学校理科乙類へ進学しました。

 

初めて親許を離れ寄宿舎に入って出会った神西清(じんざいきよし)は未来の数学者を夢見ていた堀に文学の目を開かせ、終生の友情を持ち続けます。

大正121923)年は堀にとって運命の年でした。1月に萩原朔太郎の第二詩集『青猫』を耽読、5月に三中校長の広瀬雄(ひろせゆう)に室生犀星を紹介され、8月に犀星を頼って初めて軽井沢へ行きます。

「一日ぢゆう、彷徨(さまよ)ついてゐる。みんな、まるで活動写真のやうなものだ、道で出遭うものは、異人さんたちと異国語ばつかりだ」と葉書で神西清に感激を伝えています。以後、軽井沢滞在を繰り返し、『ルウベンスの偽画』『美しい村』『菜穂子』など軽井沢を舞台にした作品を多く残しました。

 

91日、関東大震災に遭い、隅田川に避難し辰雄は九死に一生を得ますが、母は水死しました。母の死のショックのため肋膜炎に罹り休学します。「手紙を見て君にはやはりお母さんが居られたらいいと考へて居る。とにかく学校はやりたまへ、そのうちこちらへ出かけて来たまへ、まだ僕も落着いたやうな落着かない気もちでゐるが……」と、犀星の慰問の手紙から、当時の堀の悲しみがうかがえます。10月、犀星は金沢へ引き揚げることになり、帰郷前に辰雄を芥川龍之介に紹介しました。

 

大正141925)年4月に東京帝国大学文学部国文科に入学。犀星宅で中野重治らと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に処女作『ルウベンスの偽画』(初稿)発表。昭和81933)年に季刊雑誌『四季』を創刊。6月初めから9月まで軽井沢の「つるや旅館」に滞在し、作品執筆に入ります。7月に油絵を描く少女・矢野綾子と知り合い、この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説『美しい村』の「夏」の章で、矢野綾子との出会いが描かれ、これまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切ります。この年、立原道造と知り合います。

 

昭和91934)年9月、北多摩郡砧村大字喜多見成城(現:世田谷区成城)在住の矢野綾子と婚約。10月に長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでいた)の油屋旅館で『物語の女』を書き上げます。矢野綾子も肺を病んでいたために、翌昭和101935)年7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院。しかし綾子は126日に24歳で死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となり、昭和111936)年から昭和121937)年にわたって執筆されました。この『風立ちぬ』では、詩人ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』を引用しています。代表作『風立ちぬ』は難産の末、昭和121937)年冬、軽井沢・桜の沢の川端康成別荘において完成させました。

 

昭和13(1938)年2月に向島の自宅で喀血、神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現:鎌倉市)の額田病院に入院後、前年6月に追分で知り合った加藤多恵(1913年7月30日生 - 2010年4月16日没)と、室生犀星夫妻の媒酌により4月に結婚。軽井沢に別荘を借りて新居とします(のちに逗子や鎌倉などを転々とする)。3月に立原道造が24歳で結核のため中野区江古田の療養所で死去。。堀は立原道造を弟のように思っており、道造も彼を兄のように思い慕っていました。

 

昭和221947)年2月に一時重篤。昭和241949)年、川端康成や神西清の配慮で、旧作が再刊されます。昭和251950)年、自選の『堀辰雄作品集』が第4回毎日出版文化賞を受賞。昭和267月に追分の新居に移ります。昭和28年(19535月、病状が悪化、書庫の完成を見ないまま、28日に妻・多恵に看取られ48歳で死去しました。6月に東京都港区芝公園(現:港区芝公園四丁目)の増上寺で、川端を葬儀委員長として告別式が執行され、翌々年の昭和301955)年5月に多磨霊園に納骨されました。

                                                 (この稿続く)

 

 

 

| 堀達雄 | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0)
風立ちぬ 1

第1話 あらかじめ終りが見えている愛を始める

 

 序曲(抄)

 

 それらの夏の日々、一面に( すすき ) の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした

かたま)りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……

 

そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を( ) じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。(左の画は、アニメーション映画「風立ちぬ」のポスター。原作は宮崎駿の漫画。タイトルは堀辰雄の同名小説からの借用。2013年7月に公開

 

 風立ちぬ、いざ生きめやも。

 

 ふと口を( ) いて出て来たそんな詩句を、私は私に

もた)れているお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を

)りにくそうにしながら、

「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」

 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。

 

 春(抄)

 

二人きりになると、私達はどちらからともなくふっと黙り合った。それはいかにも春らしい夕暮であった。私はさっきからなんだか頭痛がしだしているような気がしていたが、それがだんだん苦しくなってきたので、そっと目立たぬように立ち上がると、硝子( ガラス ) 扉の方に近づいて、その一方の扉を半ば開け放ちながら、それに

もた)れかかった。そうしてしばらくそのまま私は、自分が何を考えているのかも分からない位にぼんやりして、一面にうっすらと

もや)の立ちこめている向うの植込みのあたりへ「いい匂がするなあ、何んの花のにおいだろう――」と思いながら、空虚な目をやっていた。

「何をしていらっしゃるの?」

 私の背後で、病人のすこし( しゃが ) れた声がした。それが不意に私をそんな一種の麻痺したような状態から覚醒させた。私は彼女の方には背中を向けたまま、いかにも何か他のことでも考えていたような、取ってつけたような調子で、

「お前のことだの、山のことだの、それからそこで僕達の暮らそうとしている生活のことだのを、考えているのさ……」と途切れ途切れに言い出した。が、そんなことを言い続けているうちに、私はなんだか本当にそんな事を今しがたまで考えていたような気がしてきた。そうだ、それから私はこんなことも考えていたようだ。――「向うへいったら、本当にいろいろな事が起るだろうなあ。……しかし人生というものは、お前がいつもそうしているように、何もかもそれに任せ切って置いた方がいいのだ。……そうすればきっと、私達がそれを( ねが ) おうなどとは思いも及ばなかったようなものまで、私達に与えられるかも知れないのだ。……」そんなことまで心の

うち)で考えながら、それには少しも自分では気がつかずに、私はかえって何んでもないように見える些細な印象の方にすっかり気をとられていたのだ。……

 そんな庭面はまだほの明るかったが、気がついて見ると、部屋のなかはもうすっかり薄暗くなっていた。

「明りをつけようか?」私は急に気をとりなおしながら言った。

「まだつけないでおいて頂戴……」そう答えた彼女の声は前よりも嗄れていた。

 しばらく私達は言葉もなくていた。

「私、すこし息ぐるしいの、草のにおいが強くて……」

「じゃ、ここも締めて置こうね」

 私は、殆ど悲しげな調子でそう応じながら、扉の握りに手をかけて、それを引きかけた。

「あなた……」彼女の声は今度は殆ど中性的なくらいに聞えた。「いま、泣いていらしったんでしょう?」

 私はびっくりした様子で、急に彼女の方をふり向いた。

「泣いてなんかいるものか。……僕を見て御覧」

 彼女は寝台の中から私の方へその顔を向けようともしなかった。もう薄暗くってそれとは定かに認めがたい位だが、彼女は何かをじっと見つめているらしい。しかし私がそれを気づかわしそうに自分の目で追って見ると、ただ空を見つめているきりだった。

「わかっているの、私にも……さっき院長さんに何か言われていらしったのが……」

 私はすぐ何か答えたかったが、何んの言葉も私の口からは出て来なかった。私はただ音を立てないようにそっと扉を締めながら再び、夕暮れかけた庭面( にわも ) を見入り出した。

 やがて私は、私の背後に深い溜息のようなものを聞いた。

「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し( ふる ) えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」

 私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。

 

                               堀辰雄『風立ちぬ』1938(昭和13)年

 

小説『風立ちぬ』は、信州の美しい高原地帯で、不治の病に冒された婚約者に寄り添い、愛する者との遠からぬ別離を覚悟しながら、限られた日々を共に生きる物語です。作品の舞台はサナトリウム(長期療養を要する結核患者の療養所)。モデルは結核で死去した作者の婚約者で、死の影におびえなが生を養う自伝的物語です。堀自身も結核で長い病床生活を送り、1953(昭和28)年に48歳で没しています。左の写真は堀辰雄 31歳

 

死を真摯に見つめる主人公の目に、感情の( たかぶ ) りはなく、またヒロインとの会話も清明で澄み渡っています。悲劇的な題材を扱いながらも、悲愴・悲傷感は乏しく、文体は余りにも淡々

あわあわ)とした筆致で、何か物足りないような感さえあります。ですが、そこには作者の周到な叡慮があるのではないでしょうか。それは病苦や死の迫る憂悶は主人公が無言で背負い、昇華された意識の上澄みの美しさだけを読者に伝えたいという、堀の願いでもあるのです。『風立ちぬ』に一般の闘病生活を扱った小説とはひと味違う、詩的で清明な魅力を感じるのは、この洗練された美意識にあるようです。

 

1935(昭和10)年初夏、堀辰雄は婚約者の矢野綾子と共に長野県富士見町の富士見高原療養所(現・富士見高原病院)に入所しました。堀は生きながらえて悲痛な体験を小説に昇華し、綾子は死してヒロインのモデルとして名をとどめました。この高原療養所は、1928(昭和3)年、ヨーロッパに学んだ医師正木俊二がスイスに環境が似ているところから設立しました。空気が澄んで高地にあるため紫外線が強く、結核の治療に有効とされました。右の写真は矢野綾子 21歳頃 左は旧富士見高原療養所

 

正木所長は、軽症だった堀が「奥さん」の便器の世話まで進んで行い、看病に生き甲斐を感じているようだったと書き遺しています。「これほどまで思われて亡くなった婦人は女人として真に幸福な人であった」と。

戦前の病棟は一棟のみが残っていましたが、2012年に解体され、現在は旧富士見高原療養所資料館が設けられています。当時の病室には、硬い木製ベッドと備品を入れる床頭台がありました。バルコニーからは八ヶ岳が間近に見え、患者はここで日光浴をしたのでしょう。山の向こうは二人が出会った軽井沢。堀は1933(昭和8)年逗留先の軽井沢で綾子と知り合い、翌年9月に婚約します。堀29歳、綾子24歳。

 

明治時代から昭和30年代までの長い間、結核は「国民病」「亡国病」と恐れられましたが、国をあげて予防や治療に取り組み、死亡率は往時の百分の一以下にまで激減しました。現代は結核にとって代わるものとして、癌が脅威となっています。ですから、限られた生命、ぎりぎりの環境で生を営み、あるいは愛を育む人にとっては、『風立ちぬ』は普遍のテーマなのです。戦前の結核小説だと切り捨てることはできないと思います。(左上 同病院での日光浴風景 結核菌は紫外線に弱いため、日光浴は当時有効な治療法として処方された

 

なお、この療養所は結構なお金がかかり、裕福な家の人が多く入っていたようです。病院の食事も良く、それでもそれに飽きた患者は諏訪の料亭へと食事に行ったそうですが、行ってみると料亭の食事より病院の食事の方が良かった・・・という話もあったそうです。

 

小説『風立ちぬ』では、サナトリウムの向こうが二人が出会った軽井沢だと気づき、主人公の「私」が〈いつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた〉出会った頃の2年前を懐かしく思い出します。〈皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっている〉山の生活に、〈私たちの幸福そのものの完全な絵〉を見出そうとします。現代でも最愛の人の病死という悲劇はドラマ・映画で繰り返し取り上げられ哀切な感動を呼んでいます。しかし、結核が不治の病だった当時はありふれた事態として日常の縁に転がっていました。(右の写真は 八ヶ岳の麓に保存されていたサナトリウム 2012年に解体された

 

あらかじめ終りが見えている愛を始めるとは、どういうものなのか。その絶望的な物語に「風が立った、さあ生きなくては」と冠する精神とはいかなるものなのか、を探っていきたいと思います。

                                (この稿続く)

 

 

 

 

 

| 堀達雄 | 15:57 | comments(0) | trackbacks(0)
文豪の恋文 2

第2話 忍ぶ恋

 

 ( わたく ) しは唯々 ( ただただ ) まことの兄様のような心持にていつまでもいつまでも御力にすがり

( たき ) 願いに御坐候 ( ござそうろう )

 

        樋口一葉(二十歳)から師・半井桃水(三十一歳)への手紙   明治二十五年七月八日付

 

             *

 

 御目にかゝらぬむかしもあるを じゆうのきかぬ身と存じ(そうろう)ほど 意地わるく参上いたし(たく) われしらず考えこみ候時などもあり こんなこと人に話しでも致し候ものなら (それ)こそこそ笑われぐさにもなりからかわるゝ種にも成り候わんなれど 私しは唯々まことの兄様のような心持にて いつまでもいつまでも御力にすがり(たき)願いに御坐候(ござそうろう)を (はか)らぬことより変な具合になり 只今(ただいま)の所にては私ししいてお前様におめもじ致し度などゝ申さば 他人はさら(なり)親兄弟も何とうたがうか知れ申さず とに角にくやしき身分に御坐候 お前様御男子(おのこ)でなきか 私し女子(おなご)でなきかいずれに致せ 男女の別さえなくは此様(このよう)にいやなことも申されず月花の遊びは更なり

 

(現代語訳)

面会が自由な以前は、お目にかからないことがあっても平気でしたのに、お会いする自由がないと思えば思うほど、へそ曲がりに伺いたくなり、知らず知らずのうちに考えこんでいる時があり、こんな気持ちを人に話しでもいたしますれば、それこそ笑いものになり、からかわれる種になりますが、わたしはただただ、本当のお兄様のような気持ちで、いつまでもいつまでもお力にすがりたい願いでございますのに、予想もしなかったことにより妙な具合になり、ただ今の状態では、私が強くあなた様にお会いしたいなどと申せば、他人はもとより親兄弟もどのように二人の仲を悪く疑うか知れませず、とにかく悔しい身の上でございます。あなた様が男子でないか、私が女子でないか、いずれにしても男女の別さえなければ、このような嫌なことを言われず、風流な遊びに共に興じることができたのは、いうまでもありません。

 

樋口一葉は数え年17歳で父に先立たれ、母と妹をかかえて生涯貧窮に追いまくられました。すでに一葉は『うもれ木』(明治25年9月)や『雪の日』(明治26年3月)などで一部には作家として知られていましたが、まだ無名同然でした。明治28年5月に一流雑誌の『太陽』に『ゆく雲』を発表し、ようやく名が知られるようになったに過ぎません。

 

名作『たけくらべ』は明治28年1月、2月、3月と『文学界』(明治期のロマン主義の月刊文芸雑誌)に発表されていましたが、これは北村透谷や島崎藤村らの編集する同人雑誌であったため、まだ一般には認められていませんでした。一葉の代表作『にごりえ』(明治28年9月)、『十三夜』(明治25年12月)が発表されたのは、この日記以後で、『たけくらべ』が人気絶頂に達するのは、翌年4月、文芸雑誌『文芸倶楽部』に一括して再掲載されてからのことでした。そして、その直後、一葉は死病に取り憑かれたのです。(写真は、左より、妹くに、母たき、なつ子(一葉)。当時の写真の高価さから考えて、没落の始まる前、少なくとも明治二二年七月の父則義死去前後の撮影であろう。やがて始まる日記の時代を、母娘三人身を寄せ合って生きることになる。一葉の死から二年、明治三一年二月には母は過労のため逝き、日記は妹くにに守られて、やがて明治四五年刊『一葉全集』(博文館)で日の目を見る。)

 

(メモ)ロマン主義:日清戦争前後、人間の感情を重視し、恋愛を重んじ、形式を打破し、自我や個性の尊重と解放を主張する風潮。代表作に、島崎藤村『若菜集』、与謝野晶子『みだれ髪』、森鴎外『舞姫』など。

 

母と妹を養わなければならぬ一葉の生活は、どん底の状態にありました。小説家への憧れは以前からありましたが、有名作家になって一家の窮状を救いたいというのが大きな理由でした。そこで、一葉は十歳年上の半井桃水に小説作法を習うことにしたのです。

桃水という人物は、東京朝日新聞記者で、当時、通俗作家として名を馳せていました。しかし、現在、桃水の小説には文学的価値はなく、皮肉なことに一葉の御蔭で後世に名が残った人なのです。死去まで三百編以上の小説を書きましたが、今では読む人も皆無です。

 

桃水は写真でもわかるように、美男でおおらかな人物でした。一葉の面倒を色々見ていましたが、これが和歌の先生中島歌子の気にいらぬ点で、とうとうあらぬ噂を立てられてしまい、一葉は桃水から離れることになります。

今回紹介した一葉の手紙は、二人が世間をはばかって会えない状態の中で送られたものです。桃水は、妻が他界していて独身でしたから、互いの恋の小火( ぼや ) が猛火になっても、不思議はありませんでした。しかし、一葉の母と妹は、桃水のことをいかにも魂胆がありそうな策略家と見て、恋愛関係への深まりを(あや)ぶみました。

(写真は、一葉と出会った頃の半井桃水、当時31歳。 「東京朝日」専属作家。今で言う通俗作家だった。

 

また、中島歌子が主宰する和歌結社『( はぎ ) の()』の塾生たちも心配し、あるいは嫉妬から、桃水に深入りしないように忠告しました。そこで、一葉は周囲の声に従い、あえて師弟愛、あるいは兄弟の関係を強調する手紙を書いたのでした。(写真は、一葉が通った歌塾「萩の舎」を主宰した中島歌子

 

 

文中では、同性だったら気兼ねなく遊べたのにと残念な思いを吐露し、師弟愛をめざした証拠とする姿勢は冷静な筆致です。しかし、この手紙全体から受ける印象は、紙背から熱い思いが漂い、恋愛への傾きが強く感じられます。

それは、「夫こそ夫こそ」「いつまでもいつまでも」と、まるで恋の告白のように言葉をたたみかける心理にも現われています。また、一葉独自の擬古文体の( みやび ) やかな候文がかもし出す雰囲気にもよります。

一文が長いため、流れるようなうるわしい情調が生まれるためでもあります。男女間の心の流れを、ゆったりと、しっとりと、時にはねっとりと伝えたい時には、このような一葉の手紙のスタイルが功を奏するのかも知れません。

 

 

さて、桃水への手紙は男女としてでなく、兄妹愛に乗っ取って今後も付合っていきたいという思いで綴られていますが、その効果はどうだったのでしょうか。効果とは、今後も兄妹愛を保ち、貫くことです。

ところが、文面には、一葉の決意を裏切るように、きっぱりと別れを決意しながらも、期せずしてか期してか、あでやかな雰囲気に満ちてしまいました。このどっちつかずの手紙は、別れるべきだが別れられないという、どっちつかずの結果を招いてしまいました。

 

一葉がどんな女性だったのか、桃水と終生清い関係にあったのか、実際のところはよくわかりません。残念ながら桃水は後世に名を残すような、第一級の作家ではありませんでしたが、一葉研究の成果として今確かにわかっているのは、一葉は終生桃水を師と( あお )ぎ、心のよりどころとしたということです。

                                     (この稿 完)

 

 

 

| 文豪の恋文 | 13:25 | comments(0) | trackbacks(0)
文豪の恋文 1

第1話 芥川龍之介編

 

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

 

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。
何時頃(いつごろ)うちへかへるかそれはまだはっきりわかりません。
が、うちへ帰ってからは文ちゃんにかう云う手紙を書く機会が
なくなると思ひますから奮発して一つ長いのを書きます 
ひるまは仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが
夕方や夜は東京がこひしくなります。
さうして早く又あのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思ひます。
しかし、東京がこひしくなると云ふのは、
東京の町がこひしくなるばかりではありません。
東京にゐる人もこひしくなるのです。
さう云う時に僕は時々文ちゃんの事を思ひ出します。
文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから何年になるでせう。
(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由はたった一つあるきりです。
さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。
勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。
僕は世間の人のやうに結婚と云ふ事と 
いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。
ですからこれだけの理由で兄さんに文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。
さうしてそれは頂くとも頂かないとも 
文ちゃんの考へ一つできまらなければならないと云ひました。

僕は今でも兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。
世間では僕の考へ方を何と笑つてもかまひません。
世間の人間はいい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで 
造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。
その出来ない点で世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は
全く文ちゃん次第できまる事なのです。
僕から云へば勿論承知して頂きたいのには違ひありません。
しかし一分一厘でも文ちゃんの考へを無理に(おびやか)かすやうな事があっては 
文ちゃん自身にも文ちゃんのお母さまやお兄さんにも僕がすまない事になります。
ですから文ちゃんは完く自由に自分でどっちともきめなければいけません。
万一後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。
その上僕自身も(ろく)に金はありません。
ですから生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。
それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。
(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)
うちには父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。
僕には文ちゃん自身の口からかざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。
繰返して書きますが、理由は一つしかありません。
僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は人に見せても見せなくても文ちゃんの自由です。
一の宮はもう秋らしくなりました。
木槿(むくげ)の葉がしぼみかかったり弘法麦(こうぼうむぎ)の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると心細い気がします。
僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったらもう一度手紙を書いて下さい。
「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。

が書いて頂ければこれでやめます皆さまによろしく

                              

コウボウムギ 砂浜に生育する代表的な海浜植物

 

 

 

「赤ん坊のやうでお( ) でなさい」(1917〈大正6〉年)、これは芥川龍之介が後の妻、塚本文(つかもとふみ)に宛てたプロポーズの手紙の一節です。当時、龍之介満24歳、文は16歳の跡見女学校の学生でした。

 

「赤ん坊」とは、エゴイズムを知らない純粋で無垢な状態を指します。龍之介は文にそれを見ました。翌年、龍之介は文と結婚。まもなく新進作家として脚光を浴び、家庭を顧みられないほど多忙になります。幾人かの女性との交渉も始まります。芸者に好かれたり、人妻に思いを寄せたりしました。しかし、遺稿「歯車」の中で、不安な状態から抜け出す手段として、「家に対する郷愁」を強く抱くように、彼にとって妻子のいる家庭は何よりの安らぎの場であったようです。

 

16歳の塚本文宛のこの恋文が書かれたのは、1916(大正5)年8月25日、龍之介24歳の時です。文は龍之介の幼なじみでした。芥川は大学卒業後、進路が決まらないまま、創作活動の生活に入り、小説「ひまわり」を書き終えて千葉へ旅行に出かけます。滞在先の九十九里浜の旅館・一宮館(いちのみやかん)で初めてのラブレターを書きました。手紙の冒頭の「奮発して一つ長いのを書きます」という一節は、師である夏目漱石の手紙を真似した言い回しでした。(写真左は、跡見女学校時代の塚本文(芥川文))

 

 

塚本文へ恋文を書く2年前、芥川は辛い失恋をしていました。原因は相手の家柄などを含む、家族の猛反対でした。そこで今回は家族の了承を得た上で手紙を書きました。隠し事はせず、すべてを正直にありたいと思ったのです。

 

〈文ちゃん。〉:相手が好きな時、つき合う前は好きな人の名前を呼べるだけですごく幸せな気分になれます。文章で、「文ちゃん」と呼びかけているのは、最高の気持ちの表れということです。

 

〈貰ひたい理由はたった一つあるきりです。/さうしてその理由は僕は文ちゃんが好きだと云ふ事です。/勿論昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。〉:「好き」というストレートな言い方が心を打ちます。率直に述べているから、素直な気持ちが、そのいちずさが本当に届く。「今でも」という言葉が、愛情が変わっていないことを伝えています。
私が初めて芥川龍之介の恋文を読んだ時、その意外さに驚きました。かの文豪がどんなに捻った筆致で、想い人を口説いたのかと思いきや、ストレートで飾り気のない言葉で手紙を書いていました。文壇では、シニカルな事を言っていた気難しそうな顔のあの芥川も、自分の恋愛に関してはウブな青年だったのです。(写真右は、龍之介が文に手紙を書いた千葉県九十九里浜一宮館の文学碑。左奥の芥川滞在の離れは芥川荘と呼ばれる)

 

現代の男性は素直に気持ちを伝えられないと言われています。では、相手に素直に気持ちを伝えるためには、どうすればよいのでしょうか。その答えは、駆け引きをしないことです。駆け引きとは、まだ相手に好きと言っていないのに、もし好きと言ったらどうする? と考えることです。また、はっきり好きと言わず、「好きかもしれない」と自分の気持ちごまかすのは、振られた時の保険ということでしょうか。

 

〈世間の人間はいい加減な見合ひといい加減な身元しらべとで/造作なく結婚してゐます。僕にはそれが出来ません。/その出来ない点で世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれてゐます〉:世間の風潮よりも自分の思いが一番大切であり、自分の結婚相手は自分で選びたい、という考えは時代背景を考えると革新的なことでした。1916年当時、結婚前の二人が会って話したり、デートをしたりする機会はあまりありませんでした。

 

僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。/その上僕自身も(ろく)に金はありません。/ですから生活の程度から云へば何時までたっても知れたものです。/それから僕はからだもあたまもあまり上等に出来上がってゐません。/(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)うちには父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。:身体も弱いし、お金も碌にないから他の男性に負けるかもしれないが、好きという気持ちだけは誰にも負けないとストレートに言っている所がよいと思います。また、それでもよければお嫁に来てほしいと、文のことを思い遣っている所がすばらしい。見栄を張って、お金があると言ってもいいのに、ありのままの自分を語るのが男らしく謙虚な人柄です。

この手紙を書いた1011か月後、芥川は「ただぼんやりとした不安」と書き遺し、自ら生命を絶ちました。享年、35歳。芥川が文と暮らしたのは9年間。その間に「蜘蛛の糸」「鼻」「杜子春」などを発表。それは作家として確固たる地位を築いた時代でした。

(写真上は、 大正7(1918)年、田端の自宅書斎 新婚時代の龍之介(26歳)と文(18歳)

 

(参考文献・資料)

・日本近代文学館編「愛の手紙――文豪の恋文

NHK教育テレビ「Rの法則 文豪の手紙〜芥川龍之介の恋文〜」

・「九十九里浜 一宮館」ホームページ

 

(メモ)芥川龍之介1892(明治25)年31 - 1927(昭和2)年724日) 本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。東京生まれ。東大英文科卒。高等学校在学中に久米正雄、菊池寛、山本有三を知り、文学書を乱読した。

1914(大正3)年、第三次『新思潮』の発刊に参加して、処女作『老年』を発表。『羅生門』などを書き、漱石門下

の一人となる。『鼻』が漱石の激賞を受け、以後、『地獄変』『虱』『芋粥』を発表。いわゆる新理知派の代表作家として、隙のない技巧と古典的な均整美とを備えた短編を書き続け、才人の名をうたわれた。『蜘蛛の糸』『奉教人の死』『枯野抄』『秋』『或阿呆の一生』『河童』など多くの短編の他に、評論・随筆『文芸的な余りに文芸的な』などがある。1927(昭和2)年、服毒自殺。三人の息子がおり、芥川比呂志(長男)、多加志(次男)ビルマで戦死、也寸志(三男)作曲家。(右の近影は、第一高等学校入学当時18歳

 

(メモ)芥川(ふみ)1900(明治33)年78 - 1968(昭和43)年911

東京府生まれ。海軍少佐塚本善五郎の娘。190455日、旅順港近海で戦艦初瀬」に第一艦隊第一戦隊先任参謀として乗艦していた父が「初瀬」沈没時に戦死。葬儀に参加した東郷平八郎連合艦隊司令長官は文を抱き上げ、秋山真之参謀はピアノを練習するよう薦めた。一家の大黒柱を失った母は、実家である山本家に寄寓する。このとき、母の末弟・山本喜誉司東京府立第三中学校以来の親友・芥川龍之介と知り合う。芥川が彼女へ送った恋文は有名。

191612月、龍之介と縁談契約書を交わす。19182月、跡見女学校在学中に龍之介と結婚する。龍之介の海軍機関学校赴任に伴い、鎌倉市で新婚生活。

龍之介の作品には『子供の病気』(『局外』19238月)、『死後』(『改造19259月)、『年末の一日』(『新潮19261月)、『身のまはり』(『サンデー毎日19261月)、『本所両国』(『東京日日新聞夕刊192756 - 522)、『蜃気楼』(『婦人公論19273月)、『或阿呆の一生』(『改造』192710月)、『歯車』(『文藝春秋192710月)、『鵠沼雑記』(遺稿)に登場している。

1927724、龍之介が服毒自殺。

1941、三男・也寸志が東京音楽学校予科作曲部を目指して音楽の勉強を始めた時は、也寸志のために自らのダイヤの指環を売り払いピアノの購入費に充てた。

1945413、学徒兵として出征していた次男・多加志がビルマのヤメセン地区で戦死。1968911日、調布市入間町の三男・也寸志邸にて心筋梗塞のため死去。死後の1975筑摩書房から『追想芥川龍之介』(中野妙子筆録)を刊行。

                 (ウェブ百科事典「ウィキペディア」を基に構成)

 

                                                (この稿続く)

 

 

 

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室生犀星 4


第4話 時の向こうに消え去った思い

 

 

 

       永遠にやつて来ない女性

 

 

       秋らしい風の吹く日

       柿の木のかげのする庭にむかひ

       水のやうに澄んだそらを眺め

       わたしは机にむかふ

       そして時時たのしく庭を眺め

       しをれたあさがほを眺め

       立派な芙蓉の花を()めたたへ

       しづかに君を待つ気がする

       うつくしい微笑をたたへて

       鳩のやうな君を待つのだ

       柿の木のかげは移つて

       しつとりした日ぐれになる

       自分は灯をつけて また机に向ふ

       夜はいく晩となく

       まことにかうかうたる月夜である

       おれはこの庭を玉のやうに掃ききよめ

       玉のやうな花を愛し

       ちひさな笛のやうなむしをたたへ

       歩いては考へ

       考へてはそらを眺め

       そしてまた一つの(ちり)をも残さず

       おお 掃ききよめ

       きよい孤独の中に住んで

       永遠にやつて来ない君を待つ

       うれしさうに

       姿は寂しく

       身と心とにしみこんで

       けふも君をまちまうけてゐるのだ

       ああ それをくりかへす終生に

       いつかはしらず祝福あれ

       いつかはしらずまことの恵あれ

       まことの人のおとづれあれ

                           詩集『愛の詩集』1918(大正7)年

 

 

犀星の代表作のひとつです。身体の中に一匹の山犬のような猛り狂うものを住まわせ、泥酔して深夜の街に悲しく吠えることもあった犀星ですが、他方、純情無垢の子供の魂の持ち主でもありました。

 

常に清らかな正しい生活に憧れていて、それが善良な女性への思慕と結びつき、この作品のような感傷的な詩を書かせたのです。庭を掃き清め、花を愛し、静かに机に坐って、いつ現われるかも知れない女性を待つ。余りにも非現実的で、そんな自分に憧れの女性は永遠にやって来ないかも知れないが、いつまでも待ち続けよう。そんな清廉な生活にもいつかは祝福があり、まことの女性の訪れがあれ、という犀星の理想の愛を詠っています。

(妻 浅川とみ子)

 

 

 

 

         昨日 いらつしつてください

 

 

       きのふ いらつしつてください

       きのふの今ごろいらつしつてください

       そして昨日の顔にお逢ひください

       わたくしは何時も昨日の中にゐますから

       きのふのいまごろなら

       あなたは何でもお出来になつた筈です

       けれども行停( いきどま ) りになったけふも

       あすもあさつても

       あなたにはもう何も用意してはございません

       どうぞ きのふに逆戻りしてください

       きのふいらつしつてください

       昨日へのみちはご存じの筈です

       昨日の中でどうどう廻りなさいませ

       その突き当りに立つていらつしゃい

       突き当りが開くまで立つていてください

       威張れるものなら威張つて立つてください

 

                   『昨日 いらつしつてください』1959(昭和34)年

 

 

詩集『昨日いらつしつてください』が刊行されたのは、1959(昭和34)年、犀星70歳の時でした。まず、年齢を感じさせないリリシズム(抒情性)とユニークな発想に驚かされます。

 

この女性はいつも昨日――過去の中に生きていて、昨日の今頃来てくれたら、何でも自由にお出来になったはずだけれど、明日も明後日も、もうあなたに逢う何の用意もしていない。だから、昨日に逆戻りして下さい、というのです。

 

高齢になって、すべてが時の向こうに消え去った無常の思い、過去への愛惜を詠った詩はあまたありますが、独特の言い回しが新鮮な味わいを与えています。犀星が若き日に失ったかけがえのない女性たちも影を落としているのかも知れません。

 

 

(メモ)室生犀星(むろう さいせい、本名: 室生 照道(てるみち)、1889年(明治22年)8月1日 - 1962年(昭和37年)3月26日)石川県金沢市生。詩人・小説家。別号に「魚眠洞

( ぎょみんどう ) 」。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種( こばたけやざえもんよしたね ) とその女中であるハルという名の女性の間に生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗( しんじょう ) の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の婚外子として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳、室生照道を名乗ることになった。

 

婚外子として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生母、養母との関係が共に私生児とされ、二重に精神的苦痛を背負っていた。『犀星発句集』(1943年)に収められた「夏の日の匹婦(ひっぷ)(身分の卑しい女)の腹に生まれけり」との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このトラウマを引きずっていたことを提示している。

 

1902年(明治35年)金沢市立長町高等小学校を中退し金沢地方裁判所に給仕として就職。裁判所の上司に俳人がおり手ほどきを受ける。新聞へ投句を始め1904年(明治37年)10月8日付け『北國新聞』に初掲載。この時の号は照文。その後詩、短歌などにも手を染める。犀星を名乗ったのは1906年(明治39年)からである。犀星という筆名は、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。

 

1910年(明治43年)上京。その後は、帰郷・上京をくりかえす。1913年(大正2年)北原白秋に認められ白秋主宰の詩集『朱欒(ザンボア)』に寄稿。同じく寄稿していた萩原朔太郎と親交をもつ。1916年(大正5年) 萩原と共に同人誌『感情』を発行。1919年(大正8年)までに32号まで刊行した。この年には中央公論に『幼年時代』、『性に目覚める頃』等を掲載し、注文が来る作家になっていた。1929年(昭和4年)初の句集『魚眠洞発句集』を刊行。

 

1930年代から小説の多作期に入り1934年(昭和9年)『詩よ君とお別れする』を発表し詩との訣別を宣言したが、実際にはその後も多くの詩作を行っている。1935年(昭和10年)、『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。 旧・芥川賞選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。

 

戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。娘朝子をモデルとした1958年(昭和33年)の半自叙伝的な長編『杏っ子』は読売文学賞を、同年の評論『わが愛する詩人の伝記』で毎日出版文化賞を受賞。古典を基にした『かげろふの日記遺文』(1959年(昭和34年))で野間文芸賞を受賞した。この賞金から翌年、室生犀星詩人賞を創設。

1962年(昭和37年)、 肺癌の為に死去。金沢郊外の野田山墓地に埋葬されている。「犀星忌」は3月26日。犀川大橋から桜橋までの両岸の道路は「犀星のみち」と呼ばれる。

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の句の通り、文壇に盛名を得た以後も金沢にはほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていた。(インタネット百科事典「ウィキペデイア」を基に記す)

                                (この稿 完)

 

 

 

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室生犀星 3

第3話  女ひと

 

不幸な出自、複雑な家庭環境、失意の青春放浪時代を乗り越えて、家庭を設けるまで、犀星が名を挙げて愛の詩を献じた二人の女性との出会いと別れがありました。

一人は、1913(大正3) 年「詩歌」に「愛人野菊に贈る詩」を発表した石尾春子です。

犀星が激しい愛の言葉をぶつけた石尾春子とは、犀星が金沢の登記所に勤めていた頃に知り合い、当時犀星20歳、春子は13歳でした。登記所の所長の家でかるたを取ったことのある仲で、6年振りに巡り会った犀星と春子は、以前から知り合いであったことから急速に親密となり、愛が芽生えました。しかし、この恋は、春子の母の反対にあって実らずに終わりました。定収入のない詩人の求婚に反対するのは、人の子の親として当時は当然の理由でした。

 

失恋のショックを受けた犀星は、常軌を逸した行動に出ます。激情にかられ、なんと春子を殺すことを親友の朔太郎に書き送ったのです。

 

まさかと思ったこといよいよ事実になるらしい。大変な事件です。室生が春子を殺すのです。拒絶したんで凶悪少年の部下をシソオして暗殺する計画なんです。勿論しばしば僕は忠告しましたが今頃「汝の忠告何するものぞ余は必らず遂行すべし云々」といふ急報が来たんですっかり気を失ってしまった。彼をして殺人罪より救ふために力を尽して御援助願ひます。大至急ねがひます。たのむ。(大正3・11・5)

 

これは朔太郎が白秋にあてた葉書です。朔太郎は興奮し、白秋に助けを求めたのでした。現実に犀星が春子を殺そうと考えたかどうかは疑わしいですが、友の心情を汲み取った朔太郎の狼狽振りが伺えます。

 

春子との失恋の影が消えていくに従い、お(えん)なる女性が犀星の心を捉え始めていました。「お艶。十九歳。お春同様しんせきです。お春よりたけ高くもの言ひ芸術的。このごろ詩もかきます。」と記しています。お艶は本名、村田ツヤ。犀星同様養女に出され、鬼婆のトメと呼ばれた女に育てられました。ツヤは犀星より7歳年下、犀星の育った雨宝院の境内で鬼ごっこをして遊んだ幼なじみでした。

 

私はこの娘のもとにしげしげ用もないのに遊びに行ってゐるまに、この娘が詩をかいて見せたのにも、ちょつと意外な気がした。詩はまづいがご苦労さまにも、私は彼女の詩の原稿を見てやり、勝手に改作をしてみると読めそうな詩になり、殆ど私自身の詩である程度までに改作してやると、いつぱしの女流詩人の風貌をあらはしはじめたので、私は益々いい気になり彼女の原稿を自作同様に添削しては、彼女をよろこばして自分も気色好くしてゐた。              「詩人・萩原朔太郎」

 

朔太郎は「君の詩に似てゐて君よりもうまいかもしれないこの女流詩人は驚嘆に値すべき作者である」と犀星に手紙を送りほめちぎっています。そして、朔太郎とツヤとの手紙のやりとりが始まり、朔太郎もツヤに好意を持つようになりました。ツヤと再会した日、犀星はツヤへの愛の詩「お艶の首」を「詩歌」に寄せています。

 

しかし、ツヤは犀星の愛を受け入れずに1914(大正4)5月、人の妻となりました。「せめて月三十円儲けてくればツヤをやっても良いのだが」という母親の反対にあったのですが、それは春子の場合と全く同じ、経済上の理由でした。

犀星が村田艶(戸籍名ツヤ)と知り合ったのは、放浪時代に終止符を打ち、新たな生活、文学へスタートを切った頃でした。

村田艶との失恋後、艶は「お艶」「おゑん」「和子」「お愛」「お縫」という名で、犀星作品の中に生き続けることになります。孤独と寂しさを抱いて、「その寺(養父が住職である雨宝院)と永久に別れるやうな心」(「父の死の前後」)で金沢を去ったのは大正4年十月下旬でした。この年から、後に『愛の詩集』に収められる口語詩が書かれ始めます。

 

1916(大正6)年、養父が亡くなり、僅かの遺産で詩集を出すことを考えます。帰郷中に市内の小学校に勤めていた浅川とみ子と婚約。浅川とみ子は、1895(明治28)年、金沢市に生まれました。犀星とは6歳年下です。とみ子は金城女学校在学中に教員免状を取得し、小学校の教師となりました。在学中の成績は抜群でした。この点は学校嫌いで13歳で小学校を中退した、成績の悪かった犀星とは正反対です。

とみ子は文学少女で、女学校時代から「北国新聞」「北陸新聞」などの新聞・雑誌に和歌などを盛んに投稿していました。俳句欄に投稿していた作品を犀星が見初めたのをきっかけに二人は文通を開始。互いを深く知るようになった1年後、犀川のほとりで結婚を決めたといいます。

 

大正7年、犀星は念願の第一詩集『愛の詩集』を感情詩社から自費出版、すでに『月に吠える』を出していた萩原朔太郎と共に大正詩壇における確固たる地位を築きました。また同年2月には浅川とみ子と結婚、これまでの文学、生活に一つの到達点を極めた年となりました。泥濘の街を徘徊し、酒を飲み暮らしていた犀星は、家庭を持って安堵を覚えました。貧しくても家庭がありました。

 

 

 

       愛人野菊に贈る詩

 

     (前略)

     はる子よ はる子よ

     君はその母のために疲れ

     勤めつつ若くして疲れ

     ひたひ蒼ざめし室生犀星の愛人よ

     われは君のために盗み

     君のために殺し

     君のためにピストルを懐中す

     君のかなたへ寄るもの

     犬のごとくに(むらが)るるもの

     やがて我がピストルをして舞はしめんのみ

     はる子よ

     又の名の野菊よ

     ああ世界の群衆より選択したる春子よ(後略)

 

 

      ( えん ) の首

 

     お艶は貴族の娘

     首はこれお染の首

     白い日 白い日

     白い日の首

     足は女人の密法の足

     白い足

     水に泳がせらるる足

     お艶はほつそりと立ちあがり

     お艶はひつそりと深い息をつく(後略)

 

   

   村田艶

 

 

 

     お染=歌舞伎浄瑠璃( じょうるり ) の登場人物。豪商油屋の娘お染は丁稚の久松と道

        ならぬ恋のはてに心中。宝永7年(1710)大坂でおきた心中事件を題材に

        歌舞伎では「お染久松色読販 ( うきなのよみうり )」などの外題で人気を博し

        た。

 

 

「愛人野菊に贈る詩」は全92行の長詩。それだけで犀星の春子に対する思いの激しさが伺われます。〈君のかなたへ寄るもの/犬のごとくに群るるもの/やがて我がピストルをして舞はしめんのみ〉とは、春子に近寄る不埒(ふらち)者は私の拳銃でなぎ倒してやる、といったほどの青年客気の熱情を表わしています。

 

「お艶の首」は官能的な色彩に富んだ詩です。〈白い日の首〉は( うなじ ) の美しさを、〈水に泳がせらるる足〉は足のスタイルの良さを詠ってエロチックでもあります。写真でも見ても立ち姿の映える色白の美形で、朔太郎までもが興味を持ったのもうなずけます。

                                                 (この稿続く)

 

 

| 室生犀星 | 11:20 | comments(0) | trackbacks(0)
室生犀星 2

第2話 新たな決意

 

 

       切なき思ひぞ知る

                      室生 犀星

 

 

     我は張り詰めたる氷を愛す。

     斯る切なき思ひを愛す。

     我はその虹のごとく輝けるを見たり。

     斯る花にあらざる花を愛す。

     我は氷の奥にあるものに同感す、

     その剣のごときものの中にある熱情を感ず、

     我はつねに狭小なる人生に住めり、

     その人生の荒涼の中に呻吟せり、

     さればこそ張り詰めたる氷を愛す。

     斯る切なき思ひを愛す。

 

                     詩集『鶴』1928(昭和3)年

 

 

 

若き日の犀星は、生活苦のため東京と金沢との間をめまぐるしく行き来する放浪生活を送りましたが、その間も創作活動は絶えることなく続けられました。また、生涯の友、萩原朔太郎と師である北原白秋との交友を深め、次第に新進詩人としての名を高めていきました。

処女詩集『愛の詩集』が刊行されたのは、大正71月、作者30歳の時です。作風は人道的感情に溢れ、貧しく、虐げられた人々に寄せる人間愛を特徴としています。それから8カ月後、第二詩集『抒情小曲集』が世に出て、その自然への愛と繊細な抒情的感覚により犀星は詩人としての地位が確立しました。

犀星はその後、佐藤春夫、芥川龍之介らと親交を深め、「幼年時代」「性に目ざめる頃」などを発表して小説家としても知られるようになりました。今回紹介する詩「せつなき思ひぞ知る」は、犀星代表作のひとつです。家庭を設けて生活も安定し、詩・小説の両ジャンルで多彩な創作活動をしていた頃の作品です。(写真は犀星30歳頃の近影)

 

この詩は第13番目の詩集『鶴』の巻頭に置かれました。詩集『鶴』は、人生への積極的な意欲を詠った作品が多く、「せつなき思ひぞ知る」は詩集を象徴する一篇で、作者39歳の時に作られました。

この詩は、若い時分から馴れ親しんで来ましたが、私にとって長い間、謎でした。謎というのは、集中の〈せつなき思ひ〉がどんな切実さを持った感情なのか、よくわからなかったからです。

では、詩を読み解く前に各行ごとに語釈を列記してみましょう。

 

語註

せつなき思ひぞ知る:切なさは、普通、悲しさ・寂しさなどで胸がしめつけられるような心持ち。だが、この詩では、切実な感動、痛切な思いを表わす。

○われは張りつめたる氷を愛す:氷のように張りつめた、鋭い美しさに共感する気持。

こうした気持は、当然作者自身の中に、同様に緊張した精神状態があることを示す。

○かかるせつなき思ひ:氷の冷たい結晶美によって呼び覚まされた切実な感銘をいう。

〈かかる〉=このような

○その虹のごとく輝けるを見たり:その=張りつめたる氷。それが虹のように輝いているのを見た。

○かかる花にあらざる花を愛す:このような花でない花を愛する。かかる=虹のごとく美しく輝くような。花にあらざる花=張りつめた氷が放射する透明な光をいったもの。

実際は花ではないのだが、花のように美しいので、こう表わした。

○氷の奥にあるもの:氷の奥に感じられるきびしく緊張した精神的、意思的な情熱を指す。

○その剣のごときものの中にある熱情:その=張りつめたる氷。剣のごときもの=氷の固く鋭い輝きを比喩的にいった。作者は張りつめた氷の鋭く美しい輝きの中に、激しく冷たい熱情を感じたのである。

○われはつねに矮小なる人生に住めり:自分はいつも狭苦しく卑小な人生の中に生きている。矮小なる人生=人生がそのものが矮小というより、自分が狭苦しい日常の枠の中にいて、卑俗な毎日を送っていることへの反省から出た言葉。

○その人生の荒涼の中に呻吟せり:その=矮小なる人生。日々の生活が味気なく、低俗空虚なことをいう。荒涼寂寞とした空虚な毎日の生活に、自分は苦しみ悩んでいる。

○さればこそ:そうであるから。〈われはつねに矮小なる人生に住めり/その人生の荒涼の中に呻吟せり〉の2行の内容を受けている。

                      参考文献:小海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

詩人伊藤信吉は、以下のような詳しい鑑賞文を寄せています。

 

それは密度の極点である。その奥から放射するもの! 花、虹、剣の光彩! そこに張りつめた氷がある。作者の精神の世界にびっしりと張りつめた氷がある。その緊迫感がびしびし刺しこんでくる。人生的な決意と美の意識とがせまってくる。

この詩をつくったとき、作者は自分の生活について、なんらかの新しい決意をうながされていた。氷を踏みやぶってどこかへ切りこむような、そういう激しい決意をせまられていた。

だが、体内から突きあげてくるその情熱は、外部のなにものかをはっきりと対象にしているわけではない。対象はむしろ自分である。「われはつねに狭小なる人生に住めり」という、そういう自分自身に向かっての対決である。日常のささいなことにひっかかったり、古くさい慣習にしばられたり、抵抗のない平板な環境にくずれこんだり、安易な妥協で日を過ごすような、自分の中にあるいっさいの卑俗なものをたたき割ること――そういう自分自身への対決である。私どもの生活の途上にはさまざまな起状や苦渋や動揺があるが、それとは逆に安易な気持ちに落ち込むことがある。危機はそこにある。作者はそれをねらった。自分の中にあるいっさいの卑俗なものをあばき、自分の手で荒々しい抵抗感を( )きたてる。そういう燃えるような情熱を、張りつめた氷によって触発された。

 

私にとって「せつなき思ひぞ知る」は、若き日の長く辛かった受験勉強の日々を思い起こさせます。それはどんな〈せつなき思ひ〉であったか。私の浪人生活は少し特殊でした。

コンピューター技師を目指していた地元国立大時代、文学青年の友人に感化されて二年次で休学。通算2年間、受験のため予備校に入り直し、25歳で東京の私立大学文学部に入学するまで、父母との長い葛藤がありました。文系から理系へ進路変更する学生は珍しくありませんが、私のように常識を覆すような行動は両親には理解不能だったでしょう。私の決心は地元の国立大学への入学を私より喜んだ父の期待を完全に裏切る行為でした。

 

志望校に不合格となった時は、即、大学へ復学すると私が念書を書くことで、両親は精一杯の妥協をしてくれました。休学後、昼は予備校に通い、夜はなおも反対する両親と口論を重ねることが私の日課となりました。志望校に合格した1974年(昭和49)春、父は「あの子は本当に勉強が好きなのだろう」と、無理に自分を得心させた、諦めの言葉を母に呟いて私のわがままを許してくれたと言います。

 

二年の間、堪えに堪え、こらえにこらえた思いは、まさにこの詩のように胸中で凍結していました。しかし、その氷の中には、志望校合格の暁には、文学の道に邁進しようとする情熱が、開花を待ち望んで熱く(たぎ)っていました。〈その剣のごときものの中にある熱情を感ず〉とは、私にとってその時分の感情に酷似しているように思われます。

外に出ようとして出られなかった思い、封印されて凍結した意欲。それが今しも開花しようとして胸の内でもがいているのです。その心理を、犀星は張りつめた氷の緊迫感というイメージを使って表現しました。

 

一気に燃え上がるような情熱ではなく、静かに堪えて揺るぎない強さにまで洗練された情熱。氷りつくような厳しい環境の元で、時節を待ちながら、おのれの意志と意欲を磨きながら、じっと開花の時を待っている人。そんな〈せつなき思ひ〉を抱いている人にこそ、犀星のこの詩はふさわしいと思います。

 

詩作品というものは、自分の体験を通さなければ、あるいは追体験しなければ決して自分のものにはならない。――これは私がいつも掲げている持論ですが、自分の経験に照らし合わせて詩を読み解くということは、自分の過去の出来事の意味をもう一度問い直すことです。それは過去を懐かしむためではなく、過去の過ちや悔いを分析し、その時の感情を詩の力を借りて再体験することで、未来へ活かすためです。

ただ、感動するだけで、その場限りで忘れてしまったら、詩を学ぶ意味は薄れてしまうのではないでしょうか。目の前にある詩のテーマが、もし不条理な出来事であれば、私は過去と向き合い、自分が身の( まわ ) りで体験した不条理な体験を思い起こさなければなりません。自分が安全地帯にいて――無傷で、頭でどんなに分析した所で、真の鑑賞に耐えるものではありません。

 

過去を掘り起こすのが辛い作業であっても、私は作者と同じ情感を共有しなければ、作品を自分のものにすることはできないのです。言葉に責任が持てないのです。

詩の読み解きとは、自分の全存在を賭けてぶつかるものだと思います。思い出したくない過去もトラウマもすべてを総動員して。

こんな私の信念を突き詰めれば、鑑賞文にプライベートな話題が増えるのは当然の結果と言えるかも知れません。でも、それが自分の大切な仕事なんだと、この頃はそう思えるようになりました。

                                                    (この稿続く)

 

 

 

| 室生犀星 | 10:51 | comments(1) | trackbacks(0)
室生犀星 1

第1話 青春放浪

 

 

  小景異情

       

その一

白魚はさびしや

そのくろき()はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる()をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと      

ききともなやな雀しば啼けり

 

                                      金沢市犀川の畔り。犀星という筆名は、犀川の西に生まれ

                                                                 育ったことからという

その二                

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土(いど)乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

              『抒情小曲集』1918(大正7)年

 

 

室生犀星は旧加賀藩士の婚外子として生まれ、7歳の時、犀川(さいかわ)(ほと)りにある室生寺の養嗣子(ようしし)となりました。出生の不幸が自分を文学へ向かわせたと自伝で語っています。(写真右 養家の肖像。左からチヱ、さん、養母ハツ、後列・真道 円内・犀星 明治36年頃  出典:「室生犀星文学アルバム 切なき思ひを愛す」)

処女詩集『愛の詩集』が出たのが大正7年1月、作者30歳の時です。人道的感情にあふれ、(しいた)げられた貧しい人々に寄せる人間愛に満ちた独自の作風です。

第二詩集『抒情小曲集』は、自然への愛と繊細でみずみずしい抒情的感覚を特徴とし、『愛の詩集』と共に、詩人としての地位を確立させました。

犀星文学は多彩で詩にとどまらず、小説・随筆など多くの作品を世に問い、「幼年時代」(大8)、「性に目ざめる頃」(大8)、「ある少女の死まで」(大8)を発表して小説家としても知られるようになりました。詩人としては萩原朔太郎と並ぶ大正期の代表的詩人として著名です。

 

【鑑賞】「小景異情」

詩集『抒情小曲集』冒頭の作品で、「小景異情(しょうけいいじょう)」と題された組詩6篇の内の2篇です。

作者20歳頃の作、犀星の詩の中で最も知られています。大正2年に北原白秋主宰の文芸誌『朱欒(ザンボア)』に発表。タイトルの「小景異情」とは、犀星の造語で小さな風景についての風変わりな詩情というニュアンスです。

 

語註「その一」

〈くろき瞳〉:小さく白い白魚の、さらに小さい黒点のつぶらさ、を鮮明に描く。

〈しほらしさ〉:控え目で愛すべきこと。

〈ひる餉〉:郷里の金沢の食堂の片隅で、一人淋しく食事をしている。養母に疎外感を感じ、家があるのに外食をする悲しい境遇だった。

〈わがよそよそしさと/かなしさと〉:自分の心にしっくり来ない、どこにも身の置き所がない悲哀感や孤独感が根底にある。

〈雀しば啼けり〉:雀の声がむやみに鳴き、聞きたくもないなあ。雀に嘲笑されているかのようで、焦立ちを感じさせる。

          参考文献:西原大輔『日本名詩選機戞⊂海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

「小景異情 その一」を読むと、我が身の青春彷徨のひとコマを思い出します。

40年前、文学の志に燃え親の反対を押し切って上京したものの、最初の一年間は自分の進路が見つけられず悶々とした日々を送っていました。学内サークルや様々な文芸の集まりに手当たり次第に顔を出すのですが、どれも長続きしません。知人も友人もほとんどいない東京砂漠の中で、行き場もなく、神田や早稲田の古本屋街をあてもなくさまよっていました。念願の上京で気持が(たかぶ)っていたからこそ、自分の目的が叶わないと余計に落胆の思いが強かったのです。

 

上京二年目の秋、いつものように終日都内を歩き続けて疲れ果て、夕刻、下宿近くの場末の食堂に腰を下ろしました。腹を満たすだけの安手なメニューを選んだのですが、ハムエッグの出来損ないのようなお粗末な料理で、「これじゃ、豚のエサじゃないか」と内心つぶやきました。すると、自分のみじめさが一層こみあげてきました。表に出ると、氷雨が降り始め、半身を濡らしながら力なく帰途につきました。

あの夕べが心の限界だったと思います。あれから、なおも自分の道が見つけられなかったら、私は大学をやめて郷里に帰ろうかなどと愚かなことを考えていたのですから。

それからわずか数ヶ月後、古本屋で偶然手にした一冊の詩作入門書が機縁で、私は生涯の師・高田敏子を知り、恩師が亡くなるまで15年間私淑することなったのです。

 

犀星が「小景異情 その一」でうたった食堂での侘しさは、自分のみすぼらしかった日々を重ねると、我が事のように、そのさびしさと哀しさがわかるのです。犀星が白魚の目に見たのは、自分の分身だったでしょう。いじらしいほどの、つぶらな黒目は、犀星の孤独と悲哀を象徴しています。失意の日に、侘しい思いで食事をした人なら誰でも共感できる情感に違いありません。

 

明治435月、21歳の犀星は長年憧れ続けた上京を果たします。しかし、上京して2年目の夏、生活の窮乏と炎暑に耐えかねて郷里金沢に帰りました。その後、幾度も東京と金沢との間をめまぐるしく行き来する放浪生活をします。東京で食い詰めては金沢に逃げ帰り、故郷にいられなくなれば上京するという生活が繰り返されました。

「母親と争ひ、郷党に指弾され、単身上京して来た若い作者は、空しく衣食の道を求めて、乞食の如く日々に街上を放浪して居た」(萩原朔太郎)窮乏に苦しみ、まさに行くも地獄、帰るも地獄という境遇でした。

 

「石の上に移ってはまた石の上にもどる秋の日の蜻蛉(とんぼ)のように、私は東京と金沢とのあいだを往復するごとに、綺緻(きりょう)が悪くなり、顔色は妙な日に焼けたような地肌になって(しま)った。金沢にいると天気が悪いから色は白くなるが、東京は毎日天気がいいから日にやけたような色になる、――それに何時も街に出てはぶらつくからである。きょうも昨日もぶらつき、明日も明後日も果てしなくぶらつく、このぶらつく間に何が頭にはいっているのか、どういう目標がぶらつく間にあるのか、それはまるで分からない。ただ、ぶらつくだけであった。用もないのに通りまで出て、電車を見て往来の人を見て、さて胡散( うさん ) くさそうに立ち停まって何を見るともなく街の遠くを見遣って、そしてまた下宿にある机の前にもどるのである。そういう物悲しい三十分くらいの時間はなかなか過ぎ去ろうとしないで、時間の方でもしんねりとぶらつくのである。」(「泥雀の歌」)

 

ここに描かれた放浪の姿は、若き日の私の姿をそのまま見るようです。下宿にいてもいたたまれず、何かを見つけようと焦って街中を歩き続けました。苦しかったけれど、じっとしているのはもっと辛かった。さ迷い続けるのが青春の本質なのでしょう。

 

左上の写真は、 大正14(1925)年、田端の自宅での朔太郎(36)と犀星36歳。(出典:「室生犀星文学アルバム 切なき思ひを愛す」)

大正3年2月、25歳の室生犀星は早春寒い前橋駅頭で初めて朔太郎に会います。

「萩原はトルコ帽をかぶり、半コートを着用に及び愛煙のタバコを口にくわえていた。・・なんて気障な虫ずの走る男だろうと私は身震いを感じたが、反対にこの寒いのにマントも着ずに、原稿紙とタオルと石けんをつつんだ風呂敷包みを抱え、犬殺しのようなステッキを携えた異様な私を、これはまた何という貧乏くさい痩せ犬だろうと萩原は絶望の感慨で私を迎えた。」、「萩原は詩から想像する私をあおじろい美少年のように、その初対面の日まで恋の如く思いを抱いていた」。初対面の幻滅。朔太郎は犀星の詩から、青白い美少年のような空想を懐いていたといいます。

 

語註「その二」

〈よしや/うらぶれて〉:たとえ。/本来は心が弱っているという意味。ここでは落ちぶれての意で使われている。〈異土〉:異郷。ここでは「都」東京を指す。

        参考文献:西原大輔『日本名詩選機戞⊂海永二『現代詩の解釈と鑑賞』

 

「小景異情 その二」について、終生の友、萩原朔太郎は以下のように述べています。

 

単身東京に漂泊して来た若い作者は(中略)見知らぬ人々の群衆する浪にもまれて、ひとり都の夕暮れにさまよふ時、天涯孤独の悲愁の思ひは、遠き故郷への切ない思慕を禁じ得ないことであらう。しかもその故郷には、我をにくみ、(あなど)り、鞭打ち、人々が嘲笑(あざけ)って居る。よしや零落して、乞食の如く餓死するとも、決して帰る所ではない。故郷はただ夢の中にのみ存在する。ひとり都の夕暮れに、天涯孤独の身を嘆いて、悲しい故郷の空を眺めて居る。ただその心もて、遠き都に帰らばや、遠き都に帰らばや。(注。此所で故郷のことを「都」といってゐるのは、作者の郷里が農村ではなく、金沢市であるからである。)(「室生犀星の詩」)

 

犀星は東京在住時代に望郷の念にかられてこの詩を書き、作中の〈遠きみやこにかへらばや〉の〈遠きみやこ〉とは金沢であるという朔太郎の説は、実は誤読でした。

 

これは東京の作ではなく、故郷金沢での作品と見る方が妥当だろう。東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば「帰るところにあるまじ」き感情に苦しむ。東京にいるとき「ふるさとおもひ涙ぐむ」その心をせめて(いだ)いて、再たび遠き東京にかえろう。と見る方が、詞句の上で無理が少ない。更に「小景異情」がすべて金沢をうたっていることも注意せねばならぬ。

                            関良一『日本近代詩鑑賞・大正篇』

 

私の解釈は、実際に作られた場所が東京であれ金沢であれ、作品上では作者が故郷の金沢にいて東京を想い、住むべき所ではないという自責の念にかられている、というのが故郷に幾度も逃げ帰った失意の犀星にふさわしいと思います。

 

このような放浪時代の中でも犀星は絶えることなく詩作を続け、文芸誌「スバル」「朱欒」に次々と作品を発表しました。大正元年12月、金沢で創刊された「樹蔭」に発表された「滞郷異信」という詩は、当時の新進歌人斎藤茂吉をして「昨夜涙を落とさしめ、同時にをののかしめたのは此の長詩である。ざんげの心と感謝の心とを棒持してしばしば無言でゐなければならなかった」と激賞させました。また、同年、「朱欒」に発表した14篇の詩に感激した萩原朔太郎から手紙を受け取り、以後、恋人とまで称する交友が生まれました。朔太郎はその時の様子を犀星の詩集『青き魚を釣る人』に寄せた序文の中で以下のように綴っています。

 

はじめて犀星の詩が見出(みい)だされたとき、その悦びのきはまり、熱にうるむうたごゑ、涙はしづくのやうに青い洋紙をうるほした。かくもわが身にしたしく触れ、身ぶるひをさせ、耐えやうもなく心に喰ひ入る。かくもふしぎなる情緒の苗はどこにあるのか。このふかい感情は、世の常の言葉につくすべくもなかった。その愛慕と渇仰(かつごう)のありたけを手紙につづって、当時尚詩壇に知る人もない田舎の無名詩人犀星に送ったのである。かくして二人の交情は始まり、その後互に上京して感情詩社を結ぶまでの径路となった。

 

(註)詩誌「感情」:大正5年、萩原朔太郎と創刊。題名は朔太郎が命名。大正8年までに通刊32冊を出し、新鮮な編集感覚によって詩壇に刺激を与えた。同詩誌に掲載された「抒情小曲集」に感動した作家谷崎潤一郎が金沢まで訪れたことがあった。

                                    (この稿続く)

 

 

 

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